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新解釈・白鳥の湖

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新解釈・白鳥の湖  ~決して叶うことのない恋物語~







「――気に入らないわ」
 井上裕子は劇の台本を荒々しく閉じると、友人の山本ちひろに投げ返した。台本の作者であるちひろは投げられた台本をキャッチし、裕子に恨めしそうな視線を向ける。
「せっかく主役に抜擢されたんだからもう少し喜びなさいよ、オデット」
 無理よ、と裕子は呟いた。そして『白鳥の湖』は好きじゃないの、とぷくりと頬を膨らませる。
 裕子は大学の演劇サークルに所属している。その定期公演で、『白鳥の湖』をやることになったのだ。中学、高校と演劇部に所属していたため、裕子は役柄を演じるということにある程度自信があった。けれど大学生になり一年、二年と主役を逃し、今年になってようやく、念願の主役に選ばれたのだ。喜びたい気持ちはある。けれど、これだけはやりたくないのだ。この話は、昔から好きじゃなかった。
「何がそんなに気に食わないのよ」
「私、人を利用するのも人に利用されるのも嫌いなの」
「何それ、どういうこと?」
「台本を作ったの、ちひろじゃない。もとの内容だって知っているでしょ?」
「もちろん。悲恋だけど素敵な話じゃない。それに、王子とオデットはちゃんと来世で結ばれるのよ」
 訳が分からない、とちひろは首を傾げる。この名作をここまで嫌う人など今まで見たことがない。
悪魔ロットバルトによって白鳥に姿を変えられてしまった美しい娘オデット、オデットに一目ぼれをする王子ジークフリート。二人の仲を引き裂こうとするロットバルトの娘オディール。ジークフリートとロットバルトの戦い。
 はるか昔からたくさんの人々に愛されてきたこの作品を、裕子は嫌いだと言う。ちひろははぁと溜め息をついた。
「…それじゃあ聞くけど、この物語のどこが気に食わない訳?詳しく且つ簡潔に教えてちょうだい」
「オデットの呪いはね、『誰も愛したことのない者』に永遠の愛を誓ってもらうと解けるの。だから別に自分が愛する必要はないの。相思相愛でなくても、愛してもらえさえすればこの呪いは解けるのよ」
 相変わらずのふくれ面で、裕子は答える。
「だから?」
「白鳥は自分の呪いを解くために王子を利用しているだけなの。本当は王子のことなんか全然愛してなくて、呪いを解いてくれる便利な奴くらいにしか思ってないのよ。なのに、王子がオデットとオディールを間違ったときには酷く嘆くの。どうして、って。結局自分のことしか考えてないのよ、オデットは」
 ふむ、とちひろは裕子を見た。そんな解釈は、今まで聞いたことがない。それに、面白そうだ。『新解釈・白鳥の湖』というのも、案外うけるかもしれない。
古典的なストーリーでやるよりも評判になるかもしれないな、とちひろは自分で作った台本を眺めた。提出期限は明後日。これから書き直したのでは間に合わないかもしれない。だけど…。
 ふくれっ面の裕子を見て、ちひろはにやと笑う。あの部長は裕子にすこぶる甘い。裕子の我儘だと言えば、きっと多少は許されるだろう。
「――分かった」
「え?」
「今回は『新解釈・白鳥の湖』でいこう。台本、書き換えるから協力しなさい。裕子のお気に召すような作品にしてあげるわ」


              + + +


 ――おや、これは見目麗しいお嬢様方。御機嫌よう。こんな遅くに、どうなされました?ほほう、月が眩しくて寝付けないと?嗚呼、確かに確かに。貴方の大きな瞳はまだ夜空に浮かぶ月のように、きらりきらりと眩しく輝いていらっしゃる。今宵は見事な満月。思わず空を仰ぎ見てしまう、とても美しい月夜で御座います。それでは皆様の瞳にとろりと睡魔が訪れるまで、退屈しのぎの物語など如何で御座いましょうか?まだまだ未熟なわたくしめの物語とて、皆様の暇つぶしくらいにはなりましょう。さてさて、どのような物語に致しましょうか。美しい姫君の悲恋?それともココロを探し求める少年の物語?さぁさ、お嬢様方。なんでもお申し付け下さいな。
 ん?んん?遥か昔の美しい物語聞きたい、と。ふぅむ、難しいご注文だ。かしこまりました。…遥か昔のとても美しい物語。それでは、物語の壺をちょいと覗いてみましょうか。
 この語部、見事に語ってみせましょう。
 皆様は『白鳥の湖』という物語をご存じでしょうか。んん?バレエで有名だ、と?ええ、その通り、『スワン・レイク』。チャイコフスキー作曲のバレエで有名な、あの物語で御座います。皆様は実に博識でいらっしゃる。
 悪魔ロットバルトの呪いによって白鳥に変えられてしまった娘オデット、心優しき王子ジークフリート、オデットとジークフリートの仲を引き裂く悪魔の娘オディール。そして、熱く激しい悪魔と王子の戦い!その素晴らしさは、一言ではとても言いつくすことはできません。白鳥に変えられてしまった娘のなんと哀れなこと、悪魔のなんと憎いこと!
 …ですが、皆さまはその悪魔の事を少しでも考えたことがおありでしょうか?
 何故、悪魔ロットバルトはオデットを白鳥に変えなければならなかったのか。何故、戦う必要があったのか。
 さてさて、皆々様のお時間をちょいと拝借して語りまするは、それは儚き物語。わたくしめのような若輩者が語るのもどうかとは思いますが、どうかどうか、最後までお付き合い下さいまし。
 ――それでは皆々様、ごゆるりと。







    第一幕

 ロットバルトはいつも、一人の女性を見つめていた。
 すらりと長い手足、長く艶やかな髪。しなやかな物腰に、明るい笑顔。その何もかもが、完璧に整っていた。
「嗚呼、なんと美しい娘なのだろう!」
 友人たちと談笑するオデットを見て、ロットバルトは一目で恋に落ちた。あの可愛らしい笑顔を自分に向けて欲しいと思った。いつも彼女を想い、見つめていた。さりげない仕草の可愛らしさに目を奪われた。何事にも懸命なオデットが、愛しくて仕方がなかった。
 ロットバルトは、彼女を心から愛していた。けれど、その自身の感情にロットバルトはわずかにひるんだ。
「悪魔である私が…、卑しき悪魔が人間の娘に恋などしてどうなるというのだ。そんなもの、叶うわけがない。相手にされるわけなどないと分かっているのに。嗚呼、…それどころか、きっと激しく拒絶される。どうすればいいのだろう。一体どうすれば、彼女は私を見つめ、そして優しく微笑んでくれるのだろうか」
 ロットバルトはオデットを見つめていた。どうすれば、彼女の隣に居られるのだろうかと考えながら。
 けれど、ロットバルトはその想いがいかに無謀なことなのかも理解していた。人と悪魔が上手く共存したという話など聞いたことがない。人と悪魔の恋など、なおさらだ。
「…私を見てくれなくても良い。けれど、せめて…」
 ロットバルトは、オデットに小さな呪いを贈った。
 人でなければ、誰に奪われることもない。
触れることが叶わないのなら、手が届かないのなら、ならばせめて誰のものにもならないで欲しい。誰のものにもならず、清らかなままでいて欲しい。身勝手なことだとは分かっていた。けれど、ロットバルトは自分を止められなかったのだ。自身を止める術を見つけられなかった。そして、自身の我儘を詰め込んだ呪いを、オデットへと贈った。
 ロットバルトの呪いは、瞬く間にオデットの全身へと巡る。視界が何か白いものに遮られ、くらりと目眩がした。オデットは気を失い、人ではないものに変貌した。
 ――どういうことなの!
 オデットが目覚めた時、そこは美しい湖だった。澄んだ湖面に自らの姿を映し、オデットは叫んだ。どうして、と。けれどそれは言葉にならず、醜い鳴き声が辺りに響いただけだった。湖面に映るのは、真白な白鳥。何なの、とオデットは湖を覗き込む。
「嗚呼、オデット、目が覚めましたか?」
 不意に聞こえた声にオデットは驚いて振り向き、その声の主にあなたは誰なの、と問いかけた。だが、その問い掛けも人の言葉にはならなかった。
「私はロットバルト。嗚呼、やはり貴女は美しい。なんて素晴らしいのだろう。白鳥に姿を変えても、貴女の美しさは塵ほども損なわれることはないのですね」
 あなたが…、あたしをこの姿に?
「ええ」
 どうして?
「貴女を愛しているから。貴女を、誰にも取られたくなかったから」
 ロットバルトはそっと白鳥の翼に触れた。柔らかなその感触に、うっとりと目を細める。
 お願いです。どうか、もとの姿に戻してください。
「何故?」
 お願い。このままでは親にもお友達にも会えないわ。一人では寂しいし、悲しい。…それに、こんな姿のままで、どうやって生きてゆけというの?
 甲高い、弱弱しい白鳥の鳴き声。…泣いたのかもしれないと、ロットバルトは思った。
 お願いだから、と訴えかけるオデットに、ロットバルトは背を向けた。『私が貴女の傍にいよう』などと、言えるはずもなかった。どんなに優しい言葉でも、オデットにとってはただ忌々しいだけだろう。けれど、ロットバルトは耐えられなかったのだ。愛しい人を誰かに取られるところなど、見たくもないし考えたくもない。…それなのに、オデットの言葉を無視することも出来ない。
何だか、思考が矛盾している。
 思って、ロットバルトは白鳥を見た。
 …愛しい人。
 美しき白鳥、オデット。ならば少しだけ、その呪いを解いてあげよう。





     第二幕

 城の一室で、王子、ジークフリートは頭を抱えていた。
「嗚呼、一体どうして結婚などしなくてはならないのだろう!」
 ――明日の舞踏会で、必ず花嫁を決めなさい。各国の姫君を招いているから。
 前日に母に言われた言葉を思い出し、横暴だ、とジークフリートは机に突っ伏した。そして深く深く溜め息を吐く。
 この国には、はるか昔から続く決まりがあった。
『男子は二十一歳の誕生日までに近隣国の姫君を娶り、王位を継承すること』
 明日はその、二十一歳の誕生日だ。早く結婚しろという母の言葉を聞き流し続けて早数年。もうはぐらかすことが出来ない年齢になってしまった。
「…世継ぎが必要なら、養子でも何でも取ればいいじゃないか」
 呟いて、あんな決まり事など無くなってしまえばいいのに、とジークフリートは頭を掻いた。正直、“国王”という地位にもあまり興味がないのだ。そんなもの、なりたい人間がなればいい。その方が国も上手く治まるだろうに。
 なぜ初めて顔を合わせる好きでも何でもないような相手と結婚などしなくてはならないのか。結婚するのなら、心から愛した人が良い。けれど、ジークフリートはまだその愛しい人を見つけることが出来ないでいた。
 はあ、ともう一度溜息を吐く。憂鬱になり、ジークフリートは気晴らしに湖へ狩りに出掛けることにした。
 空には、明るい月。煌々と輝き、足元を静かに照らし出してくれる。
 ひたと、鹿に向けて弓を構えた。…が、矢は放たれることはなかった。白鳥が軽やかに泳いできたと思うと、白鳥は見る見るうちに美しい娘に姿を変えたのだ。真白な羽がひらひらと舞い、華奢な肩に長い髪がふわりと掛かる。
 目を疑った。
 まさか、このようなことが起こりうるものなのか、と。
「……君は?」
 月明かりの中に真白な体を晒すその娘に、ジークフリートは一目で心を奪われた。なんて美しい娘なのだろう。
 この娘は、まさか… 
 …まさか、湖の妖精だろうか。
「…あたしは、オデット」
 希薄な、細い声。
「貴方は、誰?」
 その消え入りそうな声に、ジークフリートはわずかにたじろいだ。なんだか目を離したとたんに消えてしまいそうで、目が離せなくなった。
「僕はジークフリート。この国の王子だ。君は…、妖精?」
 その問いに、オデットはふふと笑った。希薄で、いつ消えてもおかしくないような儚い微笑み。体の向こう側が、透けて見えてしまいそうだ。
「あたしは人間よ。…元はね。悪魔に呪いを掛けられて、こんな姿に…」
「…悪魔に?」
 ええ、とオデットは悲しげに頷いた。
「…月夜にだけ解ける、とても忌々しい呪い。この呪いは、『まだ誰も愛したことのない人』に永遠の愛を誓ってもらうと解けるんですって」
 だけど、こんな姿のあたしを好いてくれる人などいない。そう言ってオデットはすがるように、悲しげにジークフリートを見つめた。
「そうか。…ならば、僕が貴女を愛そう。心から。幸いなことに、貴女に出会うまで僕は誰かを愛したことはなかった。明日、城で行われる舞踏会に来ると良い。その時に、貴女への永遠の愛を誓おうじゃないか」
 真摯な瞳でオデットを見つめ、ジークフリートは言った。必ず、僕がその呪いを解いてあげようと。
「…本当に?」
「もちろんだ」
 ありがとう、とオデットはジークフリートに抱きついた。これで元の姿に戻れるわと、わずかに、口角を上げて。

          ・

 どうしよう。どうすればオデットを止めることができるのだろう。
 オデットと王子の抱き合っているシーンを見てしまったロットバルトは悩み、ふらふらと歩き回っていた。
 いっそのこと王子を殺してしまおうか…。いや、しかしオデットが王子の事を心から好いているのであれば彼女を悲しませることになってしまう。それならば、彼女の幸せのために身を引くのもやぶさかではない。しかし彼女が呪いを解き私から逃れるためだけに王子に近づいているのだったら…?だったら、そのまま手を出さずに見ているのは嫌だ。
 …あの王子は?王子は彼女の美しさに心を奪われているだけだろうか。ああ、あの王子が先に誰かと結ばれてしまえば呪いが解けることはなくなるのに…。
 ――誰かと?
 思いついて、ロットバルトはニヤリとした。
 ならばその誰かを造ってしまえばいいのだと。






     第三幕

 ――この役目を終えたら、私は一体どうなるのだろう。
 黒いドレスに身を包み、ジークフリートのエスコートを受けながら、オディールは嘆いていた。
 オデットという娘には、王子が呼んでいるからと、テラスに行くように言っておいた。そして今、オデットのいるべき場所に私がいる。あの悪魔は言った。もし王子が、お前がオデットではないと見破ることができたら、潔く身を引こうと。
 なら、私は?
 王子を騙して、オデットを騙して、それから?そうしたら、私の役目はそれで終わり?
 ぐるぐるとした思考を遮るように高らかな鐘の音が響き、華やかに、舞踏会が始まった。オディールと王子は手を取り合い、軽やかにワルツを踊った。素晴らしいわ、とどこからか感嘆の声が聞こえる。
 ――あの女性ならジークフリート王子にふさわしいわ。
 ――どこの国の王女様かしら、美しい人。
 そのささやき声を遠くに聞きながら、オディールはわずかに目を伏せた。この男は、見破ることができるのだろうか、と。
「オデット、君は本当に美しいよ」
「…ありがとう」
 やっぱり、分からないのだろうか。
 本物の愛など、あり得ないのだろうか。
 …早く気付いて。貴方が、私に永遠の愛を誓う前に。
 早く気付いて。そうすれば、私は傷付かずにすむ。だからどうか、お願いだから。
 ジークフリートはオディールの頬を撫で、笑んだ。優しく、穏やかに。全ての幸せを感じようとでもするように。彼はオディールの額に唇を寄せ、またふわりと笑む。オディールは静かに微笑みを返し、思考する。
 どうして、気付いてくれないのだろうか、と。
「オデット…。君に誓おう。永遠に、君を愛し続けると。君にこの身を、この命を捧げよう」
 どうして…。
「…どうして、それを私に言う」
 呟いて、オディールは笑った。
 泣きだしそうだった。
 これで、私は役目を終えてしまったのか、と。外では、しとしとと雨が降り出していた。
「…オデット?」
「『オデット』?ははっ、気付きもしないのか!オデットに永遠の愛を誓うと言ったのに、お前はその程度にしか想っていなかったのだな。私はオデットじゃあないんだよ!」
 周囲がざわめき立つ。どういうことだ、とジークフリートはオディールの襟首をつかみ、詰め寄った。お前は何者だ、オデットは何処にいる、何故オデットではない人間がこんなところに居る。
 …なんて醜い。
 オディールはわずかに――周囲に気付かれない程度に、表情を曇らせた。
間違いとはいえ、今まさに永遠の愛を誓った相手だというのに。ここまで容易く、冷たく突き放せるものなのか。優しく私の頬を撫でたあの人はどこへ行ってしまったのだろう。
「悪魔の事は知っているのだろう?」
 にやりと、オディールは意地悪く口角を上げた。
「私はその悪魔、ロットバルトの娘オディールだ!あはははっ、残念だったねぇ、王子サマ」
「貴様…っ!」
 オディールは笑った。
 美しく整った顔を歪めて迫るジークフリートを前に、高笑いをした。
 愚かな王子を嘲笑い、自身の運命を呪い、思い切り腹を抱えて笑った。プライドも何もいらない。何もかもすべて、全部投げ捨ててしまいたい。
「貴様の所為でっ!」
 ジークフリートは警備の男に剣を持ってこさせると、きらりと光る先端を私に向けて構えた。凍てつくような憎悪の瞳が私を見据える。
憎しみと憎悪に殺されるのか。偽りの為に生まれた私には相応しい最期だ。
「…私を殺すのか?」
 ジークフリートはただ無言で、オディールを睨みつける。
「私を殺してくれるのか?ああ、有り難い。早く殺せ。跡形もなく、もともと存在しなかったもののように私を切り刻んでくれ」
 オディールは両腕を広げ、早くしろ、と呟いた。
「…死を、望むのか?」
「他に何を望めというんだ?」
 オディールは笑った。笑いながら、涙をこぼした。
 私はもう役目を終えた。与えられた仕事はやった。だけど、私はもうこれ以上の役目を持たないのだ。何の役割も持たずに生きることなど私には出来ない。私にはもう生きる理由がないんだ。だから早く。早く、殺してくれ。
「…ならば殺しても意味がない」
 王子は剣を鞘に納めると、小さく舌打ちをした。
「殺さないのか?」
「罪人に褒章を与える義理はない。生きて自身の罪に苛まれ、永遠に苦しみ続けるがいい」
「…私を、助けてはくれないのか?」
 遠くで雷が鳴り、オディールの嘆きはそれにかき消された。
 鋭い金色の光は、窓の向こうに飛び立つ白鳥の影を映しだした。ああ、もう終わりだ。私の役目は、これで本当に終わった。
「…そんな…」
 絶望の色。
 ジークフリートは窓の外を見つめ、呆然と立ち尽くす。
「追い掛けてみれば?まだ間に合うかも知れないよ?」
 間に合うわけがない。
 オデットが人の姿に戻る術はこれでもうなくなった。希望は、潰えた。
オディールは思った。
 早く、あの悪魔を殺してしまえ。
 そして私を助けてくれと。
 白鳥を追いかけ走っていくジークフリートの背中を見つめ、オディールは呟いた。
「私は、貴方達を騙すためだけに生まれてきたのだから……」
 オディールは、悪魔の言葉を心の中で反芻した。
 ――もし奴がお前とオデットを間違えたら、オデットは永久に白鳥のままだ。
 貴方は私に、これ以上の役目を与えてはくれなかった。
 嗚呼、早く死んでしまえば良いのに。






    第四幕

「――ああ、良く来ましたね。ジークフリート王子」
 白鳥を追いかけたその先、初めてオデットと出会った湖に居たのは、一人の老紳士。湖岸に腰を掛け、美しい白鳥を優しく胸に抱いて穏やかに微笑んでいる。
「…貴方は?」
「この娘の、恋人ですよ」
 老紳士は白鳥の背を撫で、呟いた。白鳥は、ぴくりとも動かない。
「ほら、美しいでしょう?…真っ白で、しなやかで、そして軽やかだ。白鳥に姿を変えてもなお、命を落としてもなお、彼女の美しさは塵ほども損なわれはしない」
 狂気に甘く歪んだ表情は、酷く幸せそうだった。叶わぬ恋に身を滅ぼそうとしている哀れな悪魔。
「…お前の所為で」
「…何のことです?」
 ジークフリートの言葉に、ロットバルトは小首を傾げた。美しい白鳥の背を撫でながら、怒りに燃えるジークフリートを見上げる。
「お前の所為で彼女は命を失ったのか!」
 いきり立ち剣を抜く姿に、ロットバルトはわずかに微笑んだ。一体何を怒っているのですか、と。
「ほら、見て下さい。安らかでしょう?彼女はこうなることを望んでいたんですよ。だからこんなにも、とても穏やかに目を閉じている」
 白鳥の目元に唇を落とし、小さく音を立てる。そして、微笑を湛えたまま白鳥を抱きしめる。
「私も、もうすぐそっちに行くからね」
 共に幸せになりましょうと呟いて、ロットバルトは何か良く分からぬ言葉を吐いた。
 それは、滅びの呪文。自らを堕とす為の小さな呪い。自身に向けられたその呪いは黒く歪み、心臓の動きをゆるりと止めた。ロットバルトは、人間に恋をした哀れな悪魔は、最愛の人を胸に抱いたままそこに崩れ落ちた。
「……くそっ」
 何も出来ずに終わったジークフリートは先ほど抜いた剣を自分の首に押し当てた。もういい。どこまでも着いて行ってやろう。地獄の底で決着を付けてやる。
 吹き出した血液は周囲に飛び散り、真白な白鳥を赤く見事に染め上げた。

 しばらくして湖へと戻ったオディールは、その惨状にはぁと溜め息をついた。
「――終わってしまったのか」
 呟いて、オディールはジークフリートの亡骸を抱え上げた。
 赤黒い血液にまみれた体は酷く冷たく、重たかった。人の命とはこんなにも容易く消えてしまうものなのか、とオディールは無感動に思う。
「…これから、どうしようかなぁ」
 自分で死ぬ勇気など、これっぽっちもなかった。
オディールは無気力に地面に横になり、ジークフリートを胸に抱いたまま暗い夜空を見つめた。このまま眠っていれば私も死ぬことが出来るだろうか。私も、この世界から消えることが出来るだろうか。
 冷たい夜風に、そう思って瞳を閉じた。
 永遠に、目が覚めませんようにと祈りながら。








 ――さて皆様、今宵の物語はいかがでしたでしょうか?
 嗚呼、かくも儚き物語。
 憂いの月が良く似合う。
 まだ明け遣らぬ空に、残月が浮かぶ。
 儚き調べは風に乗り、有明の月にじわりと溶ける。
 さて皆様、これでわたくしめの物語はお終いに御座います。わたくしめの持つこの小さな小さな物語の壷は、ほらこの通り。もう空っぽになってしまいました。
 月もそろそろお休みのご様子。
 ほら皆様、ご覧下さい。
 東の空がじんわりと、紅く色鮮やかになって参りました。
 有明の月も真白で鮮やか。あぁ、実に美しい。薄紅く染まったたゆたう雲も風流なもので御座います。
 さて、お次はきらきらと眩しい太陽に相応しい、爽やかで晴れやかな物語でもいかがで御座いましょう?
 わたくしめのこの頭の中には、物語の壷が百も二百も御座います故。
 んん?なんと、もう眠たい?
 ああ、これはこれは。気付きませんで、大変な失礼を致しました。お美しいお嬢様方。
 皆々様の静かな夜、眠りの時間は、わたくしめのささやかな物語に姿を変えたのでしたね。
 確かに確かに。
 皆々様の瞳は、もううつらうつらと扉を閉じようとしていらっしゃる。
 さすがにもうお疲れで御座いましょう。
 月夜に物語を紡ぐのと同様、朝日に身をゆだねるのもこれまた一興。
 朝日と共に眠りに就く。
 そんな贅沢をするのもたまには良いもので御座います。今日はもう、小鳥たちの子守唄に身を任せると致しましょう。
 それではまた、いつかどこかでお会いできることを祈りつつ、これでお別れと致しましょうか。
 ――それでは皆々様、良い夢を。


              + + +

「それでは、『新解釈・白鳥の湖』の成功を祝しまして、かんぱーい!」
 演劇部部長であり、今回の語部である上野将太は高々とグラスを掲げて言った。かんぱーい、と周りの演劇部部員たちもグラスを掲げ、ちりんちりんと鳴らしていく。
「山本さん、今回の台本、本当に良かったよ。ありがとう」
「それは裕子に言ってくれる?今回の功績は全て裕子のものだから」
 笑って、チューハイをグイッと呷る。
「井上さんの?」
「そうよ。あの子が白鳥の湖は嫌いなのって言い張るから、書き直したの。それがなかったら既存のストーリーにちょっと手を加えただけで終わっていたわ」
 ふうん、と将太はウーロン茶を口に含む。そして少し離れていたところに座っていた裕子においでおいでと手招きをした。
「何?」
「悪魔の娘オディール、今回の劇の感想を一言」
「一言じゃ語りつくせない」
 おしぼりのマイクを将太に押し返しながら、裕子はちひろの横に腰を降ろした。
「…でも、良かったわ。『麗しき白鳥の真実』みたいな感じがすごく」
「あはは、なんかの見出しみたいね。そう言えば、何で今回オデットじゃなくてオディールを選んだの?ずっと主役がやりたいって言ってたのに」
「あ、それ俺も気になってた。オディールって主要人物の中で一番出番少ない役柄じゃん」
 二人の問いかけに、裕子は「一番かわいそうな子だから」、と答えた。
「人を騙すためだけに生まれて、周りに振り回されて、死ぬことも出来ないとっても可哀そうな子」
「でもオディールだって自分で選ぶことが出来たと思うんだけどなぁ」
 将太の呟きに、裕子はかすかに笑った。
「無理よ。だって、生まれた時にもう自分の人生が決められていて、そういう目的のためだけにいるんだもの。自分の意思なんか考慮されないわ」
「そうかなぁ」
 呟く将太に、裕子は多分ね、と答えた。
「…それにきっと、『そんなことは許されない』ってオディール本人が思い込んでいるんじゃないかしら?『人を貶めるために生まれた自分に選ぶ権利なんかない』って」
 でもね、と裕子は続ける。
「でもね、オディールは生きることが出来る分、これからがとても楽しみなの。あのまま風に命を攫われ、息絶えてしまうのか。それとも惰性に任せて生きていくのか。生きることを選んだのならばそこから立ち直っていけるのかどうか、思いを巡らすだけで楽しいわ」
 言って、ビールを一気に飲み干して裕子はふふっと笑った。
 ちひろと将太はふらりと倒れそうになった裕子を両サイドから支え、顔を見合わせた。
「…照れ隠し、かな?」
「そうみたいね」
「可愛いなぁ」
 愛しそうに裕子の額を撫でる将太に、ちひろはにこりと笑いかけた。
「前に、部長はお兄ちゃんみたいで大好きだって裕子に聞いたことがあるわよ」
「『お兄ちゃん』じゃ困るんだよなぁ」
 残念そうに呟いて、将太はもう一度裕子の額を撫でた。
 決して叶うことのない恋物語、これにて終焉。




                                     End



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