君に「好き」と言えたら自分を好きになれた。
◇
すっと立ち上がった
シノンは虚空をじっと見つめた。その先にあるのは彼女だけが見えるウィンドウだろう。
しんと静まり返る@ホームの中、彼女はその顔を俯かせぽつりと口を開いた。
「……こんなの」
垂れた青髪が顔にかかりその目元は分からない。
その様子をアトリはじっと見上げた。シノンの拳がぐっと握りしめられている。
「いや――そうね、こういうことも、覚悟しておくべきだった。でもこれじゃ……」
戸惑うように呟きを漏らし、しばらくの間彼女は立ち尽くしていた。
その様子にアトリは悟る。今しがた届いたメール――それで彼女が何を知ったのか。
しばらくの沈黙が部屋を支配した。
沈み込むような重苦しい空気にアトリは目を伏せる。
「……脱出しましょう。この街を」
しばらくの間を経て、シノンがはっきりとした口調でそう口にした。
その声色は努めて平静を保っている。そのことはアトリにも分かった。
その気丈な様子にアトリは何も言うことができない。自分がかける言葉など彼女には不要だろう。
シノンは強い。短い付き合いではあるが、アトリは彼女に大きな信頼を置いていた。
では彼女は自分をどう思っているのだろうか。足手まとい? 面倒な奴? そんな考えが脳裏をよぎった。
アトリはかぶりを振る。
そんなネガティブな思考に囚われることはもうしない。
そんなアトリをよそにシノンはウィンドウをにらみ付けていた。今後の動向に思考を巡らしているようだった。
「……今は何とか身を隠せているけど、今の私たちのステータスはまだ危険域。ここにとどまっていても何もできない」
「すいません、杖があれば私が回復役をできるんですけど」
「……別に貴方のせいじゃないわ、アトリ。だけど今は別の拠点を見つけないといけない。
……この街じゃいつまたあのPKに遭遇するか分からない」
シノンの言葉にアトリはこくんと頷く。
元々この@ホームにだってそれほど長く居るつもりはなかったのだ。
ただ一時的に身を隠す為の場所の筈が、予定より長居してしまっている。
それは疲労もだが、一つの危機を乗り越えたことで緊張が弛緩へと変わったことも大きい。だが状況は依然として毅然なままであり、落ち着ける時間などありはしないのだ。
「……さしあたりマク・アヌを脱出して、日本エリアに向かいましょう。
モラトリアム――このイベントなら安全、とまではいえないでしょうけど好戦的なPKは集まらない筈」
シノンの言葉に頷き、アトリは意を決して立ち上がった。
また、殺し合いの場に躍り出る。そう思うと肩にひどく重い圧が乗りかかるが、しかし立ち止まろうとは思わなかった。
「シノンさん。じゃあ、あの人も」
「…………」
アトリはそう言って寝静まる女性――ランルーくんを示した。
シノンは一瞬複雑な顔を浮かべた後、黙って頷いた。
考えるまでもなく彼女を一緒に連れていくことにはリスクが伴う。歩けない以上背負っていかなくてはならず移動速度はそれだけでガクンと落ちる。
そうでなくとも彼女とは今し方まで殺し合っていた仲。今は静かだが起きた時にどう出るのかはまったく掴めない。
普通に考えれば連れていく理由など全くない。
アトリだって彼女には複雑な気持ちを抱いている。
好意を抱いている訳ではない。先のメールにはウズキの名があった。自分を守るため命をとしてランサーに立ち向かった刑事。
覚悟していたこととはいえ、それでも一縷の望みさえ費えた時、アトリは己の身体から力がすとんと抜けたのが分かった。
それでも意志を途切れずにいることができたのは、一重にシノンが隣に居たからだ。
今一度ランルーくんを見下ろす。メイクが落ちた横顔はまるで今まで戦っていたピエロとはまるで別人のようだ。しかし紛れもなく彼女なのだ。アトリには分かる。
そして状況的にもウズキをPKしたのは目の前に横たわる彼女の可能性が高いのだ。
「分かった……じゃあ行こう。私が先導するから、アトリはその人を抱えて街を出よう。道、分かるよね?」
「は、はい。大丈夫だと思います」
アトリは礼を述べ、ランルーくんの元へと近寄っていた。
彼女をおぶる形で抱える。自分よりも長身のPCだが、その身体は奇妙なほどに軽かった。
触れ合った身体は温かく柔らかい。アトリは神妙な面もちでその身体を抱えた。
「行こう、アトリ」
シノンは@ホームの入り口で準備を整えている。
彼女には本当に感謝している。ランルーくんのことは、完全に自分のわがままだ。
それでもいやな顔一つせず、それを受け入れ後押しさえしてくれた。
ならばこそこの機会を不意にする訳には行かない。
アトリはランルーくんの顔を見上げた。柔らかなベージュの髪が顔に掛かる。
ゆっくりと寝息を立てている彼女と、話すのだ。話してその声を聞く。それは自分がやらないといけないことだと思う。
自分はデータドレインを経て彼女の存在そのものを覗いた。
だから向き合ねばならない。奇妙な形でとはいえ自分は彼女と繋がりを持ったのだから。
「……行きましょう」
「うん、アトリ。分かってると思うけど、気を付けて。
前に話した黒服のPKも、たぶんまだこの街にいる。人が集まりそうな場所をアイツが離れるとは思えない」
@ホームの出口の前で二人の視線がかち合った。再び
死地へ出ていく。そのことを認識して再び緊張が走った。
一瞬の逡巡を経て、シノンが一歩踏み出した。アトリも精一杯の勇気を振り絞り、@ホームを後にした。最後にデス☆ランディへの挨拶も忘れずに。
マク・アヌ脱出。
先ずはそれを為さねばらならない。
できることなら、誰にも見つからないまま。
◇
シノンは努めて冷静に行動しようとしていた。
友人たちの脱落を告げられつつも、取り乱すことなく落ち着いた思考を早い段階で取り戻している。
その判断も決して間違っていた訳ではない。どの道今のマク・アヌに安全な場所などないのだから、遅かれ早かれ動かねばならないだろう。
しかし、その行動に少しだけ焦りが入っていたことは否めない。
アトリがヒーラーとして活動できない以上、もう少しだけシステムの自動回復に身を任せておいてもよかっただろう。
この段階で動き出したことはミスではないが、正解だったとも言い難い。
とはいえ、そんなことは些末な問題かもしれない。
どう選択をしようと、“彼ら”から逃れることなどできないのだから。
彼女が“彼ら”の力に一端に触れたが、それはあくまで一端。
全てではない。
◇
アトリとシノンがマク・アヌの街を歩いて数分。
陽の光に照らされ明るくなった赤煉瓦の街を、彼女らは迅速かつ警戒を忘れずに移動していた。
前をファイブセブンを握りしめたシノンが先導しランルーくんを背負ったアトリが後をついていく形になる。
一歩一歩が緊張感で押し潰されそうなほど重かった。
「……待ってください、シノンさん」
ふと立ち止まったアトリにシノンが訝しげな表情を浮かべる。
憑神を宿して以来強化された聴覚で、アトリはその音を拾い上げた。
目を瞑り、感覚を先鋭化させる。街では変わらず水の涼やかな音が響いていた。何度も聞いたマク・アヌの街の音。その中に異物がある。
さわりと、アトリというPCを構成する金色の髪が揺れた。
「――下です。下から、何かが来ます!」
アトリがそう叫ぶのとほぼ同時に、
「……っ! これは――」
マク・アヌの石畳を素手で突き破り何かが飛び出してきた。
轟く爆音。煉瓦の屑がぱらぱらと舞い散る。炸裂する破壊の中心に男は居た。
無個性な黒い服。目元を不気味に隠すサングラス。その行いと相反するように平凡な外見。
空へと躍り出たその身体が、地面へと落ちるまでアトリにはやけに遅く感じられた。
彼女はギリギリのタイミングで避難に成功していたが驚いて思わず尻餅を着いた。ランルーくんの身体が揺れる。
そして圧倒的な威圧感に息を呑んだ。
マク・アヌの街を容易く破壊して見せた男は、すっと着地すると薄く口元を釣り上げている。
「ほほう、アイコンがあるからと来てみたが、ふむ……」
男がサングラス越しに視線を注ぐ。アトリへではない。シノンへだ。
アトリと同様、間一髪のタイミングで破壊から逃れた彼女は、男を見上げギリ、と悔しげに顔を歪ませた。
「生きていてくれて嬉しいよ、お嬢さん」
「…………」
「おやおや連れないな。5時間と57分ぶりの再会だと言うのに」
風貌、能力、そしてそのやり取りでアトリは悟る。
この男こそ、シノンがこのデスゲームで初めて遭遇したという規格外のPKだと。
「さて、先程の代償。ここで払ってもらうか、お嬢さん」
無個性な顔を上書きするように、獰猛でドス黒い笑みが浮かび上がった。
◇
メールの確認を済ませたスミスはマク・アヌの探索に乗り出していた。
他の人間を取り込んで行くのと並行してこの空間についての情報を集める為である。
マトリックスらしき空間にあるマトリックスではありえないプログラム群。
その矛盾を解消する為にも、調査は必須。
先のワイズマンらとの一戦でスミスは上空からマク・アヌを一望した。
ならば次はそれで見えない場所――入り組んだ水路の内側を確かめていた。
「妖精のオーブ……実に便利だがまた見覚えのないプログラムだ。こんな得体のしれないものを使うのは正直抵抗があったのだがね」
クリキンがドロップしたアイテム、妖精のオーブ。
それはThe Worldにおいてダンジョンマップを一気に照らしだす非常に有用な効果を持ったアイテムだ。
マップ調査においてこれほど有用なものはないと試しに一つ使ってみたところ、一エリア分だが詳細なマップデータが手に入った。
「しかしそれも追々分かるだろう、お嬢さん方を取り込めばな」
スミスは対峙する三人の人間たちを一瞥した。
内一人は少なからず因縁がある。ゲーム開始当初に出会った忌々しい青髪の女――今度は逃しはしない。
緑の服を着た少女と道化師の衣装に身を包んだ妙齢の女性は見覚えはなかったが、まぁ何であれやることは同じだろう。死なない程度に痛めつけ上書きするだけだ。
妖精のオーブのもう一つの効果。それはマップを照らしだすと同時にそのエリア内に存在するプレイヤーの位置も表示することだった。
こちらも非常に有用だが、この効果はマップデータと違い一時的なものでしかない。マップ内にプレイヤーのアイコンが表示されるのは、時間にして一分弱のみだ。
これは(スミスは知る由もないが)The World両リビジョンを通して変わらない仕様だった。
とはいえスミスにとってその事実は大して枷になっていない。
彼が接触を持とうと思えば、その位置に向かって真っすぐと突き進めばいいだけなのだから。
ゲーム内の障害物など、彼にとってはバターのようなものだ。
「では始めるとしよう」
「……っ!」
スミスはそう言ったのと同時に、青髪の女――シノンが動いた。
早撃ちの要領で銃口を淀みない動作でスミスへと向け、引金を引く――
「シノンさん!」
――こともできずシノンの身体は吹き飛ばされた。
同行者の言葉が響く。スミスは口元を釣り上げ己の手に残る脆弱な感触を噛みしめた。
前では吹き飛ばされたシノンの身体が跳ね飛んでいる。素手の一撃でああだ。
「ふうむ、所詮は救世主でもない人間ではこんなものか。
ああ、一応言っておくが以前使った手は食わないぞ、お嬢さん。
君が私を撃退したことは全く偶然ではなかったにせよ――決して必然ではなかった。一度限りのまぐれでしかない」
スミスは悠々と言葉を紡いだ。
一撃で決めることもできたが、【上書き】を施す為に死なないよう手加減はした。先のネジのマシンのような失敗は侵さない。
苦しみ悶えるシノンの姿を前に、スミスは嗜虐的な笑みを浮かべる。プログラムらしからぬ強い感情の発露がそこにはあった。
「“結果”には必ず“理由”がある。
君が私を曲がりなりにも撃退せしめた“理由”は一体何なのか、考えていたのだがね。
一つしか思い浮かばなかった。私が未知のプログラムに対し無警戒過ぎた――それだけのことだとしか。
そしてその“理由”は既に私にはない。ならばもう勝機はないということになるな、お嬢さん」
言葉を紡ぎながらスミスはつかつかとシノンの下へと歩み寄る。
靴音が不気味にマク・アヌに反響する。
「……ほう?」
「行かせません」
それを阻むように一人の少女がスミスの前に立ちふさがった。
緑服の少女だ。彼女は決然とした表情でシノンを守るように立っている。
シノンは既に戦闘不能だろう。道化師の服を着た女性は未だに眠っている。となると、この少女がこの集団に残された唯一の戦力ということか。
「いいだろうどの道皆取り込むつもりだ。順番がどうなろうと私としては構わない」
「私が……貴方を倒します」
強い意志の籠った声でアトリはそう宣言した。
同時にその身体に緑の紋様が浮かび上がる。幾何学的な線に包まれたその姿にスミスは笑みを崩し訝しげな表情を浮かべた。
「――来て、イニス」
ハ長調ラ音が鳴り響く。
と同時に、
◇
世界が塗り替えられた。
マク・アヌのファンタジー然とした街並みは消え去り、データの奔流渦巻く超常的な空間へと接続される。
データとデータが溶け合い螺旋を描いて新たな数値を生み出す。その姿はさながら荒れ狂う海のよう。
世界には本来は存在しない筈のエリア――憑神空間。
「ほほうこれは」
その空間へと誘われたスミスはその光景を興味深そうに見下ろす。
今までも何度か見覚えのないプログラムや現象に行き合ったが、これは格別だ。
シノンの使った水晶や先のネジなどは見覚えのないものではあったが、何かしらの理の枠に収まっているであろうことはつかめた。
だがそれらと比べこの力は少々異質だ。そうこの世界そのものから外れる感覚――そうこれはまるでプログラムでありながらその枠から抜け出した自分の存在に似ている。
「面白い、実に興味が湧いたよ」
そう口にしながらスミスは前を向く。
そこには自分へと揺るぎない敵意を向ける何かが居る。
一片の汚れさえ見当らない白い体躯をしたそれはまるで天使のようだった。
背中に背負った金色の円環やステンドグラスを思わせる青い模様も相まって神々しくすらある。
「……行きます」
声が乱れ狂う空間を通して響き渡る。
それを見たスミスは獰猛な笑みを浮かべる。姿は違えど、どうやらあれはあの少女――アトリであることに変りはないらしい。
となれば彼女を取り込むことができれば――
イニスがその両腕を上げ光弾をまき散らす。スミスは思考を中断しその光弾を避けていく。
精度はそれほどではないが一発一発が速い。が、スミスにしてみればどれも止まっているのと同じことだ。
スミスは世界の理を無視し身体をあり得ない方向へと捻じ曲げ避けていく。
先のネジ――クリムゾン・キングボルトとの一戦においてそうだったように、スミスにとって射撃ほど無意味な技はなかった。
「なら……!」
アトリもまたそのことを痛感したのか光弾を発射するのを止め、代わりにその腕に青白く光るブレードを灯す。
そしてその身に光を纏い突進する。猛然と迫る【惑乱の飛翔】。だがスミスは臆することなくそれを迎え撃つ。
二つの力が激突し、空間が振動する。弾かれたのは憑神・イニスの方。
しかしアトリは止まることはない。その巨体を転換させ接近したスミスに攻撃を喰らわせる。
だが、
「遅いな、天使(Angel)」
「そんなっ……憑神と打ち合うなんて」
四方八方から襲いかかる青の閃光をスミスは難なく打ち返していた。
降り注ぐ光弾の雨、高速で振るわれるブレードの攻撃。そのどれも簡単に振り払っている。
その手には何もない。徒手空拳で憑神と互角に渡り合っているのだ。
否、僅かにスミスが押していた。
「私も昔は天使に煮え湯を飲まされたものだが、今の私にとっては恐れるに足らんな」
この場に来る直前で取り込む筈だった“翼のない天使”を思い出しつつもスミスは嗤った。
今や自分は完全に自由な存在である。
創物主――アーキテクトを筆頭とした“神”たちでさえ自分の行動を制限することはできない。
完全なる自由。それを得たスミスにとって“天使”などもはや取るに足らないものでしかない。
「まだですっ……!」
あらゆる攻撃を打ち返され徐々に追い詰められていくアトリだが、それでも諦めてはいなかった。
スミスと打ち合っていた身体が不意にすぅ、と薄れていく。【反逆の陽炎】その突然の動きにスミスの動きが止まる。
「これで……」
スキルを利用し背後を取ったアトリ/イニスがその身を展開する。
【データドレイン】――高まり行く光にスミスは何か危険なものを感じ取った。
そして同時にその身を躍らせた。
今度は全開だ。死なないように、などという思考はない。救世主の力を取り込んで以来異様に鋭敏になった感覚で、彼はその危険性を察知していた。
光の高まりへと飛び込み、全ての力をそこへと叩き込む。
「え」
アトリ/イニスの言葉が漏れる。
同時に何かが砕ける音がした。
――プロテクトブレイク。
◇
そして見慣れた空間が戻ってきた。
憑神を維持できなくなったアトリの身体が地面に転がり、マク・アヌの街に二人の少女の身体が倒れ伏す。
スミスはスーツの汚れをはたき落しながら二つの身体を無慈悲に見下ろしている。
この勝利に昂揚や安堵ましてや達成感などは一切感じてはいなかった。
自分には負ける“理由”がなかった。それだけのことだ。
「だが今の現象……興味深いな。そうだな、君だけは絶対に取り込まなければ」
言いつつスミスはアトリを見下ろした。
先の現象を発現させた彼女は今苦悶の表情を浮かべている。何とか立ち上がろうとしているようだが、無理だろう。
「世界の変容もだが、最後に見せたデータの変動も見逃せない。
いや君が死なないでくれて助かるよ。手加減はできなかったからな」
スミスは口元を釣り上げる。そしてアトリの身体を取り込もうと手を伸ばす。
だがその直前、地面におかしな影ができていることに気付いた。
「む」
「アトリ! 逃げるよ」
それがシノンが前に使って見せたあの結晶のものであると気付くのと、彼女の声が響くのは同時だった。
スミスは舌打ちし頭上に出現したそれを避ける。かつての二の轍は踏まない。これを弾いてはいけないことは分かっている。
だが結果としてスミスの動きに僅かに隙ができた。その間にシノンがアトリの手を引き上げ走り去らんとしていた。アトリとの一戦の間に彼女は動けるようになっていたということか。
出し抜かれる形となったスミスだが彼は笑みを崩さなかった。
またしてもあの女はこの手で自分を退けるつもりらしい。効かないとわざわざ忠告してやったというのに。
もしかしたら自分は犠牲になってもアトリはだけは助ける――そんなこと考えているのかもしれないが、意味はない。
何故なら、
「この先は行き止まりだよ、お嬢さん」
シノンが逃げようと走り出した先にも彼が居るからだ。
マク・アヌの建物の影からぬっぺりと現れたもう一人の彼。
コツコツと靴音を響かせ歩いてくる彼は、紛れもなくスミス一人だった。
「なっ……」
シノンが息を呑むのが分かった。そして信じられない、とでもいうように振り向き、そして変わらず存在するスミスを見た後、その表情が絶望に歪んだ。
そして少女たちは挟まれる形となる。全く同じ顔をした、全く同じ殺意を宿した、全く同じ殺戮者に。
「やあ、お嬢さん。また会ったな」
「そして――お別れといこうか」
一瞬見せた絶望を噛みしめるように消し、シノンは銃を構えた。
即座に一方のスミスが反応し、その身体が宙へと跳ね飛ばされた。陽が上ったばかりの空を舞うシノン。
苦悶に満ちた呻き声を上げ彼女はどこかへと跳ね飛ばされていった。
「やれやれまた加減を間違えたか。全く厄介なことをしてくれるな、あの榊とかいう男は」
少し勢いを付けすぎたか。その光景を見たスミスはそう思いやれやれと肩を竦めた。
スミスとしては死なない程度に納めたかったのだが、しかしこれが中々上手くいかない。
死体がすぐに消えるというのはスミスにしてみれば結構な枷であった。
現にシノンに少々やり過ぎてしまったではないか。
「どこに行ったにせよ、あれではもう生きてはいないな」
「ま、いいだろう。あの女へのお礼はこれで済んだ」
「それよりも見るべきは」
二人のスミスは同時に残された少女を見た。
そこには痛みに震えるアトリの姿があった。
◇
憑神を破られたアトリの意識は混濁していた。視界が歪み、上下の感覚が正しくつかめない。
それでも、そんな中にあってもアトリは場の状況を理解しようと務めていた。生き残る為に。
だが皮肉にもその結果、彼女は知ってしまった。自分を支えてくれていた手が、このゲームであって共にあった手の温もりが消えてしまったことに。
「あ……」
それが何を意味するのか。
気付いた時、アトリの心の芯ががたがたと音を立てて崩れていくのが分かった。
シノン。彼女の優しい両手は、もうそこにはない。
代わりにあるのは、混濁する視界に浮かぶ獰猛な笑み。
アトリの瞳から光が消える。ただの空白となった瞳は、厭になるほど何もない偽物の空を映した。
「さて君もこれで私たちの一員だ」
そう言って男はアトリへゆっくりと手を伸ばしてくる。
倒れ伏すアトリには何の抵抗もできない。
男が内側へと入ってくるのを、ただ待つだけ。
這入られ
弄ばれ
蹂躙される。
その感覚はひどく不快で、所作に自分への思いなど一切感じられない。
身体を通り越して心までも、踏み荒らされる感覚をアトリはただ甘んじて受け入れる。
少し前の彼女ならば、それでも抵抗したかもしれない。
ハセヲの言葉を思い出し、シノンに支えられ、歩むことを選んだ彼女ならば。
しかし彼女は再び折れていた。そんなちっぽけな意思など、この男の暴力の前では何の意味も持たなかったのだ。
そうして絶望の中、アトリはその身の支配権を男へと譲り渡す――
「shock」
――それを阻んだのは、奇怪なほどに高く、しかし同時に不思議な愛嬌のある、そんな女性の声だった。
アトリの身体へと入り込んでいた男の身体が、その言葉と共に光に包まれたかと思うと――跳ね飛んだ。
その現象の名はコードキャスト[shock]。無論それはアトリもスミスも知らない。知らないが、どういうものかは見て取れた。
突然の不意打ちに男は舌打ちし一歩後ずさる。予期しないところから放たれた全く未知の攻撃では、さしもの彼も躱すことができなかった。
「今頃お目覚めとはな、とんだ道化師だな、全く。
何をしようと一つの結果に収束することは間違いないというのに」
「駄目ダネ キミニハ ナインダ ナインダヨ」
そう言ってスミスは敵意を込めた視線を彼女へと注ぐ。
その先には一人の道化師/人間が居た。
「ナインダヨ 愛ガ。ソレジャア 駄目ダヨ」
痛切な表情を浮かべて。
最終更新:2013年12月10日 00:18