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硝子狩

「あー……やるもんじゃねぇですわ」

 育ちの悪いチンピラが口にするようなガラの悪い言葉と、徹底したマナーや情操教育を幾年も施した人物が口に出せるような丁寧な言葉が入り混じった、非常に違和感のある言葉を、その女性は呟いた。

 大輪を咲かせる赤牡丹が花を開いていると、遠目からその姿を見た者は錯覚するであろう。
見事なまでに緋色に染まったその長髪が、紅い牡丹のイメージを見る者に与えるのかも知れない。
しかし近付けば解るだろう。彼女の髪は、東の空に沈みゆく太陽に追従するかの如く染まって行く茜色の空よりもなお紅く、そして、美しい事に。
だがそれよりも目を引くのは、血管に流れる血液が透けて見えんばかりに白く透明感のある肌と、男を誘惑する為だけに神が定規と鑿を取り出して自ら作り上げたような、
豊満な胸部と括れた腰、魅惑的な弧を描く臀部であろう。少し栄えた市井を歩けば、男は勿論の事、女性ですら彼女の方に目線を投げ掛けよう。
それ程までに、彼女は完成されていた。世の女性が凡そ意識し、理想とする、美しいプロポーション、その究極系。人界における、人間の女が目指すべき、女性美の答えの一つ。これらを彼女は、神/魔王から与えられていた。

 何を身に纏っても、その美は褪せないだろう。
奴隷や乞食が身に纏うような襤褸切れですら、この美の前では、劣情を催させるファクターの一つにしかなり得ない。
そんな、何を着ても間違いはないとすら言える美と身体の持ち主であると言うのに、この女性――紅葉と呼ばれるこの女は、何もその総身に付けていなかった。
生まれたままの姿を、彼女は白日の下に、恥ずかしげもなく晒していた。陽の光を浴びる紅葉の肌は、それ自体が淡く輝いているかのように、陽光を薄らと跳ね返していた。

 紅葉の今いる場所は、美を誇示するような場所ではとてもない。
舞楽を披露する高舞台の上でもなければ、色気だけをひけらかす事を目的とした踊りを見せ付ける為の品の無いお立ち台ですらない。
冬木市は深山町の、何処にでもある極々普通の市民公園。その中央で、彼女は裸身を披露していた。

 厳密に言えば、何も無い所で裸になっている訳ではない。正確に言えば、水飲み台の近くで、あられもない姿をしていると言った方が正しい。
上向きに水が飛び出る水栓から水を飛び出させ、その水で紅葉は身体を洗っていたのだ。そう、彼女は汚れていた。
妖怪変化の見世物小屋となっていた、無人の武家屋敷。其処での戦いを経て身体中に付着した血液を、彼女は公園の水で洗い流していたのである。

 其処での戦いを経た紅葉の身体は、紅く汚れていた。
別に、血液で体中が汚れる事に対して忌避感を覚える程、紅葉は箱入り娘ではない。
それ所か生前は行く先の山々で山賊や妖怪共をこの手で八つ裂きにし、その度に総身を血や臓物で塗れさせていたものだ
犬の血や蛇の体液で身体が汚れる事など、何を今更と言った話である。が、それはあくまでも直に洗い落とるのなら、の場合だ。
身体を血でいつまでも汚れさせて、平然としている程紅葉は身だしなみに無頓着な訳ではない。一時的に身体が血で汚れるのなら兎も角、永続的には御免なのだ。
彼女が生きていた時も、戦いで汚れた後は手ごろな清流で身体の汚れを自ら、或いは配下の妖怪や鬼達に落とさせていた。
要は、近くに水浴びが出来る程の、手ごろな水源がある時に限り、そう言った身体を血で汚す戦い方をしていたのだ。
そして昔、つまり千年以上前の日本には、そんな水源が沢山あった。そんな感覚で戦ったせいで、こんな所で汚れ落としをせざるを得なくなった。
ちょっと車を走らせた所に山間や森林が存在する冬木の街ではあるが、此処は日本全体の都市で見れば十分都会に位置する所である。
紅葉が生きていた時代の日本のように、少し歩いた所に川が、と言う訳には行かないのだ。況して今彼女がいる所は、住宅街の真っ只中。猶更ある訳がないのであった。
血と言うのは直に乾く。全身に引っ付いた、パリパリに乾燥し始めた血液がとても気持ち悪かったが為に、目的地である音石のアパートまで我慢が出来なかった。
その結果が、こんな公園の水飲み場で身体を洗う、と言った今日日のホームレスですらやりそうにない真似と言う訳なのだった。

「全く、どうせ撒き散らすなら砂か煙にして欲しいものね」

 ぶつくさぶつくさと、独り言を誰に言うでもなく口にし続ける紅葉。
あの武家屋敷で見て来た怪物達は、どれも生前の紅葉が知らなかった者達である。日本とは異なる国の化生ではない。
この国が産んだ怪異の一つである事は気付いている。妖怪がまだ当たり前だった時代、その妖怪達を戯れに殺していた紅葉だから解る。
発散される気風が、彼女の生まれた日本由来のそれに近い事を、あの戦いで彼女は見抜いていた。となれば、あれらの怪物は、紅葉よりも後に成立した者達と言う事になる。

 とは言え、こんな考察を紅葉自身が巡らせるまでもなく彼女は、武家屋敷で戦った者達の正体について、凡そのアタリを付けていた。
彼らの正体は、テクノロジーや科学の発達によって旧世代の迷信の殆ど全てが一掃された現代世界における、
妖怪変化や怪異共の、新しい世代(ニュー・ジェネレーション)。当世の日本の民は、この新世代の妖怪達を『都市伝説』、と呼ぶらしい。
都市、と言う所がバンカラでセンスが良いなと、紅葉は評価している。彼女がこの都市伝説の怪異を知ったのは、聖杯戦争が正式に開催される前の事である。
紅葉自身、聖杯戦争がスタートされるまでのモラトリアムを無為に過ごしていた訳ではない。
暇な時間――深夜0時~翌24時までの事を指す――にマスターである音石からスマートフォンを借り、聖杯ではカバーしきれない雑学の事を調べていたのだ。
無論この女の性格である。真面目に調べると決意したその一分後に心変わりを起こして、冬木のレジャー施設についても調べる事など何食わぬ顔で行うが、
其処は聖杯戦争に招かれたサーヴァント。シッカリと、現代の魔術や怪異についても調べられる範囲で調べていた。それを調べる内に辿り着いたのが、都市伝説と言う訳だ。

 二十一世紀と言う、前時代的な迷妄の殆どが解体され、神秘の濃淡の天秤が淡の方に大きく傾いて久しいこの時代に、妖怪変化が幅を利かせる。
タチの悪い冗談にしか聞こえないが、珍しい事ではない。無数の人間が雑居雑踏し、怪異の入り込む間隙と空隙のない、人の世界。
そんな世界にも、人智を超越した怪現象は勃発する。科学の名が煌めき、迷信の類が薄れて久しいこんな世界であるが故に、一層神秘が秘の翳を帯びるのだ。
都市伝説のルーツを辿る事は最早容易ではないが、都市伝説の起こりは何て事はない。伝えた側の無知蒙昧や見間違いであったり、語り部の語った内容を、
馬鹿な聞き手が変に勘違いしてしまった、そもそも嘘が真と信じられてしまった、と言うケースが殆どである。後は、その話を人から人に伝えるだけで、尾鰭が付け足されて行く。

 初めの内は、取るに足らむ呆気ない噂の一つに過ぎなかったのだろう。
だが、情報の伝達が古とは比較にならない程早く、そして情報の共有も極めて簡便になったこの時代であるからこそ、都市伝説は新しい世代の怪異として成立した。
情報の共有(シェアリング)が可能になったと言う事は、それだけ多くの人間が当該伝説の事を知る機会が多くなると言う事に等しい。それは即ち、神秘の強度の度合いを増させる、と言う事でもあるのだ。後は誰かが後ろからほんの一押しするだけで、伝説は実体を伴ってしまうと言う寸法だ。

 どれだけ人が時代の先端を往こうとも、魂と心に刻印された始原的な恐怖までは、人である限り滅却する事は出来ない。
都市伝説とは、その始原の恐怖を利用し、煽る事で生まれた新しい妖怪や怪異である。
情報の共有が容易になった今の世界の情勢を利用する事でその力を蓄えた、最新の世界に生れ落ちた神秘の形の一つなのだ。

 ――昔とそんなに変わりませんわねぇ――

 そして、紅葉の生きた時代でも、上記のような経緯で新しく妖怪の類が生まれる事は珍しくなかった。
百年を経た器物が怪異に昇華されると言う、付喪神など最たる例であろう。時代と共に物も新しく生まれ、そしてその都度、物に関わる胡乱な話が噂が生まれて行く。
今日では付喪神の種類など、多すぎて数えられない位だ。紅葉ですら、「こんなガラクタすら曲りなりにも八百万の神の一柱の恩恵を受けられるのですね」、
と口にするような物が平気で怪異に変ずる。これだけの数の付喪神が確認されているのはひとえに、人間の想念が彼らを産み出すのに極めて重要なファクターだからだ。
所詮物など、百年経とうが千年経とうが、物に過ぎない。ひとりでに命が宿る訳がない。だが其処に、人の想念が宿る事で初めて、神秘が強さをまし、命が産まれ得る。
そうであるからこそ付喪神と言う妖怪は無数に生まれ、妖怪と呼ばれる存在も無数に生まれた。想念――即ち信仰は、彼らを形作る上で重要となる要素なのである。

 噂や伝承とは、言ってしまえば空の桶である。これ自体に意味がある訳ではない。
だがその空桶に、人の信仰や想念と言う水を注ぎ込む事で、初めて彼らは伝えられたイメージ通りに動ける『かもしれなくなる』。
必ず動く訳ではない。此処まで行う事で、漸くお膳立てが整った、と言う段階である。其処から更に後押しが必要なのだが、その後押しがこの時代では難しい。
古の昔、神秘の濃度がまだ濃かった時代であれば、そんな真似も出来た事であろう。だが、今の時代にそんな事が、只人の手で成し遂げられるとは紅葉には思えない。
物の怪、妖怪、怪異が娑婆に姿形を伴うには、このように迂遠なプロセスを経る必要がある。しかし今の時代の祈祷師や陰陽師共に、そんな事は出来ぬだろう。

「ま、サーヴァントでしょう」

 紅葉でなくとも、真っ当な聖杯戦争の参加者ならマスターですら想到する結論だろう。
何処の誰ぞが、サーヴァントにすらなれないか弱い幻のような噂話に、形と動機を与えている、と見るのがこの場合妥当な線か。
誰がやったのか、と言うのがこの場合次の問題になる。噂に形を与える行為は、器用な芸当である。この時点でバーサーカークラスは除外される。
真っ当に考えるのならば、本命はキャスター、対抗馬にライダーと言う所だが、宝具と言うのは多様性に富むもの。
意外なクラスが仕掛け人、と言う可能性もゼロではない。よって、どのクラスの誰が、あの武家屋敷を程度の低いお化け屋敷にして見せたのか、と言う事を推理するのは止めた。どちらにしても、解る事は一つだけ。

「ロクデナシ、なんでしょうね~。あ~いやですわ」

 これもやはり、真っ当な人物であるのならば直に思い抱ける事であろう。
人間の居住地の真っ只中に、あんな物騒な代物を建て捨てる輩だ。普通に考えて、まともな主従ではあり得ない。
紅葉が屠った都市伝説の怪物共は皆、人殺しに躊躇がないと言うよりは、人間に対してある種の悪意を抱いていた。
元々都市伝説に出てくる怪異とは、害意を以って人に仇名す物が多い。何故ならその性情は、人が彼らに与えたキャラクターだからだ。
そんな存在を野に放つのだ。ロクデナシ以外に評価しようがない。一歩間違えれば、討伐令ものであろう。
……或いはもう、水面下で討伐令が下される動きが起っているのかも知れないが。

「もっと調べなきゃいけません、か」

 と、口にしながら、水を手酌で溜め、それを胸と尻とに持って行き、身体を洗う。本人は何も意識していないのだろうが、余りにも扇情的な動作だった。
後で旦那様――と言っておけば気を良くしてくれるのでチョロい――こと音石明にスマートフォンを貸してもらって調べてみようか、と思った紅葉だった、が。
そう言えば数日前、音石から手渡してくれたスマートフォンでアプリゲー――音ゲーとか言う奴だった――で負けが込んで身体が温まり、
液晶部を勢いよくタッチしたら液晶どころかスマホを嵌めていたケースごと人差し指で貫いた事に音石がブチ切れて、「絶対にもう貸さないからな!!」と言い渡された事を思い出す。全く、男根も小さいと心も小さいのだろうかと紅葉は思う他ない。あんなピカピカ光る薄い板など何処にでも売っていたではないか。一枚二枚壊した程度で、今更何が変わろうか。
 ――そしてその音石であるが、この公園にはいない。その訳は単純な話で、紅葉自身が追い払ったからだ。
裸を見られるのが嫌だったからではない。と言うより、つい最近当のマスター相手にベッドを共にした彼女が、今更裸を見られる恥じらう余地などある筈もなく。
服を買いに行かせたのである。サーヴァントとして召喚された当時に身に纏っていた、最早和服なのかすらも解らないあの改造和服は、
紅葉のお気に入りの一着であるが、流石に血に濡れた状態のそれを纏う訳にも行かない。無論霊体化を行っていれば目立ちはしないのだが、彼女はそれを嫌う傾向にある。
だったら尚の事、血塗れの和服など着用出来る筈がない。なので、代わりの服を音石に買いに行かせていた。元々新しい物好きの紅葉である。
当世風のファッションにも、それなりに興味を抱いていた。丁度良い機会であったので音石を、『此処で旦那様が選ぶ服のセンスで、今後の付き合い方の方針を決めますわ』と低い声音で恫喝して尻を叩く事で、強制的に彼の『持ち』で買いに行かせた。要は、マスターをパシリにしたのである。

 現在この公園には、人はいない。紅葉を除いて、一人もいない。
冬木は今、聖杯戦争のあおりをモロに受ける形で、様々な不穏な事件が随所で起っている。
聞くだに身の毛もよだつ人喰い事件、センタービルの爆破。緊張は最大限まで高まっている。
オフィスビルの多い新都の方面は兎も角、住宅街の多い深山町は、時間の割に人の通りが少ない。
だがそれにしても、公園で裸になっている美女がいると言うのに、誰もこの事を気に留めないと言うのも不思議な話である。
しかし、タネを明かせばそんな疑問は即座に潮解する。何て事はない、紅葉が人払いの結界を展開したのだ。
公園に向かおうにも、ある者は辿り着けず、ある者は心変わりを起こして別の所に行こう、と言う気持ちになっている事だろう。
但し、それはNPC及び聖杯戦争のマスターレベルなら、の話。敏いサーヴァントであれば、紅葉の張った結界に気付くであろう。
そうなったら……まぁ、その時だ。紅葉は自分の事を、それはもう強いサーヴァントだと自負している。大抵の相手なら捻り潰せると増上慢を隠しすらしない。だからこそ余裕綽々で、こうして優雅に水あみをしていたのであった。

 猫の鳴き声が、聞こえた気がした。
mew、mewと。生れ落ちて数年は経過したであろう、成体の猫の鳴き声。
それを聞いて、身体を今洗い終えた紅葉の動きが、止まった。ゆっくりと彼女は、鳴き声の方向に顔を向けた。
やはり、猫がいた。墨を塗った様に見事な色艶をした黒猫である。今時の野良猫は、運が良ければ餌を与えてくれる親切な人間によって餌付けされる事もある。そんな類としか思えない程、野良とは思えぬ見事な猫であった。

「ミャー」

 猫が鳴いた。愛嬌のある、声であった。
さくさく、と、公園中に積もった雪の中を、黒猫がゆったりとした動きで歩いている。
この公園には今の所、紅葉のものである足跡以外、地上に堆積した白雪に刻まれていない。本当に、この街の住民が外出を控えている事がよく解る証拠だった。
天皇誕生日と言う国民の祝日であると言うのに、子供が公園で遊んでいた形跡すら刻まれていない。
本来今の時間なら、年端のいかない子供達が雪だるまを作っていたり、雪合戦に興じている微笑ましい光景が見れた筈なのだ。
どうしても外に行かねばならぬ事情がある時に限り外出をし、それ以外であれば極力外出を行わない。そんな事を、徹底しているようであった。

 とは言え、人間社会のしがらみや事情など、知った事じゃあない、今日と言う日を気ままに生きる生物の代表格。それが猫だ。
きっと、人の通りがやけに少ない街の中を我が物顔で闊歩し、堆積した雪を不思議そうに思いながら、肌寒い冬木の昼を過ごすのであろう。

 ――バレないと思ってんのか、このスケベ猫は――

 だが、これがただの猫じゃない事に気付いたのは、流石に紅葉と言うキャスターである。
彼女は知っている。器物が悠久の時を経れば命を得るように、長年を生きる畜生もまた、物質世界に影響を与える程の神通力を得ると言う事を。
猫が変じた妖怪である所の『猫又』などその代表格である。彼らもまた、狸や貉、狐のように、数十年を生きると人語を解し、変身する力を獲得すると言う。
勿論紅葉がその事を知っているのは、生前の経験からである。山中に行けばそう言った、化生と化した山猫がよく見られたのだ。

 この黒猫からは、その猫又と同じ類だと紅葉は看破している。
自身が何処にでもいる猫であると、紅葉の前では振る舞っている。しかし、発散される微かな魔力の残滓を見逃す程、彼女は愚かではない。
何よりも、猫の動作からは、特有の柔らかみが感じない。ギクシャクとして、ぎこちない。紅葉が持っている、第六天魔王の因子。
異国に根付く神秘の精とは言え、時に荒ぶる神としても恐れられる第六天魔王、或いは他化自在天の因子は、彼らにとっては恐怖その物として映るのである。

 この黒猫の正体は、ケットシー。この冬木の聖杯戦争に招かれた魔術師のサーヴァント、パトリキウスによって呼び出された妖精猫である。
紅葉はこのケットシーが、日本由来の妖怪ではなく、海を隔てた向こう側の国に由来する妖怪――みたいなものだと認識していた。
臭いである。この黒猫は猫又などとは違い、上品と言うか、嗅いだ事が全くない草木の香りがするのだ。異国の植生の中を生きていた事が解る。
要するにこの黒猫は、この街で散々見て来た、日本で確認されるにはとても似つかわしくない、西洋の妖精(フェアリー)の一種だ。

 自分の魅力に釘付けになってる――実態は恐れから来る凝視だが――と思い込んでいる黒猫を見て、紅葉は考える。
この街に来てから、霊体化した回数の方が紅葉は少ない。常に実体化して遊びまわっていた。
早い段階で自分がサーヴァントであると、この妖精達の元締めは知っている事だろう。別に、それが知られる事自体は、この際良い。問題となるのは、此処で『カードを切るか』、と言う事。

 紅葉と言うサーヴァントの操る魔術体系は鬼道と呼ぶ。
これはシャーマニズムの系譜を汲む魔術体系、に近い。霊や神霊、死霊に精霊の類と交信し、諸々の奇跡を地上に引き起こす事が出来る。
要するにやっている事は、上位存在や霊的存在に対する『お願い・依頼』だ。この魔術体系の欠点は正にその依頼する所である。
単純な話で、依頼であって『命令ではない』。つまり、上位存在や霊的存在にはそのリクエストに対して拒否権を発動させられる。
当然、依頼を拒否されれば奇跡は起きない、魔術も発動出来ない。依頼に使った魔力だけを無駄に消費する形に終わるのだ。
しかし、紅葉に限って言えばその拒否される可能性が著しく低い、と言うより殆どゼロだ。彼女の身体に宿る第六天魔王の因子の故にだ。
彼女の行う鬼道とは、この恐るべき神格の血を利用して、霊的存在や上位存在に『依頼』をするのではなく、奇跡を起こせと『恫喝・命令』するのだ。
要するに、親の七光をフルに利用した脅迫である。第六天魔王は時に大黒天、つまりはヒンズー教における破壊の神、シヴァとしての相も持つ恐るべき魔王である。
この恐るべき魔王の因子を前にすれば、大抵の霊的存在は恐れおののき、上位存在であっても後の報復を恐れると言うもの。彼女の鬼道スキルの異様な高さは、こう言った事情に起因する。
 そして紅葉は、鬼道による脅しを、この異教(ベイガン)の妖怪達にも応用出来ると踏んでいた。
つまり、本来の主から支配権を強奪する事が可能なのだと考えているのである。但し、出来ても一度きりだ。次は対策されて難しくなるだろうとは思っている。
向こうは自分がサーヴァントだと理解はしていても、何が出来るのかまでは分からないだろう。対策されていない今がチャンスだとは思う。
とは言え、今は別に下すべき命令もないのではないか? と言う思いがフツフツと湧き上がって来た。実際に何を言い渡そうかと思索を巡らせても、何も思い浮かばないのである。

「……」

 ブンブンと、頭を横に振るって、燃えるような緋色の髪に付着していた水を弾き飛ばす紅葉。その動作はまるでずぶ濡れになった犬や猫のやるものだった。
警戒するケットシー。妖精猫が軽く身の毛を逆立てかけているのをよそに、紅葉は足元の雪を掬い、それに力を込めて丸め始めた。

「えいっ」

 そう可愛らしい掛け声を上げて、紅葉は手首の軽い力だけで、手づから作り上げた雪玉をケットシー目掛けて放り投げた。
――但し、その放り投げたの前には、時速六十㎞で、と言う冠詞が付くのだが。
手首の軽い力だけで、矢のような速度を得た雪玉に意表を突かれた妖精猫。紅葉の投げた白い雪玉は、ケットシーの胴体部分に直撃。

「フギャッ!!」

 予期せぬ衝撃に、そんな声を上げるケットシー。それを見てケラケラと紅葉は笑う。完全に性格の捻じ曲がった毒女――事実――そのものだ。
とは言え、紅葉にしては寛大かつ穏便な処置であると、生前共に過ごしていた者が見れば驚くだろう。紅葉が本気で固めた雪玉を勢いよく投げていたら、この妖精猫の胴体に風穴があいていたのであるから。

 普段ならば何をするのか、と抗議するような動作もしたのであろうが、流石に相手が悪い。
一目散にケットシーは、紅葉から逃げ出し、公園から飛び出して行った。その様子を紅葉は、おかしそうに眺めた後、大きく一呼吸する。

「見世物じゃなくってよ」

 と、身体を洗う為に髪を纏めずにいた紅葉は、己の後ろ髪をポニーテールに纏め直しながらそんな事を口にした。
目線だけを、自分から見て左の方向に向ける。そして、その人物がいる事を確認すると、紅葉は目線を向けている方向に身体の前面を向けだした。

「いや、見世物にならない方があり得ないだろ。姐さん」

 変人をでも見るような光を瞳に宿し、呆れきった表情でそう口にしながら、黒いドレスを着こなす黒髪の美人は、銀雪が敷き詰められた公園の只中に佇んでいるのであった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 聖杯戦争の参加者の一人である安部菜々がバイトしている喫茶店は、控えめに言って客入りが少ない場所であった。
モーニングセットを頼む客もいないのは勿論、日によっては稼ぎ時である筈のランチタイムにすら人が入らない事がある。
飲食店としてそれは拙いのでは?と、彼女の従えるサーヴァントである長兵衛が思う事も少なくない。彼女の生きていた時代に存在した、田舎の茶屋よりも客足がないと言うのは流石に駄目であろう。

 そんな客足であるからこそ、仕事に対する心構えもルーズでいられる。バイトである菜々のみならず、喫茶店を営んでいる店主ですらも。
時刻はじきに正午を回ろうとしている。昼の休憩の時間にはまだ早すぎるが、店主が早めの休憩を菜々に言い渡していたのだ。
いつもは店の奥でテレビを見ている年老いた店主であるが、流石にテレビばかり見ているだけの事はある。
聖杯戦争の開始に伴う、冬木の異変についてもニュース経由で理解していた。どうせこれだけ不穏な空気が漂っていれば、普段以上に客足がないとは思っていたらしい。それを思えば、早めかつ長めの休憩バイトに与える事位、訳はないと言う事だ。

 バイトがある日の菜々の昼休憩の過ごし方は、二つ。
店に備えられた食材を使ってまかないを自分の手でつくるか、外をぶらつくがてらに何か昼食を買って食べるかの二つだ。
菜々は後者を選んだ。否、正確には菜々が選んだのではなく、長兵衛がこうしろと言ったから外に出ていた。

 夢のとっかかりを掴み順調にシンデレラになろうとしている者。努力をしているのに、夢の遠景さえ現れない者。
菜々は後者の方であった。どれだけ前に進んでも、シンデレラへの麗姿、その姿形が幻としてすら見えて来ない。
だが、つい先程まで喫茶店で会話をしていた高垣楓と白菊ほたるには、シンデレラは幻ではなかった。彼女らにとっては、それはもう目に見える距離なのだ。
その事を認識させられ、菜々は泣いた。アイドルになる為の厳しいトレーニングですら泣いた事はなかったのに、事実を認識すると言う事が、菜々の心に与えた一打。これは、痛烈な威力を秘めていた。

 菜々の心は腐っている。菜々と運命共同体の関係にある長兵衛でなくとも、今の菜々のテンションを見れば誰だってそう思う。
見かねた長兵衛は、丁度昼休憩で良い機会だからと、外を歩き回って気分転換をしようと提案したのである。
今の菜々の精神の均衡は、とてもではないが聖杯戦争に臨むマスターのそれは勿論、日常生活を送る上でも全く褒められたものではない。
菜々が今抱えている悩みは、時間が解決してくれる類のものではあるが、その解決するまでの時間が惜しい。故に、直に慰められてもらう必要がある、と言う訳だ。

 商店街を歩く、メイド服を着ている浮かない顔の菜々と、彼女と並んで歩く、黒ドレスのランサー長兵衛。
積もっていた筈の雪は既に、人が歩き、車が走る所ではない所に除けられており、今朝程歩くのが難しくなっている訳ではなくなっている。
地方の商店街は大型のショッピングモール等に客を取られ、閑古鳥が鳴いていると言う所も少なくないらしいが、この冬木に限って言えば、そうではない。
独自の強みのような物を持っている店が多いらしく、新都の方に建てられている多くの建物に客を取られ続け、シャッター街になってしまって……、
と言う、悲惨な境遇にはなっていなかった。普段であれば昼のこの時間には、人通りがそれなりに多く見られる筈だった。
が、既に述べた通り、聖杯戦争が落とす暗い翳の影響で、この商店街――と言うより深山町が全体的に、外出している人間が少ない。
天皇誕生日、国民の祝日であると言うのにだ。活気のない街を歩くのは、どの時代も寂しい。長兵衛もまた同じである。
今の深山町を歩くのはまるで、日の落ちかけた山道を歩いているような感覚を彼女は憶えていた。

「あたしアレ食べたいな、あんていくの……」

「間猿(まえん)バーガーですか?」

「そう、それ。正直バーガーの名前で猿は最悪だけど、味は美味かったからさ」

 あんていく、とはこの深山町の商店街で開店されている喫茶店だが、昭和風の内装が居心地の良い菜々のバイト先の喫茶店とは違い、
今風と言うか、東京に店を出していても通用する洒落た内装が特徴的な店である。コーヒーも、豆を厳選しているのは勿論、淹れる技量も高い為か、とても美味しい。
長兵衛の言っている間猿バーガーとは、その店で働くウェイターが開発した新メニューであり、一週間の試験販売を経、正式に店のメニューに加わった、
と言う経緯付きの商品である。お持ち帰り可。ちなみに初期案では魔猿バーガーだったらしいが、ただでさえ猿と言う字がバーガーに適さないのに、
其処に更に魔と言うこれまた、そもそも食べ物に付けるには適さない字の組み合わせは駄目だと店長から指摘され、妥協して同じ読みの『間』の字にしたと言うらしい。どうでもいい。

 とは言え、名前は兎も角味の方は良い。パンズに挟まるハンバーグも然る事ながら、ソースを長兵衛は気に入っている。照焼き風のソースとの親睦性が高いのだ。
これを食べて二人で駄弁って、適当に昼の休憩を終え元の鞘である喫茶店に戻る頃には、ある程度見れる顔になっているだろうと、長兵衛は踏んでいた。
――人通りの極端に少ない商店街を歩く、女性二人。そんな彼女らの前を、一匹の黒猫が、車の通っていない車道をゆっくりと悠然と歩いて横切りながら、二名の前を通り過ぎて行った。

「人がいないかわりに、猫が我が物顔で歩いてますね、長さん」

 町の野良猫は、人通りの多い商店街には余り姿を見せず、裏路地や、少し離れた住宅街の入り組んだ狭い所にたむろしているものである。
だが、人の気配が少ない事を、特有の感覚で感じ取るや、此処は自分の町であるとでも言うように、本来なら人が歩いて然るべき所を闊歩する。
これもまた、聖杯戦争が冬木の町に落とす、影の一つなのであろうか。

「……今の猫」

「? 気になりました? 少ししか見れませんでしたけど、良い毛並みでしたよね。飼い猫かも――」

「追うよ」

「え?」

 そう言うや、それまで菜々の足並みに合わせて横並びに歩いていた長兵衛が、彼女を追い越し、路地へと消えて行った猫を追い始めた。
迷いのない長兵衛の行動に一瞬面喰い、混乱する菜々だったが、横道に消えて行った女傑の背中を、慌てた様子で彼女も追った。

 今の猫を、長兵衛は知っていた。
つい先程、つまり、菜々があの喫茶店で高垣楓と白菊ほたると話し合っていた時の事である。
あの時長兵衛は喫茶店の外にいて、その時に、見たのだ。黒い猫を捕まえようと路地を走る、男にも見えるが女とも捉えられる中性的な容姿をした、金髪のサーヴァントを。
あれは間違いなく、あの時のサーヴァント――ガレス――が捕まえようとしていた黒猫であり、ヘチマみたいな服装をした優男のサーヴァントが使役する斥候。
あの猫がヘチマ――パトリキウス――の使役する使い魔、のような存在である事は、盗み聞きしていた二人の会話の内容からして確定である。
思えばあの時長兵衛は本当に唐突に、パトリキウスの展開する結界の中に入り込んでしまった形になり、そのせいで少なからず当惑してしまった。
もっとあの結界の中を具に観察し、二人の挙措や性質を見極めるべきだったが、時間的にも状況的にも恵まれていた、とは言えず、芳しい結果は得られなかった。

 これは、またとないチャンスだと長兵衛は思った。
あの黒猫を追えば、あの緑衣のサーヴァントについてのヒントを得られると思ったのだ。
長兵衛は英霊全体から見れば贔屓して二流、辛目に評価して三流のサーヴァントだ。直接的な戦闘を行って首級を上げる、と言う事は端からしない。悪手だからだ。
黒猫――ケットシーは明らかに戦闘向けの使い魔ではない。恐らく緑衣のサーヴァントが召喚する使い魔の中には、より戦闘向けのものもいるだろう。
それを差し向けられれば、如何に三騎士のクラスで召喚された長兵衛とて、如何転ぶか解らない。其処で必要になるのが情報だ。
長兵衛と言うランサーは、先ず下準備で集めた情報を吟味し、その情報をもとにプランニング(立案)。
そしてその計画の通りに動き、相手が不意を見せれば、宝具を以って急所を一突きし、葬り去る、と言うのが常套手段だ。
あの黒猫を追えば、パトリキウスの手札を確認出来るかも知れない。いやそれどころか、だ。
あの時パトリキウス及びガレスは、自分が結界に迷い込んでいた、と言う事実すら認識していなかったフシがある。
情報を得るのは確かに長兵衛にとって必要なプロセスではあるが、そもそも初めから隙だらけの存在相手には、計画を立案する必要性すらない。友好的なフリをして近付き、心臓をブチ抜いてやれば良いだけなのだから。
 どちらにしても、長兵衛にとって、あの黒猫を追わないと言う選択肢はなかった。
サーヴァントならばいざ知らず、一回の畜生の使い魔風情に、自分の変装及び諜報を見破れるとは思えない。事実、彼女の変装や諜報は、それ程までの水準に在る。
自分がサーヴァントだと露見しないのであれば、追った方が良い。当たり前の選択なのであった。

 猫に気付かれないよう尾行する、と言っても、野性の獣の感覚と言うのは人間よりもずっと鋭い。
況してや相手は猫である。五m、十mの距離から付けたとしても、向こうからすれば誰かが追っていると直にバレるだろう。
だから長兵衛と菜々は、ケットシーに常に大きく先を行かせた。彼我の距離を三十m程、常にキープ。
向こうが曲がり角を曲がったら、曲がってから五~六秒程経ってから、二名も角を曲がり始める。
そんな事を繰り返している内に、二名は既に商店街を離れ、住宅街の方まで足を運ぶ事になった。
戸建からアパート、江戸の時代から存在すると説明しても信じてしまいそうな武家屋敷風の建物など、深山町の住宅街はバリエーションに富む。
この辺りはまだ、住宅街に比べて雪が除けられていないのか。足跡も疎らで、轍も刻まれていない雪が道路にまだ積もっていた。
其処を菜々が歩き難そうに、危なっかしい歩き方で移動している。最早ケットシーを追っていると言うよりは、長兵衛の背中に追い縋っていると言う様子である。
だが、流石にサーヴァントである長兵衛の方は逞しい。歩きなれた平地を歩く様な感覚で、積雪が色濃く残る道路をズンズンと進んでいた。

 そうこうしている内に、二名は、商店街からも大分離れた、深山町の住宅街、その只中に存在する市民公園近辺へと足を運んだ。
最低限子供が退屈しない程度の数の遊具と、数台のベンチ。公衆便所に水飲み場と、全国の何処にでもあるような平均的な公園。
狭い所もそうだが、人のいない空地も、猫の溜まり場になる。その例に漏れず、ケットシーも園内で漸く移動を止め、其処にいたのだった。

 ――ケットシー一匹だけなら、どれ程良かった事か。
其処にいたのは、黒い毛並みの妖精猫一匹だけではなかった。猫の他にもう一人、予期せぬ人物がいたのである。
黒猫を相手にチェイスを繰り広げていたガレスでもなければ、その黒猫の元締めであるパトリキウスでもない。長兵衛が初めて見る容姿をした、新たなサーヴァントであった。

 サーヴァントの気配自体は、此処に来る前からも既に感じていた。
しかし、誰のものなのかは長兵衛は理解していなかった。当初はそれを、長兵衛はパトリキウスが発散する気配なのではと考えていたのだ。
だが違った。長兵衛の視界の先二十m程の所にいるのは、そもそも性別からして違う。燃えるような緋色の髪が眩しい、遠目から見ても見事な肉付きとプロポーション。
そして、美しい顔立ちの持ち主だと解る、全裸の美女だ。雪の敷き詰められたその公園に、一人佇むその様子は、ぽつねんと一厘だけ咲き誇る彼岸花を連想させた。

【ちょ、長さん……あれ】

【サーヴァント、だね。拙い事に、向こうの方も気付いてる】

 長兵衛はランサークラスとしての召喚の為、アサシンのクラススキルである気配遮断を持たない。
だが、彼女と隠密性は切っても切れない関係であり、それに纏わるスキルを持っていないと言う事はあり得ない。
故に彼女は、その代替となるスキルを、ランサーとして召喚されても保有している。それが、諜報である。
このスキルの最大の特徴は、相手が長兵衛を見たとしても、敵と認識させない事にある。
竹馬の友だと思わせる事も出来る。子供の頃から親しい間柄の恋人だと思わせる事も出来る。都会の喧騒をすれ違ったきりの赤の他人だとも思わせる事も出来る。
人畜無害な田舎娘を装い、天下人に王手をかけていた光秀を討ち取ったエピソードを象徴するようなスキルであるが、気配遮断と比較して明白に劣る所が一つある。
簡単だ、『サーヴァントとしての気配までは消せない』のである。この点で長兵衛は、暗殺を旨とするアサシンに劣る。
 長兵衛がサーヴァント相手に白星を付けるには、リスクを承知で相手サーヴァントの下まで近づき、信頼に足る人物だと思わせて油断した所を、と言うのが定石。
長兵衛と言うサーヴァントは、取り立てた武勇伝を持っている訳ではない。一番有名なエピソードにしても、光秀の闇討ちと言う事がそれを如実に表している。
この点が、彼女を二流足らしめる理由であった。直接的な戦闘能力を期待される三騎士のクラスで召喚されたにも関わらず、
どちらかと言うとアサシンを運用する様な、変則的な使い方が求められる。これでは、中途半端なサーヴァントと言う謗りは免れない。
戦闘能力がそれ程でもない彼女が、武勇伝の一つ二つを当たり前に有しているサーヴァントの下まで近づき、コミュニケーションを取る。
それがどれ程のリスクを孕んだ事なのかは、説明するべくもないであろう。況して、彼女のマスターである安部菜々は、自衛手段を持たない。
サーヴァントがサーヴァントを対処するのは当たり前の事だが、非力な菜々に対して何かしらの力を持ったマスターが暴力に訴えかければ、其処で決着が着く。

 ――百姓って奴の限界かね――

 ガシガシと頭を掻きながら、長兵衛は考える。
一振りで十人の胴体を宙を舞わせる名刀とかの類が、自分にも宝具として備わっていれば良かったのにと夢想する。
そうすれば、菜々に危機が舞い込んだとしてもある程度は対処出来ると言うのに。尤も、今思った所で叶うべくもない。貧乏くじを引いてしまったと、この場は割り切る事にした。

【首級を上げてくる】

 念話で菜々に告げ、ズイ、と長兵衛は一歩前に進んだ。

【長さん……】

 心配そうに、先程まで馬鹿みたいに泣いていた菜々が返事をする。

【あんたはそこで待機。そこなら丁度、あの色狂いのサーヴァントにも気付かれない良い位置だ。絶対、ここから動くな】

 と指示する長兵衛。彼女の指定した位置は、丁度公園を取り囲む道路に出る為の曲がり角で、この位置からだと、緋色の髪のサーヴァントは菜々の姿が見れなくなる。完全な、死角になるのだ。

【ヤバくなったら逃げる。あたしが公園の敷地から出たら、それはもう、ダメだったって合図だと思って、あんたは働いてるサテンの方まで逃げな。あたしも追って、そこに駆けこむ】

【あ、あの……!!】

【心配するなって。百姓って奴はネズミみたいなもんだ。拙い、と思った時の逃げ足だけは、あたし含めて皆自信があった。あたしの事気にするよか、自分の身体に傷付かない事の方を考えてな】

 さく、さく、と、雪の踏みしめ歩きながら、一歩。中村長兵衛は前に出た。

【なりたいんだろ? アイドル、って奴にさ】

 菜々の息を呑む声を後にしながら、長兵衛は公園の方に臆する事無く進んで行く。
公園の敷地に入った時、緋色の髪の女――紅葉は、明らかに紅葉に対して臆した様子だったケットシーに、雪玉をぶつけてケラケラと笑っていた。
予想よりもやべー奴だったかも知れない、と。長兵衛が後悔したのは、その瞬間であった。

「見世物じゃなくってよ」

 髪を後ろに纏めながら、紅葉が口にした。この口ぶりは知っている。
武士共が、取るに足らない百姓を相手に言葉を交わすような。路傍の小石にでも話しているような声音だ。

「いや、見世物にならない方があり得ないだろ。姐さん」

 虎穴に入ったと、今認識しながら長兵衛が返事をする。自分の身体が、目の前の女の心臓を抉る、一本の槍に変じて行くような感覚を、彼女は憶えたのであった。

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最終更新:2017年06月29日 11:08