さすがの乃絵も石動家まで送るときには無言だった。
俺にはそれがありがたかった。
自分の行為を何も説明できなかった。
仲上家に戻って来た比呂美を抱き締めてしまった。
心配した、と安堵して洩らした。
未だにその行為が信じられない。
俺の身体には比呂美の感触が残っているのだが、厚着をしていたため、実感があまりない。
離して……、と拒絶されて、比呂美の後姿だけを視線で追った。
比呂美は振り返ってくれなくて、母さんとともに自室に行ってしまった。
それから父さんに言われて、乃絵を石動家まで送った。
そんなに距離があるわけではないのだが、かなり時間が経過したように思えてくる。
やっと仲上家の門をくぐる。
玄関の前には足を崩して立つ父さんがいる。
「どうだった? お兄さんは帰っていたか?」
父さんは平然と訊いてきた。
「まだでした。乃絵の母さんがいたので、そのまま帰って来ました。
特に怒られずに、送ってくれたことを感謝されました」
乃絵とあいつの母さんだから、かなりの美人だった。
そんなことに目が行ってしまう。
「そっか。それなら安心だ。
警察の説明だと何も怪我していなくて、バイクのレッカー移動だけだから、
しばらくすれば戻って来るようだな」
父さんは安心して微笑んでくれている。
そういう表情を見るのは久しぶりだ。
いつも堅苦しい顔をしているからだ。
「母さんと比呂美は?」
「中にいるんじゃないかな? 話でもしているのだろう。
母さんはずっと何かを考えているようだった」
父さんはそっけなく答えたように、俺には見えた。
「いいのかよ、それで!」
俺は珍しく父さんに敬語を使わなかった。
今までとても尊敬していたし、口数は少なくても頼りにしていた。
それなのに父さんは外で立っているだけで、あの
ふたりには何もしていない。
父さんは俺から視線を外して、遠くを見つめる。
「構わないではないか。
眞一郎が比呂美は男とバイクに乗っていたと知らせてくれたとき、
母さんは表情を曇らせていた。
何らかの理由をわかっていて、比呂美が帰宅後に着替えを手伝う。
何の問題もなさそうだが」
問題意識が低いのか、淡々と説明した。
警察に補導されたから帰宅したのであって、
比呂美はまだ飛び出したときの気持ちを維持しているかもしれない。
比呂美が仲上家に引き取られることになったあの日のように頭を下げただけだ。
「父さんは何も知らないのか?」
父さんは俺を直視してくる。
「母さんと比呂美が揉めているのだろう。
何度も母さんには比呂美を、うちの子と認めるように言ってきた。
逆にそれが気に障るようだな。
俺が比呂美の味方だけをしているようで」
父さんなりに事情を把握できているようだが、不充分だ。
「母さんが変なんだよ。比呂美に変なこと吹き込んでいるんだよ」
俺は父さんを睨み付ける。原因は父さんにもあるのだから。
「変なことって何だ?」
やっと父さんは顔を顰めている。
「父さんが比呂美の母さんに浮気して、比呂美を生ませた。
俺のほうが誕生日が先だから、お兄さんだって」
月明かりの下で比呂美に教えられたことを、父さんに伝えた。
今、思うと比呂美に相談してからのほうが良かったかもしれない。
そうしていれば比呂美が逃避行をせずにいられたと思いたい。
「そんなことを言われていたのか……。
で、眞一郎はどう思う?」
父さんは言葉を濁しつつも訊いてきた。
俺を正面から捕らえて離さない。
「比呂美と俺は似ていないから違う」
俺の返答に父さんは、笑みさえも浮かべている。
「両親と兄妹とが似ていないことはよくあるだろう。
心配ならDNA鑑定でもすればいい。
結果は当然、白だ」
お父さんは俺に顔を近づけていた。
「腑に落ちないな。
父さんを信じていないわけではないが」
俺はもう父さんに敬語を使っていなかった。
ここで下手に出るわけにはいかない。
「浮気をしたことがないとは証明できないからな。
意味、わかるか?」
父さんの問い掛けに俺は少しだけ考えてみる。
「悪魔の証明というやつか? 悪魔がいないとは証明できない」
「そういうことだな。比呂美の母さんはきれいだったな。
いつも大人しくしているけれど、微笑んだときに癒されるんだ。
俺はお調子者だったから、冗談を言って微笑んでもらおうとしていた」
昔を懐かしんでいて雰囲気を崩したくはないのだが、眞一郎は新たな情報を伝える。
「母さんは父さんたち四人の写真の中で、比呂美の母さんの顔を切り取った。
俺の部屋にアルバムを置いていたのに捨てた」
俺の言葉を噛み締めるかのように、父さんは瞼を閉じてから穏やかに言う。
「母さんを責めないであげてくれ。
そこまでするくらいに追い詰められていたんだな。
昔から喧嘩をすると、その数倍も落ち込んでしまうんだ。
今回のは反省して比呂美と向き合おうとしたのだろう」
父さんは俺が比呂美があいつと、バイクでどこかに行ったと教えても、
母さんに何も言わずに見つめるだけだった。
「そういうのに気づいていたのか?」
「ある程度はな。母さんの言動がきつくなっていたからな」
やはり父さんなりに把握できていたようだ。
「父さんが家長として母さんと比呂美との間に、もっと入ってあげれば良かったかもな」
仲上家の大黒柱として支えられたら、状況は変わっていたかもしれない。
「それ、俺だけがやらねばならないのか?」
父さんは率直に訊いてきた。
「俺だって比呂美が母さんに怒っていたとき、間に入った。
それからあの話を教えられたんだ」
珍しく声を荒げていた比呂美が気になって、身体が動いていた。
「そっか、眞一郎なりにしていたんだな。
昨日、眞一郎が帰宅してから、母さんのことで聞いたときに返事がなかったのは、
さっきの話があったからか。
無理もないな。
比呂美には経済的に不自由はさせてはいなかったのだが、精神的には不足していた」
「比呂美は距離を置いてくるから、接しにくいんだ。
学校では明るくてしているのに」
未だにすべてを理解しづらい。
あいつとの仲もうまくはいっていないようで、デートをするのに不機嫌だ。
学校で鉢合わせをしたときには睨んできた。
「これからも苦労をさせられそうだぞ。
母さんの行動は不可解なときがあるし、比呂美まで絡んでくると。
石動乃絵さんを眞一郎が選ぶというのも構わない。
なかなか挨拶のできるかわいらしい子だな」
意味深な見解から、にこやかに乃絵の話に移っている。
「乃絵のことよりは、今は比呂美のことだ。
ふたりはまだ話をしているのかな?」
閉まっている玄関の扉は開けられそうにない。
とっくに話が済んでいるかもしれない。
「まだではないか?
それよりも絵本はどうなった?
後で見てみたいな」
父さんはここぞとばかりと話を変えてくる。
最近、父さんに相談しに酒造に行ったままだった。
「比呂美には知られていないから……」
ずっと隠しているわけではないが、伝えたことはない。
「そっか、先に比呂美に見せてあげればいい。
東京の出版社からの手紙の封を母さんが切ったことがあっただろ。
あのとき比呂美は眞一郎がいなくなってから、母さんのほうを見つめていたな。
興味はあるかもしれん。
出版社といっても、普通は小説を想像するが」
あの朝食のときはその場から離れたくて逃げ出した。
「少しは見込みがあるかも……」
初めて比呂美の部屋に行ったときのように、馬鹿にされるかもと恐れていた。
「それで比呂美が笑顔になればいいのだが。
比呂美は本当に比呂美の母さんと似ているんだ。
今朝もその話をしてしまった」
俺が知らない事実が明かされた。
「そういうのが母さんを苛立たせるのだろう。
母さんは父さんと俺が比呂美の味方と思われているし」
「比呂美は比呂美。あまり比呂美の母さんと重ねないほうがいいのか。
急に高校生の娘ができると、どう対応すればわからないな」
父さんは苦言をこぼした。
いつも堂々としているようだったのに意外だった。
「まさか母さんの前でも、比呂美のお母さんがきれいだとか話したことがあった?」
もしそうなら母さんが嫉妬する理由になる。
「どうだろうね。比呂美の父さんとは親友だったから、結婚前ならそういう話をしていたな。
男同士だから当然だし、向こうもしていただろう」
いつの時代でもありそうな恋の話。
俺も三代吉としていて、比呂美に聞かれないように配慮していた。
「父さんの話を整理すると、比呂美の両親とは仲が悪かったわけではないようだ」
「比呂美を引き取るようになったのは、比呂美の父さんの遺言だった。
当然ながら比呂美の意思は尊重して、うちに来るようになった。
眞一郎と比呂美が生まれたときには、ふたりが結ばれるといいなとは語り合っていた。
母さんだけは眞一郎のために、そういうのを好まなかったな。
それが今回のきっかけかもしれない」
あの写真の四人、比呂美母も微笑んで話題にしていたのだろう。
「幼い頃から比呂美とは知り合っていたし、最近はぎくしゃくしているけれど」
比呂美だけでなく俺も、比呂美と会うと構えてしまうようになった。
挨拶さえも刺々しくて比呂美の新たな一面を見せられている。
「比呂美がうちに来たときから、眞一郎との様子が変わっているようだ。
もう少し会話があってもいいとは思うんだが、高校生同士だから、
親が介入しないほうがいいな」
父さんは最初から同じ調子で語っていた。
今、振り返ると父さんは事情を詳しくわからなくても、対応ができていたようだ。
わざと比呂美と母さんだけを家に入れて、俺を待ちつつ、会話をする機会を窺っていた。
「いろいろ父さんは考えているんだな」
「母さんとふたりきりのときは、よく話す。
眞一郎と比呂美のことを。
母さんがふたりに聞かせたくないようなことをね」
父さんがもったいぶっていると、急に玄関の扉が開いた。
「あなた、そちらはどうですか?」
母さんは平然と訊いてきた。
「ある程度は終わったよ。中に入るか、眞一郎」
父さんに促されて、家の中に入ると比呂美がいる。
頬を赤らめていて、上唇を噛んだまま、かすかに震えている。
「お父さん」
比呂美の口から力強く放たれた。
父さんは一瞬だけ硬直したが、表情を崩す。
「そう呼んでくれるようになったか……。
嬉しいよ」
「いつそう呼ぼうと考えてていたのに遅れてしまいました」
「呼びたくなったときに呼んでくれたらいい。
これで正真正銘にうちの子だな」
父さんは比呂美に屈託なく笑顔を向けてあげている。
「眞一郎くんにも心配を掛けたわね。
眞一郎くんが私と純くんとのことを伝えてくれたようね」
比呂美は視線を合わそうとせず俯いている。
前まで四番と呼んでいたのが純くんに変わっている。
「かなり驚いたが無事で良かった」
そう伝えるのが精一杯だった。
さっきの抱擁を思い出して言葉が浮かんでこない。
「それと私は学校にいるときのように振舞えるようにがんばるから」
上目遣いで俺を見てくれてはいる。
「そのほうがいい。俺もできる限り支えるし」
「私が仲上家に来たときのように再出発するから」
「やり直したほうがいいな。俺もあのときのように笑顔で出迎える」
無表情の比呂美が頭を下げたあの日。
目の前にいるのは身体中が朱に染まっていて、俺のほうが意識してしまう。
ふと視線を移すと、父さんは玄関に上がり、母さんは姿を消そうとしている。
比呂美もふたりに気づいたようだ。
「お母さん、何をなさるつもりですか?」
「夕食の準備よ」
訊かれた母さんは振り向かなかった。
「手伝います」
比呂美は慌てて母さんのそばに行った。
俺はその姿を視線で追うだけしかできない。
「まだまだだな」
父さんはあからさまに溜息を洩らした。
「何がだよ」
父さんも無言で去って行く。
俺も居間に向おうと、靴を脱ぐ。
何だかよくわからない内に解決しているようなのは、よくわかる。