ボブストーリー・勇者編

 戦いは劣勢だった。
 敵は、強大な異能の力を自在に操る。
 仲間は傷付き、何度となく膝を折った。しかし、辛苦を共にしたかれらを鼓舞し、奮い立たせる事は、己に課せられた使命でもある。
 血と汗、泥にまみれた顔のまま、ボブは眼前の敵を睨みつつ、声を振り絞った。
「勝つんだ。戦って、勝つんだ。力尽きるのは、その後でいい。世界の平和のためなら、喜んで力尽きよう。でもそれは、勝った後だ」
 飾りを忘れた言葉だった。しかしその言葉の一つ一つが、ボブに従う三人の瞳を輝かせた。
 粗野で横柄だが、仲間のために命をかけて剣を振るう戦士。
 温厚で柔和だが、誰よりも悪を許さない情熱を秘めた神官。
 魔法の天才で、それを鼻にかける事が多い一方、優しい心根の持ち主である魔女。
 信頼に足る仲間たちだった。
 剣の腕、豊富な知識、魔法の技。いや、それだけではない。
 世界の人々から、平和の担い手として全ての期待を寄せられる勇者ボブにとって、かれらは心の支えでもあった。
 知り合ったその日から、様々な思い出を積み重ねてきた。
 時に笑い、時に泣き、意見を違え、しかし志を同じくし――
 今、ここにいる。
「愚かな、人間どもめ」
 肚の底を打ち震わせる、邪悪な声が響いた。
 魔の森と呼ばれるこの薄闇の中で、敵の姿は、何よりも漆黒である。
 魔王。破壊の化身。人の身で、神にも等しいこの敵を滅ぼせるのか。
 滅ぼさなければならない。
「ぼくは、いやぼくたちは、勇者だ」
 決然と言い放つボブに、三人がうなずきを返した。
「勇者なんだ!」
 雄叫びを上げ、かつて魔王を封じた英雄の剣を振りかざし、地面を蹴る。
 戦士もまた、剣を構えて駆け出した。
 神官が、天を仰ぐ。神よ、と絶叫すると、ボブたちの体に光が降り注いだ。
 呪文を紡ぐ声。魔女は、魔王の異能の力に対抗すべく、持てる全ての精神力を費やす覚悟だった。
 そして魔王は、全身に青白い光を帯びつつあった。この光が輝きを増した時、強烈な衝撃が迸る。そうなれば、ボブたちは――
「終わりだ! 人間ども!」
「闇に還れ! 魔王!」
 魔王とボブの絶叫が交錯する。
 魔王の光が、ボブたちを包み込み、そして――

 ふと目を開けると、見慣れた天井があった。
 何年も改築していない、傾きかけた木造の家。その二階に、ボブの自室がある。
 ベッドの上に、だらしない格好で寝転がったまま、ボブはつぶやいた。
「夢か」
 うすら寒い。肌掛けの毛布がベッドの下に落ちていると気付くのに、大した時間は要らなかった。
 寝相が悪いのは、幼い頃からずっとそうだ。いつも腹を出して寝ているので、慢性的に下し気味である。
 夢の中の自分――あの凛々しく雄々しい勇者とは、月とスッポンどころの差ではない。
 のろのろと半身を起こし、頭を掻いた。窓の外に目を向けると、だいぶ陽が高くなっている。
 ベッドから下り、数歩たたぬ内に、何かにつまずいて転んだ。放り出したままの鞄だった。
 床にしたたかに打ち付けた頬をさすりながら、渋い顔で立ち上がる。
「勇者かぁ」
 眠気の覚めない瞳をこすりつつ、ボブはようやくの事で、部屋の扉に手をかけた。



 グレマリア大陸を支配するグレマリア王国。その片田舎、トレンニーの村。
 近くに広がる「魔の森」では、ここ最近、「冒険者」と呼ばれる人々を目にする事ができた。
 かれら冒険者の理想はただ一つ。かつて英雄に討伐された大魔王の復活を阻止し、世界に平和をもたらし、勇者としての名誉を得る事である。
 そのため、強弱様々な魔物が棲む魔の森で、腕を磨いているのだ。
 家畜や作物に害をなす魔物の討伐は、村の人々にとっても歓迎すべき事である。
 村の宿屋では「冒険者優待キャンペーン」が実施され、頑固な職人が切り盛りする鍛冶屋でも、「今なら鉄の剣が25%OFF」と書かれた看板が立てられている。
 そんな、およそ大魔王の復活という危機感とは縁遠い、にわかな活気に満ちる人々をぼんやりと見つめて、ボブは時間を貪っていた。
 遅く起きた事を母に咎められ、おまけに井戸での水汲みを命じられたところである。
 村の中央に掘られた大きな井戸は、そのまま村人が集まる場所となり、今も何人かの主婦が立ち話をしていた。
 主婦の輪から少し離れたところで、ボブは空の桶を抱え、石段に座っている。
 その視線は、時折ボブの前を通り過ぎる、様々な出で立ちの冒険者たちに注がれていた。
「おはよう、ボブ」
 柔らかな少女の声がして振り向くと、そこには、幼馴染みのにこやかな顔があった。
「シャーロッテ」
「時間的には、こんにちは……かな。どっちでもいいけど」
「まあね」
「どうせさっきまで寝てたんでしょう。それでおば様に怒られて、とぼとぼ水汲み? 進歩ないわねえ」
「大きなお世話だよ」
 ボブは口を尖らせた。
 シャーロッテは、黙って微笑んでいれば、美しい少女とさえ形容できる。しかし彼女は、言いたい事を言い過ぎる。それも、かなり。
「井戸の水がなくなる事はないと思うけど、さっさとやっちゃいなさいよね。ほら、立って」
 シャーロッテに腕をつかまれる。ボブの胸がどきりと鳴った。
 少々きつい性格の彼女ではあるが、ボブにとっては幼馴染みであり、大事な友人であり、そして、それ以上の存在である。 向こうの気持ちは、聞いた事がない。もしも望む答えが返ってこなかった場合、何を言われるかを想像すると、こわくて聞けない。
「それにしても、冒険者の人が増えたわね、最近」
 ボブが渋々と立ち上がったところで、また数人の冒険者が通り掛かった。やや声を小さくして、シャーロッテがつぶやく。 毛嫌いしている、という声音ではない。むしろ彼女の声には、はっきりと憧れが含まれていた。
「危険を顧みず戦う男。格好いいわよね」
 通り過ぎていく冒険者の一団の中に、無骨な鉄鎧を着込んだ男がいた。歴戦といった雰囲気で、おそらくは一団の筆頭格なのだろう。
「ぼくはかれらを、噂に振り回されているだけの可哀想な人種だと思うけどね」
 そう言い返したのは、ボブではなかった。
 気が付けば、分厚い書物に目を落としたままの少年が一人、ボブたちの側にいる。
 少年は音を立てて本を閉じ、いかにも理知的な顔を二人に向けた。
「ぼくらが十歳の頃にも、同じような事があったじゃないか。結局、何事もなく『冒険ブーム』は過ぎていったんだ」
「トム、挨拶もなしにいきなり雰囲気をぶち壊しにしないでくれる?」
 シャーロッテが、少年――トムを睨み付ける。ボブのもう一人の幼馴染みであり、ボブとは異なり、頭もよくて口も達者だ。
 どうして冴えない自分と友人の関係を続けているのか、ボブは理解に苦しむ事がある。それは、シャーロッテについても同じなのだが。
「君が誰にどんな憧れを持とうと勝手だけどね。ああそういえば、以前の『冒険者ブーム』の時、将来は勇者のお嫁さんになるとか、シャーロッテは馬鹿な事を言ってたんだっけ。なあボブ、覚えてるよな?」
「そんな事もあったっけ」
 当時、それならぼくは勇者になる! と発言したのを、シャーロッテに笑い飛ばされた事は、ボブの心に些細な傷を付けた。しかしあの頃から、シャーロッテに対する気持ちは変わらない。
「馬鹿な事とは何よ。冒険は男のロマン、そのロマンを支えるのが女のつとめなのよ? 男は大海に漕ぎ出す船。そして女は帰りを待つ港なのよ」
「アデラ先生が今の言葉を聞いたらひっくり返るだろうね。またぞろ、そんな言葉をどこで覚えたんだい」
「コリンのお母さんがそう言ってた」
「またあの人か。海賊と付き合ってた事があるとか、オーガー百匹斬りの猛者と恋に落ちたとか。飲んだくれのダンカンさんと結婚した事が全てを物語ってるじゃないか」
「トムは本当に女心ってものを理解しないのね。それにいつも大人ぶって。同い年とは思いたくないわ」
「その点ではぼくも同意見だよ、シャーロッテ」
 にこやかに冷たい視線をぶつけ合うトムとシャーロッテを余所に、ボブは溜息を吐いた。
 色だとすれば非常に濃い二人に対し、自分は何と薄い事か。言い合いながらも結局は仲の良い二人をどぎまぎしながら見つめつつ、いつも空気のように、側にいるだけ。
 ボブはまた、近くを通った冒険者たちに、何となく目を向けた。
 陽光にきらめく鎧。背負われている大きな剣。魔法の使い手であろう、若草色のチュニックに身を包んだ美女など、全てがボブの胸を高鳴らせる。
 今朝の夢。あれが正夢だったとしたら、どんなに――
 猛々しい自分の姿を思い描く。最近では、暇さえあればボブは空想に浸っていた。だからあんな夢を見たのだろう。
「おいボブ」
「うん」
「聞いてるのか?」
「うん?」
「ボブ、あなた冒険者になりたいなあとか、そんな事を思ってるの?」
「うん」
 ボブの生返事に、トムとシャーロッテは再び顔を見合わせた。
 きょとんとした二人の表情が、やがて、吹き出すのを必死にこらえるために歪んでいく。
「……なんだよ、二人とも、何がそんなにおかしいのさ」
「いや、いや、おかしくない。決しておかしくないよボブ。夢を持つのはいい事さ。勉強も運動も人並みの君が、そう、大きな夢を持つ事はいい事だ」
「そうね、わたしもそう思うわ。多分ボブには、いや絶対に無理かなと思うけど、全力で応援だけはするから」
 明らかに小馬鹿にされて、ボブはまた口を尖らせた。
 そんな事、分かっている。自分がありきたりの、平凡な少年であり、剣や魔法を操る冒険者とは縁もゆかりもない事など。
 でも、と一方で思う。
 誰しも産まれた頃から冒険者だったわけではないのだ。貧相な頭脳、貧相な肉体を磨きに磨いて、今があるのかもしれない。ぼくだって、いつかは。
 しかし、それを口に出す事はやめた。輪をかけてからかわれるのは、目に見えている。
「まあ、とにかくだ」
 いくぶんの笑みを顔に残したまま、トムが口を開いた。
「ぼくらは十六歳で、隣町のベケットに通う学生だ。差し当たって夢や希望を抱くとすれば、明日提出予定の宿題をどうやって片付けるか、だね。折角の休みを、宿題のために費やすのは馬鹿馬鹿しいだろ?」
「わたしは歴史は得意だから、分からなければ教えてあげるけど」
「級長のぼくに言うセリフかい? ぼくはボブの出来を心配してるんだよ」
「わたしだって、トムには言ってないわよ」
「いいよ。一人でやる」
 むっとした表情のまま、ボブは歩き出した。歴史だけでなく、勉強についてはほとんど二人の幼馴染みの世話になっている。しかし今日ばかりは、これ以上、二人と顔を合わせる気分にはならない。
 やけっぱちに水を汲み、よたよたと歩き去るボブに、トムとシャーロッテはそろって肩をすくめた。



 家に戻ると、広くない庭で、母が洗濯物を干していた。
 ずいぶん時間がかかったわねえ、と嫌味を言われる。水汲みくらいさっさと……というつぶやきに耳を塞ぎ、ボブは足早に土間へ向かった。
 母の小言には慣れているが、沈んだ気分の今、ちくりと心を刺されたようでもある。
 土間の台所には、サンドイッチが置いてあった。昼食用だろうか。先に手を付けようとも思ったが、食欲は出なかった。
 台所の脇に置いてある瓶の蓋を開け、井戸の水を流し込む。脳裏に広がる薄暗い靄も、一緒に瓶の中に閉じ込めてしまいたかった。
「ボブ、ちょっと」
 自室に戻ろうしたところで、母に呼び止められた。宿題を理由に逃げようとも思った。しかしそれでは、逆に家を出る事ができなくなる。
 仏頂面のまま庭を覗くと、母はまだ洗濯物との格闘を続けていた。
「何?」
「ルイスおじいさんに届け物。今日、うちが当番なのよ」
「……あのおじいさんさ、案内人みたいな事、やめないのかな」
「やめないでしょ。生き甲斐みたいなもんなのよ」
「村に来る人たちに『ここはトレンニー村です』なんて言う生き甲斐があるの? 最近じゃ学校帰りのぼくたちにまで、同じセリフを言う始末だよ」
「それだけ村に誇りを持ってるんでしょ。それに、案内人なんて要りませんよ、なんて言おうもんなら怒り狂うんだから」
「ようこそトレンニーへ、とか書いた高札でも立てときゃいいのに」
「一回やったわよ。そしたら嬉しそうに立て札を引っこ抜いて、後生大事に担いでたわ」
「深刻だね。色んな意味で」
 朝から晩まで村の入口に立ち尽くす老人を放置するわけにもいかず、村内会で取り決めたのが、持ち回りで昼食を届けるという案だった。
 旅人が村を訪れ、最初に発見したのが老人の死体とあっては、死の村トレンニー、などという噂が広まりかねない。
 名物じいさんが一人くらい居た方が、村のアクセントになるだろうと、いかにも投げやりな理由で皆が納得せざるを得なかった。
「台所にサンドイッチがあるから、それをバスケットにでも入れて、持って行ってちょうだい」
 濡れたシーツを広げながら、母が顎をしゃくる。ああ、あれがそうだったのかと、ボブは安堵した。食べてしまっていたら、卑しい子だねあんたは、などと言われたに決まっている。
 一方で、どう見てもボブの分が用意されていない事に、複雑な思いを抱かずにはいられなかった。
「……ぼくもお腹が空いてるんだけど」
「届け物が終わったらね」
 母も食べていないのだろう。つっけんどんで甘える余地のない母だが、息子を蔑ろにするような鬼ではない。
 分かったよ、と力なく声を出し、土間へ向かおうとして――ボブは足を止めた。
 こんな事、母に質問する事自体がどうかしている。
 でも、幼馴染みの二人には、ついさっき笑われたばかりだ。
「あのさ」
「何よ」
「大魔王って、ほんとに復活するのかな」
 母が手を止めた。元々が丸い目を更に丸くして、ボブを見ている。
 その表情からは、母が今、考えている事を読み取る事ができた。

 手塩にかけて育てた息子が、ついに、疑問を抱いてしまった。それは母にとって、想像したくない出来事だった。話さなければならない。全てを。この一家に伝わる、魔王との戦いの物語を――

 というような類のものではなく、そんな話を信じているの? と、息子に呆れた様子だった。
「あんた馬鹿じゃないの」
「いや、本気でそんな事、考えてないよ? ちっとも考えてないよ?」
「だいたいねえ、ちょっと魔物が騒がしいくらいで、大魔王が復活だぁなんて、魔物にだって発情期くらいあるでしょ。どうせそんなもんよ」
「あー、発情期ね。魔物だって子孫を残すしね」
「偉い学者さんがそう言ってるのに、そんなはずはない、これは大魔王が復活する兆しだ、とか何とか、やいやい騒ぐ馬鹿がいるのよ。それが噂になって? 尾鰭が付いて? 一人歩きして? 村に冒険者がどっと来ちゃってるのが今」
「みんなあれだ、騙されてるんだ。うん、そうだね」
「そりゃ魔物退治してくれるのはいいけどさ、六、七年に一回はこんな感じよね。魔物退治ブームみたいな」
「トムも言ってた」
「トム君は賢いからねえ。だいたい魔物は寿命が長いから、発情期も数年に一回で、やっぱりブームと重なるらしいのよね」
「分かった、もういいよ。大魔王とか考えたぼくが悪かった。勇者なんて別にいらないよね今の世に」
「あとあれ、ベイカーさんの奥さんとも話したんだけど、冒険者が増えて一番トクをするのは鍛冶屋と宿屋じゃない? これは組合が利益を上げるために画策した陰謀で……ちょっとボブ、ボブ?」
 サンドイッチを入れたバスケットを抱え、ボブは家を後にした。
 さあ、旅立とう。
 目指すは村の入口にいるおじいさん。そして目的は、お昼ご飯を届ける事。
 お使い。どうせぼくがやるのはこの程度だ。
 全てをさとりきったボブの顔は、すがすがしいまでに無表情だった。



 村の大通りのにぎわいは、相変わらずだ。
 かき分けるほどの人混みというわけではないが、村人なり冒険者なりの間をすり抜け、村の入口へと向かう。
 入口といっても、粗末な木のゲートがあるだけで、それがなければ、どこからどこまでが村なのかは判然としない。
 のんびりと陽を浴びるゲートの下を、今も数人が出入りしており、そして、それらの人々に見境なく声を張り上げる、一人の老人がいた。
「ようこそトレンニー村へ! ここがトレンニー村です! 今あなたがくぐったゲートがトレンニー村のゲートです!」
 関わるどころか、なるべく目を合わせたくない。許されるものなら、バスケットを投げ付けて帰りたいと思いつつ、ボブは老人に歩み寄った。
「やあ若いの、トレンニー村へようこそ!」
「ぼくはこの村の人間です」
「じゃあさっさと立ち去れ。やあ冒険者の方、ここはトレンニー村!」
「できる事なら立ち去りたいんですけど、そうもいかなくて」
「まだいたのか。最近の若いもんはなっとらん。またわしを気が狂ったじじいかと笑いに来たか」
「いえ、お昼ご飯……」
「最近の若いもんは立派だ。若い頃のわしを見ているようだ。これからのトレンニー村をよろしく頼むぞ。さあ何を突っ立っている。こっちへ来い」
 手招きされた先は、涼しげな木陰だった。
 ゲートの脇に、それなりに立派な大樹があり、陽光を適度に遮っている。
 太陽が中天を通り過ぎ、初夏特有の空気のもたつきが感じられる今、そこは小さな避暑地と呼べる趣があった。
 木漏れ日の下、白木の丸テーブルを挟んで向かい合う。これがシャーロッテとだったらどんなに良かっただろう。しかしボブの目の前にいるのは、しわくちゃのシャツとズボン、サンダルといった出で立ちの、偏屈そうな小柄の老人だ。
「母からルイスさんにです。ただのサンドイッチですけど」
 ボブからバスケットを受け取ったルイスは、礼も言わずに昼食にかじりついた。顔をほころばせ、さもうまそうにサンドイッチをぱくつく姿は、どこか無邪気な少年のようでもある。それだけを見れば、ルイスは何とも無害な老人だった。
「うまい。こんなうまいものを作るお袋さんだ、大事にしなきゃならんぞ」
 ふと、ルイスに真正面から見つめられ、ボブは戸惑った。
 齢を重ねてきた、穏やかな瞳。そしてぶっきらぼうな言葉が、ボブに何かを気付かせた。
「そうですね。ぼくのためにいつもご飯を作ってくれる、ありがたい母ですから」
「メシだけじゃないし、お袋さんだけじゃあない。お前が着てる服、下着、靴、みんなお前の両親が汗水たらした結果だ。そもそもお前の体。それを授けてくれたのも両親だ」
 人は見かけではない。ボブはそう思った。
 ルイスというこの老人に接する事を、嫌なものの一つだと考えていた自分が、恥ずかしかった。
 もしかするとこの老人なら、今の自分の悩みに、一筋の光明を授けてくれるかもしれない。二言、三言の会話の中で、ボブはルイスが持つ人生の年季というものを感じていた。
「ルイスさんに、こんな事を聞くのは変かもしれないんですけど」
「じゃあやめとけ」
「いやいや、聞いて下さい。幼馴染みに笑われ、母にはリアリズムというものを叩き込まれ、ちょっと落ち込んでるとこなんです」
「他に友達とかはおらんのか。寂しい奴だな。友達はいいもんだぞ。まあわしも友達はいないがな。友達なんてくそくらえじゃ」
「すいませんやっぱり相談するのやめます」
「言いかけた事を途中でやめるとは男らしくない。そもそもわしが気になって仕方ない。話すまでお前の家の周りを徘徊してやろうか」
「本気でやめて下さい。ええと……そうですね、最近、大魔王が復活するとかで、村にも冒険者の人たちがたくさん来てるじゃないですか」
「うむ」
「それが真実であれ、嘘であれ、一過性のブームであれ、ただ傍観してるだけでいいのかな、と……自分にできる事って、何かないのかな……と」
「よくぞ言った!」
 叫ぶと共に立ち上がり、感動したように拳を握るルイス。
 周囲の人が何事かと視線を注ぐ中、なぜかボブは謝罪を繰り返しながら頭を下げていた。その様子を見て、またあのじいさんか、と言いたげな様子で、人々が去って行く。
 しかしルイスは周りの事など気にかけたそぶりはなく、ボブをも強引に立ち上がらせて、その肩を何度も叩いた。
「いいぞ、若いの。見込みがある。わしはお前が産まれた頃から、いつか大事を成し遂げると思っとった」
「本当ですか」
「そうとも。冬のあの日、教会に担ぎ込まれたお前の母は……」
「それ多分ちがう人です。いいですぼくもう帰ります」
「待て若いの。お前はすぐそうやって意見を翻そうとする。それが周りにどんな目で見られているか分かるか? 信念のない男だと、そう思われているのだ」
 ボブは、はっと息を飲んだ。
 冒険者になりたいという志を小馬鹿にされ、落ち込んだ自分。大魔王など復活しないと言われ、空想の全てを絶たれた自分。
 自分は、それに萎縮してしまっただけだ。なぜ? どうせできっこないと、自分自身がどこかで思っていたからだ。
 だから、あきらめた。そんな素振りで自分を納得させた。幼馴染みと母、たった三人の意見で、己の希望を閉ざしてしまったのだ。老人の言う通り、信念のない男と思われて仕方がない。
 しかし、老人は言った。見込みがあると。だからこそ、今、叱咤されたのだ。
「わしもな」
 ふと遠い目をしたルイスの声は、心地よい重々しさに満ちていた。威厳。そうとも言い換えられる。
「ここで村の名を叫んでいる事を、周りがどう思っているかくらいは知っている」
「はい」
「でもな、それでもええ。やりたい事をやる。がむしゃらにやる。疲れたら休む。そしてまた、続ける。その繰り返しで、少しずつでも前に進んでいければな」
 ボブの心が震えた。
 枯れ木のような老人でさえ、周囲の評価をおそれず、自らの道を歩んでいる。
 若く、体力もあり、何より将来というものがある自分が、何をおそれるというのだ。
 風が吹いた。
 頭上の若葉がそよぎ、隙間からこぼれる陽射しが瞬く。
 心の鎖を解き放った、一人の若者を祝福しているようでもあった。
「ぼくは」
「うむ」
「冒険者になろう、と……思います」
「思うだけか」
「いえ。なります。なってみせます」
「そうか。やめとけ」
「は?」
「わしもお前くらいの頃、冒険者に憧れた。この村に冒険者が何度となく訪れ、その度に希望を抱いた。だが……」
「だが?」
「剣は意外と重い。鎧なんて、ありゃ人の着るもんじゃない。魔法はちんぷんかんぷんじゃ。それに魔物と戦えば、痛いくらいでは済まんだろう」
「鍛えるなり、勉強するなり……」
「それで冒険者になった途端、先輩風を吹かした奴が魔王を退治したらどうする? 何の意味もなかろうが。だからわしは考えた。世界の救世主に、トレンニー村を案内したのはこのわしだと、胸を張ろうとな!」
「あの、ぼく、そんなせこい考え持つくらいなら、信念なんかない方がいいです」
 どうせ現実などこんなものだ。
 人目がなければルイスを師と仰いで五体投地も構わないと考えていたボブだったが、できる事なら、ルイスそのものをどこかに投棄してしまいたい。
 テーブルの上に乗ったままのバスケットをひったくるようにつかみ、ボブはルイスに背を向けた。さようならも言いたくない。
「待て貴様、わしの壮大な深慮遠謀をせこいと抜かしたな。これはこれで簡単そうに見えて結構つらい作業なのだ」
「やめりゃいいじゃないですか」
「馬鹿め。何万分の一かの確率で本物の勇者に出会える、もしかすると、胸ときめくような出会いだってあるかもしれんのだぞ。それに昼食も付いてる」
「明らかに不純な動機と食欲の方が勝ってますよね」
「ふ、不純とは何だ! そこまで言うならお前がわしのかわりをやってみろ。信念の欠片もない貴様に、わしのかわりがつとまるか?」

A「はいはい、つとまりません。それじゃ」
B「通りすがりに村の名前を言うくらい、できないわけがないでしょう」

Bルート
「通りすがりに村の名前を言うくらい、できないわけがないでしょう」
「ほう、ならば見せてもらおう。お前の覚悟とやらをな!」
 ルイスの言葉だけを聞けば、今にも決死の戦いがはじまるかのようだが、やる事は新装開店のビラ配りにも満たない。
 バスケットをまたテーブルに置き、ボブはいきりたつ老人を横目で睨んだ。
 一方で、待てよ、と思う。
 出会い。
 この言葉には、何か期待を持ってもいいのではないか。
 例えば、盗賊に追われた美少女。助けて下さい、とすがる最初の相手は――そう、ボブだ。
 あるいは、手練れの傭兵。ここがトレンニーでいいのかい、とボブにたずねる。そして、こうだ。ボウズ、いい目をしているな。俺と一緒にくるか?
 はたまた、遠い国の武装集団。トレンニーを焼き払えと命令する首領格に、ボブが敢然と立ち向かう。そんな事はさせるか――ほう、この村にも戦士がいたのか――はじまる死闘。
(意外と夢があるじゃないか)
 学校の図書館で読んだ、様々な英雄物語の導入部を思い出し、遠い目のまま笑みを浮かべるボブ。
 数人が、彼から微妙な距離を置いて通り過ぎていく事に、気付いてはいない。
「大丈夫か若いの。謝るなら今の内じゃ。いやむしろわしが謝ろうか」
「何を言っているんです。さあ、張り切って案内しましょう」
 それから、村の入口では、老人と若者の声がひっきりなしとなった。
 ある者はあからさまに迷惑そうな顔をした。あわれむような目で、ささやきあう冒険者たちもいた。トレンニーじいさんに孫ができたのかと驚く者、指をさして笑うこども。
 両親と連れ立って外出するシャーロッテは、目も合わせてくれなかった。
 釣りから戻ってきたトムは、何も言わず溜息を吐いた。
 心が折れそうになる度に、ルイスが励ます。人目など気にするな。そして、その通りだと自分を奮い立たせた。
 夕刻。
 朱に染まった空が、群青色に装いを改める頃。
 人通りの少なくなった村のゲートの側で、ボブは膝を抱えていた。
 その隣には、分かり合える仲間がいる。
 老人との、たった一日の、その場から動かない冒険だった。
「また、遊びにこい」
「はい」
 力なく立ち上がり、空のバスケットを抱える。
「わしも思ったんだが」
「はい」
「普通が一番じゃな」
「はい」
 さようならルイスさん、と弱々しい声を上げ、背を向ける。
 こんなにも帰りが遅くなった理由をどう説明しようかと考えながら、ボブは重い足を引きずるように、我が家へと向かった。

Aルート
「はいはい、つとまりません。それじゃ」
 多分に冷たさを伴う言葉を放って、ボブは歩き出した。
 背後でルイスが何かを叫んでいる。クソガキめ今に見ておれ、というふうに聞こえない事もないが、きっと異国の言語でさようならと言っているに違いない。ボブはそう無理矢理に思い込んだ。
 老人から遠ざかる事、数歩。ようこそトレンニー村へといういつもの奇声が耳に届いて、あの老人も切り替えが早いのだな、とボブは思った。
 極めて無駄な時間を浪費したボブは、空を見上げた。
 雲一つない晴天である。太陽は南に傾きつつあるが、陽射しはまだまだ強い。じっとしているだけで、額や背中にうっすらと汗が浮かぶような、そんな天気だった。
 あちこちで、村のこどもたちが元気に走り回っている。
 自分も幼い頃は、何も余計な事など考えず、シャーロッテやトムと毎日のように遊んでいた。今の自分にとっては、つまらない遊びだったように思う。小石を蹴ったり、木に登ったり、虫をつかまえたり。
 いつから、すべき事を探すようになったのだろう。
 今もそうだ。これから家に戻って何をしようかと、考えている。宿題? そんなもの、好んでやりたいなどとは思わない。それなら、読書は、外出は。どれも、その場しのぎに過ぎない。
 できる事は多々あっても、やりたい事など一つもないのだ。ルイスというあの老人とは、まるで逆だ。
 憂悶の内に足を進めたボブは、大きな井戸がある中央広場に差し掛かったところで、ふと立ち止まった。
 近くの雑貨店の陰に隠れて、広場にそっと目を向ける。
 両親と連れ立ったシャーロッテ。そして彼女と楽しそうに言葉を交わすトムがいた。トムは釣り竿を担いでいる。二人とも、要領も成績も良い。宿題などさっさと終わらせ、これから余暇を気ままに過ごすといったところだろう。
 見付からないよう、四人の姿を目で追うと、シャーロッテたちとトムは手を振って別れた。ほっと息を吐く。
 隣町へ出かけるシャーロッテの両親。釣りを楽しむシャーロッテとトム。そんな構図を頭に描いていたボブは、安堵する一方で、見下げた心配をしている自分を恥じた。
(ぼくはいやな奴だ)
 少年らしからぬ暗い表情を浮かべ、ボブは再び歩き出した。
「なんか臭いね」
「うん、臭い」
 近くを通り掛かった二人の男の子が、不意に足を止め、眉を寄せた。
 ぼくじゃないぞ、とボブは思ったが、それとなくシャツの袖に鼻を近づけてみる。この陽気だし、汗の臭いという事も考えられなくはないが、人様に迷惑をかけるほどの強烈な体臭は発していないはずだ。
「こっちかなあ」
 男の子の一人が、それまでボブが身をひそめていた雑貨屋の横、細い一本の路地に顔を向けた。と同時に、そちらから吹いてきた風が、ボブの頬を撫でる。
 鼻を突く異臭。
 食事の直後なら確実に吐き気をもよおすような、おそるべき悪臭である。
 まさか、とボブは胸中で唸った。
 数日前、村人がささやき合っていた事を思い出す。首都で異臭騒ぎ――「まだら」と呼ばれる、毒性の強い臭気を発生させた魔法使い――男女関係のもつれで自暴自棄になった末の犯行――
 国家転覆を狙った過激派による無差別攻撃か、との見方もあり、一時騒然となったらしい。
 結末としては実にくだらないものではあったが、最悪の展開に事が進まず、良かったという意見が大多数だ。
「行こう。気持ち悪くなってきた」
「うん」
 男の子たちが、あからさまに嫌な顔をして駆け去っていく。他人が見れば、男の子たちがボブから逃げ出したかのようだ。慌てて周囲を見回し、視線がこちらに注がれていない事を確認する。
 何度目かの溜息を吐いた後、再び臭ってきた悪臭に、ボブは顔をしかめた。
 立ち止まっているだけで、めまいや頭痛をはじめとした様々な症状があらわれそうだ。一刻も早く、ここを立ち去るべきだろう。
 しかし。
 もしも、である。
 異臭の正体が、首都の知識人たちが懸念していたようなものだったら。
 ごくりと唾を呑んだ。
 もちろん、放置しておくわけにはいかない。かといって、自分に何ができるというわけでもない。
 やはり帰ろう。気付かなかった事にして、帰ろう。
(冒険者になりたいなあとか、そんな事を思ってるの?)
 シャーロッテの声が、頭をよぎった。
 奥歯を噛んだ。
 振り返り、路地の暗がりに向かって、一歩を踏み出した。
 できる事はある、やりたい事はない。そう思っていた先程までの自分。今は違う。できそうもない事を、やろうとしている。
 こわいもの見たさだとか、そんな単純な動機ではない。
 勇者を夢に見た。冒険者になりたいという漠然とした希望もある。笑われたり、呆れられたりしたものの、見返してやりたいという気持ちはあるのだ。
 それが、ただの悪臭に尻尾を巻いて逃げ出したとあっては、申し開きのしようもない。せいぜい自分はその程度なのだと、ボブ自身が、夢や希望に終止符を打つ事になる。
 おずおずと、奥へ進む。その度に臭いは強さを増してくるが、二の腕で鼻と口を覆い、何とかこらえた。
 大量の生ゴミが投棄されているとか、どうせそんな事だろう。こんな片田舎で毒の煙を発生させるような、重大犯罪が起こるはずもない。
 でも、もしもそうだったら? ボブの体中に、暑さとは無関係の汗が噴き出ていた。
 その時は逃げよう。自警団の人に連絡すればいい。早期発見という事そのものが、功労なのだ。そのためには、慎重に、注意深く、体を低く。
 危険な洞穴に単身で挑む戦士のように、ボブは前進した。籐で編んだバスケットを盾がわりに、目前へと視線を懲らす。
 犯人がいて、弱そうなら、殴るなり蹴るなりしてみよう。もしかすると、勝てるかもしれない。 村の英雄ボブの誕生だ。トムはきっと驚くだろう。そしてシャーロッテは、素敵と叫んで抱き付いて……
 英雄。何と魅惑的な響きだろう。
 平和な村の昼下がり、商店の路地裏で命を賭している少年の脳裏には、祝福されている自分の姿があった。
(君のような若者を求めていた。是非、私の冒険団に入りたまえ)
(ボブにばかりいい格好はさせてられない。ぼくもいくよ、親友……いや、戦友としてね)
(魔王を倒して戻ってきてね。わたし……ずっと待ってるから)
 様々な妄想が膨らむ。もはやボブには、悪臭など敵ではなかった。
 あれもいい、これもいい、とにやにやしながら路地の角を曲がると、突き当たりの袋小路に、黒い何かがうずくまっていた。
「誰だ」
 黒い小山がわずかに動き、そして、怠惰な声が発せられる。
 使い古しの毛布の山かと思っていたボブは、間抜けな悲鳴を上げて後ずさった。
「あ、あの、そんなとこで何してるんで、うわくっさ」
 空想から現実に引き戻されたボブは、周囲に漂う臭気に今更ながら気が付き、あわてて鼻と口を覆った。
「小僧、貴様に分かるか……これは魔界の障気だ……」
「魔界の……?」
 顔をそむけ、ひりひりする目をどうにかして動かして、正体を見極める。
 不潔と不衛生が黒に染まっている、としか形容する術がなかった。
 色つやを失い、複雑に絡み合った黒い長髪。頭頂から毛先にかけて、ところどころに浮いている白いものは、フケかシラミかどちらかだろう。
 顔は垢で真っ黒に汚れており、汚らしい髭に覆われた口元から、時折、黄色い歯が見え隠れしている。
 服のかわりに巻き付けているのであろう黒い布は、何年も使い古した雑巾の方がまだマシ、と言える程のボロ布だった。
 布の端から出ている手もまたどす黒く、爪も伸び放題だ。
 どのような劣悪な人生を送ればこんな姿になるのか、ボブは想像できなかった。
「乞食の方ですか?」
「丁寧なのか失礼なのかどっちだ小僧。ふん、まあいい……我こそは」
「どうせ浮浪生活の更生施設から逃げてきたんでしょう。言っときますけど、それ犯罪ですからね」
「いいから聞け! いいか……我こそは魔王の使徒にして」
「ああもうくっさ。だめだこれ気持ち悪い。ちょっとぼく通報してきますから」
「いや待て! せめて名乗りくらい聞いてくれ! 一晩かけて考えた苦心の出来なのだ!」
「分かりましたよ、それ聞いたら行きますから、おえっ、くさっ」
 嫌々ながらもボブがそう言うと、男は不敵に笑った。そして、ゆっくりと立ち上がる。
 その姿に、ボブが恐怖や戦慄を感じ――るような事はなかった。何だかつらそうだなあ、ぐらいのものである。
 暗雲を切り裂く雷光が迸り、豪雨に晒される汚泥の中からこの男があらわれたというなら、さすがに相応の雰囲気というものがあるだろう。
 しかし、快晴の中、店舗の裏手でのたうっている浮浪者としか見えないのが現状だ。
「ふ……」
 無難に立ち上がった事に満足したのか、男は笑った。
 全身を覆っているとばかり思っていた黒いボロ布は、肩から膝にかけての長さしかなく、汚らしい素足が丸見えとなっている。
 垢のたまった爪先が目に入り、ボブは呻いた。見てはいけないものを見てしまった。思い出す度に、吐き気に悩まされる事は間違いない。
「よく聞け。我こそは、魔王の使徒にして――」
 男が天を仰ぎ、両手を掲げる。
「万物に緩やかな死を恵む腐敗の主、ネクローザである!」
 ネクローザと名乗った男の頭上を、小鳥が横切った。
 どこからか、軽やかなさえずりも聞こえる。
 あの井戸がある広場で何かおかしな事があったのか、人々の笑い声もしていた。
「もういいですか?」
「ほう……小僧、できるな」
「何がですか。それじゃ今から自警団の人を連れてくるので」
「自警団など呼ぶ必要はない……小僧、貴様は既に、我が魔力に魅入られたのだ……」
 薄ら笑いを浮かべ、男がボブにゆっくりと歩み寄る。

Aしかしボブは男を無視して踵を返した。
Bそういえば、あれほどの臭いが何ともなくなっている。ボブは不思議な何かを感じていた。

Bルート
 そういえば、あれほどの臭いが何ともなくなっている。ボブは不思議な何かを感じていた。
 なるほど腐敗の主か。そういう特別な存在であるのなら、清潔な出で立ちというわけにはいかないだろう。
 いや、そんな事を考えている場合ではない。
 魔王の使徒? 悪魔? まさか、そんなものが現実として目の前にいるはずが。
「騙されませんよ」
「我が真に乞食や浮浪者の類なら、貴様ではない誰かに既に目撃され、自警団とやらに連行されているであろうな」
「ま、まあ、それは……」
「多くの冒険者が訪れるこの村で、我は待っていた。我の結界の中を進む者を。貴様のような小僧であったのは、意外だったが」
 結界。この悪臭が、人を寄せ付けない結界だったというのか。
 確かに、自分より好奇心の強そうなこどもたちが、顔をしかめて立ち去った。
 そもそも、この雑貨店の人は? 妙な臭いが漂っているとなれば、商売にならない。なのになぜ、悪臭の元凶、つまりこの男の存在に気付かないでいるのか。
「こんな昼間に、悪魔なんて……」
「魔の領域に棲むものが、等しく夜を好むとは思わない事だ。昼夜など、些細な問題ですらないのだ……」
 一歩ずつ、ネクローザが近付いてくる。
 おかしい。近付けば近付くほど、臭いが強くなっていくはずなのに、ボブの鼻がねじれ曲がったり、胃液が逆流しそうになる事はない。
 ボブの体から、次第に力が抜けつつあった。
 バスケットが、地面に落ちる。
 ネクローザがそれをちらりと見ると、バスケットは異様な音を立てて、溶けていった。
「まさか――」
「こんなものではないぞ、我が力は」
「ぼ、ぼくをどうしようと」
「お前には力がない。知恵もな。だが、その両方を渇望している。その飢えた心こそが、我の結界の中を進む力となった」
「ぼくは」
 二の句が継げなかった。
 ネクローザの汚らしい手が、ボブの喉を絞めていた。
 垢だらけの爪が肉に食い込む。
 ボブの首から、驚くほどの黒い血が流れていた。
「これか貴様の心そのものだ」
「う……そだ……」
「飢えた心すらも失って、更に乾くがいい。そして、なお渇望するのだ。力を、知恵を、欲望を果たす術を」
 意識が薄れていく中、ボブは、これまでの短い人生を振り返っていた。
 可愛らしいシャーロッテ。
 いつも的確な助言をくれた、ひねくれもののトム。
 愛してくれているんだよね、母さん。
 父さんはどうしていつも家にいないの?
 みんな――みんな――
 ぼくのものにしてしまいたい。
 大切な友達。家族。みんなに振り向いてほしい。名前を呼んでほしい。触れてほしい。
 ネクローザの力が、強まる。
 更に深く爪を突き立てられ、出血は流血となり、その勢いを増していった。
 黒い、どこまでも黒い血。止まる事はない。
 鼻からも耳からも、だらしなく舌を垂らした口からも、そして白目を剥いた二つの瞳からも、おびただしい黒い血が流れていた。
「与えてやろう」
 ネクローザが、ボブの耳にそっとささやいた。
 ボブの体を流れ落ちるだけだった黒い血が、意志を得たかのように、ボブの肌にまとわりつく。
 それはそのまま、布に落とした黒い絵の具のように、ボブの全身に広がっていった。
 染まる。何もかも。心からあふれ出たものが、また心を埋めていく。飢えが飢えを満たしていく。
 欲しい。欲しい。欲しい。その想いだけが募った。何が欲しいのか、その答えさえも欲しい。
「しもべよ」
 再びささやいて、ネクローザが手の力を緩める。
 音を立てて地面に崩れ落ちたボブは、あたかも地表から浮き出た影のようだった。
 体を震わせながら、ネクローザを――己の主を見上げる。
 見開かれた二つの眼は、闇に墜ちた肉体にあって、唯一、淀んだ赤に染まっていた。

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最終更新:2007年07月26日 18:09