ハナモモブンブク(1979年 - )は、Umamusume Racing Association(URA)所属のトレーナー/元選手である。
京都出身。小学生の時期には関西のレーシングクラブチーム[1]に所属していたが目立った成績は残していない。
1990年4月に日本ウマ娘トレーニングセンター学園(トレセン学園)に入学。入学後すぐに当時サブトレーナーからメイントレーナーとして昇級したばかりの○○トレーナーからスカウトを受け、トゥインクルシリーズに登録。本格化が始まったのが早かったための性急な登録ではあったが、レーシングクラブチームでの培われた実戦経験や柔軟な走りにより無事に選抜レースに最短で合格を果たした。
1991年6月のメイクデビュー京都芝2000にてやや出遅れたものの4コーナー前には先頭に立つ追い込みを見せ3.5馬身の勝利。 次走は京都ジュニアステークスへと進み前走よりもやや前の位置につけ2着に3馬身の快勝。 年末はジュニアGⅠのうち、中距離のホープフルステークスを選択。 最後方からの直線一気で先頭を狙うもやや伸びを欠き2着となる。 この時点ですでにクラシック有望なウマ娘の一人と行って過言ではないが、本人の控えめな性格と小柄な体格から「トウカイテイオーのライバルの一人」程度の認識であった[2]
クラシックに入り目標を王道三冠路線[3]に定め次走を弥生賞に決定する。 ここでは4番人気だったものの鋭い追い込みを見せコースレコードで優勝、皐月賞へと歩みを進める。 皐月賞では圧倒的一番人気のトウカイテイオーの後ろにぴったりとつけるマーク戦術でゴールライン直前で進出、判定の結果勝利となる。 続く日本ダービーでは早めに進出したトウカイテイオーについていく形の先行策を取り、最終直線で1.5馬身突き放し二冠達成する。
夏合宿では息抜きを兼ねてテイオーやアオハル杯のチームメイトと過ごし万全な状態で秋を迎えることになる。[4] 本人の距離適正を鑑み、天皇賞・秋への挑戦を視野に入れての京都大賞典への出走を決定する。 京都大賞典ではメジロマックイーンを相手に得意の後方待機策から直線一気を仕掛けるものの、メジロマックイーンのスピードとスタミナに一歩及ばず判定の末敗北。 この後トレーナーは菊花賞への出走を決定するが、その際にメジロマックイーン陣営から菊花賞出走を勧められたとも言われている。 菊花賞当日、同じく万全な状態で挑むトウカイテイオーと三度目の対決を見るために京都レース場には約15万人の観客が訪れた。 この菊花賞でトレーナーとハナモモブンブクが取った作戦は、「一世一代の大芝居」としてレースの歴史に名を残している。
ハナモモブンブクの距離限界は2400mまでである、と承知の上でトウカイテイオー含む他のウマ娘たちはペースを作るつもりだったが、ここでハナモモブンブクは京都大賞典などで見せた後方待機ではなくハナを取る先行策を見せた。 未知の3000mという距離であること、適性外ではあるだろう距離だが前走でメジロマックイーンに競ってみせたハナモモブンブクの実力を承知していた他のウマ娘たちはハナモモブンブクのペースメイクに乗せられる形となった。 しかしハナモモブンブクはそれとわからぬように少しずつペースを落として最終的にはスローペースといっていいほどのペースにまで落ちていた。 いち早く気づいたトウカイテイオーがやや早め、坂の直後に仕掛けたものの脚を残せていた上にハナで経済コースを回ることができたハナモモブンブクに一歩及ばなかった。 こうしてハナモモブンブクは史上5人目[5]のクラシック三冠を達成した。 なお、やはりレース後の消耗が激しかったことからその年は全休とした。