東北大SF研 短篇部会
良い狩りを ケン・リュウ

著者紹介

 ケン・リュウ(劉宇昆(リウ・ユークン))。1976年中国甘粛省蘭州生れ。作家、弁護士、プログラマー。11歳の時に渡米。ハーヴァード大学で英文学を専攻し、コンピューターサイエンスを学ぶ。卒業後マイクロソフト社に入社、すぐに独立しソフトウェア開発をしていたが、ハーヴァード・ロースクールに入学、卒業後弁護士として働く。2002年に第一回年間フォボス小説コンテストにCarthaginian Roseが入賞しデビュー。2011年に「紙の動物園」で史上初のヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞の短編三冠を達成。2012年に「もののあはれ」で二年連続ヒューゴー賞受賞、2015年には劉慈欣のSF小説「三体」の英訳などで引き続き話題を集める。本短編「良い狩りを」は2016年の星雲賞受賞作である。マサチューセッツに家族で住んでいる。(ちなみに彼のホームページには2015年のThe Grace of Kingsが初の単著として紹介されている。割と最近ですね。)

あらすじ

 13歳の誕生日に父と初めての狩りをした梁。商人を化かした妖狐を退治することになっていたが、自分の役割を十分に果たしきれず、悔しさを味わう。父の活躍により妖狐は退治されたが、梁はその妖狐の娘と出会い、妖狐が商人を化かさずにはいられなかった事情を語る。一度は妖狐である彼女を退治しようとした梁だが、寸前で哀れに思い、彼女を逃がした。
 梁と彼女(名は艶)はそれ以来たびたび交流することとなる。ある年の清明節、艶は狐への変身に支障をきたしてきたことを、梁は妖怪が減り、仕事がなくなってきたことを話している所に、外国人と役人がやって来た。彼らの話に聞き耳を立てると、どうやら外国人が風水や仏にかまわず鉄道などを建設しているのが原因のようだ。艶はそれを聞き、生き延びるために学ぶことを決意する。
 鉄道建設は進み、妖怪が現れなくなるまで土地の魔法の力が弱くなってしまったのを受け、梁の父は自殺した。同じく生き延びるために学ぶことを決意した梁は、鉄道の機関士として生計を立てるようになった。ある日梁は鉄道の中で艶と再会する。艶は狐への変身が完全にできなくなっており、売春婦として生計を立てていた。
 梁は技師としての腕を認められ、35歳になった時には一流の技師として活躍していた。一方艶は愛人として侍っていた総督の息子から現金を奪い取り、梁のアパートに避難してきた。艶はそこで総督の息子がメカノフィリアであったこと、彼により体の大部分を機械化されてしまったことを明かした。この事態を何とかしようと協力を申し出る梁だったが、艶は梁に違うことを頼み込んだ。
 一年間、梁は艶の頼みごとのために全力を尽くした。そして遂に完全に機械化した艶は、狐としての真の姿を取り戻した。今や魔法は新たなものへと変化していた。「良い狩りを」と梁は別れを告げ、香港の町を駆けてゆく艶を見送った。

感想と解説らしき独断と偏見

 妖怪退治、ケモノ、機械化などと、拙者のようなキモオタ勢はデュフフ以外のボキャブラリーを喪失してしまうようなガジェットをふんだんに詰め込んだ良質のSFであります。正直に言ってしまえば私の感想はルイズコピペ以上の何者でもないのですが、それだけではあまりに内容がすっからかんでありますので、戯れに真面目そうな漢字なりを適当に並べた以下の文章のようなものをもって感想にかえさせていただきます。私の独断と偏見が多分に含まれておりますので、以下そのことをご留意いただくようお願いいたします。
 私は今セメスターにおきまして、文学の授業と称した中国映画の鑑賞の授業を受講しております。その関係上、今まで全く触れたことの無かった中国映画の鑑賞を意識的に行っているのでありますが、その過程で発見いたしましたのは、多くの中国映画は、その根幹に、伝統と西洋化(工業化)の衝突がテーマとして存在している、ということでありました。ここで私は中国映画に限定して話を進めてまいりましたが、おそらくはこのテーマは現代中国文化にあまねく存在するものではないかと思われます。己とは異なった文化との衝突こそ文化をより高次の次元に引き上げるものであり、現在の中国はこの点で非常に理想的な環境にあるのではないかと確信する次第であります。話は長くなりましたが、この短編はまさしくこのテーマを主軸に据え、忘れがたき味わいをもって作品化した例であると言えましょう。
 この議論はおそらく過去何度も行われてきたものであり、ここに紙面を割くことも申し訳なく思うのでありますが、我々が信ずる科学なるものは、我々が非科学的であると退けてきた非西洋圏の文化と等価であると言えるのではないでしょうか。本小説では最後に、艶が機械の力を借り、本来の姿を取り戻しましたが、これが象徴するのはまさにこのことであると思われます。そう考えてみると別に西洋文化であろうが東洋文化であろうが結局のところはたいした変わりはないと思われます。実際風水や呪術の流れから科学が発展していっても何の違和感も存在しません。そもそもニュートンが科学に巨大な足跡を穿ち得たのも偏に神が創造したもうた万巻の書を読み解こうとしたためであり、それと同様に、東洋において魑魅魍魎が跋扈するこの世の仕組みを解き明かさんとして科学が発展することもあり得たかもしれません。魔法の力が金属と炎に変わったのは、中国への科学の自然な浸透を表したもので、この可能性に直接言及したものではないのでしょうが、この物語の裏に科学を特別視することのない視点を感じる次第であります。

 最後となりますが、かようなネタに走ったレジュメを読んでいただいた皆々様に、平身低頭深くお詫び申し上げ、結びとさせていただきます。
最終更新:2018年06月12日 21:15