没プロット ◆Ok1sMSayUQ
もし、彼女と出会えていなかったら。
私はきっと、何者でもない妖怪のままだったのだろう。
* * *
息が白い。
緩やかに吹いている風は、雪の匂いを含んでいる。
空は雲ひとつない晴天なのに。
冬ではなかったはずなのに。
「冷たい……」
慣れ親しんだ感触。倒れている私を包んでいるのは紛れもない、雪だった。
十六夜咲夜の姿はどこにもない。止めを刺したと思い込んでいるのか、主の下へ馳せ参じたようだ。
或いは、今わの際、残された時間を存分に味わえという悪趣味な慈悲なのか。
皮肉げに動きかけた頬の筋肉は、しかし虚しさを感じて元に戻った。
誰かを嘲笑うことなど、もう意味がない。哀しいことだ、と私はただひとつの感想を紡いだ。
咲夜が私を殺そうとしたことではない。今までの私の生き方に対して思ったことだった。
私は冬の妖怪。短い冬の間しか出ていられない。
消滅してしまうわけではない。力を失い、人目のつかぬ場所に引き篭もっているだけだ。
けれど、だからこそ……私には苦痛だった。
あまりにも不自由だから。春の陽光も、夏の日差しも、秋の晴れ空も、ただ見つめていることしかできない。
意識がなければ。何も感じないような状態なら。私はきっと、楽しそうに四季を謳歌している皆を見ずに済んだのだろう。
羨ましかった。悔しかった。憎らしく思ったりした。どうして私だけ、と呪ったことさえある。
こんな理不尽を認めたくなかった。私が冬に、ことさら我が物顔で振る舞った理由だった。
鬱屈した心を、不自由な心を満足させるには、私が正しいのだという価値を押し付けなければならなかった。
お前らなんか羨ましくない。お前らなんかただの弱虫だ。私は強い妖怪なんだ。私がお前らを困らせて何が悪い。
全部嘘だと、最初から分かっていたはずなのに。本当は皆と一緒に、四季折々の季節を楽しみたかっただけなのに。
私は自分から、望みを突き放してしまった。荒んだ心は、私なんか誰も慰めてはくれないだろうという卑屈さに変わってしまっていたから。
一番冷たく、弱虫なのは私だった。
私は、ひとりぼっちだった。
指先を掠める、小さな雪の結晶。誰も気に留めない、正体さえ知ろうとしない、春が来れば消えてしまう花だった。
散々他者を遠ざけてきた妖怪の結末としては当然すぎるものだったが、納得できなかった。したくなかった。
正しい私が死んでしまうから? そんな理由なんかじゃない。
寂しい。ひとりで死ぬのは、嫌だ。
こんなにみじめで、凍りついた心を守るばかりで、生まれてきた意味さえ知らずにいなくなるのは嫌だ。
間違っていたばかりの私の命だけど、だから後悔しながら死んでゆくのが当然だなんて、正しくても嫌だ。
震えている。泣いていた。こんなことは何百年ぶりだろうか。妖怪という虚像に自分を押し込めて、もう流れないものだと思っていたのに。
もう何もなかった。妖怪という強ささえ投げ捨てて、私はただ泣くだけの存在だった。
そうして涙を流していたという事実さえ、溶けて消えてしまうのだろう。
私は、わたしは、なにの、だれの――
「「レティ」」
暖かくて優しい指がふたつ、わたしの冷たい指を取った。
涙の滲んだ、ぼやけた視界のまま、わたしは声の主を探す。
つぶらな、子供のようなあどけない瞳があった。
気が強そうだけど、繊細な瞳があった。それは眩しくて、まるで太陽のようで、
わたしという名前が、そこにあったのだということを、教えてくれた。陽光が、陰に咲く花の名前を教えてくれた。
わたしはゆっくりと、唇を微笑みの形に変えた。
その花は、きっと次の冬にも咲くだろう。
* * *
もし、彼女達と出会えていなかったら。
わたしはきっと、何者でもない妖怪のままだった。
最終更新:2012年12月28日 12:32