無限の業を重ねて生きよ(中)

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 (自ブログに転載)

 

 

文:tallyao

 


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 紫と白の少女は、苦悶の汗を額を洗う瀑布の如くに流し続ける青年のかんばせを、そっと撫でるように布で優しく拭った。
「押さえつけて」それから、立ち上がると、リンに言った。「暴れるので」
 リンは、この上何が起こるのか、予想してもおそらく全く無駄な空しさをひしひしと感じつつ、長椅子の青年の上に両手を張るように押さえた。
 少女が、袂から何か細長いものを取り出した。蓋を開けると、面相筆のような細い筆と墨が入っている(何をするものかは見てとれたが、その道具を指す矢立(やたて)という単語を含むボキャブラリは鏡音リンにはなく、また、ここ電脳空間内で普通にお目にかかれるようなものでもなかった)。
 少女はいったん、青年の紫の髪をかきわけ、さらに流れ続けるその汗をまた拭った。それから、筆と黒い墨で、青年の額に見事な筆致で「霊」と書いた。
 突如、青年の四肢すべてが、やたらと大雑把に激しく振動した。
「ううぶぶぶヴォあああああああああああああ!!!!!」
 キャドイィィィィイイ。青年の両目から覚醒した脳外ANNがときどき出すこともあるような気もするまばゆい純白の透過光が発せられた。反射的に、リンと少女はひょいと首を曲げてかわしたが、それは難なく天井を貫通し、青年の全身の震えの動きにしたがって、家の屋根のその被害を際限なく拡大させていった。長椅子の上の青年の全身の暴れ方の激しさとその力はともに、ひとりの人間やAIにありえる力とはとても思えず、リンは並の人間ならばその圧力だけで全身が複雑骨折になるほどの渾身の力をその両腕と両掌にこめて、青年を長椅子に押さえ込まなくてはならなかった。
「ごぉっふほほふははわわぁぁぁぁぁぁ!!!!」青年の口からその叫びと共に、おびただしい白煙の塊が吹き出た。ドライアイスの湯気のようなその冷気を伴うおびただしい白煙は、噴出する先から一部はなかば物質化してエクトプラズム化した状態で床中を流れ、急速に家のすみずみまで流れ込んだ。悪寒と霊気の高まりに家はがたがたと震撼し、実際に家の立て付けのガタのきた各所からはひっきりなしにラップ音が鳴り響いた。隅々から、家じゅうのネズミやカマドウマやワラジムシが、まるで天災を予見したかのごとく群れを成して逃げ出した。なお、ここでどうしても強調しておかなくてはならないのは、北海道の家屋には、いわゆるゴキブリは生息していないということである。
 すさまじい力で暴れようとする青年の体を押さえるリンの手の疲れが、そろそろ限界に達したと思えたころ、透過光と白煙がやや断続的なものとなった。……紫と白の少女はそれをじっと眺めていたが、やがて、青年の額の「霊」の字をふき取り、そのかわりに、でかでかと「肉」と記した。
 と、青年はリンの掌の下で、小刻みにひときわ激しく痙攣したかと思うと、突如として微動だにしなくなった。リンは心配げに、長椅子の上の青年の顔を覗き込んだ。青年の寝顔は、いまだ激しい苦悶の表情を浮かべ続けているが、とりあえず顔色や息、容態という意味では安泰に見える。ただし、鼻の穴から硝煙のようにかぼそい白煙が、いまだ立ち昇り続けていた。
 少女は筆をしまうと、ぱちんと矢立を閉じ、袂に戻した。
「ひとりで押さえていたのですか、最後まで」それから少女はリンを見て、その腕の細さを、無表情な視線でなぞりながら言った。「なんと無茶なことを」
 リンは疲れ切った両腕をだらりと下げたまま、あまりのことに、少女のその顔を凝視したまま、口を激しく動かしたが、ボリュームをミュートにしたかのごとく、一言たりとも何の声も出てこなかった。この場にリンひとりしかおらず、現に押さえていろと言ったのに、いったい他にどうできたというのだ。(ずっとあとでわかったことだが、勿論、リンが限界に達した場合には、少女の霊力には手を貸す準備はあったようである。)
 ……少女は、落ち着いた容態の青年をしばらく無表情で見つめてから、ぺこりとリンに小さく頭を下げた。
 そして、まったく行く手に迷うような様子もなく、家の表の玄関の方に向かおうとした。(なお、案内されてもいない出口を知っているのは、さきの害虫が逃げ出した際の霊脈を辿ったのである。)あまりにも泰然としているので、どうやら少女が青年をここに置き去りにして、この家を立ち去ろうとしている、ということに、リンはしばらくの間気づかなかった。
「あの、そのッ、ええと」リンはその少女を呼び止めようとして、かける呼び名がなく、ふと気づいて、手元の名刺がわりの情報カードを何秒か見下ろしてから、そこに書かれていた名前らしきものを、少女の背中に向けて叫んだ。「森之宮先生!」
 森之宮先生は無言で振り向いた。
「あの、どうすりゃ、……どうなって、……この人、何が……大丈夫なんですかッ」
 森之宮先生は長椅子に横たわる青年をふたたび見下ろした。
「このまま、暫くは憂いありません」森之宮先生は、リンの山積みの提起のうち、言葉通りの疑問への答えだけしか返さなかった。相変わらず、リンのすぐ上の姉そっくりの鈴の転がるような可憐な声で、まったく似つかわしくない言葉遣いを、ほとんど声の抑揚なく、である。
「けれど、”霊”と”肉”との間の均衡が悪すぎます」しかし、しばらくの間を置いてから、わずかに愁いがその瞳にかかり、「改めなくば、いくら祓おうと、此方には再び、ひたすら無限の業念が重なってゆくばかり──」
 だが、それもリンの気のせいかと思うほどに束の間のことで、その少女は気をとどめ残した様子もなく、リンの前で悠然と表門に向かい、家から立ち去った。
 リンはそのまま立ち尽くした。しばらくの沈黙が流れた。

 

 

「ぅぃーす、ただいまー」と、MEIKOがばたんと扉をあけて居間に入ってきた。両腕にはそれぞれ100ポンドはあると思える、『S@PP○R○ S○FT』と書かれたダンボール、焼酎の入った箱を抱えている。
 リンははっとして、ようやく我に返るようにそちらを見た。
「どうさ、まだ来て↑ない↓かい↓」
「だれが」リンはMEIKOに聞き返した。
「だれって、《大阪(オオサカ)》の子」
 リンは、しばらく無言の間を置いてから、
「それ、誰のことさ」
 次第に呻き声に近くなってゆく発声で言った。
「いや、誰って」MEIKOはリンの方を見もせずに、ダンボール箱を下に置きつつ、「前から上方(カミガタ)で、新浜(ニイハマ)辺りの流行りテクノロジも入れて開発されてた和式のVOCALOIDが、今日、うちに来るって話、したしょや」
「したしょやって、いつの話! 聞いてない! 一切聞いてない!」そこでリンは突如気づいたように、両肘を曲げ、「てか、カミガタだの、このうえまたさらに未知の、しかも海外組じゃなくって極東製のVOCALOIDがほかに存在するなんてそれ自体、今までに一切聞いてないよッ」
「いや、けっこう前から話してたはずじゃ……」
 MEIKOは平然とダンボール箱を破いて焼酎を一本取り出してから、ふと手を止め、
「……あー、してないかも」
「てかなんだっていつもこうなんだァァーー」リンはほとんど悲鳴のように、「なんでどこの国のどこの地方のVOCALOIDも一族の誰しも彼しもが何で最初に現れる時はいきなり呼ばれて飛び出てドッギャァーンってな登場の仕方しかできないんだヨこの妖怪ファミリーってッ! てか、半分あんたのせいだッ」
「いやそれは別に私のせいってわけじゃあ」MEIKOは目をこすりながら、「したけど、このさらに後にもリン自身のアップデートの話とか後が随分つっぺかっとるべさや、だめ↓だわ↓リンはこれくらいで大騒ぎしてたら……」
 ──と、そのとき、長椅子から力なく、ゆらりと青年が起き上がった。
 それまでリンともまともに顔も合わせもせず、屈んで酒を取り出す片手間に話していたMEIKOは、その青年の出現に、思わず立ち上がった。
 突如としてこの家の風景の中に出現した見慣れない姿、病み上がりの気だるげな中にも優雅な挙措、端正な面立ちに、MEIKOは釘付けになったかのごとく目を見開いて凝視を続けていた。
 しばらくの間、ふたりは見つめ合った。
 と、
「ばぶーーーーーーーーーーーーん!!!」MEIKOが噴き出した。その”神威がくぽ”の秀麗な額のど真ん中に、でかでかと墨で「肉」と書かれていたためである。

 

 

 

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