東北大SF研 長編部会
「流れよわが涙、と警官は言った」 フィリップ・K・ディック

著者紹介

フィリップ・K・ディック、1928年シカゴで生まれ、53歳で1982年にカリフォルニアで亡くなった。二卵性双生児と一緒に生まれたが、妹が生まれた六週間後に早世してしまった。中学校の時から強いめまいに悩まされ、その後、統合失調症と診断されたが、後ほど他の医師にそれぞれ異なる病気に診断されたらしい、ディックは結構健康だったという診断すらあった。12歳の時、ポピュラーサイエンスの読み物を探す際に偶々SFのマガジンと出会って、SFに興味を持ち始めた。
1950年代から小説を創作しはじめ、創作のスピードが非常に速かったと言われた。1955年長編の処女作「偶然世界」も発表した。その頃、彼は専業SF作家で生計を立とうとした。しかしよく知られたように、ディックは商業的な成功に恵まれず、生前の小説はほとんど売れなくて、経済的に窮屈な一生を送った。
1963年、「高い城の男」がヒューゴー賞を受賞。
1975年、「流れよわが涙、と警官は言った」がキャンベル記念賞を受賞。
1975年、「暗闇のスキャンナー」が英国SF協会賞を受賞。
当時では決して無視された作家ではなかった。

解説

タイトル:「流れよう、わが涙」(flow my tears)は元々ルネサンス早期のイギリスの流行歌だった。毎部の初めに付けられた短い詩っぽい文章はまさにこの歌の歌詞である。その歌詞をよく見てみると、最も大切な妹が失ったバックマン警官の気持ちとよく一致していると思う。小説の人物たちが経験してきた物語とも多少関係がありそうような気がする。

キャンベル記念賞:アメリカの伝説的なSF編集屋さん、SF黄金時代を築き上げた一人と言われたジョン・W・キャンベルを記念する為に設けられた賞である。ジョン・W・キャンベルは作家にアイデアを与えたり、有望な新人作家を掘り出したりしていた。ハインラインとアシモフにも大きな影響を与えたらしい。

タヴァナーを襲った謎の生物:小説冒頭に、タヴァナーはマリリンに謎の生物をぶっかけられて、死にかけたが、その後病院で意識を失い、起きたらもう誰も自分のことを知らない別世界に移動してしまった。ここでもうすでにディック特有な日常と現実の崩壊が起きているが、物語の中盤までに読むと、謎の生物の襲撃だけで世界線変動が起きたっていう簡単な話ではないのが分かった。

警察国家:ディックの小説によく用いられた背景である。あの時代のアメリカンヒッピーよく自分がFBIに監視され、更に洗脳電波に毒されているなどの戯言を信じていたが、ディックの場合はそうでもない。1955年、FBIがディックの家に訪れ、その理由はどうやらディックの妻が左翼運動をやっていたらしい。ベトナム戦争の時にも、ディックは反戦運動を多少参加し、納税を拒否したせいで政府に車を取り押さえられた。後、あの時代のアメリカにおいてCIAやFBIに目をつけられたって冗談話ではない、左翼政権の志願兵としてスペイン内戦にも参加していたド左翼文豪のヘミングウェイも政府に目をつけられたが、誰に訴えても信用されず、その影響で精神的な病気を病んだ。ヘミングウェイが死んだ後に政府が公開した資料によると、監視はやはり本当だったという。

手配された大学生と閉鎖されたキャンパス:1964年、カリフォルニア大学バークレー校からベトナム戦争を反対する学生運動が全米に広がり、その過激さもエスカレートしていき、小説に書かれたほどに至らなかったが、警察と学生の間の暴力が全米に繰り広げた。

スイックス:人工的に作られた強化人間、感情移入や愛する能力が乏しい。そもそもタヴァナーの美しい顔、カリスマ性などの優れた特性もスイックスから由来したものかもしれない。大森望先生の解説に、スイックスがアンドロイドかもしれないという説が非常に面白かった。スイックスが感情移入の能力が乏しいの証拠の一つとして、物語の中盤に、タヴァナーの元愛人がかつて世話していたペットウサギのことについて延び延びと喋っていた。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」にもでてきたペットのモチーフを思わせた。

KR-3:時間と空間に対する認知に関連する脳の機能を歪むことができる謎のクスリ、タヴァナーを別の世界線に移動させた元凶であるらしい。この物語の世界構造について、自分が読んだ限り不明だと思う。KR-3の作用でタヴァナーが自分の存在しない世界に移動したか、それともタヴァナーが悟ったように、もしかすると自分は薄汚いホテルに暮らしている放浪者で、クスリをキメて自分が有名人になった夢を見ているのか、どっちも説明がつきそうが、どっちにも不明なところが残している。

感想

 総じて言うと、この小説は非常に感情の豊な小説だと思う。
僕にとってこの小説、或いはディックの小説のくせになるところが、主人公が抗えようもなく、巨大な変化や陰謀に取り込まれて、それに伴う巨大な無力、圧迫、絶望のような感情にあると思う。そしてこのような感情を表現するに必要な舞台は、まさにディックは特有な腕でデストピア的な、或いは主人公にとって理不尽な世界だと思う。そしてこのような感情を表現するに必要なプロセスとして、主人公に理不尽な、コントロールしきれなさそうな出来事を体験し、現実や常が壊れていく世界に冒険させるというパターンがこの小説にも、ディックの他の小説にもよく見られる。自分は物語を一つのプロセスとして楽しむタイプの人間なので、ディックの小説はこのようなパターンがあるからこそ、毎回毎回読みたくてたまらない。
その他、タヴァナー以外のキャラクターもそれぞれ何かしらの人を愛している。これに対して高く評価するレビューは結構多くみられるが、僕の場合は確かにうまさを感じたが、パックマンとアリスの死別のところ以外、さほど感動はしなかった。


ディックの特徴

今まで述べたように、薬でキメってから小説を書くやつとよく言われたディックは、実は浮世離れの空想よりも現実に近い小説をよく書いていると思う。晩年の作品が確かにクスリをキメながら書いたと言われたが、そこまではまだ手を出していたい。
 ディックは自分が見てきた現実に基づいて世界観を構築し、自分と付き合ってきた人々をモデルとして、愛をこめて人物を作ってきた。その故、彼に書かれた世界や人物は、少なくとも僕にとって理不尽や狂気を溢れるの代わりに、生々しさも持っている。そしてこのよう生々しさがあるからこそ、ディックの作品は読者に共感させることができて、今まで傑作として読み続けているだろう。
また、ディックの作品が世界観と現実や日常が壊れていくというプロセスが上手いからこそ、映像化しやすい、何度もハリウッドに目を付けられ、多くの映画傑作も生まれただろう。

推薦書目と映画

「ユーピック」byフィリップ・K・ディック
自分の中ではこれが「アンドロイド」と並列するディック作品のトップだと思うが、部会を開く必要もなさそうな説明不要なイカれた作品なので、皆各自読んでいつか部室で会ったら話そうぜ。
「ブレードランナー」、「ブレードランナー2049」
映画ですが、新旧両作ともにディックの真髄をよく受け継がれていると思う。僕は特にブレードランナー2049の方が好き、3時間ほど非常に長い映画ですが、その画面のインパクト力と感染力はやはり1982年のレベルを超えたと思う。
「ストレンジ・デイズ/1999年12月31日」監督:キャスリン・ビグロー 原作/脚本: ジェームズ・キャメロン
警察都市となったロサンゼルス、元警官の主人公、闇市に流行っている電子ドラッグ、狂っていく世界と主人公の運命…この映画はとにかくディックではないがディックらしい。キャメロンもとディックの影響を受けたかもしれない。いつか映画部会でもやりたいと思う。
「12モンキーズ」 監督:テリー・ギリアム
時間旅行とバイオハザードをモチーフとした傑出なB級映画、ディックの影響を受けたと言われた。実際にも、この映画に演出された抗えようもない壊れていく世界を見てみると、やはりディックを想起してしまうと思う。
「トゥルマン・ショー」監督:ピーター・ウィアー
ディック的な日常と真実の崩壊についてよく表現してくれた映画。見てみたら君もきっと自分の日常は誰かのエンターテインメントに過ぎないのではないかと疑うだろう。
最終更新:2019年12月05日 17:49