手塩にかけて育てた息子が、ついに、疑問を抱いてしまった。それは母にとって、想像したくない出来事だった。話さなければならない。全てを。この一家に伝わる、魔王との戦いの物語を――
Aルート
「はいはい、つとまりません。それじゃ」
多分に冷たさを伴う言葉を放って、ボブは歩き出した。
背後でルイスが何かを叫んでいる。クソガキめ今に見ておれ、というふうに聞こえない事もないが、きっと異国の言語でさようならと言っているに違いない。ボブはそう無理矢理に思い込んだ。
老人から遠ざかる事、数歩。ようこそトレンニー村へといういつもの奇声が耳に届いて、あの老人も切り替えが早いのだな、とボブは思った。
極めて無駄な時間を浪費したボブは、空を見上げた。
雲一つない晴天である。太陽は南に傾きつつあるが、陽射しはまだまだ強い。じっとしているだけで、額や背中にうっすらと汗が浮かぶような、そんな天気だった。
あちこちで、村のこどもたちが元気に走り回っている。
自分も幼い頃は、何も余計な事など考えず、シャーロッテやトムと毎日のように遊んでいた。今の自分にとっては、つまらない遊びだったように思う。小石を蹴ったり、木に登ったり、虫をつかまえたり。
いつから、すべき事を探すようになったのだろう。
今もそうだ。これから家に戻って何をしようかと、考えている。宿題? そんなもの、好んでやりたいなどとは思わない。それなら、読書は、外出は。どれも、その場しのぎに過ぎない。
できる事は多々あっても、やりたい事など一つもないのだ。ルイスというあの老人とは、まるで逆だ。
憂悶の内に足を進めたボブは、大きな井戸がある中央広場に差し掛かったところで、ふと立ち止まった。
近くの雑貨店の陰に隠れて、広場にそっと目を向ける。
両親と連れ立ったシャーロッテ。そして彼女と楽しそうに言葉を交わすトムがいた。トムは釣り竿を担いでいる。二人とも、要領も成績も良い。宿題などさっさと終わらせ、これから余暇を気ままに過ごすといったところだろう。
見付からないよう、四人の姿を目で追うと、シャーロッテたちとトムは手を振って別れた。ほっと息を吐く。
隣町へ出かけるシャーロッテの両親。釣りを楽しむシャーロッテとトム。そんな構図を頭に描いていたボブは、安堵する一方で、見下げた心配をしている自分を恥じた。
(ぼくはいやな奴だ)
少年らしからぬ暗い表情を浮かべ、ボブは再び歩き出した。
「なんか臭いね」
「うん、臭い」
近くを通り掛かった二人の男の子が、不意に足を止め、眉を寄せた。
ぼくじゃないぞ、とボブは思ったが、それとなくシャツの袖に鼻を近づけてみる。この陽気だし、汗の臭いという事も考えられなくはないが、人様に迷惑をかけるほどの強烈な体臭は発していないはずだ。
「こっちかなあ」
男の子の一人が、それまでボブが身をひそめていた雑貨屋の横、細い一本の路地に顔を向けた。と同時に、そちらから吹いてきた風が、ボブの頬を撫でる。
鼻を突く異臭。
食事の直後なら確実に吐き気をもよおすような、おそるべき悪臭である。
まさか、とボブは胸中で唸った。
数日前、村人がささやき合っていた事を思い出す。首都で異臭騒ぎ――「まだら」と呼ばれる、毒性の強い臭気を発生させた魔法使い――男女関係のもつれで自暴自棄になった末の犯行――
国家転覆を狙った過激派による無差別攻撃か、との見方もあり、一時騒然となったらしい。
結末としては実にくだらないものではあったが、最悪の展開に事が進まず、良かったという意見が大多数だ。
「行こう。気持ち悪くなってきた」
「うん」
男の子たちが、あからさまに嫌な顔をして駆け去っていく。他人が見れば、男の子たちがボブから逃げ出したかのようだ。慌てて周囲を見回し、視線がこちらに注がれていない事を確認する。
何度目かの溜息を吐いた後、再び臭ってきた悪臭に、ボブは顔をしかめた。
立ち止まっているだけで、めまいや頭痛をはじめとした様々な症状があらわれそうだ。一刻も早く、ここを立ち去るべきだろう。
しかし。
もしも、である。
異臭の正体が、首都の知識人たちが懸念していたようなものだったら。
ごくりと唾を呑んだ。
もちろん、放置しておくわけにはいかない。かといって、自分に何ができるというわけでもない。
やはり帰ろう。気付かなかった事にして、帰ろう。
(冒険者になりたいなあとか、そんな事を思ってるの?)
シャーロッテの声が、頭をよぎった。
奥歯を噛んだ。
振り返り、路地の暗がりに向かって、一歩を踏み出した。
できる事はある、やりたい事はない。そう思っていた先程までの自分。今は違う。できそうもない事を、やろうとしている。
こわいもの見たさだとか、そんな単純な動機ではない。
勇者を夢に見た。冒険者になりたいという漠然とした希望もある。笑われたり、呆れられたりしたものの、見返してやりたいという気持ちはあるのだ。
それが、ただの悪臭に尻尾を巻いて逃げ出したとあっては、申し開きのしようもない。せいぜい自分はその程度なのだと、ボブ自身が、夢や希望に終止符を打つ事になる。
おずおずと、奥へ進む。その度に臭いは強さを増してくるが、二の腕で鼻と口を覆い、何とかこらえた。
大量の生ゴミが投棄されているとか、どうせそんな事だろう。こんな片田舎で毒の煙を発生させるような、重大犯罪が起こるはずもない。
でも、もしもそうだったら? ボブの体中に、暑さとは無関係の汗が噴き出ていた。
その時は逃げよう。自警団の人に連絡すればいい。早期発見という事そのものが、功労なのだ。そのためには、慎重に、注意深く、体を低く。
危険な洞穴に単身で挑む戦士のように、ボブは前進した。籐で編んだバスケットを盾がわりに、目前へと視線を懲らす。
犯人がいて、弱そうなら、殴るなり蹴るなりしてみよう。もしかすると、勝てるかもしれない。 村の英雄ボブの誕生だ。トムはきっと驚くだろう。そしてシャーロッテは、素敵と叫んで抱き付いて……
英雄。何と魅惑的な響きだろう。
平和な村の昼下がり、商店の路地裏で命を賭している少年の脳裏には、祝福されている自分の姿があった。
(君のような若者を求めていた。是非、私の冒険団に入りたまえ)
(ボブにばかりいい格好はさせてられない。ぼくもいくよ、親友……いや、戦友としてね)
(魔王を倒して戻ってきてね。わたし……ずっと待ってるから)
様々な妄想が膨らむ。もはやボブには、悪臭など敵ではなかった。
あれもいい、これもいい、とにやにやしながら路地の角を曲がると、突き当たりの袋小路に、黒い何かがうずくまっていた。
「誰だ」
黒い小山がわずかに動き、そして、怠惰な声が発せられる。
使い古しの毛布の山かと思っていたボブは、間抜けな悲鳴を上げて後ずさった。
「あ、あの、そんなとこで何してるんで、うわくっさ」
空想から現実に引き戻されたボブは、周囲に漂う臭気に今更ながら気が付き、あわてて鼻と口を覆った。
「小僧、貴様に分かるか……これは魔界の障気だ……」
「魔界の……?」
顔をそむけ、ひりひりする目をどうにかして動かして、正体を見極める。
不潔と不衛生が黒に染まっている、としか形容する術がなかった。
色つやを失い、複雑に絡み合った黒い長髪。頭頂から毛先にかけて、ところどころに浮いている白いものは、フケかシラミかどちらかだろう。
顔は垢で真っ黒に汚れており、汚らしい髭に覆われた口元から、時折、黄色い歯が見え隠れしている。
服のかわりに巻き付けているのであろう黒い布は、何年も使い古した雑巾の方がまだマシ、と言える程のボロ布だった。
布の端から出ている手もまたどす黒く、爪も伸び放題だ。
どのような劣悪な人生を送ればこんな姿になるのか、ボブは想像できなかった。
「乞食の方ですか?」
「丁寧なのか失礼なのかどっちだ小僧。ふん、まあいい……我こそは」
「どうせ浮浪生活の更生施設から逃げてきたんでしょう。言っときますけど、それ犯罪ですからね」
「いいから聞け! いいか……我こそは魔王の使徒にして」
「ああもうくっさ。だめだこれ気持ち悪い。ちょっとぼく通報してきますから」
「いや待て! せめて名乗りくらい聞いてくれ! 一晩かけて考えた苦心の出来なのだ!」
「分かりましたよ、それ聞いたら行きますから、おえっ、くさっ」
嫌々ながらもボブがそう言うと、男は不敵に笑った。そして、ゆっくりと立ち上がる。
その姿に、ボブが恐怖や戦慄を感じ――るような事はなかった。何だかつらそうだなあ、ぐらいのものである。
暗雲を切り裂く雷光が迸り、豪雨に晒される汚泥の中からこの男があらわれたというなら、さすがに相応の雰囲気というものがあるだろう。
しかし、快晴の中、店舗の裏手でのたうっている浮浪者としか見えないのが現状だ。
「ふ……」
無難に立ち上がった事に満足したのか、男は笑った。
全身を覆っているとばかり思っていた黒いボロ布は、肩から膝にかけての長さしかなく、汚らしい素足が丸見えとなっている。
垢のたまった爪先が目に入り、ボブは呻いた。見てはいけないものを見てしまった。思い出す度に、吐き気に悩まされる事は間違いない。
「よく聞け。我こそは、魔王の使徒にして――」
男が天を仰ぎ、両手を掲げる。
「万物に緩やかな死を恵む腐敗の主、
ネクローザである!」
ネクローザと名乗った男の頭上を、小鳥が横切った。
どこからか、軽やかなさえずりも聞こえる。
あの井戸がある広場で何かおかしな事があったのか、人々の笑い声もしていた。
「もういいですか?」
「ほう……小僧、できるな」
「何がですか。それじゃ今から自警団の人を連れてくるので」
「自警団など呼ぶ必要はない……小僧、貴様は既に、我が魔力に魅入られたのだ……」
薄ら笑いを浮かべ、男がボブにゆっくりと歩み寄る。