行き止まりの絶望(前編) ◆Ok1sMSayUQ
薄汚れた家の中。
六畳一間が精々という広さの、本来の香りを失い人いきれの匂いが染み付くようになった畳に仰向けになって、
射命丸文は天井にぽっかりと開いた穴を見つめていた。
月明かりの輝きは意外なほどに強く、舞い上げられた埃までもが詳細に見て取れる。
本当に、良く見える。自分でさえそうなのだから、
夜を住処にしてきた吸血鬼にはさぞ見えていることだろうと文はぼんやりとした感想を結んでいた。
何をやっているのか。夜間では無類の強さを誇る吸血鬼に、我が身一つで挑んでいた事実が今は夢のように思える。
こうして一人で寝転がり、口から血を垂れ流して静寂に身を沈めているからこそ分かる。
己の行いがいかに馬鹿げていて、利口ではない行為であったのかということを。
一時の衝動に突き動かされ、賢しさを捨てた結果がこれで、
今までの行いを精算しようと、らしくもないことをした罰だというのなら、そうなのだろうと文は納得していた。
烏天狗……いや、天狗という種族そのものが、閉鎖的で身内以外には無関心な種族だった。
身内を守るために社会を作り、自らのためだけの文明を築き上げ、組織という外殻で身を守ってきた。
そこには他者など入り込む余地のない、徹底した組織の利益追求しかなかった。
組織のためなら他者を騙し、他者に媚び、或いは排斥さえする。
天狗たちは特に疑問を抱くことはなかった。
全員が全員、差別主義者でもなければ種族主義者でもなかった。
自らの役割に必死だっただけなのだ。肥大化した組織を維持するためには、疑問に思っている暇さえなかった。
自分達がより良く暮らせるようにするというシステムが年月と共に重みを持つようになった結果、
システムを守ること自体が世過ぎになり、客観的な視点を持てなくなった。それだけのことだった。
妖怪の山の一員であるということは、組織を守らなければならないという責任が伴っていた。
歯車が狂ってしまえば、全てがダメになる。責任を全うしようとしていたに過ぎなかった。
そうしていれば、きっと幸せだったのだろう。組織の中の責任。組織の中の名誉――『組織』という幻想に縋っていられた。
吸血鬼になんて挑むこともなければ、それどころか真っ先に逃げ出し、これは妥当な判断だとしたり顔で頷いていられたはずだった。
みすみす逃げられるチャンスを逃し、組織人としての自覚を失い、自分勝手を行った報いが来るのは当然。
チャンスは、今一度残されている。これを反省し、自分は賢くなかったと戒め、今度は傷つかないように殺し合いを眺めていればいい。
まだ状況をなんとかできると思っている間抜けな連中を笑ってやればいい。然る後に、味を占めて殺してやればいい。
――でも、そんなの、それこそ無責任じゃないか。
確かに、自分は敗北した。
レミリア・スカーレットに突き落とされ、土をつけられ、無様なほどに這い蹲っている姿を晒している。
圧倒的な暴力の前に、誰かを思いやるという気持ちなど無意味なのだと宣告された。
今の幻想郷では、レミリアこそが正しいという状況に成り果てているのかもしれない。
けれども、レミリアの言い分を認めてしまうことは、理不尽に屈してしまうことだと文の内奥が叫んでいる。
理不尽を認めてしまうことは、自らが歩みを進めてしまうことも諦めることであり、停滞に他ならない。
そうして立ち止まってしまえば、言い訳と妥協しか覚えなくなり、泥に身を沈めてゆくだけでしかなくなる。
その先に未来はない。組織の幸せと同一のものでしかない、紛い物の生しか残されていない。
だから、考えることができて、感じることのできる自分達は歩かなくてはならない。
責任を果たすと言いながら、その実組織の無責任に身を浸してきたことを自覚した今の自分だからこそ、今を歩かなくてはならない。
原初の昔、天狗の組織を作り上げた天狗だって、そう思ったはずだ。
より善くなるために。
可能性があり続ける限り、歩むことをやめてはならない。
今が逼塞していたのだとしても、最後には、善くなった未来があると信じて……
文は身体を起こし、口内に滞留していた血を痰唾と共に吐き出す。
側に落ちていた、中央から折れてしまい殆ど柄だけになった短刀を握りこむ。
まさしく今の自分を示しているかのような、ゴミ同然の短刀だったが、未だその機能は失われてはいない。
使いようはある。根拠もない確信だったが、役に立たないからと言って捨ててしまうのもレミリアの思い通りである気がして不愉快に感じたからだった。
足腰に力を込め、一気に上空へと飛び出す。ぽっかり開いた穴から、無限に広がる夜の世界に。
再戦を挑むには不十分に過ぎる、重たい身体を抱えながら、それでも文は加速した。
* * *
全身を苛む苦痛によって、
レティ・ホワイトロックは気絶から目覚めた。
物語の中では長い間夢をさまよい、死者と対面を果たすことが多いらしいが、現実はそうでもないようだった。
痛みで倦怠感を増した体を揺すり、レティは苦笑した。
視界の半分を失い、肩の刺し傷から血を流しながら、苦痛に抗って戦っている。
たかが妖精と河童のために、命を賭けて身を投じている。
この必死さ、身の奥から滲み出てくる不可解な使命感は何なのだろう。
異変が起こる以前は考えもしなかったことだった。ひたすら冬を待ち、退屈を弄ぶばかりだった毎日。
冬が来れば騒ぎ、終わればどこかをふらつき、その場限りの愉しみだけに身を浸して、他の誰かなど頭の片隅にも入らなかった。
自分勝手。まさしくレミリアに言われた通りだった。漫然とその日を過ごし、暇を潰すことだけを追い求めていただけの自分は、
目立った悪事を働いてこなかったとはいっても善を為してきたとは到底言えないものだったのだろう。
いやそればかりではない。寒さに震え隠れる妖精や、覇気を失った妖怪を眺めて根性無しと内心馬鹿にだってしてきた。
冬を愉しんでいる自分は偉くて、隠れている他の妖怪は弱虫。その優越感から、見境なく襲ったこともある。
でも、妖怪だからそれでいい。妖怪だから襲って当然と理屈のない理屈を振りかざし、身勝手を貫いてきた。
だからサニーミルクの言葉は痛かった。
自分勝手ばかりしてたら、嫌われる。当たり前の理屈で、しかし真っ直ぐな裏表のない言葉が痛かった。
何よりも一番痛かったのは――そんな自分を、心配してくれているサニーミルクの存在だった。
他者を見下して、馬鹿にしてきて。
そんなありふれた妖怪のひとりでしかない自分に、サニーミルクはついてきてくれた。
リリーホワイトを間違って殺してしまったときから、ずっと約束を守り、慮ってくれた。
妖精特有の能天気さのお陰で、普段は関わりのない妖怪とも行動を共にすることだってできた。
彼女を初めとする妖精は単純だから、といえばそうなのかもしれない。
とりあえず敵意のない奴についてゆき、敵意があるかどうかもコロリと忘れ、一緒にいるだけなのかもしれない。
深く考えることもしない、幼児も同然の頭しか持たない妖精。
でも、だからと言って、彼女の考えを否定し、戯言と片付けてしまえる権利がどこにあったというのだろう。
自分達妖怪の考えを体現したレミリアの言葉に真っ向から立ち向かっていた。
実力差も考えない、無謀無茶で愚かな行いではあったけれども、その行動までもを笑える権利なんてない。
妖精だからと、種族が何であっても見下してはいけないのだと、レティはそのときはっきりと自覚していた。
薄ぼんやりと思ってはいたことだった。
一時的にしろ、見ず知らずの妖怪同士を繋げてみせたサニーミルクは、果たして『たかが妖精』なのか。
レミリアに毅然と意見してみせたサニーミルクは、果たして『たかが妖精』なのか。
子供の知能だ、浅慮で考えなしだと馬鹿にしてきた自分達妖怪は、何も言い返せなかったのに……
ああ、そうかとレティは自らの怪我の理由を納得していた。
恥ずかしい、と思っているのだ。
レミリアのような強者には靡く一方で、サニーミルクのような弱者は見下す。
妖怪だからという優越感に浸り、だから何をしてもいいと当たり前のように感じていた自分が、ひどく恥であるように思われたのだ。
射命丸文もそうだったのかもしれない。自覚さえしてこなかった恥に気付き、知を持つ者として当たり前の行動を起こした。
誇り高き妖怪が、みっともなく在ってはいけない。その思いを武器にして、ずる賢く保身に長けた天狗が吸血鬼に挑んだ。
自分もそれに釣られた。他者よりも力があるからこそ、下の者に示しをつけてやらなければならない。
今ここで戦わなければ、レティ・ホワイトロックという妖怪は既得権益に縋り付いているだけの醜い存在でしかなかったから。
上に立つものとして――怪我をする理由なんて、それだけで十分だった。
対価には見合わなかった結果ではあったが、とレティは苦い唾を飲み下して苦笑した。
まだ十六夜咲夜を仕留め切れていない。
この左目と肩を差し出して、人間一人片付けられないというのは少々プライドに障った。
なんだかんだで己も妖怪でしかないのだろう。この気位の高さは、内心だけのものであったとしてもしばらくは直せそうにない。
背中を預けていた岩から体を離し、咲夜を探しに行こうと岩陰から顔を覗かせたときだった。
「あら」
「お久しぶりですわ」
探しに行こうと考えていたら、向こうの方からやってきてくれた。
死神の鎌を携え、血染めのエプロンドレスに身を包んだ紅魔館の瀟洒なメイドが、にこりともせず言っていた。
距離はそこそこは離れている。走っても数秒がかかる距離に、咲夜はいた。
もしかすると、怪我をして倒れた自分にトドメを刺すために舞い戻ってきたのかもしれない。
なるほど理にかなった仕事だと思い、一方でこの状況で目を覚ますことができた幸運にレティはまだやれるはずだと考えることができていた。
距離を詰められ、彼女の領域に踏み込んでしまえば貧相なナイフ一本しかない自分は終わったも同然。
作戦を立てるだけの時間がこの距離だった。有効に使わなければと戒めて、レティは挑発の口を開いた。
「まるで死体集りね」
「死人に口なし、よ」
まだ口を開いている自分は、死体ではないと言いたいのだろう。
半分死に体、余力の一切も残していないとなれば、こうも相手に悠長な口を利かせるらしい。
先の攻防の際に見せた焦りは今は微塵も見られない。
そう簡単に隙を見せてくれる相手ではないとは思っていたが、実情は厳しいものだった。
「そんな怪我なのに……大した忠誠心ね。有給を取るべきだと思うわ、私は」
「残念ながら、紅魔館は年中無休なの。その上急なオーダーが入ったとなれば、多少の怪我には目をつぶらなくてはね」
「……あんな奴に従ってても未来はないわ。あなたなら、分かるでしょうに」
サニーミルクの言葉が自分達の心を震わせたように、この人間だって感じなかったものはないはずだ。
レミリアは破滅の道を突き進んでいる。今の勝利を得たとしても、頂点に上り詰め、玉座についたとしても、その周りには誰もいない。
「私はね、十六夜。妖怪だったのよ。ただのしがない妖怪。嘘つきで、欲張りで、自分のことしか考えてなかった。
レミリアと同じだったわ。でも今はそうじゃないって言い切れる。どうしてか分かるかしら?」
岩の陰に身を隠したまま、レティは問いかける。
咲夜から聞こえるのは砂利を踏み潰す足音だけで、答える気配は一切なかった。
それならそれでいいと判じて、レティはひとつ大きく息を吸ってから続けた。
「間違ってる、って言ってくれる仲間がいるからよ。私の間違いを、あの子は指摘してくれた。気付くことさえできなかった間違いをね。
一人じゃ何も気付けない。自分の過ちにも、どうして自分が自分でいられるのかにも。あの吸血鬼は違う。
誰かをひたすら拒絶して、何にも気付こうとしてない頭でっかちよ。サニーの言うとおりの、臆病な偏屈者――」
地面を蹴る音が聞こえ、レティはそこで言葉を中断した。
彼女の領域ギリギリになってしまったことを自覚して、岩陰から素早く飛び出す。
直後、それまで隠れていた岩の上半分が蠢き、音を立てながら真っ二つとなっていた。
死神の鎌で切断したらしい。恐るべき切断力だと冷や汗をかく間に、咲夜が鎌を振りかぶっていた。
「あの死神は、こうしてたわね」
縦に振り下ろした瞬間、空を切りながら何かが射出される。
それが空気を圧縮し、鋭く回転させながら相手を切り裂くソニックブームだと気付いた瞬間、レティは寒気を弾幕へと変じて撃ち放つ。
散弾のように撒かれた弾幕に相殺されソニックブームは打ち消されたものの、その間咲夜が何もしない道理はなかった。
「ようこそ、私の『世界』へ」
領域に踏み込んだ咲夜が青みがかった瞳の色を赤色へと変貌させる。
あの時止めだと感じたレティは、咄嗟に持っていた小銭を投げつけようとする。
弾幕を生成するよりもこちらの方が早かったからだ。要は時止めを阻止できればいい考えだったが、一歩遅かった。
「これで終わりよ」
遅かったと認識できたのは、次に見た咲夜が鎌を振り上げて突進していたからだ。
既に半歩もない距離。避けようはなかった。
しかしどうあっても回避はできないという状況こそがレティの意志を固めさせた。
「腕の一本くらいくれてやるわ! 妖怪を舐めるなっ!」
怪我した腕を真上に繰り出し……レティは鎌を掴みにかかっていた。
普通ならば考えられない行為だった。まして、人間である咲夜ならば尚更だ。
腕を持っていかれた時点で出血多量によるショック死の可能性だってあるのだから。
けれども、自分は妖怪だ。力ある存在で、人間の脅威たる存在だ。
妖怪として、誇りある存在として――黙って負けるわけにはいかなかった。
当然、鋭利な刃を持つ死神の鎌を受け止められることは出来なかった。
掴もうとした側から手が切り裂かれ、腕が切り裂かれ、刃は腕を横断して肩口から真っ二つに切り裂いていた。
痛みと表現できるかも分からない、想像を絶した感覚にレティは数瞬の間、舌を噛み切らないようにするのに必死だった。
肉体を繋ぐ糸という糸を引きちぎられるその痛みは、生まれてこの方数百年は味わったことのないものだったが、意識が途切れることはなかった。
生きている。まだ自分は、生きている。まだ本当の意味で強い妖怪で、いられる。
真一文字に食いしばっていた口の形を、レティは三日月の形に歪めていた。
自らの能力を、『寒気を操る程度の能力』を最大限に呼び覚まし、周囲を身も凍えるような極寒へと変貌させる。
その瞬間。レティの肩から際限なく吹き出していた血液が、凍結した。
血が固まり、固体となるのを見ていた咲夜が目を見開き、顔を強張らせる。
本当の狙いに気付かれたようだが、それでどうにかなるものではない。
「武器……できたっ!」
命を削り、腕を犠牲にして完成したのは、血の槍。
肩口から生えた槍を力任せに折り、咲夜へと投擲する。
「く……!」
回避行動が間に合わないと判断したのか、咲夜は『時止め』によって瞬間移動し、槍を回避していたが、まだレティの攻撃は終わっていなかった。
もう一発。咲夜から奪い取っていた小型ナイフを全力で投擲。これこそが本命。
最初から、余裕をなくさせてこの一撃を叩き込むことこそがレティの作戦だった。
「まだ……!」
再度咲夜の瞳が赤く変色する。
何度時を止められるのかとレティは内心戦慄したが、咲夜に何も変化は訪れなかった。
え……と唖然とした表情を浮かべたのは、レティだけではなく咲夜もである。
時を止めなかった? いや、止められなかったのか?
想像を働かせる間に、咲夜の目に、ナイフが突き刺さっていた。
自分が受けたのと全く同じ――左目に。
「っ……!」
悲鳴を上げなかったのは、紅魔館のメイドの矜持だったのだろうか。
無言で目に刺さったナイフを引き抜き、地面に投げ捨てる。
片手で目頭を押さえ、傍目にも憎悪を抱いていると分かる視線を向けられる。
瞳の色は真紅のまま、変わらない。能力を使用し過ぎた副作用なのか、時止めを発動しようとしているのかは分からない。
が、未だにこうして動けている以上時は止まってはいないのだろう。
重みがなくなり、バランスの悪くなった肩口を押さえつつ、レティは不敵に笑った。
「これでおあいこね」
「……」
すっとスカートの裾からナイフを取り出す。例の仕込みナイフだろう。
レティも再び、血を固めて即席の槍を作り出す。
後何度、この戦法が持つか分からない。呼吸回数も増えていれば、時々足元もふらつく。
視界も少しずつぼんやりしてきて、相当に危険な状態なのだろうと予想もできる。
けれど、まだ生きている。生きてさえいれば、やれることはいくらだってある。
倒れ、力尽きてしまうまでは、妖怪たる矜持を示さなければならない。
それで何が報われる、と僅かに狡い本能が語りかけていたが、魂が報われるとレティは言い返していた。
現在まで続いてきた退屈も、逼塞も、不実も、全てを認めてやり直そうとする気持ちを持てただけで十分。
怠惰に吹き溜まっていた今からようやく一歩を踏み出し、新しい妖怪として歩いていけることが、無性に嬉しい。
だから負けない。咲夜とて時止めの能力を失った。互角とまではいかなくとも、勝算はある。
槍を構え、咲夜に対峙する。片目だけになった咲夜は不快そうに目を細めたのも一瞬、しなやかな足を奔らせてナイフで切りつけてきた。
仕込みナイフの不意打ちを受けないよう、真っ直ぐに飛び込む愚は犯さず、レティは側面に移動しつつ斬撃を受け止める。
お互い左目が使えない状況のため、同じ方向に回転しながらもう一撃ずつ切り結ぶ。
血の槍は思ったよりも強度があり、咲夜のナイフ捌きを以ってしても簡単に破壊することはできなかった。
逆手に持ち替え、下から切り上げるように迫ってきたナイフをバックステップでかわして横に薙ぐ。
しゃがんで避けた咲夜は足で払おうとしてきたが、そこを跳んで回避したレティは生成した寒気の弾幕を放つ。
右方向に丁寧にグレイズし、次いで突進しつつ繰り出されたナイフを槍で受け止める。
そのまま鍔迫り合いの格好となり、互いの吐息がかかりそうなほどに体が接近していた。
片目を庇いながら、その一方で憎しみの光を宿らせて鬼の形相を見せる咲夜を、レティも負けじと見返す。
「雑魚妖怪のくせに……さっさと楽になればいいのよ!」
「あなたこそ……なんでレミリアなんかに! あの吸血鬼は何も見てない! あなただって!」
「それでも私は、お嬢様に尽くさなければならないのよ!」
「そんな忠誠心なんて!」
全く同じタイミングで打ち払い、距離を取る。
しかしそれも一泊の間でしかなく、すぐに咲夜は切りかかってくる。
レティも槍を突き出す。
咲夜のナイフはレティの胸を裂き、レティの槍は咲夜の脇腹を貫いた。
お互いに悲鳴はなかった。痛みに勝る感情が、自分のみならず咲夜をも動かしているのに違いなかった。
「意味なんてない! レミリアは何にも報いてくれないわよ! 何も未来なんてないのに……!」
「でも、それでも……お嬢様がいなくなってしまったら、私の時間は止まるしかない!」
その言葉を放った一瞬、咲夜の表情がどこか怯えたような、行き場をなくしてしまった少女のものになっていた。
それは、恐怖に支配された人間の顔。
寄る辺を失くし、居場所を失くし、自分が生きている理由さえ分からなくなるという恐怖に支配された顔だった。
「そんな惨めな時間に……私は戻りたくないから……例え先に何もなかったとしても、お嬢様だけが私の拠り所なのよ!」
レティは息を詰まらせた。
咲夜は、ただ真っ直ぐに光を求めているに過ぎない。
信じているものが間違っていても、それでも信じなければならない。
そうしなければ現在という絶望に押し潰されて、気が狂ってしまうから。
行き止まりの未来であっても、今を救われている方を咲夜は選んだだけのことだった。
哀しい人――僅かに抱いてしまったその感慨が、レティ・ホワイトロックの命取りとなった。
咲夜の指が、ナイフの柄にかかる。カチリとボタンが押し込まれたと同時、発射された銃弾がレティの心臓を貫いていた。
特に痛みはなかった。ただ、それまで自分と世界を繋いでいたなにかがぷつりと切れる感覚があった。
切り離されてしまう。この世界から、幻想郷から――
にとり……文……サニー……
どさり、と音を立てて、槍が落ちると同時にレティの意識と存在は、消失した。
最終更新:2011年04月22日 21:44