国立大学法人化とは
経緯については『徹底検証 大学法人化』や『東京大学大変革』に詳しい。
なお、特に反対派によるものとして『国立大学はどうなる――国立大学法人法を徹底批判する』も参考になる。
ここでは文部科学省Webサイトをベースに国立大学法人化の経緯と法人化後の諸問題について概観する。
なお、特に反対派によるものとして『国立大学はどうなる――国立大学法人法を徹底批判する』も参考になる。
ここでは文部科学省Webサイトをベースに国立大学法人化の経緯と法人化後の諸問題について概観する。
経緯
===以下は特に確実でない部分もありますので、「お話し程度」に読んでください===
国立大学法人化のそもそもの契機は、小渕恵三首相(当時)が国家公務員を20%削減する方針を打ち出したことだと言われている。独立行政法人という制度の導入を決めた行政改革会議の最終報告(1997.12)では、法人化について「長期的な視野に立った検討を行う」(一般的な理解としては「当面は行わない」ということ)とした。しかし98年に小渕首相が国家公務員削減の方針を打ち出すと、数を減らすことに重点が置かれ、「行政改革」としての国立大学法人化の流れが起こった。(以上は特に法人化に批判的な意見からの抽出であることに留意)
99年4月には「国立大学の独立行政法人化については、大学の自主性を尊重しつつ大学改革の一環として検討し、平成15年(2003年)までに結論を得る」ことが閣議決定され、2002年11月には「競争的環境の中で世界最高水準の大学を育成するため、『国立大学法人』化などの施策を通して大学の構造改革を進める」ことが閣議決定された。
その後急ピッチで準備が進み、03年2月には関係法案を提出、7月に成立し、10月に施行。翌04年の4月には全国立大学の法人化が実現した。
法案が成立してから法人化までが9カ月弱しかなかったため、実際に作業を担う現場は大変忙しく、制度の整備が完全に終わるまでは法人化後なお1年程度を要したとも言われる。
国立大学法人化のそもそもの契機は、小渕恵三首相(当時)が国家公務員を20%削減する方針を打ち出したことだと言われている。独立行政法人という制度の導入を決めた行政改革会議の最終報告(1997.12)では、法人化について「長期的な視野に立った検討を行う」(一般的な理解としては「当面は行わない」ということ)とした。しかし98年に小渕首相が国家公務員削減の方針を打ち出すと、数を減らすことに重点が置かれ、「行政改革」としての国立大学法人化の流れが起こった。(以上は特に法人化に批判的な意見からの抽出であることに留意)
99年4月には「国立大学の独立行政法人化については、大学の自主性を尊重しつつ大学改革の一環として検討し、平成15年(2003年)までに結論を得る」ことが閣議決定され、2002年11月には「競争的環境の中で世界最高水準の大学を育成するため、『国立大学法人』化などの施策を通して大学の構造改革を進める」ことが閣議決定された。
その後急ピッチで準備が進み、03年2月には関係法案を提出、7月に成立し、10月に施行。翌04年の4月には全国立大学の法人化が実現した。
法案が成立してから法人化までが9カ月弱しかなかったため、実際に作業を担う現場は大変忙しく、制度の整備が完全に終わるまでは法人化後なお1年程度を要したとも言われる。
経緯その2(by ひいたんさん)
国立大学法人化は1997年の橋本六大改革から始まったとされる。
六大改革の中では、行政改革の中の公務員の25%削減と教育改革の中の21世紀の大学像の確定、財政構造改革の歳出の削減が関係する。
六大改革の中では、行政改革の中の公務員の25%削減と教育改革の中の21世紀の大学像の確定、財政構造改革の歳出の削減が関係する。
小渕内閣は1999年4月、法人化に向けて2003年までに結論を得ることを閣議決定した。
文部省は2000年7月、長尾真・京都大学総長を座長とする国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議が文部大臣の諮問機関として設したれた。
調査検討会議は2001年9月には中間報告を、2002年3月には最終報告を提出した。
文部省は2000年7月、長尾真・京都大学総長を座長とする国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議が文部大臣の諮問機関として設したれた。
調査検討会議は2001年9月には中間報告を、2002年3月には最終報告を提出した。
全国立大学が加入する国立大学協会は、会長の蓮實重彦(東大総長)を始め、概ね法人化に反対の立場を示していた。
それでも、2000年7月に設置形態検討委員会を設置するなど、法人化を意識した動きも見せ始めた。
そして、蓮實退任後の2001年4月、長尾が国大協会長となり、国大協を法人化に向けて大きく舵を取らせることになった。
それでも、2000年7月に設置形態検討委員会を設置するなど、法人化を意識した動きも見せ始めた。
そして、蓮實退任後の2001年4月、長尾が国大協会長となり、国大協を法人化に向けて大きく舵を取らせることになった。
この間、各国立大学でも動きがあったが、東大に絞って略述したい。
東大では1998年11月17日に「東京大学の経営に関する懇談会」を設置し、1999年9月19日に最終報告を提出した。
1999年7月1日に総長の下に「東京大学の設置形態に関する検討会」(座長=青山善充副学長)が設置された。
検討会の下には「理想形態WG」(座長=小林善彦副学長)と「比較検討WG」(座長=佐々木毅大学院法学政治学研究科長)が置かれ、21世紀の東大のあり方について検討された。
これらの会議の結果を踏まえて、東大は2000年度に入って「国立大学制度研究会」(総長の諮問機関・座長=青山善充副学長)を設置した。
研究会は7月10日に中間報告、10月3日に最終報告を提出した。
研究会報告では、1大学1法人、学長選考への学外者の関与、職員の身分は公務員型を前提とせず、部局独立財産制の否定などを打ち出した。
最終報告が提出された直後には、「東京大学21世紀学術経営戦略会議」(UT21会議・座長=蓮實重彦総長)を評議会の下に設置した。
UT21会議はそれまでの諮問機関と異なり、大学の最高意思決定機関の下に置かれたため、東大の意思決定に大きな影響力を与えた。
当初は、国立大学法人法案の策定、東京大学憲章?の制定を大きな目的としていたが、蓮實総長の任期を迎えた2001年3月までには論点整理しかできなかった。
UT21会議の取り扱いは次の佐々木毅総長に一任された。
佐々木はUT21会議を拡充・強化した。
法人化に向けて、「組織・運営・機構」「財務・会計」「人事・業務・評価」の三つの小委員会を設置した。
小委員長には小間篤・宮島洋・広渡清吾の副学長がそれぞれ就任した。
3小委員会は、2002年10月16日に報告書を提出し、その役割を終えた。
また、組織・運営・機構検討委員会では10月8日に「新国立大学法骨格案」を提出した。
その後、3検討委員会は、統合されて「法人化委員会」となった。
これ以後は、国の法人化に向けた動きが具体化していった(2002年11月の閣議決定など)ため、これに合わせた現実的な対応をとるようになった。
東大では1998年11月17日に「東京大学の経営に関する懇談会」を設置し、1999年9月19日に最終報告を提出した。
1999年7月1日に総長の下に「東京大学の設置形態に関する検討会」(座長=青山善充副学長)が設置された。
検討会の下には「理想形態WG」(座長=小林善彦副学長)と「比較検討WG」(座長=佐々木毅大学院法学政治学研究科長)が置かれ、21世紀の東大のあり方について検討された。
これらの会議の結果を踏まえて、東大は2000年度に入って「国立大学制度研究会」(総長の諮問機関・座長=青山善充副学長)を設置した。
研究会は7月10日に中間報告、10月3日に最終報告を提出した。
研究会報告では、1大学1法人、学長選考への学外者の関与、職員の身分は公務員型を前提とせず、部局独立財産制の否定などを打ち出した。
最終報告が提出された直後には、「東京大学21世紀学術経営戦略会議」(UT21会議・座長=蓮實重彦総長)を評議会の下に設置した。
UT21会議はそれまでの諮問機関と異なり、大学の最高意思決定機関の下に置かれたため、東大の意思決定に大きな影響力を与えた。
当初は、国立大学法人法案の策定、東京大学憲章?の制定を大きな目的としていたが、蓮實総長の任期を迎えた2001年3月までには論点整理しかできなかった。
UT21会議の取り扱いは次の佐々木毅総長に一任された。
佐々木はUT21会議を拡充・強化した。
法人化に向けて、「組織・運営・機構」「財務・会計」「人事・業務・評価」の三つの小委員会を設置した。
小委員長には小間篤・宮島洋・広渡清吾の副学長がそれぞれ就任した。
3小委員会は、2002年10月16日に報告書を提出し、その役割を終えた。
また、組織・運営・機構検討委員会では10月8日に「新国立大学法骨格案」を提出した。
その後、3検討委員会は、統合されて「法人化委員会」となった。
これ以後は、国の法人化に向けた動きが具体化していった(2002年11月の閣議決定など)ため、これに合わせた現実的な対応をとるようになった。
「法人化」の意義
報道などではよく誤解されているが、国立大学は「法人化」されたのであって、「独立行政法人になった」わけではない(「独立法人化」と表現すれば誤解を招く可能性はあるが間違いではない)。政府としてはあくまで国立大学法人と独立行政法人は異なるスキームであるとしているが、反対派が言うように国立大学法人法でも独立行政法人通則法を準用している場面が少なからずあり、「独立行政法人と似たようなものである」ことも一面では間違いないだろう(裏を返せば「似て非なるもの」とも言えるが)。
とにかく言えることは、それまでは文部科学省の内部組織でしかなかった各国立大学が、それぞれ一つの法人となり(この点については次項を参照)、「独立した」のである。このことで、予算の使い方が自由になったり学科編成を自らの判断で変更できるようになった(それまでは文部科学省令で規定されていたので簡単には変更できなかった)などといわれているが、実際にはそれほど自由度はないという声もあるようだ。
とにかく言えることは、それまでは文部科学省の内部組織でしかなかった各国立大学が、それぞれ一つの法人となり(この点については次項を参照)、「独立した」のである。このことで、予算の使い方が自由になったり学科編成を自らの判断で変更できるようになった(それまでは文部科学省令で規定されていたので簡単には変更できなかった)などといわれているが、実際にはそれほど自由度はないという声もあるようだ。
国立大学法人と国立大学の二重構造
法人化により、国立大学の設置者は国(文部科学省)から各国立大学法人へと移った。すなわち、国立大学法人と国立大学とは厳密には別組織である(実際には曖昧で、名刺に国立大学法人東京大学教授と書いている人もよく見る。役員は法人職員であろうが、そのほかの教職員がどちらに所属するかとなると難しい。学部研究科所属であれば東京大学の所属と言えようが、特に本部事務職員については判断が難しいのではないか)。このことにより、学校経営に直接的に責任を負うのは国ではなく各法人となり、予算面の扱いなどで差が出てくると危惧する声もある。
財務面における諸問題
法人化以前の国立大学は、国立学校特別会計の枠内で国から経費を措置されていた。この経費は使い勝手が非常に悪く、会計費目の変更(たとえば旅費から物品購入費への変更)などでも困難を極めると言われていた。法人化後は国から渡し切り(一定額を渡され、その枠内で各法人が使途を自由に決められる)の運営費交付金が措置されることになった。しかし、法人化に伴い国立学校特別会計は廃止され、一般会計に組み込まれたため、他省庁と同様に通常経費は1%の削減を求められ([効率化係数]による削減)、特に附属病院では3%もの経費削減を求められたため、大問題となった(そもそも大学側としては運営費交付金の額は中期目標・中期計画の6年間は変わらず、期間終了後の評価の結果を受けて額が上下するものと考えていた)。
国立大学と文科省・財務省との交渉の結果、削減率が多少は緩和された(大学設置基準の枠内に関しては削減を求めない、など)が、それでも無条件で削減される部分は決して少なくない。ことに病院経営は危機を迎えている模様である。
国立大学と文科省・財務省との交渉の結果、削減率が多少は緩和された(大学設置基準の枠内に関しては削減を求めない、など)が、それでも無条件で削減される部分は決して少なくない。ことに病院経営は危機を迎えている模様である。
中期目標・中期計画
法人化によって大学の経営は各国立大学法人に委ねられた。しかし国費を使って運営するという点では旧来と変わらず、なんらかのチェック機能が必要になる。「事前審査から事後評価へ」という方針もあり、大学側に向こう6年間の中期目標・中期計画を提出させ、それに基づいて期間終了後に評価を行うこととしている。しかし評価によらずに運営費交付金が削減される問題については前項の通り。
授業料(の値上げ)
法人化後、授業料は文科省の決める標準額の上下10%の枠内で各大学が自由に決められることになった。しかし、標準額が値上げされれば自動的に運営費交付金が減少することになる。運営費交付金はおおざっぱに言えば(必要経費-自己収入)で算出され、自己収入のうち授業料については文科省の決定する標準額によって計算されるからだ。このため、2005年度の標準額値上げに際しては、多くの大学が自らの意思にかかわらず余儀なく値上げを迫られることになった。