生きていくために必要な希望は、すぐ傍にあったはずだった。
くじけそうになる細い心を、繋ぎ止めてくれる支えを、ようやく見つけたはずだった。
「はぁ、はぁ……はぁ……!」
走る。走る。
ひたすらに走る。
一寸先の光景も見えない、深夜の暗黒の只中を、何かに追われるように走る。
誰も追いかけてきてなどいない。
追い詰めているのは己自身だ。
とにかくも動いていなければ、不安で押し潰されそうだった。
「キリト君……」
黒い虚空に手を伸ばす。
握り返してくれる手を、ひたすらに求めて闇夜を彷徨う。
生きることを諦めようとした時、傍にいて慰めてくれた少年がいた。
追い詰めるのでも、突き放すのでもなく、ただ傍にいてくれたことが、何よりも心の支えになった。
「キリトくん……」
それでも、ここに彼はいない。
ようやく手にしたと思った希望は、瞬く間に取り上げられてしまった。
少年やギルドの仲間達と引き離され、殺人ウィルスとやらを植え付けられ、気付けばこんなところに、ただ独り。
「キリトくんっ……!」
これではあの頃に逆戻りだ。
もうあんな想いをするのはごめんだ。
どうか、この手を取ってくれ。
こんなものは悪い夢なのだと、どうかきっぱりと否定してくれ。
温もりを求めて伸ばされた手は、それでも虚しく空を掴む。
もがくように指をくねらせ、喘ぐように名前を呼んで、闇の奥へと走っていく。
「きゃっ!」
そしてその足はいよいよもつれ、宙に浮いた身体が地に伏した。
転んだ傷跡に夜風が染みる。あるはずのない傷跡をなぞられる錯覚に、心はますます擦り減っていく。
もう嫌だ。
何でこんな目にばかり合わねばならないのだ。
倒れた身体を起こす腕にも、上手く力が入らない。
生まれたばかりの獣のように、無様に震えてもたつきながら、うつ伏せの身体を持ち上げる。
「……あ……」
その時、少女は――サチは見た。
淡い月明を照り返し、静謐な光を放つ湖面を。
月夜の煌めきを背に受けて、静かに湖畔に佇んでいた、1人の男のシルエットを。
星の瞬きの下に立つのは、身の丈190センチはあろうかという大男だ。
逆光に陰る痩身の中で、何故かその左腕だけが、白亜の彫刻を思わせる、静かな光を湛えていた。
「………」
男の視線がこちらを見る。
オレンジ色の色眼鏡が、じっと少女を見定める。
輝くグラスのその奥の、見えないはずのその瞳を、サチは確かに感じていた。
キリトの隣で感じたような、柔らかな安心感ではない。
それでも何故か、この男の前では、不安が消えていくような気がした。
静かに鎮まっていく感情の中、少女は月光の男の姿に、しばしの間、魅入っていた。
◆
長身と色眼鏡の男は、自らの名を、オーヴァンと名乗った。
何でも、サチとは違うネットゲーム――The Worldというゲームをプレイしていた時に、
この殺し合いに巻き込まれてしまったのだそうだ。
「君のSAOに比べれば、オモチャのようなゲームだがね」
とは、苦笑交じりのオーヴァンの言である。
The Worldという名前は、過去に聞いたことはない。
それでも、自分のプレイしているSAOが、現状世界唯一のVRMMOである以上は、
通常のMMOに過ぎないであろうThe Worldは、確かに、子供騙しのようなゲームなのだろう。
それはヴァーチャルリアリティ然り。
そして、それ以外の意味でも然りだ。
電脳世界に囚われた身にとっては、死んでもいいゲームなどぬる過ぎる。
「別々のゲームのPCデータを、1つのゲームで動かしているだなんて……」
「根幹の部分は、君の言う、VRMMOのシステムを使っているのだろう。俺も君と同じように、虚構を実像と感じているからね」
オーヴァンの右手の指先が、水辺に咲く花を摘み取った。
アイテムでもないオブジェクトを、そんな器用な動作で摘み取ることは、従来のMMOでは不可能だ。
「殺人ウィルスのことも……」
「真実だろうな」
ごとり、と左腕を鳴らしながら、オーヴァンがすっぱりと言い切った。
どうやら彼の左腕は、巨大な円筒状のオブジェによって、丸ごと覆われているようだ。
拘束具にも似たそれに、どのような意味があるのかは分からない。
そもそも、その程度のことを、いちいち追及しようという気も起きない。
「……不安なんだね」
びくり、と。
内心を見透かされたように感じ、思わずサチは、肩を震わせた。
「………」
沈黙は肯定の証拠だ。
事実、サチの精神は、限界寸前にまで追い詰められていた。
元々気の弱い方だった上、血気盛んな男所帯の中で、紅一点として過ごしてきたのだ。
あの世界に閉じ込められていたことは、確かに恐ろしいと思う。
いつ死ぬかも分からない状況を、打開したいとは思っている。
それでも、そのために戦うことですら、サチにとっては苦痛だったのだ。
あくまでギルドの安定のためとはいえ、進んでモンスター狩りに臨む仲間達を追いかけるのにも、彼女は疲れてしまっていた。
「キリト君、だったか。そう呼んでいた気がしたが……君の恋人の名前かい?」
「恋人、とは、多分違うと思います……それでも、私にとっては、特別な人の名前です」
上手い表現が見つからず、言葉を選びながら、ゆっくりと話す。
電脳で生きることに疲弊し、死ぬことさえ選ぼうかとも思ったサチを、キリトは優しく受け入れてくれた。
この場にも彼がいてくれれば、どれほど心強かったかと、何度も繰り返し思っている。
それでも、ここにキリトはいない。
少なくとも彼女の傍らには、会ったばかりのオーヴァンしかいない。
「……疲れただろう。少し、そこで休むといい」
オーヴァンが指し示したのは、水辺に生えた1本の木だ。
「君の特別に比べると、いささか頼りないかもしれないが……ここにいる限りは、俺が守ろう」
だから今は木陰に座って、ゆっくり心を休めるといい、と。
「……ありがとうございます」
正直、今は色々と限界だ。
休んで落ち着くものでもないかもしれないが、ここはお言葉に甘えるとしよう。
素直に感謝の言葉を述べると、サチは木の幹へと歩み寄り、体重を預け、ゆっくりと座った。
少しでも気が紛れればと思い、月明かりに光る湖面を見やる。
最新のCG技術を駆使して再現された、自然の幻想的な煌めきは、残酷なまでに壮観だ。
(どうしたらいいのか、分からないけど……)
問題は山積みだ。
ゲームの垣根も越えたゲームから、果たして脱出などできるのか。
この身に植え付けられてしまった、ウィルスのリミットにどう対処するか。
そもそもこの戦いの中で、生き残ることはできるのか。
考えれば考えるほど、全身から体温が抜け落ちて、震えが止まらなくなりそうになる。
(……それでも、もしも帰れたら)
この空間を脱出し、ひとまず、彼の待つSAOまで、生きて帰ることができたなら。
(キリト君は、褒めてくれるかな)
優しく自分を抱きしめて、よく頑張ったね、と言ってくれるだろうか。
もう一度彼に会うためになら、少しは、頑張れるかもしれないと思った。
そこに彼が待っているのなら、あの箱庭の中へでも、帰りたいと思える気がした。
◆
(面倒なことになったな)
月を仰ぎ、思案する。
拘束具のオーヴァンの思考は、先ほどの言葉とは裏腹に、冷酷な速度で回転する。
(よもや榊を回収し、利用する者が現れるとは)
この殺し合いを主導する男――榊は、ハセヲとの戦いに敗北し、間違いなく消滅したはずだった。
それが彼を焚きつけた、オーヴァンの意思にすら反して、あのように復活を果たすとは。
殺し合いのゲーム自体は、さして問題視はしていない。
モルガナ第八碑文・コルベニクの祝福と、異邦神AIDAの獰猛な呪い。
その両極の狭間に立ち、聖も邪をも統べるオーヴァンは、まさに最強の魔術師だ。
一般PCはおろか、生半可な碑文使いですら、彼を下すには至らないだろう。
(問題はその先だ)
故に彼が危惧していたのは、この戦いの糸を引く黒幕だ。
本当に問題があるとするなら、この殺し合いそのものではなく、殺し合いが終わった後にあった。
未だ顔も知れぬその何者かは、榊という一点において、確実にオーヴァンを出し抜いたのだ。
己の意のままにならぬ者など、オーヴァンは数えるほどしか知らない。
そしてこのようなやり口は、欅やがびのものでは断じてない。
(君の仕業か? カヤバアキヒコ……)
可能性があるとするなら、あるいはその男かも知れないと。
先ほどサチから聞かされた、SAOの開発者――茅場晶彦の名を思い返す。
人間の意識そのものを、ネットへと直接ダイブさせる、VRMMOの技術。
純粋に人の制御しうる形での、完全なる仮想現実技術は、オーヴァンの知る範囲では、未だ実現には至っていない。
成し遂げた者がいるとするなら、電脳の彼岸と此岸を超えた、あのハロルド・ヒューイックくらいのものだ。
(妬かせてくれるな)
当然、犬童雅人(オーヴァン)にすら、未だ到達し得ぬ領域だった。
得体の知れぬ天才の影に、オーヴァンは静かに笑みを浮かべる。
(……当面は、探りを入れていくことになるか)
とはいっても、この殺し合いが、茅場の主導によるものとは決まっていない。
不確定情報である以上、それ以外の可能性も踏まえて、綿密な調査をする必要がある。
自分の身を守りつつ、殺し合いの結末に備えること――これが当面の行動指針だ。
用意された舞台で踊る趣味はないが、状況が状況である。
殺人ウィルスとやらの効力を打ち消すためにも、殺し合いには、乗る形になるだろう。
AIDAや碑文の力を使って、駆除できないかと試しもしたが、特に手ごたえは得られなかった。
であれば、癪に障るやり方ではあるが、素直に敵を屠るしかない。
サチをどう説得するか、というのが、懸念と言えば懸念ではあるが。
(一応、黙らせるためのものはある)
アイテム一覧を立ち上げ、持ち物の1つに目を向ける。
AIDAの種子――オーヴァンも散々使った悪魔の卵だ。
これをサキのPCボディに打ち込み、AIDA感染者としてしまえば、彼女の問題はクリアーされる。
好きに暴れさせておけば、殺し合いの参加者達も、適当に間引いてくれるだろう。
(とはいえ、勿体ない使い方ではあるか?)
もっとも、さほど戦闘に対する意欲がないサチを、わざわざ強化したところで、成果が望めるわけでもない。
手元に1つしかない以上、これはもっと慎重に、対象とタイミングを吟味する必要があるだろう。
(カヤバアキヒコの話も、もう少し聞いておきたいからな)
ちら、と眼鏡越しに横目を向けて、木陰で休むサチを見やる。
その先に茅場の姿を見据え、オーヴァンは薄っすらと微笑んだ。
【C-4/湖のほとり/1日目・深夜】
【サチ@ソードアート・オンライン】
[ステータス]:不安
[装備]:なし
[アイテム]:不明支給品1~3(未確認)、基本支給品一式
[思考]
基本:死にたくない
1:オーヴァンと共に行動する
2:キリト君に会いたい
[備考]
※第2巻にて、キリトを頼りにするようになってからの参戦です
※オーヴァンからThe Worldに関する情報を得ました
※キリトが参加していることに気付いていません
【オーヴァン@.hack//G.U.】
[ステータス]:健康
[装備]:なし
[アイテム]:不明支給品0~2、AIDAの種子@.hack//G.U.、基本支給品一式
[思考]
基本:ひとまずは殺し合いを生き残る。そのためには殺人も辞さない
1:この殺し合いの主催者のことが気になる。主催者に関する情報を集める
2:とりあえずサチと共に行動する
3:利用できるものは全て利用する。サチも有用であるようなら使う
4:AIDAの種子はひとまず保留。ここぞという時のために取っておく
5:茅場晶彦の存在に興味
[備考]
※Vol.3にて、ハセヲとの決戦(2回目)直前からの参戦です
※サチからSAOに関する情報を得ました
※榊の背後に、自分と同等かそれ以上の力を持つ黒幕がいると考えています。
また、それが茅場晶彦である可能性も、僅かながらに考えています
【AIDAの種子@.hack//G.U.】
ウィルス知性体・AIDAの塊。PCボディに取りつくことで、プレイヤーの脳を侵食し、感情を暴走させることができる。
AIDA感染したPCは、通常のPCを超える戦闘能力を発揮する。
また、AIDA感染したPCによって倒されたプレイヤーは、ネットに意識を囚われ、未帰還者となってしまう。
最終更新:2013年03月22日 18:45