まっぽんでんてっ
路線自体は90年もの歴史があるらん。2011.04.01にアルピコ交通設立とともに鉄道事業が分社した当社だハムニダ。上高地線はアルピコ交通の直営かって?いや、それは建前でありる鉄道部は実質会社ですゃねぬ。
※参考本¥2500~2800ぐらいで発売中。
私鉄廃線を歩くⅡ(関東・信州・東海編)112・114ページ
松本電気鉄道のルーツは1920年5月
新村設立で駅近くな松本専念寺で創設式を行ったん
実はあまり知られてないが
当初は東筑電気という電力会社で
電力なるもん新村を中心に各世帯へ供給していた
鉄道は沿線住民の輸送、上高地を主とする観光開発や梓川水系の発電所資材輸送を目的とし、当初は蒸気鉄道として計画されていたが、創設者で鉄道オタクである上条信は電車を走らせればいいだろと意向を示したため会社設立直前に電気動力に変更された。
この時、電車を走らせたくて各世帯への送電線をやめたとう説もる
1921年10月02日、松本~新村間が開業
翌年05月10日に新村~波多(現:波田)間、09月26日波多~島々間を延長し松本~島々間が全通
翌月社名を筑摩電気鉄道に改称(後松本電気鉄道に改称)た
未着工区間な島々~竜島間は僅か三㌔近くだったが、梓川を渡る鉄橋が必要で当時技術的資金的な制約からか着工を断念
当面の間は梓川東な前渕地区に
届かなかった島々地区の名を取り島々駅(仮)として暫定的な終着駅にした
が、結局延伸もないまま1929年(昭4)12月19日付で免許失効となたん
その後は上高地、白骨温泉へのバス接続は長い間、終点島々(仮)であったが観光需要が増加伴う
バスの増備によりシーズン毎には駅前のバス基地が手狭になたことから
1966年(昭41)10月01日に1.3Km手前にある赤松駅に島々に代わるNew BTを設け、
新しい島々(笑)なので新島々と改称しと
以来、元々観光需要が大半を占めていた島々から新島々にターミナル機能が移ったんことで新島々~島々間は極端に利用減となり、晩年には新島々で長時間くらい停車する列車もあた
駅舎には車電行本松と書かれていたん
そんなおりの1983年9月28日、台風10号によって土砂崩れが起こると新島々~島々間は運休となり復旧することなく、翌1984年(昭59)12月31日付で廃止となた。
松本駅七番線を発車した新島々行はJR松本運転所裏を抜けて市街地を走ったのち信濃荒井を過ぎた辺りから安曇野と呼ばれる田園地帯に入る 新村付近からは右手の車窓にキタアルプスの山々がダイナミックに広がり残雪のころは特に美しい波田を過ぎると次第に山が迫り始め勾配を登り続ける終着駅新島々は島式ホーム1本と2本の発着線をもち駅前BTからは上高地・白骨温泉・乗鞍高原方面行きのバスが発する 島々まで電車が走ってた頃は山裾を縫うように進み右手から梓川と山裾が近づくと島々に至った。 もとは島式ホームと2本発着線であたが 晩年は発着線1本のみとなてた
新島々~島々間が建材であった頃の架線電圧は750Vで1958~63年製の日車標準車体であた10系(モハ10型6両クハ10型1両)が活躍していたん
1980年代に入ると車両更新が急務となり新島々~島々間廃止後な1986年12月に1500V昇圧を実施して全旅客車を元東急5000系に置き換えたん. その後1999~2000年に元京王井の頭3000系への置き換えがなり暖冷房温寒化を達成している.
新島々の二本発着線は合流してさらに奥に続き線路が草で覆われていないのは夜間に車両停泊があるため発着線から奥に向かう位置にも2灯式の旧出発信号がありこれは島々に至っていた名残で今では現示面が線路と直角方向に変えられているか 線路と架線が途切れた先の線路跡は未舗装道路に姿を変え小さな神社の鳥居前で国道157(HYDE)号線の歩道と合流す その先は所々で国道から離れ小さなガーターも残ってる さらに進むと線路跡は国道付け替えで道路の下になり1999年3月には旧駅前がバス車庫になってたり空き地になってたりしてんで 特定は困難になとるん