EU加盟後のロシア・バルト関係
(注のついたフルバージョンは、いずれEUIJ関連のワーキング・ペーパーで公開されます。このページの文章は、5月12日の講演内容を修正したものです。)


はじめに
 4月26日および27日に、エストニアの首都タリンで起きた混乱は、ソ連邦からの比較的平和裏な再独立を果たし、その後、順調に市場化および民主化への改革を行ってきたこの国を見てきた者にとってはある意味で驚きであると同時に、歴史認識などをめぐる対立を象徴する小規模な事件が散発していた2004年秋以降の流れの中では、ある程度予想されたものでもあった。事件の直接の原因については後で述べるが、この4月末の混乱では死傷者が出ており、その大半はロシア語系の人々であった。プーチン・ロシア大統領はこの件に関し、即座にEUの現議長国であるドイツのメルケル首相に、遺憾の意を伝えた。なぜ、エストニアの事件で、当事者であるエストニアを飛び越えてドイツが出てくるのか。これは言うまでもなく、ロシアが問題の「EU化」を図ろうとしたためであると考えられる。2004年5月のEU拡大前後から見られるロシア・バルト関係の姿の典型を示しているともいえる。しかしながらこのことが、EU加盟国との問題はもはや二国間ではなく、EUレベルで解決することに、ロシアが同意したことを意味するわけではないだろう。ロシアのこの行動はむしろ、EUの中に互いへの懐疑と不信を招くことを目的としているというのが、多くのエストニア人の見方である。他方、エストニア側は事件直後、死傷者を出した事件そのものよりも、EU諸国の反応に神経を尖らせていた。ただその後、モスクワのエストニア大使館周辺での抗議行動などが過熱し、明らかに行き過ぎた行動が続く中、こちらの方がむしろクローズアップされるようになった。結局、EU側はエストニアでの事件は事件として慎重な対応を求めたとはいえ、モスクワのエストニア大使館をめぐる事件に対するロシア政府の対応の方へ懸念を表明するにいたった。このことは、エストニアの新聞報道などで「EUはエストニアを支持した」と大きく報じられた。また、これでエストニアは本当にEUの一員になった、というコメントする向きもあった。タリンでの事件の背景を考えれば、ロシア国内での事件によって、国際的関心がそれてしまったことは皮肉としか言いようがないであろう。むろん、ロシア側はこの事件を5月中旬に開かれたEU・ロシア・サミットの場でも取り上げ、事件の幕引きはさせないという構えを見せた。これに対し、EU側は、エストニアの問題はEUの問題でもあるとしてEU内の連帯を示した上で、事件そのものは慎重な対応を要する国内問題である、という立場を確認した 。
 この事件は、あらためてロシアとバルト三国の関係がEUに与える影響について考える契機となったのではないだろうか。また逆にEUはこの両国間関係にどうかかわっているのか、EUとロシアの関係はそこではどのような意味を持つのか、ということにも目を向ける必要がある。

1.ロシア・バルト関係
 冒頭に述べた事件の直接のきっかけは、エストニアの首都タリン中心部にあった第二次世界大戦の戦勝記念碑の撤去問題であった。その背景を理解するには、エストニアの歴史を詳しく振り返る必要があるが、ここでは、ごく簡単に触れるにとどめる。エストニアをはじめとするバルト三国は、第二次世界大戦初期の1940年8月、ソ連邦に加わった。バルト三国側はこれを武力による併合とみなし、ソ連時代を占領時代と認識している。これに対し、ソ連側は、バルト三国のソ連邦への編入は議会の議決に基づく正式なものであり、合法的であるという立場をとっている。その後バルト三国はナチス・ドイツによる占領を受けたが、ドイツの敗戦に伴い、再びソ連邦の支配下に入った。タリンの戦勝記念碑は、1944年9月のドイツ軍からのタリン解放を記念して、また戦死したソ連兵を悼んで建立されたものである。ソ連側にとってこの出来事は解放であるのに対し、エストニア人にとってそれはひとつの、つまりドイツ人による占領から別の、つまりソ連による占領にかわっただけにすぎず、50年間の占領期間の開始を意味するものに他ならなかったのである。この記念碑を、現在の首都の中心部から郊外の兵士墓地へ移設するという政府の計画が、今回の混乱を引き起こす直接のきっかけとなった。とはいえ、原因は単純ではなく、むしろエストニアで民族的少数者になったロシア人のアイデンティティと密接に関わってくる問題があるが、ここではこれ以上踏み込まないことにする。
 ところで、バルト三国と日本の間には、ひとつの共通点がある。正確には三国ではなく、エストニアとラトヴィアだが、日本、エストニア、ラトヴィアは、ロシアと国境協定を締結していない、数少ない国である。ラトヴィアはこの3月に国境協定への調印にこぎつけたので、運がよければ、ロシアとの国境がまもなく画定する可能性もある 。この状況は実はやや不自然である。エストニアとラトヴィアの東の国境は、EUの外囲境界でもあるのであるから、これはEUとロシアとの間の境界が正式に画定していないことを意味するのである。とはいえ、EU・ロシア間の境界がフリーパスで通過できるわけではないことは言うまでもない。国境の検問所は機能している。すなわち、実際上の不都合はないことになる。
 では何が問題なのか。国境協定に大きな意味を見出さない向きもある。現に出入国のチェックという国境の機能は果たされているのであるから、この見方にもうなずける。しかしながら逆に、たいした意味もないないのであれば、なぜ協定を締結して関係を正常化しないのであろうか。ちなみに、エストニアもラトヴィアも1944年、45年にソ連邦ロシア社会主義共和国に領土の一部を移譲していたため、1991年の再独立後はこの領土の返還を要求していたが、現在では、領土要求は完全に放棄したという立場をとっている。それにもかかわらず、ロシアがこれまで国境協定の締結に消極的であった理由は、先に述べたように、国境画定に実際的な意味がないだけでなく、協定締結を交換条件としてエストニアおよびラトヴィアにさまざまな圧力をかけられると考えられていたからであろう。こうした状況の中でなすすべもなかったこの2国は、EU加盟後にEUの関与を期待した。この地域の国境がEUの外囲境界になったのであるから、当然であろう。
 しかしながらEUは、あまり積極的にかかわろうとはしなかった。その理由のひとつには、この問題が歴史認識と絡んでいることが考えられる。エストニアならびにラトヴィアの主張は、領土は放棄するが、自分たちが第二次世界大戦から91年までソ連邦によって占領されていた事実を認めてほしい、というものである。誤解を防ぐために付言すれば、EUは何もこの主張を否定しているわけではない。ただ、国境協定の締結とこの問題を絡めることに対しては慎重な態度をとっているのである。
 ところで、この国境問題がにわかに動き始めたのは、実は、2005年のことである。このときは、ロシアの方が積極的であったと考えられる。これについては、エストニアおよびラトヴィアがEUに加盟したことにより、EU諸国との査証免除体制の確立を切望するロシアが、障害を除去しようとしたことが契機のひとつであると考えることができる。
 既述のように、ラトヴィアは2007年3月に協定締結に至った 。その背景として、ロシアのガス会社の関与を含めいろいろなことがささやかれているが、事実だけを見れば、重要なのは、ラトヴィア側が第二次世界大戦前の条約への言及を控えたことであろう。すなわち、ラトヴィアは1991年に独立したことのみを協定に盛り込むことにしたのである 。こうしたラトヴィアの対応に対し、「エストニアもいい加減に妥協すべきではないか」という声もあるという。では、なぜラトヴィアは、国境協定締結と関連させての「占領」の確認をあきらめたのであろうか。推測の域を出るものではないが、EUとの関係にしぼってみてみれば、EU内での発言力を向上したいという意図が透けて見えるのではないだろうか。
 EUとロシアの関係を見た場合、各加盟国のロシアに対する見方は、それぞれの歴史的背景ならびに政治・経済状況により大きく異なる。ここでは言うまでもなく、かつての「西」とソ連邦の影響下にあった「東」の間でまず2つに大きく分かれる。旧「東」の中でもとりわけ、バルト三国やポーランドはロシアに対する警戒心が強い。2005年の第二次世界大戦終結60周年を契機に、こうした歴史認識ポリティクスとでも分析できる状況が顕在化してきているのではないか。ヴィチェ=フレイベルガ・ラトヴィア大統領もパブリクス・ラトヴィア外相も、ナチス・ドイツに対する勝利の価値を否定するものではないが、ラトヴィアをはじめとするいくつかの国々は、第二次世界大戦で独立を失ったという事実も見逃せないと訴え、また、ナチス・ドイツの人道に対する犯罪を糾弾するだけでは、物事の半面しか見えていないことになるとして、ソ連体制下での人道に対する犯罪にも目を向ける必要があると主張した。エストニアではこうした中、2004年秋ごろから歴史認識をめぐっての国内の対立が臨界に達しつつあることが指摘され始めた。
エストニアのジャーナリストがあるところで、「EUの大国の政治家たちが、もう少しだけ賢くて、勇気があれば、状況は今とは少しは異なるであろうに、現在の指導者たちはその期待にこたえるレベルではない」 という趣旨のことを書いた。ここに隠れているのは、占領されたことのない国の人びとにはロシアの本性はわからない、だから自分たちがEUの外交政策形成には必要なんだ、という考え方であろう。この見方を否定することはできない。しかし、こうしたラトヴィアやエストニアの振る舞いによって、逆にEUの中で「彼らの言動は彼らの反ロシア意識に起因する」というレッテルを貼られることになり、発言の影響力が低下する事態をひきおこしている、と指摘する向きもある。それゆえ、ロシアとの関係を正常化し、その上で、EUの対外政策において貢献するという戦略をラトヴィアがたてたとしても不思議ではない。

2.ロシア・EU関係
 ロシア・EU関係については、まず「ロシア人はヨーロッパ人か?」という問いを立ててみよう。ロシア人自身のアイデンティティについてはひとまずおくこととして、EU側、とりわけ政策決定者レベルの見方について考えてみたい。その前提として、ここでいう「ロシア人」が国籍によって定義されたロシア人なのか、それともロシア民族という意味なのかを区別する必要があるが、ここでは話を単純化して、ウラル山脈以西のヨーロッパ・ロシアの住民の中で多数派を占める人びとを念頭におきたい。
 地理的な観点から、ウラル山脈以西がヨーロッパでないことに異議を唱える人は少ないだろう(その境界線設定の経緯は別にしての話であるが)。しかし、はたしてヨーロッパの人びとはそう考えているのであろうか。この問いに答えるためには、実はヨーロッパ人とは誰なのか、というさらに難しい問いに答える必要がある。難しい問いにあえて簡単に答えようとすれば、いちおう次のような答えがEUの中での模範解答であると言えるだろう。すなわち、ヨーロッパ共通の価値である、民主主義・人権などの価値観を共有している人びとのことである(キリスト教的価値観やギリシア・ローマの人文主義の伝統ではなく)。
 このように民主主義や人権などの価値観をものさしとした場合、あくまでEUの側から見た場合と断った上でのことであるが、ロシアは「ヨーロッパ」の外側に存在する他者であるといえるだろう。では、この他者といかなる関係を結びたいのか。結論から言えば、EUは、交渉を通じてロシアを民主化する、という立場にある。それはロシアのためばかりではなく、EUのためでもある。とはいえ、このEUもけっして一枚岩ではない。特に対ロシア関係に関しては、その立場は多様である。例えばバルト三国は、ロシアの価値観や行動様式が変わらないのであれば(そして、変わる見込みは薄いから)、「外側かつ他者」であってほしいと願っている。
こうしたEU側の態度に対し、ロシアはどのように対応しているのであろうか。ロシアのカーネギー研究所研究員であるトレーニンは、EUは「規範の帝国」であると指摘する 。EU・ロシア関係の統合の中でEUが要求していることは、EUにとっては「普遍的」価値である民主主義や人権の尊重の実践に他ならないが、ロシアにとってそれはEUの価値観の押し付けにすぎず、ロシアがそれを受け入れることは主権の侵害、ひいてはロシアの弱体化につながる恐れがある。それゆえ、EUにとってロシアが他者であるだけではなく、ロシアにとってもEUはやはり他者なのである。ロシアは当初、NATOの東方拡大には抵抗していたものの、EUの拡大についてはおおむね好意的な態度を表明していた。しかしながら、こうした価値観や利害の対立が表面化してきた90年代半ばにEUとロシアの関係は緊張をはらんだものになる。以下でロシアとEUの間で締結されたパートナーシップ協力協定について述べるが、この協定が締結されたにもかかわらず、実施的な関係の進展にとぼしいことは、こうした相互排除的な関係の証左であろう。むろん、あらゆる場面でEUとロシアが対立関係にあるというわけではない。EUとロシアが共闘を必要とする場面は国際関係の中で決して少なくないが、ここでは割愛する。また、ここでは「ロシア」とひとまとめにして語ってきたが、ロシアの中にもヨーロッパ的価値観をロシアは共有していると考える人びとも存在することを付言しておく。
 EUとロシアの間に締結されたパートナーシップ協力協定は1997年に発効した。これは首脳レベルを含む高次の政治的協議から環境やエネルギー、さらに司法などの分野においての実務的な協力の仕組みまで広範な関係構築を支える枠組みとなっている。これはロシアをEUの戦略的パートナーとして扱うことを意味している。また、EUとロシアの間では4つの共通空間(経済、司法・内務、教育・研究、対外安全保障)の構築が目指されている。ところが、この協力の枠組みを舞台にこれまで何度か問題が持ち上がっている。その典型が、2004年5月のEU東方拡大を目前に控えたEU・ロシア間の交渉に見られた。それは、パートナーシップ協力協定の適用を新規加盟国に拡大するに当たり、ロシアが14項目の要求を提出したことにはじまった。ここでその内容を詳しくとりあげることはしないが、要は、かつての「東欧」諸国がEUの加盟国になることによって生じる影響力の喪失がその背景にあったと考えられる。このパートナーシップ協定は今年失効するので、その更新に向け、エネルギー問題も含めた新たな協定締結のための交渉が必要になっているが、ロシアによるポーランドの食肉禁輸問題で、ポーランドが強い反対の立場をとっているなどの理由から、現在、交渉が事実上膠着状態に陥っている。
 EU・ロシア関係でいまひとつ述べておかなければならないのは、カリーニングラードの特殊性である。カリーニングラードは、リトアニアの再独立とソ連邦の崩壊により、ロシア本国から切り離された飛び地になった。それでも国境を接するポーランドやリトアニアのEU加盟が本格化するまでは、越境は比較的容易であったが、この2国のEU加盟により国境管理が厳格化し、カリーニングラードは文字通り陸の孤島と化す恐れがあった。交渉の末、最終的にはトランジット証明(簡易通行証)の発給によってこの問題は解決を図られたが、ここで重要なのは、ロシア側がカリーニングラード住民にビザなしの自由越境を許可する特別な地位を求めたことである。そもそもロシアは2002年ごろからEUとの間の全面的な査証免除体制の確立を希望しているが、近い将来における実現の見込みは少ない。したがって、カリーニングラードを突破口にしようという戦略もここにはあったと考えられる。
 こうしたことからわかるのは、EUの側は交渉を通じて、ロシアの「民主化」やヨーロッパ的価値観の輸出を期待している一方、ロシアが交渉に期待するのはそういうことではなく、むしろ、対EU関係で自らに特別な地位を確立すると同時に、外交では二国間関係を維持することにある。したがって、両者の間に交渉のための場が確立しているとはいえ、EU側にとってはそれを有利に利用するのは容易ではない。また、EU内でも加盟国それぞれの国益が優先される場合がえてして多いから、それはなおさらである。

むすびにかえて――EU・バルト関係
 最後に、EU・バルト関係についても簡単に触れておきたい。エストニアおよびラトヴィアの国民は、加盟前には強い欧州懐疑主義的傾向を示していた 。ひとつの連邦からでて、別の連邦に入ることに対する抵抗を示していたのかもしれない。もっとも、主たる理由は国内政治エリートに対する不信と、EU加盟を理由にして経済的困難を強いられたり、社会福祉の削減が行われたりしたことに対する不安であったと考えられる。
 しかし現在では、エストニアもラトヴィアも構造基金を中心とするEUの補助金を受けた公共事業等でかなり潤っているように見える。インフレ率は確かに高いが、給料水準もそれに負けないスピードで上昇している。ただ、その一方で問題がないわけではない。以前にはエストニアは早ければ2007年のユーロ加盟を目指すと公言していたが、こうしたインフレ率の高さなどにより、今では、ユーロ加盟基準を満たすには2010年までかかる、といわれるほどである。いずれにせよ、EU加盟前にはあれほどEU支持者の少なかったこれらの国で、加盟後はEUに対する支持が安定している 。こうした状況を目の当たりにするにつけても、バルト三国にとってEU加盟とは何だったのか、と考えずにはいられない。
 そもそもバルト三国はEU加盟交渉の過程で、他の東中欧諸国同様「ヨーロッパへの回帰」を掲げていた。しかしそのプロセスを見ればわかるように、そこにはむしろロシアの影響圏からの離脱、ロシアに対する安全保障という「真」の目的があったように思われる。それゆえすでに述べたように、バルト三国にとっては、ロシアは他者であればあるほどありがたかったといえる。しかしながら、EUにとっては、ロシアとの関係はばら色であるとは決して言えないとはいえ、ロシアはエネルギーの4分の1を依存する重要なパートナーでるばかりでなく、アメリカの一元的な支配に対抗して、多元的な支配の極を作るためにも必要な存在であるともいえる。
 結局のところバルト三国の「ヨーロッパへの回帰」は果たされたのだろうか。これに関連して最後に、2つのことを指摘しておきたい。ひとつは、「東」の後進性(という意識)である。これはすなわち、「東」自らのコンプレックスでもあり、いわゆる「西」側からの差別意識でもある。そしてこうした意識は2004年5月を境に消滅したわけではない。実際、差別意識ではないが、EUに加盟したとはいえ、新規加盟国にはいまだ労働力の完全な移動の自由が認められているわけではない 。ここには、政治家レベルと国民レベルの間での、EU観、あるいは対「東欧」観の違いもあらわれているといえる。いまひとつは、ヨーロッパ自体の変容である。そもそも回帰したヨーロッパは、「東」が帰ることを望んだヨーロッパであったのか。
 最近、エストニアでヨーロッパ共通の歴史教科書を作る試みが話題になった。この件に関し、エストニアの文脈で言えば、おおきく3つの意見が見られた。ひとつは、そうしたものができれば、エストニアの歴史が他のヨーロッパの国々の人にもわかってもらえる、すなわち、自分たちのソ連時代のつらい歴史を知ってもらえるという見方、2つめは、ヨーロッパ史などという広い範囲を扱うのでは、いずれにしても、エストニアの複雑な歴史については表面的にしか扱う余裕がないであろうから、結局は理解してもらえないという意見、そして3つ目が、ヨーロッパ各国・各民族間の歴史認識の違いは1冊にまとめられるようなものではないから、無駄な試みである、というものである。このことは、5月8(9)日の位置づけをみるとわかりやすいだろう。すなわち、この日はイギリスやフランス、アメリカ、ロシア(ソ連)にとっては、ファシズムに対する民主主義の勝利の日であるが、バルト諸国にとっては、占領の開始であり、自由剥奪の日に他ならない。
 ここからわかるのは、エストニア人はヨーロッパと歴史を共有していると認識しているわけではない、ということである。同時に、あるいはそれだからこそ、理解されないことに対する不安感、ひいては理解されないゆえに、いつか裏切られるのではないかという猜疑心に、エストニア人はとりつかれているように見える。冒頭の事件に関しても、今回はアメリカおよびEUの理解を得られたが、次はわからない、今後もこうしたシンボルをめぐる集団行動はなくならないであろうから、今回の事件を分析し、備えを怠ってはいけない、という慎重な意見が聞かれた 。
 いわゆる小国のエストニアにとって、EU加盟は文字通り生き残りの戦略であった。統合の深化が語られる中で逆説的ではあるが、エストニアにとってEU加盟は国家独立の強化に他ならなかったのである。それゆえ、エストニアとEUとの関係もそれほど無風であるとはいえない。制度的・法的統合は2004年5月に完了したが、精神的統合はまさに今起こっているという指摘は検討に値する 。EUの東方拡大は、2004年5月以降むしろ次の段階にあると言えるだろう。
最終更新:2007年07月23日 23:22