リリカルなのはSpiritS第二話前編

 ティアナ・ランスターを選んだんは何故かって?
 せやなぁ……最後の1人に選ばれたんが、あの娘やったんやけど……正直な話、結構難航してたんよ。
 あの娘と同等の魔力値を持った候補は、他に3人もおったし……
 今はまだ問題なさそうやけど……安定しとるとは言いがたい体質やしな。
 それで何故、あの娘が選ばれたかって考えると……

 ……やっぱり、気迫やね。



魔法少女リリカルなのはSpiritS

第二話「スカーフェイス・ガンスリンガー(前編)」



 第一世界ミッドチルダにも、土地ごとの格差というものは存在する。
 都会のクラナガンがあれば、発展途上段階にある田舎の地域もあるということだ。
 そのくくりにおいては、ミッド東部に位置する現在地――オルセア地方は、後者に相当する土地だった。
 見上げれば空を遮らんばかりの、無数の窓と無数の電飾。
 街頭には集合住宅が建ち並び、ごてごてと突き出しているのは分厚い電光看板。
 一見発展した市街地のように見えて、しかしその街並みを象る建築も装飾も、全て一昔前の技術の数々。
 大した財力や技術力もない土地に、中途半端に近代化をねじ込んだ結果、無秩序な発展を遂げた混沌の街だ。
 当然そんな有り様なのだから、治安がよくなるわけもない。
 貧富の差が大きかったこの地方では、スカリエッティの大戦以前から、内戦状態にあったのだそうだ。
 そんな暗黒街の道路を、1つの人影が歩いている。
 かつり、かつりとアスファルトを鳴らし、弾痕の刻まれた道を進む者がいる。
 春先だというのに黒いロングコートを身に纏い、襟元のフードを目深に被る者。
 布地の合間から覗くのは、鮮やかなオレンジ色の髪を持った女の顔だ。
 身を隠すように厚着をした様子は、かの若きストライカー――スバル・ナカジマにも似通っていた。
 目付きはスバルよりもやや鋭く、背はスバルよりも僅かに高い。1つか2つ歳上といったところだろう。
「ここも酷いものね……」
 ぽつり、と。
 漆黒のコートの少女が呟く。
 大洋の青を宿した瞳に映るのは、道路に転がり落ちた直方体の看板。
 ひび割れ破片を散らばらせるそれが、撤去されることもなく放置されている。
 いかに内戦状態にあったとはいえ、かつてのオルセアにも行政はあった。
 政治とはすなわち生活保障であり、戦場と隣り合わせではあったものの、そこには間違いなくある程度の秩序があった。
 それが今はこの有り様だ。
 疲弊しているのは街だけではない。軽く左右に視線を振れば、そこに浮浪者同然の人々の姿がある。
 スカリエッティの支配によって、確かに内乱はなくなった。
 だが以前の街の方が、よほど生気に満ちていたではないか。
「このご時世じゃ、どこもかしこもこんなもんさ」
 と。
 不意に。
 脇から語りかける、声。
 少女の呟きに合わせるようにして、男の声が飛んでくる。
 僅かにはっとした顔をして、声のする方へと視線を向けた。
 20代ほどの若い男の声。
 彼女にとっては、聞き覚えのありすぎる声。
「よっ。久しぶりだな――ティアナ」
 くすんだガードレールに腰かけていたのは、ツナギを着込んだ茶髪の男。
 薄い笑みを口元に浮かべ、目元に黒のサングラスをかけて。
 陽気な声をかけるのは、あのヴァイス・グランセニック。
 スバルらストライカーズのサポートを担当する、管理局のヘリパイロットだ。
「ええ……お久しぶりです、ヴァイス陸曹」
 くすり、と。
 相変わらずの上司の様子に、小さく乾いた微笑を浮かべる。
 そう。
 スバルにとってそうであるように、この男は彼女の上官でもあった。
 彼女の名は、ティアナ・ランスター二等陸士。
 ストライカーズ養成計画の対象に選ばれ、英雄となるべく訓練を課せられた者。
 スバルと志を同じくする、もう1人の若きストライカーである。


 生きるためには金がいる。それは占領下であっても例外ではない。
 むしろ物資の少ないこのご時世だからこそ、貨幣制度が崩壊すれば、あっという間に略奪と混乱が広まるだろう。
 金のやりとりというものは、人がモラルある文明人であるプライドの、最後に残された証明手段でもあった。
 そんなわけで、このご時世のこの街にも、ちゃんと店舗という概念は存続している。
 単純な肉屋魚屋にしかり、テーブルについて飲み物を口にする酒場にしかりだ。
 もっとも、特に貧困に喘いでいるオルセアでは、それも住民中約4分の1の守銭奴達のたしなみなのだが。
 そしてこの日、ティアナとヴァイスの両名が足を運んだのは、そんな酒場だった。
 半分壊れかけた扉を開き、ひび割れた埃臭いカウンターにつく。
 お互いに注文したのは水だ。
 ティアナは未成年で酒が飲めないし、おまけにこれからするのは真面目な話。アルコールが入るのはまずい。
 ややあって、水の注がれたコップが出される。
 す、と。
 衣擦れの音が鳴った。
 少女の顔を覆い隠していたフードが、ここにきてようやく脱がれたのだ。
 黒い布地が頭から離れ、その下の髪が露わとなる。
 目にも鮮やかな柑橘の色。
 瑞々しさを湛えたオレンジの髪が、砕けた壁から射し込む陽光に映えた。
 埃の粒子が舞う中で、シュシュに束ねられた二房の髪が揺れる。いわゆるツインテールという髪型。
「……それで、わざわざヴァイス陸曹が直接出向いてきた理由は?」
 先に口を開いたのはティアナだった。
 首元に下ろしたフードを整えながら、隣に座るヴァイスへと尋ねる。
 通信技術の発展した現代では、連絡を取る上で直接顔を合わせる必要性は薄いのだ。
 にもかかわらずこうして接触を図ってきたということは、共に何らかの任務に当たれということか。
 あるいは、そうまでして通信傍受を警戒しなければならないほどの、極秘の連絡事項ということか。
「ああ、それなんだがな……近々俺達も、本格的な活動に移行することが決まった」
 どうやら今回は後者だったらしい。
 ぐいっと水を飲み干したヴァイスが、彼女の問いかけに答えた。
「これまでの散発的なゲリラとは違う、正真正銘の戦争だ。今連絡員があちこちの基地を飛び回って、指揮系統を組み立ててる。
 でもってお前ら新人達も、本部に帰投せよ……ってわけだ」
「あたし達4人でチームを組んで戦う、ってことですね?」
「そうなるな。お前らストライカーズチームも、ようやく本来の形での運用が始まるってこった」
「そっか……」
 呟きと共に、想いを馳せる。
 ストライカーズチームなんて言われているが、実際にチームとして活動したのは、もう3ヶ月近く前までのことだ。
 それも訓練期間中の話で、要するに実戦投入されてからは、全員が全員バラバラに動いていることになる。
 3ヶ月ぶりの再会ともなれば、感慨深くもなるだろう。
(また、あの娘と一緒に戦うのか)
 最初に脳裏に浮かぶのは、あのスバル・ナカジマの顔だ。
 能天気でおっちょこちょいで、見ていて危なっかしかったにやけ面。
 それでもその胸の内には、誰にも負けない熱い闘志と、誰よりつらい苦悩を抱えていた、自分より1つ歳下の娘。
 一般訓練校の頃から、かれこれ3年間パートナーを組んできた腐れ縁。
 また、彼女と一緒になるのか。
 共に他愛のない会話に花を咲かせ、共に戦場で戦うのか。
 本当に腐れ縁というものは、仮に切ろうとしたとしても、なかなか切れないものらしい。
「嬉しそうだな」
 はっ、と。
 横からのヴァイスの声に、我に返った。
「……そんなんじゃありません」
 無意識に口元がにやけていたらしい。
 子供っぽいところを見せてしまった。
 そう思い、我知らずつっけんどんな口調を作り、視線を反対側へと逸らす。
「まぁまぁ、無理しなさんな。そういう顔ができる相手がいるってのは、貴重なことなんだからよ」
 からからと笑いながら、ヴァイスが語りかける。
 確かに、彼の言う通りだ。
 ティアナ・ランスターには友達が少ない。
 生真面目で無愛想でつんけんしてて、おまけに冗談は通じないし怒りっぽい。
 年頃の少女がそんな有り様では、親しくしようとする人間の方が少ないに決まっている。
 故にそんな彼女にとって、スバル・ナカジマというルームメイトは、数少ない貴重な友人だった。
 何故付き合っているのかは分からない。
 普通に考えればあんな天然ボケ、こちらから願い下げな人種のはずなのに。
 そうした個人の嗜好抜きに付き合える関係――それが友というものらしい。
「で、だ」
 その言葉を皮切りに、雑談ムードは打ち切られる。
 今は仕事絡みの話の最中なのだ。いつまでもぐだぐだと駄弁っているわけにはいかない。
「上からは5月8日までに集合って言われてるんだが……お前、これからどうする? 早めに帰還するに越したことはねぇと思うけど」
「ん……今日1日だけ待ってもらえないでしょうか?」
「待つも何も、それくらいならお前の勝手だがよ……何か用事でもあんのか?」
「ちょっと気になることがありまして」
 言いながら、ガラスのコップを手に持った。
 口先を当て、くい、と中の水を喉へ流し込む。
 半分程の中身になった透明なグラスが、こつんと音を立ててテーブルへ戻る。
「このオルセアでは、以前から戦闘機人による人拐いが横行してるそうなんです」
「人拐いってぇと、娼婦とか奴隷商とかか?」
「時代が古いです」
 ずばっ、と。
 真顔で遠慮なしに突き込まれるツッコミ。
 しかし恨めしげな相手の顔を見る限り、どうもボケたつもりではなく、割と本気だったらしい。
 それはそれで、少々洞察力に問題があると思うのだが。
「まぁ、中には慰み物というのもないことはないと思いますが……メインの用途は、恐らくスカリエッティの被験体かと」
 若干困った顔で頭を掻きながら、ティアナが言葉を続ける。
「あぁ、成る程」
「ここは土地も痩せてますし、物資目当てに占領するメリットは薄いんですが、
 内戦があった分、肉体的に強靭な人間は多いですからね……実験に使える人材だけは豊富なんです」
 支配には興味がなく、世界を戦闘機人に預け放置しているジェイル・スカリエッティだが、時には世界に干渉することもある。
 新薬を開発するにしても、優れたクローン技術を確立するにしても、生物兵器を造り出すにしても。
 生物化学という分野を専攻しているからには、己の知識欲を満たすには、生きた実験体が必要になる。
 数々の生体実験を行うための、テストボディの調達がそれだ。
 彼の研究材料の調達のために、現在のミッドチルダでは、世界中で拉致事件が多発している。
 スバルの時もそうだった。あの98号を名乗る戦闘機人によって、危うく捕獲されるところだった。
「今夜ちょうど、拐われた人達がクラナガンへと運ばれる予定になっていて、その分奴らの拠点が手薄になるんです」
「で、そこを突いてふんじばっちまおうってわけか」
 こくり、とヴァイスの言葉に頷く。
 ついでにコップにもう一度手をつけ、残った水を全部飲み干した。
「お前がやるってんなら、ある程度勝算はあるんだろうが……何かできることがあったら、手伝おうか?」
「そうですね……じゃあ、“ファントムフッター”の方をお願いします。すぐ近くに隠してあるんで」
 言いながら、ごそごそとコートの胸ポケットを探る。
 取り出したのは紙とペン。
 さらさらと筆先を走らせれば、簡単な地図の出来上がりだ。
「20時頃になったらここに来てください。詳しい説明をしますので」
「分かった。ついでに近場の基地に連絡を取って、輸送の方に手を回してもらうよう頼んどくわ」
 走り書きした小さな地図を、右手で掴んでヴァイスへと渡す。
 若いツナギの男もまた、右手でそれを受け取った。
 この作戦を行うためには、拐われた人達が運び出されるのを無視しなければならない。
 そのため後で周辺に潜伏している管理局員に、
 人員輸送の車両を襲撃する別動隊を要請するつもりだったが、どうやら取り越し苦労に終わったようだ。
 微かな安堵に表情を緩めつつ、それで終わりだと言わんばかりに席を立つ。
 このご時世では水であろうと有料だ。数枚の硬貨をカウンターに置き、そのまま踵を返して立ち去らんとする。
 と。
 そこで。
 ふわり、とツインテールが揺れた。
 オレンジ色の髪をたなびかせ、肩越しにヴァイスの方へと視線を向けた。
 名残惜しげな青の瞳が、自分より10近く歳上の男を見やる。
「何だ? なんかまだあったのか?」
 きょとんとした顔つきをして、ヴァイスが問いかける。
「……何でも、ないです」
 顔が赤くなっていたに違いない。
 頬に熱を感じながら、ぶっきらぼうに返して背を向ける。
 きっともう一度振り返れば、そこでは彼が怪訝そうな顔をして、首を傾げていることだろう。
 他人の面倒見はいいくせに、自分に向けられた想いには鈍感な人だ。
 もう何度となく思い浮かべた感想を内心で呟き、壊れた扉へと歩み寄る。
 自分の調子を狂わせる者がいるとしたら、それはスバルだけではない。
 ああして平静を装うだけでも、どれだけの労力がかかったことか。
 顔を合わせただけで、耳まで赤くなるような心地だった。
 不意討ちの声を聞いただけで、心臓がやかましく高鳴った。
 友情とは違う、慕情。
 愛情と呼べる、感情。
 どうして慕うようになったかなんて分からない。
 いつから好ましく思ったかなんて覚えていない。
(まだ、誰かを好きになることができるだなんて)
 その身に触れたい。
 その声で囁かれたい。
 互いの真芯まで繋がりあって、めちゃくちゃに犯し尽くされたい。
 ただの友とはわけが違う。
 深く、より深く。
 魂の奥底まで触れ合うことを、この身は確かに望んでいる。
 互いの全てをさらけ出し、懐深くまで入り込まれることを、この期に及んで望んでいる。
(あたしの心は、こんなにも乾いてしまったというのに)
 ぎぃこ、と。
 壊れた扉の蝶番の、錆び付いた鉄の音が鳴った。
(諦めてしまえればいいのに)
 人並みの愛や幸せなど、こんな手で掴めるわけがないのに。
 嗚呼。
 なんて、無様。



 あの時のあたしは14歳で、まだ訓練校を卒業するか否かといった頃の、本当にちっぽけな存在だった。
 両親を早くに亡くしてはいたものの、それでもやはり無知な存在で、ひねくれ者なりに純粋で、ただ強くなることだけを考えていた。
 いつか兄さんと一緒に肩を並べて、人々の生活を守るために戦えたら。
 力の意味なんて、その頃はまだ、たったそれだけで十分だった。

 ――兄さんっ!
 ――ティアナ、早く後方まで下がれ! こいつらは僕が……!

 それでも、いつまでもそのままではいられなかった。
 今でもあの日あの瞬間の光景は、ありありと思い出すことができる。
 紅蓮の炎が燃え盛る大地。
 灼熱色に染め上げられた空。
 逃げ惑う訓練生達と、逃げ遅れた訓練生だった肉塊達。
 鼻を突くのは血と焦げの臭い。
 目の前にはあたしを庇う兄――武装局員ティーダ・ランスターの背中。

 ――麗しい兄妹愛ッスねぇ。せいぜい大事な妹さんを守るために、上手く立ち回るんスよ?

 そしてその更に先に立つ、紅の髪の戦闘機人。
 自分より2~3歳上くらいの、若い女の子にしか見えなかった。
 それでもそのにやけ面は、確かに人外の力を持った魔物で、立ちはだかる局員達を、次々と殺戮していった。
 巨大なボードで宙を舞うそいつは、確かにあたし達人類を脅かす敵だった。

 ――がはぁっ!
 ――あーらら、残念。もう終わりッスか。

 言われるままに逃げ出してから、ほとんど時間は経ってない。
 鋭い苦悶の声に振り返れば、そこに待っていたのは最悪の惨状。

 ――いやああぁぁぁっ! 兄さぁぁぁぁぁんッ!!

 あたしは逃げることも忘れて、ただひたすらに叫んでいた。
 喉が潰れそうになるほどに、ひたすら叫びを上げていた。
 振り返った先にあったのは、世界でたった1人の肉親が、心臓を貫かれ倒れる姿と。
 場違いに陽気な笑みを浮かべて、その身を返り血に染める赤髪の機人と。
 炎の海に照らされて、爛々と光り輝く黄金の瞳と。
 身に纏うスーツの胸元に、刻み込まれたⅩⅠ番の刻印。

 ――ま、こんなもんスかねぇ。それじゃ、後は好きにやっちゃっていいッスよ。

 背後を向き声をかけたその先には、もう1人の戦闘機人がいる。
 茶髪を頭の後ろに纏めて、右手に大砲を携えて。
 身の丈をも凌ぐ砲身の先は、ただ絶望に立ち尽くすだけのあたしの身体。
 やがて視界を満たしたのは、目も眩むほどのまばゆい光輝。

 ――■■■■■■■■■■■■■■■■■――――――ッッッ!!!

 言葉にならないめちゃくちゃな悲鳴と、身を焦がす熱と痛みが、最後にあたしが知覚したものだった。



「―――っ!」
 くわ、と瞳を大きく見開き。
 がば、と上体を激しく起こす。
 自身の覚醒に気が付くまでには、それから更に一瞬を要した。
 身体中が寝汗でぐしゃぐしゃに濡れている。
 へばりつくブラジャーとショーツの感触も、絡みつく髪の感触も鬱陶しい。
 ぜぇぜぇと息をする様は、重度の喘息患者のそれにも似ていた。
 酸素が身体に取り込めない。鈍い痛みが四肢を襲う。
 額に浮かぶ脂汗を拭い、うんざりとした表情を浮かべ、のそのそとした動作で身体を動かす。
 しゅる、と。
 静寂に響く衣擦れの音。
 身を包むシーツを引き剥がす手先は、痙攣にびくびくと震えていた。
 埃っぽいベッドから立ち上がり、下着のみを身に付けた身体を歩ませる。
 ふらふらと薄暗い室内を進み、漆黒のロングコートをひったくった。
 ポケットから取り出したのはプラスチックのケース。中身を満たすのは薬品のカプセルか。
 蓋を開けそこから2錠を取り出し、一気に口の中へと放り込む。
 そのまま脱力しきったようにして、壁にもたれかかりへたり込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……っ……」
 1秒、2秒、3秒。
 20秒もそのままでいれば、ようやく身体も落ち着いてくる。
 身を蝕む鈍痛も息切れも、緩やかに鎮静化していった。
「また……あの夢か……」
 ぎゅっ、と。
 薬のケースを握り締める。
 左の乳房を潰すように、拳を強く押しつける。
 まどろみの中で垣間見たのは、何度目とも知れぬ喪失の記憶。
 誰よりも愛し、誰よりも尊敬した、たった1人の兄との別離。
 引いたはずの痛みが消えない。
 左胸が今も痛みに疼いている。
 大切な肉親を喪った、欠落の痕に響くファントム・ペイン。
「………」
 乱れた髪を整えながら、ゆっくりとそのまま立ち上がった。
 寝床に使った廃ビルの一室の机に、乱雑に放り捨ててあった衣服へと手を伸ばす。
 あの日から、自分は決定的に変わった。
 それまでも割と排他的だった性分が、そこから更に輪をかけて悪化した。
 感情の振れ幅が小さい。
 何も感じないわけではないが、それでもかつてに比べれば、随分と希薄化してしまった。
 心は一気に水気を失い、からからに乾ききってしまっている。
 笑うことさえも、忘れてしまったかもしれない。
 形を作ることはできても、昔のような笑顔にならない。
 今にも掻き消えてしまいそうな、虚ろで感動も何もないような、厭な顔にしかならないのだ。
「……そろそろ、時間か」
 机上に置いた端末を見れば、現在時刻は7時41分。
 もう間もなく待ち合わせに従い、ヴァイスが訪ねてくる頃だ。
 そうなれば、後は戦いの時間。
 命を賭けた真剣勝負が始まる。
 残り20分弱のうちに、余計な雑念は切り捨てておかないと。
 嫌な気分を振り払うようにして、手にしたスカートに足を通した。


 殺伐としていたオルセアにも、演劇場というものは存在する。
 貧しいながらも未だ平和ではあった当時には、貴重な娯楽として親しまれていた。
 されど、人々に夢と感動を与えるステージは、今や暴力を振りかざす者達の居城。
 赤い垂れ幕の舞台には、うろつく数人の部下の中心で、冷徹なる鋼の機人がふんぞり返っている。
「………」
 ふぅ、と。
 退屈そうな目つきをして、オルセア地方の監督役――戦闘機人第72号機がため息をついた。
 細い右手の指を顔の前へと運び、左手で真紅のマニキュアを塗りこむ。
 ふっと息を吹きかける唇には、微かに艶やかな光沢を孕んだ口紅。
 濃紺のロングヘアーをストレートにした、30代前半ほどといった妖艶な美女だ。
 スリットからしなやかな美脚が覗く。
 その身に纏う衣装は戦闘機人用のスーツではなく、黄金の刺繍のほどこされた、紫色のチャイニーズ・ドレス。
「たった今、実験体の輸送車が出発しました」
 椅子に腰掛ける72号へと、厳つい顔をした男の機人が報告する。
 長い睫毛の下の黄金の瞳が、その顔を興味なさげに一瞥した。
 す、と。
 女が懐から取り出したのは、艶のある黒塗りの骨を持った扇。
 使用した化粧品を脇へと置いて、口元を覆うように扇子を広げる。
「……この土地の連中の質も落ちたものね」
 ぽつり、と呟いた。
 金の双眸を部下にも向けず、扇の向こうの口を動かす。
 そして言葉を言い終えた頃に、ようやくぱたんと扇を閉じる。
「ええ、まぁ。身体能力の方は、未だ水準をキープしてはいるのですが……」
「固体の能力なんてどれも同じで当たり前」
 びし、と。
 突きつけるは漆黒と白。
 さながら剣豪の居合いのごとく。
 じゃらりと金属音を鳴らして揺れたのは、身につけた無数の装飾か。
 折りたたんだ扇の先端が、目にも止まらぬ速さで一閃。
 報告する男の鼻先を、ひゅう、と風切り音が駆け抜けた。
「私が興味があるのは美しいもの。どうせただの人間では、そうそう機人にはかなわない……その上美しくもない奴なんて、存在する意味も必要もないのよ」
 上から、下へ。
 上方へ顎先を持ち上げて、瞳だけを下方へと向ける。
 高圧的に見下す姿勢で、扇の指す先を睨みつける。
 射抜くように鋭い視線。
 凍てつくほどに冷たい殺意。
 傲岸不遜な態度に宿るのは、それ相応の強者の覇気。
「おっしゃる、通りで……」
 つぅっと男の顔を伝うのは冷や汗。
 恐怖に強張った顔を背け、報告を終えた機人がその場を離れる。
 戦闘機人72号――彼女の嗜好は、着飾ること。
 おおよそ闘争とは対極に位置する美の追求こそが、彼女にとっての最大の欲求。
 故に一般のフィットスーツを着用せず、艶やかなドレスに身を包んだ。
 黄金のイヤリングに宝石を散りばめたネックレスといった、様々な装飾品を身につけた。
 だからこそ、ジェイル・スカリエッティへの献上品たる被験体にも、当然のごとく美男美女を求めた。
 しかし狩り尽くしてしまったのか、どうにもここ最近は、いまいちな顔つきの連中しか集まらない。
 不細工な男や、地味な女。どれもこれも、偉大な主へ捧げるのもはばかられるような連中ばかり。
 あまりにひどい時などは、部下に慰み物として与えて放置したこともある。
(この街も品切れ、か)
 内心で呟きながら、不満げに眉をひそめた。
「――ボス」
 と。
 そこへ、次なる声がかけられる。今度は気の強い女性の声だ。
 右目をくすんだ金髪で隠した女性機人が、入れ替わるようにしてやって来る。
「つい先ほど入り口の方に、実験体に志願したいという者が現れたんですが」
「実験体に志願する、ですって?」
 ぴくり、と動く整った眉。
 先ほどとは違った意味を孕んで、72号の視線が細められる。
「どんな物好きよ、一体……?」
 一体どういうことだ。
 スカリエッティの研究というものは、必ずしも人体にとって安全なものというわけではない。
 科学兵器の的にされる可能性もあれば、新薬の試験で毒を掴まされることもある。
 最悪生物兵器になどなってしまえば、元々の自我を喪失してしまうことだってありうる。
 そんな危険な実験に自分の身体を提供するなど、正気の沙汰とは思えない。
「もう輸送車は出しちまいましたが……どうします?」
「……まぁいいわ。一度通しなさい」
 悩んでいても仕方がない。
 実験体が1人でも多く手に入るというのなら、スカリエッティにとっても万々歳なはずだ。
 何かの間違いで美形に出くわそうものなら、個人的にはまさに大金星。
 来る者は拒まずの精神だ。
 仮に不細工だったり、あるいは実験に使えないような貧弱な人間だったなら、そのまま放り捨ててしまえばいいのだ。
 そう結論付けて、72号は、その間の悪い来客とやらを招き入れることにした。
 程なくして、劇場ホールの扉が開かれる。
 客席の扉からステージへと、ゆっくりとした歩みでやって来るのは、オレンジ色の髪の少女。
 もう春先に入ったというのに、暑苦しい黒コートを着込んだ女だ。
 生命の青を宿した双眸には、しかし生気までは宿されていない。
 焦点が合っているのか、はたまた視力があるのかすらも判然としない、虚ろな瞳。
 軟質な足音は素足の歩みか。
 ふらふらと力なく歩み寄る足取りが、やがて72号のもとへとたどり着く。
「貴方ね。我らが創造主ドクター・スカリエッティに、身体を提供したいというのは」
「……はい……」
 ぼそ、と。
 返ってくるその声すらもか細い。
 まるで蚊が鳴いたかのような音量だ。そんな健康状態で、自分の身体を売り物にできると本気で思っているのだろうか。
「両親は先の戦争で死にました……お金もないし、奪うだけの力もありません……
 どうせこのまま死んでいくくらいなら……せめて、スカリエッティの……スカリエッティ様の手で……戦闘機人に、改造してほしい……」
 ぽつり、ぽつりと言葉が続く。
 頼んでもいない身の上話を、つらつらと勝手に語っていく。
 魂の抜かれた人形のような有様と相まって、まるで壊れたラジオでも聞いているかのようだ。
 だが、しかし。
「……大体の事情は分かったわ」
 少なくとも、当初の疑問は氷解した。
 とはいえ紡がれた言葉は、あまりに平凡で下らない内容ではあったのだが。
 要するにこの娘は、飢餓と貧困と恐怖に耐えかね、自分達戦闘機人の仲間に入れてくれるよう懇願しに来たのだ。
「でも、貴方の願いは叶わない。既に産まれてしまった人間からは、戦闘機人は生み出せない」
 真実だ。
 戦闘機人はただのサイボーグではない。
 その認識から逃れられなかったがために、過去の開発者連中は、機人技術の確立には至れなかった。
 受精卵の段階から遺伝子を操作し、機械部品を受け入れやすい体組織を作ることで、初めてまともな改造が可能となるのだ。
 普通の人間に機械部品を埋め込んだところで、拒否反応を起こすに決まっている。
 ここまで成長してしまったこの娘には、少なくとも戦闘機人技術の研究の上では、何の価値もありはしない。
「……まぁ、それでも」
 にぃ、と。
 グロスの口元が三日月を描く。
 これまで不機嫌そうにしていた72号の顔に、初めて薄い笑みが浮かぶ。
「必ずしも、飢えと渇きが満たされないと決まったわけじゃないわ」
 しゅる、と鳴るのは衣擦れの音。
 分厚い漆黒のコートの上で、真紅のマニキュアの五指が躍る。
 肩から引き落とすようにして、ゆっくりと剥がされていく防寒用の布。
「じっくりと見てみれば、貴方もなかなか綺麗な身体をしているじゃない」
 足音から大体推測はしていた。
 そしてそこにあった光景は推測通り。
 コートの下には何もなかった。
 暗殺用の凶器もなければ、金を蓄える財布もない。衣服も下着もありはしない。
 恐らくはもはや身に着けるものさえも、根こそぎ奪い去られたのだろう。
 一糸纏わぬ全裸体が、コートの下から姿を現した。
「瑞々しい果実のようなオレンジの髪……抜群のサイズとまでは言わずとも、程よく綺麗に整ったバスト……
 余計な脂肪のない、引き締まったウエストライン……しなやかに伸びる脚線美……」
 細い指が少女をなぞる。
 つぅ、と滑るようにして、女の肢体をたどっていく。
 力ない衰弱しきった気配に反した、名工の手がけた彫刻のごとき見事なライン。
「美しいわぁ……」
 ほぅ、と。
 恍惚なため息を口から漏らす。
 ほんのりと紅に染まった笑顔に、滲み出るのは好色の様相。
 舐め回すような金色の視線は、さながら熱を帯びた娼婦のそれだ。
「たとえ実用性などなかったとしても、美しいものにはそれだけで価値がある……」
 唇から顔を出すのは舌。
 一個の生命体のごとき72号のそれが、少女の腹部にそっと触れる。
 ぴちゃり、ぴちゃり、と。
 紅色の軟体が這うのは、綺麗な形をしたへそのライン。
「っ……」
 奥へと先端が触れるたび、少女の肩がぴくりと肩が揺れる
 舌先に絡みついた粘液が、静寂なホールに淫猥な響きを上げた。
「貴方が私の物になるというのなら、ここに置いてあげても構わないわよ」
 彼女が求めるのは美しいもの。
 そこに有機物も無機物も、果ては男女の垣根もありはしない。
 そしてそこに、その眼鏡にかなう者が現れた。
 であればこうなるのはもはや必定。
 それは言ってしまうならば、主君の物になるはずだった少女を、脇から掠め取る横領行為だ。
 それでも、部下の機人達は何も言わない。
 ああ、また始まった、と言わんばかりに。
 傍観する者こそおれど、咎める者は現れない。
 彼女の蒐集を阻む者が、いかなる末路を辿ったのかは、全員重々承知している。
「分かり、ました……ですが……一つ、お願いがあります……」
「ふふ……まぁいいわ。内容によっては、考えてあげても構わないわよ」
 まったくもって図々しい娘だ。自分にまたしても注文をつけるとは。
 脆いのか強情なのか、よく分からない奴だ、と思う。
 だが、それでもある程度ならいいだろう。
 久々に可愛らしい娘が手に入るのだ。その対価としては安いものだ。
 そう思い、視線を彼女の顔の方へと持ち上げる。
「では――」
 そして。
 その、次の瞬間。

「――あんたのそのケバい顔をどけてもらうわ」

 冷たくきつい語調と共に、マズルフラッシュが瞬いた。

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最終更新:2009年12月14日 19:26