次第に空が明るくなっていくにつれ、湖の水面も徐々に明度を上げていた。
MAP上のオブジェクトはリアルタイムで変化していくようだ。その完成度は本物の世界と見紛うばかりである。
オーヴァンは地面に軽く触れ土を抉り取る。水を吸った柔らかい感覚が現れ、同時に腐ったような泥臭い臭いがした。
それをしばしの間無言で眺めた後、次は湖へと近づいていく。水際まで辿り着くと、靴がぴちゃりと音を立てた。
土に汚れた手を湖に浸し、土を手のひらから剥離させた後、今度はその手で水を一掬いする。そして水をゆっくりと口元へと運んで行った。
口に含まれた水には味があった。透き通る味とでも言うべきだろうか。塩味は感じられず、この湖が淡水湖として設定されていることが分かった。
(五感の再現は完璧……プレイヤーは完全にこの「世界」に没入し、ディスプレイの前に座る「自分」という存在を認識することはできない)
驚異的といえば驚異的ではあるが、オーヴァンは既に似たようなケースを知っている。
八咫がAIDAと名付けた未知のバグ。奴らがプレイヤーを疑似サーバー内に閉じ込めた事件があった。あの時の感覚は正しく意識が「世界」に囚われているといってもいいものだった。
The Worldの歴史を辿れば、それに類似したケースが幾つか見られる。遡れば2009年の時点で一人のプレイヤーに似た現象が発生していたと聞く。
このVRバトルロワイアルもまたその技術の応用なのであろうか。オーヴァンが考えたのは先ずその可能性だ。
が、その可能性はあり得ないようにも思えた。AIDA、あるいはモルガナといったシステムはThe Worldの持つ自律性が生み出した。その存在は既に人の手から離れたものだ。
オーヴァンの知る限り、それらのシステムを解析し、技術として「応用」できる者など居ない。訳も分からず翻弄されるのがオチだ。
だから、あり得るとすればこの「世界」はAIDAの応用ではなく、そのものであるという可能性。
かつてのAIDAサーバーの一件のようにAIDA自身がこの「世界」をこしらえた。
黒幕たる人間などおらず、システムが意志を持って世界を構築したという説だ。
その説の方が、AIDAを何者か――たとえばが茅場晶彦が解析し技術として応用する域にまで至った、という考えよりはあり得るように思えた。
オーヴァンは己の片腕を見た。
巨大な拘束具により自らを縛っている姿は異様としか言いようがない。このグラフィックは勿論The World正規のものではなく、彼自身がわざわざ用意したものだ。
そうまでしてこの「オーヴァン」というキャラデータを弄った訳は一つ。このキャラに巣食う突然変異プログラム――AIDA<Tri Edge>の存在である。
オーヴァンは不思議なことにこのバグに愛されていた。自分から接触したのではなく、向こうから勝手にやってきて、そのデータを浸食したのである。
それが全ての始まりであった。最初の悲劇が起こり、それまで無害だったAIDAが変異を引き起こした。
同時に醜く変異した左腕のグラフィックを覆い隠すために、自ら拘束具を纏ったのだ。
無論、そんなもので管理者の眼を欺くことはできない。
何しろこの左腕だけエリア一つ分に匹敵するデータ容量がある。それに一目でチートアイテムと分かるグラフィックだ。気付かない方がおかしい。
そんな条件でありながらこのデザインを選んだのはセンチメンタルな部分に依るところが大きい。
AIDAを宿したオーヴァンは何物に者にも縛られない。ゲームシステムの制約も彼を止めることはできず、システム外の行いなども軽々とできるようになっていた。
そんな状態だったからこそ、彼は自らを縛り上げたかもしれない。AIDAの拘束を誰よりも望んでいたのは恐らく彼だった。
身を以て体感した彼だから分かる。アレを応用したシステムを作り上げることなど不可能だ。
自律思考を可能とした奴らはもはや単純なプログラムではなく、一つの思考主体。
あの榊にしたところで本当に鵜池トオルがプレイしているかは怪しい。その言動をただコピーしたAIに過ぎないのかもしれない。
AIDAは奇妙なことに人間に興味を示していた。それが何を意味しているのかは分からないが、時には大がかりな仕掛けを使ってまで人間の感情を観察しようとしていた。
その点で言えばこのバトルロワイアルという空間はその目的に合致しているように思える。殺し合い。この状況で感情を揺り動かさない人間など居ないだろうし、格好の観察対象になることは確かだ。
まだ結論を下すには情報が足りないが、この場を用意したのがAIDAそのものである可能性は十分に考えられた。
ならば、この場でオーヴァン――犬童雅人が取るべき道は何だ。
目的は今までと変わらない。『再誕』によるAIDAの駆逐である。
ハセヲがこの場に居ることは確認している。既に『死の恐怖』を覚醒させる条件は整えられている。
オーヴァンにはAIDAの他にもう一つ力がある。それが憑神『再誕:コルベニク』である。
その力が完全に解放されることでネットワークは一度死に、そして文字通り再誕する。
AIDAを駆逐するには再誕を行うしかない。そう考え、オーヴァンはこれまで立ち回ってきた。
『再誕』の発動にはハセヲの持つ『死の恐怖』の力が不可欠だ。その為にオーヴァンは暗躍しハセヲを徐々に強化していた。
今やハセヲは全ての碑文をデータドレインした。条件は整っている。あとはハセヲと相対するだけとなった。
決戦はネット上のどこでやっても良い。それは勿論ここでも良いということ。
この場で『再誕』を発動し、AIDAを駆逐する。この場がAIDAによるものであれば、同時にバトルロワイアル自体も崩壊するだろう。その際、ここに接続しているプレイヤーがどうなるのかは分からないが。
が、問題が一つある。
『再誕』を行う場は全てのネットに繋がっていなければならない。
もしこの場が外部ネットと隔絶したサーバーであった場合、オーヴァンの目論みは失敗に終わることとなる。それだけは何としても避けねばならないだろう。
「…………」
オーヴァンは無言でMAPを開いた。調査するとしたら先ずどこに手を付ける。
しばらく考えて、一つの答えを出した。
ゲート。
舞台のところどころに設置されたその施設にオーヴァンは興味を持った。
特定のエリアとエリアを結ぶそれはPCを転移させる役目を担っているに違いない。
そこを攻める。ハッキングを仕掛け、プログラムを弄り仕様外の場へ転移をするのだ。
無論、一介の参加者がこの場のシステムに干渉することは先ずできないだろう。
が、オーヴァンには力がある。AIDAだ。このバグを誘発させゲートハッキングを試みる。転移先の変更ができなくとも、舞台と外部との接続状態の確認ができればそれでいい。
この舞台を用意したのが誰であれAIDAの制御が完全にできようもない以上、試してみる価値はある。黒幕がAIDAそのものであるなら更に好都合だ。オーヴァンは彼らに愛されている。向こう側からコンタクトしてくる可能性もある。
「フッ……」
そこまで考えたところで彼は冷たく笑った。仇敵を滅す為にその仇敵の力を借りている事実にアイロニーを感じたのだ。これまで散々利用してきて今更の話ではある。しかし滑稽であることには変わりない。
何にせよ一つの方針は見えた。
ゲートハッキング。かつての腕輪所有者の真似事をやってみるとしよう。
PCに仕掛けられたというウイルスの存在もある。が、これに関しては本当にコンピュータウイルスの形式になっているかは怪しい。
それは榊らのブラフということではない。何もウイルスなどという形式に頼らずともPCの管理はできるということである。
運営側がネットゲームGMと同等、あるいはそれ以上の権限をこの場で持っているのは想像に難くない。完璧な五感再現により錯覚してしまうが、ここはゲームの中なのだから。
ならばわざわざ時限式のプログラムを仕込まずともPCの削除は可能な筈だ。それをわざわざウイルスなどという形式に拘るだろうか。
考えられるのは、ある種印象操作のためであるという可能性。
敢えてウイルスという言葉を使うことで、身体を浸食しているという生理的嫌悪感を喚起させ、より直観的な死の恐怖からゲームの進行を円滑にさせる。
そういった思惑があったのかもしれない。この場合、ウイルスと呼ばれるべきは榊、引いては運営側の悪意とでも言うべきか。
だとするならばウイルスを解除しよう躍起になって、PCを調べることはあまり意味がないかもしれない。運営側の管理外の領域まで逃れることを第一目標にすべきだ。
これもまた先の方針――ゲートハッキングによる外部への脱出と合致する。
「…………」
そこまで考えた後、オーヴァンはゆっくりと元の場所へと戻っていった。
湖のほとりにぽつんと生えた一本の広葉樹。月光を受け青く寂しく光るその影の下に、一人の少女の姿がある。
サチと名乗ったプレイヤーだ。穏やかな寝息を立て、その胸は僅かに上下している。彼女を見下ろしながら、オーヴァンは無言で考えた。
彼女の生殺与奪の権利は今自分にある。
ウイルスがどういった仕組みになっているにせよ24時間
ルール自体は本当だと思っておくべきだ。
今はまだそれほど焦る必要はないだろうが、時間制限は強く意識しておかなくてはならない。場合によってはPKもしなくてはならないことも変わらない。
今から一時間ほど前に空に巨大な閃光が走った。
一体それが何だったのか。山に阻まれたせいで、この地点からは良く見えなかったが、既にゲームは始まっているのだ。
ここで一人殺しておくのも一つの選択肢だ。誰にも見られることもないだろうし、今後動きにくくなるとも思えない。
「そろそろを起きた方が良い。誰かが来るかもしれない」
そう考えはしたものの、結局オーヴァンは何もせず、代わりにサチを起こすべく声を掛けた。
穏やかで優しげな声色で。
サチはゆっくりと目を開いた。「ん……」という声が漏れる。オーヴァンは薄く笑う。
それを見て彼女もまた弱々しくだが微笑んだ。先ほどよりは幾らか落ち着きを取り戻しているようだった。
オーヴァンはその調子で彼女に今後の方針を話した。
調べたいことがあるからC-7のゲートの向かうこと。近くで大きな戦闘があったようなので注意していきたいということ。
それらの言葉を聞いたサチはこくんとその首を振った。
「じゃあ、もう少ししたら出発しよう。大丈夫かい?」
「……はい」
サチをPKにするのはまだ早い。オーヴァンはそう判断した。
彼女が元いたというSAOというゲーム。NABの職員であった自分が知らない茅場晶彦という人物。それらすべての情報を絞り取っておきたい。
ある程度は自分に気を許しているようではあるし、そう難しいことではないだろう。そして不要と判断した後はPCを実験台にしてしまってもいい。
今自分の手にはAIDAの種子がある。AIDAに感染したPCがバトルロワイアル内のシステムを破ることができるか否かを彼女を使って調べてみるのもいい。
「出発の前に装備を確認しておこう。武器はあるかい?」
「……ありました」
サチはそう言って一本の剣を取り出した。話を聞くに彼女は、剣にカテゴライズされるものならばどの種類でも装備できるらしい。
一方のオーヴァンはというと、残念ながら支給アイテムに銃戦士(スチームガンナー)が装備可能なアイテムはなかった。
「銃剣? もしかしてこれなら……」
すると幸運にもサチが銃剣を持っていた。オーヴァンは礼を言ってそれを譲って貰った。
銃剣・白浪。武器としてのレベルは低いが、とにかく装備できるものはありがたかった。
AIDAと憑神という力があるとはいえ、手札が増えることに越したことはない。
「あとこんなものもあったんですけど」
そう言ってサチは最後のアイテムをオーヴァンに見せた。
小さな結晶の形をしたそれを見たオーヴァンの顔に微笑みが結ばれる。
その笑みはそれまで仮面のようなものとは少々意味合いが違った。
「知ってるんですか?」
「……ああ、The Worldのアイテムだよ。昔集めていた時期があったんだ。それを巡って他のギルドと争ったりしてね」
「へぇ……じゃあ、レアアイテムなんですか、これ」
オーヴァンの言葉を聞いたサチは物珍しげに結晶を見た。
その結晶の名はウイルスコア。R:1時代に現れたバグがアイテム化したものである。
オーヴァンは思い出す。かつて自分が黄昏の旅団を率いていた頃のことを。
R:2に僅かに残ったウイルスコアを、キーオブザトワイライトへの道を開く鍵と信じて「黄昏の旅団」は探し回った。
巨大ギルド「Tan」もまたコアを手に入れようと躍起になり、幾度かの交戦を経て何とか全てのウイルスコアを集めることに成功した。
そして、実際「Θ隠されし 禁断の 古戦場」コシュタ・バウア遺跡の隠しエリアを開く鍵としてそれは機能したのだ。
コアは門を開く鍵だった。かつてのドットハッカーズもまたウイルスコアをそうやって使っていたという。
が、黄昏の旅団が集めたコアは偽りの鍵であった。
コアを使い隠しエリアに突入した旅団を待っていたのは八咫――当時は直毘というキャラを使っていた――が仕組んだオーヴァンを捕える為に張り巡らした罠。
全ては彼を捉えるために用意された茶番劇。それがTaNとのウイルスコア争奪戦の真実だった。
これからゲートに向かうことを思うと、このアイテムはひどく暗示的だ。
門の先にはあるのは果たして何なのだろうか。
【C-4/湖のほとり/1日目・黎明】
【サチ@ソードアート・オンライン】
[ステータス]:HP100%
[装備]:剣(出展不明)
[アイテム]:ウイルスコア(T)@.hack//、基本支給品一式
[思考]
基本:死にたくない
1:オーヴァンと共に行動する
2:キリト君に会いたい
[備考]
※第2巻にて、キリトを頼りにするようになってからの参戦です
※オーヴァンからThe Worldに関する情報を得ました
※キリトが参加していることに気付いていません
【オーヴァン@.hack//G.U.】
[ステータス]: HP100%
[装備]:銃剣・白浪
[アイテム]:不明支給品0~2、AIDAの種子@.hack//G.U.、基本支給品一式
[思考]
基本:ひとまずは殺し合いを生き残る。そのためには殺人も辞さない
1:この殺し合いの主催者のことが気になる。主催者に関する情報を集める
2:C-7のゲートに向かい、AIDAによるゲートハッキングを試みる
3:利用できるものは全て利用する。サチも有用であるようなら使う
4:AIDAの種子はひとまず保留。ここぞという時のために取っておく
5:茅場晶彦の存在に興味
[備考]
※Vol.3にて、ハセヲとの決戦(2回目)直前からの参戦です
※サチからSAOに関する情報を得ました
※榊の背後に、自分と同等かそれ以上の力を持つ黒幕がいると考えています。
また、それが茅場晶彦である可能性も、僅かながらに考えています
※ただしAIDAが関わっている場合は、裏に居るのは人間ではなくAIDAそのものだと考えています
※ウイルスの存在そのものを疑っています
支給品解説
【銃剣・白浪@.hack//G.U.】
マク・アヌに売っている銃剣。Lv24
【ウイルスコア(T)@.hack//】
カイトがゲートハッキングの際に使用するアイテム。
これがないとプロテクトが掛かったエリアに侵入することができない。
コードTのものは、vol.1クリア後にバンダイのウチヤマダから届くメールに添付されている。
.hack//Rootsにも登場し、黄昏の旅団とTaNが争奪戦を繰り広げた。
最終更新:2014年11月10日 15:57