家に戻ると、広くない庭で、母が洗濯物を干していた。
ずいぶん時間がかかったわねえ、と嫌味を言われる。水汲みくらいさっさと……というつぶやきに耳を塞ぎ、ボブは足早に土間へ向かった。
母の小言には慣れているが、沈んだ気分の今、ちくりと心を刺されたようでもある。
土間の台所には、サンドイッチが置いてあった。昼食用だろうか。先に手を付けようとも思ったが、食欲は出なかった。
台所の脇に置いてある瓶の蓋を開け、井戸の水を流し込む。脳裏に広がる薄暗い靄も、一緒に瓶の中に閉じ込めてしまいたかった。
「ボブ、ちょっと」
自室に戻ろうしたところで、母に呼び止められた。宿題を理由に逃げようとも思った。しかしそれでは、逆に家を出る事ができなくなる。
仏頂面のまま庭を覗くと、母はまだ洗濯物との格闘を続けていた。
「何?」
「ルイスおじいさんに届け物。今日、うちが当番なのよ」
「……あのおじいさんさ、案内人みたいな事、やめないのかな」
「やめないでしょ。生き甲斐みたいなもんなのよ」
「村に来る人たちに『ここはトレンニー村です』なんて言う生き甲斐があるの? 最近じゃ学校帰りのぼくたちにまで、同じセリフを言う始末だよ」
「それだけ村に誇りを持ってるんでしょ。それに、案内人なんて要りませんよ、なんて言おうもんなら怒り狂うんだから」
「ようこそトレンニーへ、とか書いた高札でも立てときゃいいのに」
「一回やったわよ。そしたら嬉しそうに立て札を引っこ抜いて、後生大事に担いでたわ」
「深刻だね。色んな意味で」
朝から晩まで村の入口に立ち尽くす老人を放置するわけにもいかず、村内会で取り決めたのが、持ち回りで昼食を届けるという案だった。
旅人が村を訪れ、最初に発見したのが老人の死体とあっては、死の村トレンニー、などという噂が広まりかねない。
名物じいさんが一人くらい居た方が、村のアクセントになるだろうと、いかにも投げやりな理由で皆が納得せざるを得なかった。
「台所にサンドイッチがあるから、それをバスケットにでも入れて、持って行ってちょうだい」
濡れたシーツを広げながら、母が顎をしゃくる。ああ、あれがそうだったのかと、ボブは安堵した。食べてしまっていたら、卑しい子だねあんたは、などと言われたに決まっている。
一方で、どう見てもボブの分が用意されていない事に、複雑な思いを抱かずにはいられなかった。
「……ぼくもお腹が空いてるんだけど」
「届け物が終わったらね」
母も食べていないのだろう。つっけんどんで甘える余地のない母だが、息子を蔑ろにするような鬼ではない。
分かったよ、と力なく声を出し、土間へ向かおうとして――ボブは足を止めた。
こんな事、母に質問する事自体がどうかしている。
でも、幼馴染みの二人には、ついさっき笑われたばかりだ。
「あのさ」
「何よ」
「大魔王って、ほんとに復活するのかな」
母が手を止めた。元々が丸い目を更に丸くして、ボブを見ている。
その表情からは、母が今、考えている事を読み取る事ができた。
手塩にかけて育てた息子が、ついに、疑問を抱いてしまった。それは母にとって、想像したくない出来事だった。話さなければならない。全てを。この一家に伝わる、魔王との戦いの物語を――
というような類のものではなく、そんな話を信じているの? と、息子に呆れた様子だった。
「あんた馬鹿じゃないの」
「いや、本気でそんな事、考えてないよ? ちっとも考えてないよ?」
「だいたいねえ、ちょっと魔物が騒がしいくらいで、大魔王が復活だぁなんて、魔物にだって発情期くらいあるでしょ。どうせそんなもんよ」
「あー、発情期ね。魔物だって子孫を残すしね」
「偉い学者さんがそう言ってるのに、そんなはずはない、これは大魔王が復活する兆しだ、とか何とか、やいやい騒ぐ馬鹿がいるのよ。それが噂になって? 尾鰭が付いて? 一人歩きして? 村に冒険者がどっと来ちゃってるのが今」
「みんなあれだ、騙されてるんだ。うん、そうだね」
「そりゃ魔物退治してくれるのはいいけどさ、六、七年に一回はこんな感じよね。魔物退治ブームみたいな」
「トムも言ってた」
「トム君は賢いからねえ。だいたい魔物は寿命が長いから、発情期も数年に一回で、やっぱりブームと重なるらしいのよね」
「分かった、もういいよ。大魔王とか考えたぼくが悪かった。勇者なんて別にいらないよね今の世に」
「あとあれ、ベイカーさんの奥さんとも話したんだけど、冒険者が増えて一番トクをするのは鍛冶屋と宿屋じゃない? これは組合が利益を上げるために画策した陰謀で……ちょっとボブ、ボブ?」
サンドイッチを入れたバスケットを抱え、ボブは家を後にした。
さあ、旅立とう。
目指すは村の入口にいるおじいさん。そして目的は、お昼ご飯を届ける事。
お使い。どうせぼくがやるのはこの程度だ。
全てをさとりきったボブの顔は、すがすがしいまでに無表情だった。
村の大通りのにぎわいは、相変わらずだ。
かき分けるほどの人混みというわけではないが、村人なり冒険者なりの間をすり抜け、村の入口へと向かう。
入口といっても、粗末な木のゲートがあるだけで、それがなければ、どこからどこまでが村なのかは判然としない。
のんびりと陽を浴びるゲートの下を、今も数人が出入りしており、そして、それらの人々に見境なく声を張り上げる、一人の老人がいた。
「ようこそトレンニー村へ! ここがトレンニー村です! 今あなたがくぐったゲートがトレンニー村のゲートです!」
関わるどころか、なるべく目を合わせたくない。許されるものなら、バスケットを投げ付けて帰りたいと思いつつ、ボブは老人に歩み寄った。
「やあ若いの、トレンニー村へようこそ!」
「ぼくはこの村の人間です」
「じゃあさっさと立ち去れ。やあ冒険者の方、ここはトレンニー村!」
「できる事なら立ち去りたいんですけど、そうもいかなくて」
「まだいたのか。最近の若いもんはなっとらん。またわしを気が狂ったじじいかと笑いに来たか」
「いえ、お昼ご飯……」
「最近の若いもんは立派だ。若い頃のわしを見ているようだ。これからのトレンニー村をよろしく頼むぞ。さあ何を突っ立っている。こっちへ来い」
手招きされた先は、涼しげな木陰だった。
ゲートの脇に、それなりに立派な大樹があり、陽光を適度に遮っている。
太陽が中天を通り過ぎ、初夏特有の空気のもたつきが感じられる今、そこは小さな避暑地と呼べる趣があった。
木漏れ日の下、白木の丸テーブルを挟んで向かい合う。これがシャーロッテとだったらどんなに良かっただろう。しかしボブの目の前にいるのは、しわくちゃのシャツとズボン、サンダルといった出で立ちの、偏屈そうな小柄の老人だ。
「母からルイスさんにです。ただのサンドイッチですけど」
ボブからバスケットを受け取ったルイスは、礼も言わずに昼食にかじりついた。顔をほころばせ、さもうまそうにサンドイッチをぱくつく姿は、どこか無邪気な少年のようでもある。それだけを見れば、ルイスは何とも無害な老人だった。
「うまい。こんなうまいものを作るお袋さんだ、大事にしなきゃならんぞ」
ふと、ルイスに真正面から見つめられ、ボブは戸惑った。
齢を重ねてきた、穏やかな瞳。そしてぶっきらぼうな言葉が、ボブに何かを気付かせた。
「そうですね。ぼくのためにいつもご飯を作ってくれる、ありがたい母ですから」
「メシだけじゃないし、お袋さんだけじゃあない。お前が着てる服、下着、靴、みんなお前の両親が汗水たらした結果だ。そもそもお前の体。それを授けてくれたのも両親だ」
人は見かけではない。ボブはそう思った。
ルイスというこの老人に接する事を、嫌なものの一つだと考えていた自分が、恥ずかしかった。
もしかするとこの老人なら、今の自分の悩みに、一筋の光明を授けてくれるかもしれない。二言、三言の会話の中で、ボブはルイスが持つ人生の年季というものを感じていた。
「ルイスさんに、こんな事を聞くのは変かもしれないんですけど」
「じゃあやめとけ」
「いやいや、聞いて下さい。幼馴染みに笑われ、母にはリアリズムというものを叩き込まれ、ちょっと落ち込んでるとこなんです」
「他に友達とかはおらんのか。寂しい奴だな。友達はいいもんだぞ。まあわしも友達はいないがな。友達なんてくそくらえじゃ」
「すいませんやっぱり相談するのやめます」
「言いかけた事を途中でやめるとは男らしくない。そもそもわしが気になって仕方ない。話すまでお前の家の周りを徘徊してやろうか」
「本気でやめて下さい。ええと……そうですね、最近、大魔王が復活するとかで、村にも冒険者の人たちがたくさん来てるじゃないですか」
「うむ」
「それが真実であれ、嘘であれ、一過性のブームであれ、ただ傍観してるだけでいいのかな、と……自分にできる事って、何かないのかな……と」
「よくぞ言った!」
叫ぶと共に立ち上がり、感動したように拳を握るルイス。
周囲の人が何事かと視線を注ぐ中、なぜかボブは謝罪を繰り返しながら頭を下げていた。その様子を見て、またあのじいさんか、と言いたげな様子で、人々が去って行く。
しかしルイスは周りの事など気にかけたそぶりはなく、ボブをも強引に立ち上がらせて、その肩を何度も叩いた。
「いいぞ、若いの。見込みがある。わしはお前が産まれた頃から、いつか大事を成し遂げると思っとった」
「本当ですか」
「そうとも。冬のあの日、教会に担ぎ込まれたお前の母は……」
「それ多分ちがう人です。いいですぼくもう帰ります」
「待て若いの。お前はすぐそうやって意見を翻そうとする。それが周りにどんな目で見られているか分かるか? 信念のない男だと、そう思われているのだ」
ボブは、はっと息を飲んだ。
冒険者になりたいという志を小馬鹿にされ、落ち込んだ自分。大魔王など復活しないと言われ、空想の全てを絶たれた自分。
自分は、それに萎縮してしまっただけだ。なぜ? どうせできっこないと、自分自身がどこかで思っていたからだ。
だから、あきらめた。そんな素振りで自分を納得させた。幼馴染みと母、たった三人の意見で、己の希望を閉ざしてしまったのだ。老人の言う通り、信念のない男と思われて仕方がない。
しかし、老人は言った。見込みがあると。だからこそ、今、叱咤されたのだ。
「わしもな」
ふと遠い目をしたルイスの声は、心地よい重々しさに満ちていた。威厳。そうとも言い換えられる。
「ここで村の名を叫んでいる事を、周りがどう思っているかくらいは知っている」
「はい」
「でもな、それでもええ。やりたい事をやる。がむしゃらにやる。疲れたら休む。そしてまた、続ける。その繰り返しで、少しずつでも前に進んでいければな」
ボブの心が震えた。
枯れ木のような老人でさえ、周囲の評価をおそれず、自らの道を歩んでいる。
若く、体力もあり、何より将来というものがある自分が、何をおそれるというのだ。
風が吹いた。
頭上の若葉がそよぎ、隙間からこぼれる陽射しが瞬く。
心の鎖を解き放った、一人の若者を祝福しているようでもあった。
「ぼくは」
「うむ」
「冒険者になろう、と……思います」
「思うだけか」
「いえ。なります。なってみせます」
「そうか。やめとけ」
「は?」
「わしもお前くらいの頃、冒険者に憧れた。この村に冒険者が何度となく訪れ、その度に希望を抱いた。だが……」
「だが?」
「剣は意外と重い。鎧なんて、ありゃ人の着るもんじゃない。魔法はちんぷんかんぷんじゃ。それに魔物と戦えば、痛いくらいでは済まんだろう」
「鍛えるなり、勉強するなり……」
「それで冒険者になった途端、先輩風を吹かした奴が魔王を退治したらどうする? 何の意味もなかろうが。だからわしは考えた。世界の救世主に、トレンニー村を案内したのはこのわしだと、胸を張ろうとな!」
「あの、ぼく、そんなせこい考え持つくらいなら、信念なんかない方がいいです」
どうせ現実などこんなものだ。
人目がなければルイスを師と仰いで五体投地も構わないと考えていたボブだったが、できる事なら、ルイスそのものをどこかに投棄してしまいたい。
テーブルの上に乗ったままのバスケットをひったくるようにつかみ、ボブはルイスに背を向けた。さようならも言いたくない。
「待て貴様、わしの壮大な深慮遠謀をせこいと抜かしたな。これはこれで簡単そうに見えて結構つらい作業なのだ」
「やめりゃいいじゃないですか」
「馬鹿め。何万分の一かの確率で本物の勇者に出会える、もしかすると、胸ときめくような出会いだってあるかもしれんのだぞ。それに昼食も付いてる」
「明らかに不純な動機と食欲の方が勝ってますよね」
「ふ、不純とは何だ! そこまで言うならお前がわしのかわりをやってみろ。信念の欠片もない貴様に、わしのかわりがつとまるか?」
最終更新:2007年07月27日 20:57