ウイグルの歴史


 現在の新疆ウイグル自治区を含む中央アジアは、歴史的にはテュルク系の言語を話す人々の土地を意味する「トルキスタン」と呼ばれてきた。トルキスタンはパミール高原を境に西と東に分けら、現在中国領となっている新疆ウイグル自治区は「東トルキスタン」と呼ばれる。

 中国の歴代王朝で、本格的に東トルキスタンを支配することができたのは、満人の征服王朝である清のときからであると言って良い。それ以前に中国の歴代王朝がこの地域を支配できたのは、漢と唐代の一時期、「西域都護府」と「安西都護府」を置いたときのみである。中国政府は歴史上一貫して東トルキスタンを支配し続けたかのように喧伝しているが、これは事実と異なる。そもそも中国歴代王朝は東トルキスタンを「西域」と呼び、万里の長城によって境界を画し、「中国」とは異なる「化外の地(王権の及ばないところ)」とみなしていたのである。

 現在東トルキスタンと呼ばれるこの地域に最初に住み始めたのは、イラン系・インド系のアーリア人であったが、紀元前2世紀からは遊牧民族の匈奴が、ついで柔然、紀元6世紀からはテュルク系の突厥がこの地域を支配した。
 そしてこの地域をテュルク系民族の住む地域「トルキスタン」としていく主体となったのは2つのウイグル王国、天山ウイグル王国とカラハン朝である。両者とも現在のモンゴル高原にあった遊牧ウイグル帝国からの遺民が造った国であった。
天山ウイグル王国はそれまでの遊牧から定住へと生活様式を転換し、マニ教、ついで仏教、景教などを受容し、独自の文化を展開していった。
 カラハン朝は、王サトゥク・ボグラ・ハンのときにテュルク民族としては初めてイスラム教を受容したと言われており、東西へ向けてジハードを展開していった。このときにカラハン朝が支配したタリム盆地の西半部までが、イスラム化することになった。なお首都であったカシュガルは、イスラム的な文化の中心地へと生まれ変わり、芸術、科学、文学などが繁栄した。このテュルク系イスラム文化の先駆であり、また最も偉大な文学作品であるのが、ユスフ・ハス・ハジブの「クタドグ・ビリク(幸福になるための知恵)」と、マフムード・カシュガリーの「ディーワーン・ルガート・アッテュルク(テュルク語大辞典)」である。

 その後ウイグル人は、世界的な大帝国を築いたモンゴル帝国の前に、あえて武力的抵抗をせず、彼らの頭脳として働くことを選んだ。ウイグル人は「モンゴル統治の教師」と言われる程に、その経験と知識を存分に用い、さらに世界各地に出向いて貿易に従事し、ウイグル商人として名を馳せていった。
 モンゴル帝国はその後分裂し、その後継国である東チャガタイ・ハン国、次いでモグーリスタン・ハン国、ヤルカンド・ハン国の順でモンゴル系王朝が東トルキスタンを支配した。彼ら支配層も、もともとはモンゴル系遊牧民とはいえ次第に定住化せざるを得なくなり、更に言語的にテュルク化、宗教的にもイスラム化していった。なお、このモグーリスタン・ハン国のときに、タリム盆地全域のイスラム化が完成した。
 タリム盆地を支配していたモンゴル人王朝の名目的な支配者はモグーリスタン・ハン家であったが、実際に諸都市の実権を握っていたのはホジャと呼ばれるイスラム宗教貴族であった。

 その後、西モンゴル族(オイラト)の一部族であるジュンガル部が、次第にこの地域に支配を伸ばしてきた。ジュンガル帝国3代目ハンのガルダン・ハンの統治下で、帝国はその支配域を大いに広げた。彼はチベット仏教の活仏と認定され、幼少期をダライ・ラマ5世の下で過ごしていた。ダライ・ラマ5世はガルダンを強く支持し、ガルダンはこれに応え、チベット仏教の守護者として戦いに臨み、東トルキスタン全域からモンゴル高原西部にいたる大遊牧帝国を築き上げた。その後東モンゴル族のハルハ部も破ったが、ハルハ部が清に援助を求めたことで、ジュンガル帝国と清朝とが全面対決することになった。

 清による東トルキスタンの支配は、ジュンガル帝国との攻防を繰り返した後、1755年に乾隆帝によって成された。この時のジュンガル帝国滅亡は、清軍が持ち込んだ天然痘と相まって、壊滅的なものとなった。次いで1759年にタリム盆地のヤルカンド・ハン国も滅ぼされたが、このときに西トルキスタンに逃げ延びたホジャの子孫が、後に失地回復のための聖戦を繰り返すことになる。このようにしてジュンガル盆地(準部)とタリムイスラム地域(回部)を手に入れた清は、両部をあわせ「新彊」、つまり新しい辺境の領土、と名付けた。
 清朝の支配は、将軍や大臣の下の各都市の首長をウイグル人が務めるという、比較的自治に近いものであった。これはチベットでも同様であり、圧倒的多数の漢人を少数派の満州人皇帝が抑えるために、チベット、ウイグル人を味方にするための優遇措置であったと考えられる。このような統治もあり、19世紀前半から60年ほど東トルキスタンは平穏であったと言われる。

 19世紀中ごろから、清朝内地では、イスラム教徒による反乱が頻発していた。このイスラム教徒の反乱に刺激され、さらにホジャによる失地回復の聖戦とそれを支援するウイグル人の奮闘の結果、西トルキスタンのコーカンド・ハン国の将であったヤクブ・ベクがカシュガル・ハン国を建てた。
 これにより東トルキスタンは再びテュルク人によるイスラム政権を樹立することができたのである。対外的にもロシア、イギリスと通商条約を結び、オスマン・トルコを宗主国とするなど、その存在は国際的にも認められていた。
 しかしこの国も1877年、清の将軍である左宗棠に侵略され、東トルキスタンは再び清の支配されるところとなった。1884年には新疆省となり、内地と同様の道州府県が置かれ、清によって直接統治されることとなった。

 なお、1840年頃から20世紀初頭の中央アジアは英露両国の勢力争いの場となっていた。また両国をはじめとしたヨーロッパ諸国や日本の探検家による調査も行なわれるようになり、中央アジアのさまざまな地理的、歴史的な発見がなされた。
 また、ロシアの圧迫に反発し、ロシア内部や西トルキスタンのテュルク系ムスリム知識人の中から近代的改革の動きが生まれた。彼ら知識人が普及に努めた近代的教育方式(ウスリ・ジャディード)に由来し、この運動をジャディード運動という。これと期を同じくして、東トルキスタンでもジャディード運動が起きた。
 近代化による、商業の国際化、工業の発展のためには、科学的な知識や技術を身につけた人材が必要である。それまでのイスラム教の寺子屋のような初頭教育施設だけでは十分な教育は施せない、民族のアイデンティティが脅かされると危機感を抱いた人々は、新方式の学校を建て、イスラム教の宗教教育の他にも、読み書きや計算、歴史、近代科学を教えるようになった。当時の先進地であったクリミア・タタールやトルコのイスタンブールなどへ留学生を出したり、当地の教師を招聘するなどして、民族の教育に尽力を払った。有名な教育者としてはアブドゥルカーディル、スポンサーとしてはムーサー・バヨフ家などがいる。彼らの思想は、汎トルコ主義・汎イスラム主義であるとして、中国の安定を脅かす危険な思想とみなされて弾圧を受けるようになった。ジャディード運動を行った知識人の中には、後の東トルキスタン共和国の成立に大きな役割を果たした者もいる。

 新疆省になってから清朝滅亡までの30年間は、比較的小康状態が保たれたが、1911年には辛亥革命によって清が滅び、中華民国が成立した。このときに外モンゴルは独立してソ連の衛星国になり、チベットは紆余曲折をたどって事実上の独立国となった。そしてそれに遅れること約20年、ついに東トルキスタンでも侵略者を追い出し自らの土地を取り戻そうという動きが高まってきた。
 中華民国成立時の新疆政府は、名目上は南京の政府の配下に置かれていたが、実質は漢民族の軍閥によって支配されていた。清末期から続いていた東トルキスタンへの漢民族の大量移住と彼らからの差別や抑圧、また同化政策によって、テュルク系諸民族の間に不満と怒りとが鬱積しており、きっかけがあれば一気に爆発する状態になっていた。
 そして、1931年3月にハミで起きた蜂起は東トルキスタン各地に飛び火した。その混乱のさ中、1933年初めホータンでムハンマド・イミン・ブグラが主導した蜂起は、同時に起きたカラシャール、クチャ、アクスの蜂起と合流し、11月カシュガルにて「東トルキスタン・イスラム共和国」の独立宣言を出すまでに至った。大統領にはホジャ・ニヤズ、首相にはサビト・ダ・ムラーが擁立された。しかしこの国家は、民族間の対立で連携が崩れたことと、中国国民党の弾圧やソ連の干渉、回族軍閥の侵略によって1934年春に終焉を迎えた。
 これら1931年から1934年にかけての反乱と独立運動はいずれも失敗に終わったが、この頃の新疆情勢について日本政府は強い関心を持ち注視していた。国外に亡命した東トルキスタン・イスラム共和国の指導者たちに対して日本政府は積極的に接触し、現地の情報を集めていた。指導者の中には東京まで亡命してきた者もいた。彼らは日本の支援を受けて独立運動を継続しようと考えていたようであるが、日本政府が新疆に対しての関心を失ってしまったため実現しなかった。

 それから10年後の1944年11月12日、新疆省主席が左遷された混乱時に、テュルク系民族らによる民族解放組織がイリのグルジャ市で「東トルキスタン共和国」の独立を宣言した。主席はイリハン・トレで、閣僚は諸民族から成っていた。ソ連軍人の援助を受けた東トルキスタン軍は、イリ地区、タルバガタイ地区、アルタイ地区を掌握した(中国共産党はこれを三区革命と呼ぶ)。1945年9月にはウルムチの郊外にまで迫ったが、突然進軍を停止した。これは8月のヤルタ会談の際に行われたソ連と国民党との密約で、外モンゴルの独立・満州の権益と引き換えに、中国が東トルキスタンを支配するという交換条件が結ばれていたためである。
 武力による独立闘争に代わり、中国政府と東トルキスタン政府の和平交渉が始まり、ソ連の仲介によって、1946年ウルムチの国民党政府と和平協定を締結するに至った。お互いの閣僚を出し合って新疆省連合政府が成立したものの、やがて分裂し、旧東トルキスタン政府の閣僚は全てイリに戻り自治を宣言した。

 そして1949年、国共内戦を制した人民解放軍が迫る中、ソ連の斡旋によって、イリの自治政府は中国共産党との協議を決定した。8月に開催される会議に参加するため政治的指導者たちは北京に向かったが、行方を絶つことになった。一説にはその途上ソ連に連れ去られ殺害されたとも言われている。
 政治的指導者を失った東トルキスタンは、1949年12月人民解放軍によって「解放」された。1955年、新疆省は新疆ウイグル自治区となり、現在に至っている。







最終更新:2013年07月11日 13:34