ウイグルと仏教について


 7世紀、西遊記のモデルである玄奘三蔵は経典を求め、シルクロードを経由して天竺に向けて旅をした。このシルクロードの舞台となるのが、現在の東トルキスタン(新彊ウイグル自治区)である。玄奘の旅は「大唐西域記」として残されており、そこにはシルクロードの諸都市では非常に仏教が盛んであると記されている。

 玄奘から1000年以上経った現在では、東トルキスタンの住人であるウイグル人の大半はイスラム教徒となっている。しかし、今も東トルキスタンの各地に残る多くの仏教遺跡からも分かるように、かつては仏教が信仰され、華麗な仏教文化が花開いていた。

 シルクロードは東西の交通や貿易の主要な幹線であり、東西文化の交流という点でも大きな役割を果たした。西方の宗教であるマニ教、ゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教などは、いずれもシルクロードを経由して東方に伝えられた。そして特に、日本を含む東アジアに大きな影響を与えたものが仏教である。
 インドで始まった仏教は紀元1世紀以降に現在の東トルキスタンに広がり、それが中国に伝わって、その後6世紀に日本へと伝わってきた。大乗仏教や主要な仏典、仏像などの仏教美術が成立した北西インドおよび、東トルキスタンも含む中央アジアで発展した仏教文化が、現在の日本の我々にとっても身近な仏教となっている。
 仏像は1世紀にクシャーン朝があった北インドのガンダーラ、サーンチーで作られるようになったと言われ、これはギリシャ彫刻などに見られるようなヘレニズム文化の影響が大きかったためと考えられている。 
 同様に、多様な文化の重なりにあった東トルキスタンでも、盛んに仏像や仏画などの仏教美術が作られた。現在のアフガニスタンには大仏像で有名なバーミヤン遺跡があるが、これに比較しても東トルキスタンの諸都市では更に多くの大仏が作られていたと言われている。
 東トルキスタンの仏教遺跡や美術は今も各地に残されており、特に千仏洞にシルクロード仏教美術の絵画などが保存状態の良いままに残されている。千仏洞とは山の斜面に多くの洞窟を掘り、そこを仏像や仏画で飾ったものである。

 仏教は、釈迦入滅後に弟子の間で大乗仏教と上座部仏教とに分裂したが、いずれも東トルキスタンへと伝わり、それぞれの地で信者を獲得していった。
 タクラマカン砂漠を挟んで北側には先に上座部仏教と後に大乗仏教が、南側には大乗仏教が伝わった。
 タクラマカン砂漠の北側、現在のクチャは上座部仏教、特に説一切有部の中心地であったと言われ、多くの経典が発見されている。またクチャのキジル千仏洞などには自己の悟りを得るために禅定が重視されていたことを伺わせる禅室跡や、釈迦の生涯を描いた仏伝図、釈迦の前世の物語を描いた本生図などが多く残されている。しかし、同時期のクチャには大乗仏教の寺院があったことも玄奘三蔵によって記録されており、さまざまな文化や民族によって成り立つこの地域の多文化性、寛容性が伺われる。タクラマカン砂漠の北側は上座部仏教の教勢が大きかったものの、次第に大乗仏教が盛んになったと考えられている。
 タクラマカン砂漠の南側、現在のホータン(于闐国)は、この地域で最初に仏教が伝わってきたところであり、世界的にも大乗仏教の中心地の一つであり、多くの大乗経典が発掘されている。ストゥーパ(仏塔)を中心に配し、その周囲を回廊が囲む大掛かりな仏教寺院が建設された。華厳経など現在でも重用な大乗経典の多くがこの地で編纂され、中国へと伝わっていった。中国の多くの求法僧らも、この于闐に来て学び、教えと経文とを持ち帰った。

 仏僧たちはインドの仏典を現地語に翻訳し、仏教の学習と布教に努めた。彼らの多くは2世紀中期以降、仏典を携えて中国に入り、中国の仏教の確立に多大な貢献をした。中国で普遍的に広まった後に、仏教は朝鮮半島、日本へと伝えられた。
 5世紀初頭にクマラジーヴァ(鳩摩羅什)という現在のクチャ(亀茲国)出身の人が、サンスクリットの大乗仏教経典を漢語訳した。彼の訳経を用いて、聖徳太子は日本に積極的に仏教を取り入れた。彼の翻訳した経典は今でも「羅什訳」と呼ばれ重用されている。
 また玄奘三蔵は唐の長安を出発しインドへと経典を求め旅をしたが、その際に現在のトルファン(高昌国)やクチャ(屈支国)など東トルキスタンの諸都市を経由しており、それぞれの地で仏教が非常に隆盛であったと記している。

 この地域への仏教の伝播には3つの大きな波があり、1.インドから直接伝わってきたもの、2.一旦中国に伝わって現地で発展しそれが逆流してきたもの、3.チベットで発展したチベット仏教、の順に伝わってきた。しかし、以上で観てきたように、仏教の発展史として見るときに重要となるのは、インドから伝わって来てこの地で発展し、中国、日本へと伝わって行った「北伝仏教」の流れになる。

 東トルキスタンのタリム盆地に存在していた国家は、砂漠の周縁に存在するオアシスを拠点とした都市国家が集まってできたものであり、また北方から来るテュルク系・モンゴル系の遊牧騎馬民族の支配を受けたこともあった。
 「トルキスタン」とはペルシャ語でテュルク系の民族が住む土地という意味であり、この地域が言語・文化的にテュルク化するのに大きな役割を担ったのがウイグル人である。
 現在のモンゴル高原にあった遊牧ウイグル帝国が崩壊した9世紀に、ウイグル人が大量に移住してきて、天山ウイグル王国やカラハン朝を形成した。彼らもまた仏教を信仰しており、それまであった仏教文化を一層発展させていった。
 この亡命してきたウイグル人が土地の先住民らと混血し、その子孫が今のウイグル人となる。 シルクロードを経由して伝わってきた西方の宗教で、現在の東トルキスタンの住民のほとんどが信仰しているのがイスラム教である。10世紀頃より入って来たイスラム教を、まずはカラハン朝が受容し、それから東トルキスタンのイスラム化が始まった。東トルキスタンの西部は早くからイスラム教圏となっていったが、東部はしばらくの間は仏教圏のままであり、最終的に全域がイスラム化したのは15~17世紀のことと言われている。
 つまり仏教が伝わった2世紀から12~13世紀までの1000年間は、東トルキスタンは仏教文化が支配的な地域であったのである。

 イスラム教の浸透により、シルクロード仏教美術の仏像や仏画の目が消されるなどの部分的な破壊もあったが、これは深刻なレベルのものではなかった。
 20世紀初頭にはヨーロッパや日本など多くの探検隊がこの地を訪れ、大量のシルクロード仏教美術品を持ち帰った。このことに対して中国政府は、探検隊が中国の美術品を盗んでいったと非難している。しかしシルクロード仏教美術はウイグル人の先祖が形成したものである。
 そしてシルクロード仏教美術の徹底的な破壊は、1960年代の文化大革命のときに、新彊ウイグル自治区に入ってきた紅衛兵によって行われた。

 現存する仏教遺跡の代表的なものは、トルファンのベゼクリク千仏洞、トユク千仏洞、クチャのキジル千仏洞、クズルガハ千仏洞などがあり、日本人が好んで訪れる観光スポットとなっている。それと共に、既にイスラム教徒となったウイグル人も、日本人と同様に仏教遺跡に観光に訪れている。
 現在、中国政府の圧力により民族独自の文化を奪われようとしているウイグル人にとって、彼らの先祖が開花させた偉大なシルクロード仏教美術は、民族の誇りとなっているのである。 







最終更新:2013年07月11日 12:09