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民明書房

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民明書房「広島豪族の歴史」より「二遊間の戦い」1

紀元前に存在が確認されている「旧広島球団」において、定期的に繰り広げられたとされている戦いの総称。
国の防衛を担っていた二遊の間(にゆうのま)を支配することは国の大物として周囲に認知される効果があり
多くの豪族が参戦しては戦い、散っていったとされる。戦いに参加した豪族は以下の通り。

  • 東出越前守輝裕(ひがしでえちぜんのかみあきひろ・980~1066?)
越前、敦賀の里に才子現ると称されたこの男は、中央政界で屈指の大物と目された二岡備後守(ふたおかびんごのかみ)の
招聘に失敗した広島球団が呼んできた大物とされる。評判どおり国にやってくるや否や二遊の間を掌握し、まさに才子と
称えられたが、その反面何でもない内政を失敗してしまう悪癖があり、それが元で後に民衆、さらには他豪族の信頼を失う。
彼の衰亡こそが、広島二遊間の戦いを紐解く鍵といっても過言ではあるまい。


  • 木村拓殖官也(きむら・たくしょくかんのなり 972~1044?)
遠く日向の里で生まれ、その後江戸に出て江戸川の保全等を行う冴えない内政官であったが、
何を思ったか旧広島球団はかつて国内最優秀新人内政官にまで選ばれた長冨江戸守(ながとみえどのかみ)を
江戸に送り返してまで彼を招聘した。一体何の思惑があるのかと民衆はみな首を傾げたが、木村拓殖官也は
内政・軍備ともそこそこの仕事ができたゆえ重宝され、二遊間の戦いにおいて諸将がみな戦線を後退させた
隙を突いてその領土を奪い、長らく守り続けたという。彼の名声は遠く中央政界まで届いており、1004年に
その航程が確認されている「遣欧使」において、当時飛ぶ鳥を落とすほどの球の速さで知れ渡っていた旧広島球団の
総大将、黒田無毛守博樹(くろだなしげのかみひろき)とともに希臘国雅典なる街へ派遣されたことが文献により
確認されている。
なお、木村拓殖官也はその後旧広島球団の所領に戻った後も内政官を続けたが、旧広島球団にやって来た
黒船大名真茶茶(まてぃー・ぶらうん)に所領を没収され、失意のうちに江戸へ戻ったという。
しかし律儀な彼は、江戸から旧広島領に偵察任務でやって来た際、わざわざかつて自らの所領にいた
民衆の元を訪れ深々と頭を下げたという。
民明書房「広島豪族の歴史」より「二遊間の戦い」2

  • 安日敷布 (あんでぃ・しつ 971~1040?)

東出越前守のあまりの悪政に耐えかねた民衆、さらに他豪族の要望により、遠く亜米利加の地より連れてこられた青い目の内政官。
誰が呼んだか「先生(てぃーちゃー)」なるあだ名をつけられていた。
さっそく東出越前守が去った二遊の間の政治を任され、見事にその任務を行ったという。また、他国との戦においても活躍し、
「江戸兎軍団」との間に起こった合戦において、次から次へと味方諸将が倒れる中、一人果敢に戦い、見事戦いに蹴りをつける武功を上げ
民衆は大いに彼を崇めたという。その様子は「敷布教」の寺が当時林立したことでもうかがい知ることができる。
しかし、彼は二年の月日の後、播磨・河内・摂津に大きな版図を持っていた「猛虎軍」に金で引き抜かれてしまい、
多くの民衆を嘆かせた。林立していた「敷布教」の寺もあっという間に廃れたという。

  • 昏具・羅六斎(ぐれぐ・らろっくさい 972~没年不明)
敷布の活躍した後においてもなお、東出越前守は人々の期待を未だに受けていたが、悪政はまったく直らず、またしても多くの民衆を失望させた。
業を煮やした民衆は次々と一揆を起こし、仕方なく他豪族が金を出し合い、新たに武将を一人連れて来ることにした。そこで連れて来られたのが
遠く亜米利加・先住民軍団(いんでぃあんず)の従属豪族にいた彼である。
人々の期待以上に彼は活躍し、わずか二千七百両で連れて来られたとは思えない働き振りを見せた。しかし、彼は自らの給与にはほとんど
関心を示さず、働きぶりに感動した人々から送られた幾ばくかの金を、すべて奥方・尼田の方(あまんだのかた)と共に肉を焼いて食べるための
費用にしてしまったという。彼は領土に点在していた肉売りの店にすべて足を運び、そのすべての店の味を暗記してしまったという。
それほどの肉好きがたたってか、後に彼は体を壊し、旧広島球団を去ることになってしまった。去ることになった彼は働き場所を求め
江戸へ向かい、そこで未知なる飲み物「薬瑠都」(やくると)に出会い、それを毎日飲み続けた結果体調を回復させ、再び大いに働いた。
民衆は彼のその姿を見て「なぜ広島にはかのような飲み物がないのだ」と怒り、領土内にあった牛の乳売り、乳安(ちちやす)を
襲撃したとの説が残っている。
民明書房「広島豪族の歴史」より「二遊間の戦い」3

  • 尾形蝦夷宮佳紀(おがたえぞのみやよしのり 978~生没年不明?)

遠く蝦夷地で生まれたこの内政官はその後蝦夷を離れ藤沢の地で「有望なる浪人あり」と注目されたが
何度か体を壊してしまい中央昇進の機会を逃した。その後流浪の果てに本田なる兵士運搬車両製造会社に
いたところを旧広島球団に目をかけられ、当地にやってきたという。
非常に攻撃の上手な武将で知略にも長けていたが、いかんせん内政面はお粗末極まりなく、敷布の領土が取れないまま
悶々としていた所に敷布が引き抜かれたとの報が入り、一躍民衆から「まもなく二遊の間は彼が奪うであろう」との期待を受ける。
その期待通り彼は二遊の間を掌握しようとしたが、その途中、遠く所沢での猛獣使い、「院母椅子」(いんぼいす)軍団との戦いの中で
またしても傷を負ってしまい、前線から撤退を余儀なくされる。
その後、二遊の間を追われた彼は旧広島球団入国時に築かれた砦で快復に努めたが、その後の詳細は不明である。
彼の端麗な顔立ちは多くの民衆の知るところであり、その砦には日々民衆の折った千羽鶴と、民衆が手作りした
干し椎茸が送られていたという。

  • 山崎摂津守浩司(やまさきせっつのかみこうじ 980~1046?)

摂津・河内一帯にその名をとどろかせた野武士軍団「猛牛族」なる軍団が存在したが、彼はそこで育った野武士である。
しかし、「猛虎軍」「青波団」との三つ巴の戦いの中で戦力を失った猛牛族はもはや領土を維持できず、力尽きた野武士たちは
青波団に引き取られるか、遠く奥州の地で「狗鷲軍」として再興を余儀なくされてしまった。この男も流れに従い青波団に
引き入れられたが、その後「菊池原」(きくち・げん)なる武将との交換で「上村蝦夷守和裕」(うえむらえぞのかみかずひろ)と
共に広島の土を踏むことになった。
とかく内政面は光るものがあったが戦は不得手で、矢を打っても十発に一発命中するかしないかという非力さで民衆を
失望させたが、後に慣れてきたのか少しずつ戦でも功を立てるようになり、尾形蝦夷守に替わって二遊の間の領地を手に入れた。
しかし、後に梵英海心和尚(そよぎ・えいかいしんおしょう)がこの領地に攻め入ってくると敗れ去り、由宇の里で細々と暮らしていたという。


  • 梵英海心和尚(そよぎ・えいかい しんおしょう 980~1079?)

旧広島球団国の北の街・三次(みよし)に根付く寺の和尚の息子であったこの男は、当然寺を継ぐものと周囲には思われていたが
思うところあって還俗し、諸国を放浪した後に「日産」(ひさん)なる兵士運搬車両製造会社で力を磨いた後、狗鷲軍との戦いを経て
旧広島球団にやって来た。
当初は内政をやらせれば失敗、戦をさせれば矢が空のほうに向かって飛び続ける有様で民衆を失望させたが、
故郷・三次から父親の和尚以下多くの民衆が駆けつけた後、力を取り戻して大いに活躍したという。
その活躍ぶりは他豪族にも一目置かれており、黒田無毛守の軍師として遠く播磨・甲子園(こう・しえん)で
猛虎軍と合戦を行った際には彼に対し「攻め方が一辺倒になっておる。もっと多方面から攻めるべきだ」と答申し
見事に勝利に導いたという。民衆は彼の実力と共に、年上の武将にも恐れず物を言う図太さにただ驚くのみであったという。
なお、この他にも
  • 江弟出明日(えでい・であす)→四年の長きにおいて旧広島球団で二遊の間を治めた部根図鰓(べねずえら)出身の内政官。後に牛飼いになったという。
  • 福地寿樹介(ふくち・かずきのすけ)→毎年行われる「俊足勇者の集い」において負け知らずを誇った武将。後に院簿椅子で活躍したという。
  • 松本孔明高明(まつもと・こうめい・たかあき)→その勇猛果敢ぶりで多くの戦で手柄を立てたとされる武将。実家が肉焼きを営んでいたという。
  • 岡上和典(おかうえ・わてん)→前項を見よ
などの武将の存在が確認されているが、これらの武将の資料は全てまとめて「広島二遊間ここに記す」なる本に
書かれているのみである。

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