比呂美はその理由を訊くことはしなかった。
なぜ触れてはいけないのかは……すぐに思い当たったから……
これは朋与を傷つけた証として、眞一郎が望んで受けた傷…… その事にすぐ気づいたからだ。
(…………)
少しだけ寂しい気持ちに囚われ、比呂美も眞一郎から目を逸らす。
だが、自分がそんな風に感じるのは、朋与の想いに失礼だと思い直し、比呂美は眞一郎に向き直った。
「……部屋……来て。……本当に風邪ひいちゃう」
まだ比呂美を見ることが出来ない眞一郎は、嗚咽を噛み殺すような声で言う。
「先に……行っててくれ……」
あと一時間……いや、三十分でいい。一人にして欲しい。
すぐに追いかけるから…… すぐにお前を……『湯浅比呂美』を見つける『仲上眞一郎』に戻るから……
「……頼む……」
そう言って、更に深く比呂美から顔を背けた眞一郎の耳に、比呂美の静かな声が届く。
「…………嫌……」
彼女は自分の願いを聞き届けてくれる…… そう思い込んでいた眞一郎は驚いて、泣き濡れた顔を比呂美に向けた。
「……比呂美……」
「嫌ッ!」
もう一度、今度は力強く言い放つと、比呂美は眞一郎の座るベンチ……その空いている所に積もった雪を払い除ける。
そして、眞一郎のすぐ横に腰を下ろすと、冷え切った眞一郎の掌を自分の手で包んで握り締めた。
尚も視線を泳がせて自分を見ようとしない眞一郎。その耳に、比呂美は今の想いを音にして送り出す。
「…………『僕の中の君は、いつも泣いていて……君の涙を、僕は拭いたいと思う』」
比呂美の口が紡いだそれは、かつて眞一郎が、悲しみの中で暮らしていた比呂美に送ったフレーズだった。
背けられた頬に、空いている方の手を添え、
ゆっくりと眞一郎の顔を自分へと向けさせる比呂美。
その手を当てたまま、親指で涙に濡れている眞一郎の目尻をスッとなぞる。
「…………あなたの涙を……私も拭いたいと思う…………」
「…………」
眞一郎は比呂美の眼を真っ直ぐ見据えたまま、一言も発することはなかった。
その眞一郎に、比呂美は想いを込めてもう一度、言葉を重ねる。
「……あなたの……涙を…………」
「…………」
握られているだけだった眞一郎の手が、比呂美の手の中で向きを変え、意志を持って指を絡めてくる。
溢れる涙はまだ止まらなかったが、瞳の奥にある光が、また輝き出したように比呂美には思えた。
二人の間に空いていた隙間を埋めようと、眞一郎の側に身を寄せる比呂美。
ライトグリーンのコートに薄く積もった雪を払い、少し逞しくなった肩へ頭をもたれさせる。
「…………」
眞一郎も無言のまま、同じ様に冷えた頬を比呂美に預けてきた。
雪と冷気が全身に降り懸かってくる中で、眞一郎と比呂美は、黙って身を寄せ合う。
…………
(……私にも出来る……出来るよ……)
……眞一郎が辛い時、悲しい時、大切な人を想って涙を流す時……それを拭うのは自分……
もう、眞一郎に涙を拭ってもらうだけの『湯浅比呂美』じゃない。
助けを求めるだけじゃない…… 救いを求めるだけじゃない……
『湯浅比呂美』は『仲上眞一郎』と共に並んで歩く…… あの時に決めた……その誓いのとおりにする。
……眞一郎が自分にしてくれたように…………同じ様にする。
それが彼の救いになると信じるから。 自分自身がそうしたいから。
この先……眞一郎と歩む長い時間……こんな事が何度もあるのだろう……
間違い、迷い、傷つけ合って、自分たちは何度もすれ違うだろう……
…………でも…………
最後はこうして寄り添える…… 眞一郎と自分は寄り添える……
その思いに理由は無い。 それが二人の愛の形なのだと、訳も無く思うのだ。
僅かに接した眞一郎の肌から伝わる熱も、「そうだよ」と言っている。 そんな気がする……
…………
(……あ……)
空を見上げると、本降りになるかと思われた雪が、段々とその粒を小さくして弱まってきた。
「やんできたな」と呟く眞一郎は、もう泣いてはいないと分かる。……見なくても分かる。
……朋与の想いと思い出を心の中で消化して、眞一郎は、また高く飛ぼうとしている……
眞一郎の変化……いや、『成長』を彼の一番近くで感じる喜びに、比呂美は身体と心を震わせていた。