東北大学SF研究会 短編部会
『あなたの人生の物語』 テッド・チャン
著者紹介
1967年アメリカ合衆国ニューヨーク州ポート・ジェファーソン生まれ。
代表作は『バビロンの塔』、『あなたの人生の物語』など。
グレッグ・イーガンと並んで現代SF最高峰の作家と呼ばれている。
両親は中国からの移民で、自身は中国系アメリカ人二世である。ブラウン大学で物理学とコンピュータ・サイエンスを学び、最終的にコンピュータ・サイエンスを専攻し、1989年に卒業した。この年に、有名なSF創作講座クラリオン・ワークショップに参加し、翌1990年にデビュー作の『バビロンの塔』を発表し、ネビュラ賞を受賞する。デビュー作でネビュラ賞を受賞したのは現在テッド・チャンただ一人のみである。
チャンは非常に寡作な作家であり、本当に書きたいと思うアイディアがなければ決して書くことはないそうで、その結果が作家生活28年で発表した作品が13作だけであるという事実に現れている。しかし、1999年に『あなたの人生の物語』でネビュラ賞を、2002年に短編『
地獄とは神の不在なり』でネビュラ賞・ヒューゴー賞を、2008年に『商人と錬金術師の門』で再びネビュラ賞・ヒューゴー賞を受賞し、わずか13作といえど、その内容が極限まで煮詰められた珠玉の作品群であることがわかる。
今回取り上げた短編集にはネビュラ賞・ヒューゴー賞受賞作が3作収められており、全集と呼んでも差し支えない、贅沢な短編集となっている。(もっとも、チャン単独の邦訳書はこれしかないので実質的にも全集である。)
作中用語解説
ルッキンググラス
映画のポスターで「ばかうけ」に似ていると話題を呼んだ、不思議な物体。地球上に112個存在しているらしい。人が近付くと透明になり、通信を媒介するスクリーンのようなものとして利用できる。ヘプタポッドが地球を去った後、このルッキンググラスはただの石英ガラスの板だったことが分かった。
ヘプタポッド
突然地球にやってきた、樽に七本足が付いたような、放射対称の地球外知的生命体。人類とは全く異なる方法で思考し、世界を認識しているようだ。
科学的解説
変分原理(フェルマーの原理)
図説は本に書いてある通り。変分原理とは、「物体の運動は、作用が最小となるように実現される」という原理である。この変分原理は、物理学の根幹をなす概念である。幾何光学における変分原理であるフェルマーの原理が発見された当時、光は通過する時間を最小にするように意思をもって運動するのだとみなされ、物理学者だけでなく、哲学者や神学者を巻き込んで壮大な論争を巻き起こした。確かに、古典力学の観点から光を粒子として考えると、光が未来を知っているような振る舞いをしているように観測され、神秘的なものを感じる。しかし、量子力学の観点から光を波動として考えてみると、光は伝わりうる場所全てを伝わり、光の波が互いに影響しあい、ある場所で観測された光(すなわちある場所で強め合った光)は結果として作用が最小になるように通ってきたもののように観測される。[1][2]
今となっては解析力学・量子力学の手法を用いて簡単に説明されうるが、そもそもこれらの学問は、変分原理の普遍性・神秘性に魅せられた数々の学者たちが古典力学を整理した結果発展した学問である。
サピア=ウォーフの仮説
この小説を読んで、言語学に関連する話で思い出したのがこれである。この仮説は、言語が思考に影響を与えるというもので、二通りの解釈がなされている。まず、「強い仮説」は、「思考は言語のみに依り、言語の特性ごとにその言語の話者の世界の認識や思考が特徴づけられる」というものである。これは実証が難しいことや内部矛盾の指摘などによって、多方面から批判を受け、現在ではほとんど否定されている。次に、「弱い仮説」は「言語が思考の一部に影響を与えている」というもので、これはおおむね支持されているといえる。[3]
人類とヘプタポッドの関係がまさにこの強いサピア=ウォーフ的な関係にあり、人類はヘプタポッド的な積分的言語に触れることで、逆説的に積分的思考を習得することとなった。
あらすじ
言語学者ルイーズ・バンクスは、地球を訪れたエイリアンとのコンタクトを図る専門家チームの一員として、エイリアンの言語の体系化に従事することとなった。言語学的なアプローチと自然科学的なアプローチの双方から得られた観察結果から、エイリアンの思考体系や世界認識、言語体系は人類のものと全く異なり、「積分的」な思考をしているのではないかと考えられた。ルイーズはコンタクトを通じて、彼らの言語に習熟していき、やがて彼らの「積分的」思考の片鱗を獲得するにいたった。
人類のもつ逐次的思考と、エイリアンのもつ「積分的」な思考を併せもつルイーズは、未来の記憶を自在に想起することが出来るようになった。自身の娘の誕生からその死までを既に知りながら、ルイーズは既知の未来を生きていくのである。
所感
傑作である。言葉が出ない。短編作品に多くの要素を取り込み、破綻がなく、過度な情報過多でもなく、最後まで中だるみせず読みきることが出来る魅力あふれた逸品である。
まず、ファーストコンタクトものとしての魅力がある。この作品はエイリアンに明確な目的がない点が特徴で、侵略や商売、学術研究でもなく、ヘプタポッドたちはただ未来を再現するためだけに地球を訪れ、人類とコンタクトを取った。SF定番のネタとして使い古された感じのあるファーストコンタクトであるが、チャンの新鮮なアイディアによって新たな魅力を得た。
次に、ハードSFとしての魅力がある。この作品には自然科学から「変分原理」、人文科学から「サピア=ウォーフの仮説」が根拠付けとして用いられ、作品の世界観をより強力なものとしている。ハードSFは一般に自然科学を重く用いたSFとされているが、この作品には人文科学も導入され、これまでとはまた違ったファーストコンタクトを描き出している。
そして、タイムスリップものとしての魅力がある。ルイーズは、ヘプタポッドの思考形式を身につけ、自身の娘の生涯を、時間を越えて想起する。文章中にさまざまな時間における娘とのエピソードを挿入し、短編で一人の人生を描いた話の構成に驚いた。
最後に、リリカルSFとしての魅力がある。この物語は、娘がこれから生まれてくるという場面で幕を下ろす。これから生まれる娘の「あなたの人生の物語」を既に知り、自由意志をなくしてしまったルイーズの心中は、考えるだけでなんとも切ない気持ちになる。
この短編集には、この作品以外にも魅力的な作品が7作収められている。個人的には幻想的な『バビロンの塔』、ネオヴィクトリアン・スチームパンクな『72文字』が気に入っている。ぜひ、自分の好みの作品を探してみてほしい。
参考文献
[1]物理入門コース2 解析力学 小出昭一郎 岩波書店
[2]現代物理学基礎シリーズ 解析力学と相対論 二間瀬敏史・綿村哲 朝倉書店
[3]認知と言語 現象学的探究 エルマー・ホーレンシュタイン 産業図書
下村
最終更新:2017年11月07日 15:24