国名 |
モスン帝国 (Yeke Mosun Ulus) |
年代 |
6515年~7192年 |
首都 |
テングル(6542年~6595年) 完安(6595年~6687年) |
通貨 |
交鈔 馬蹄銀 |
前代 |
ジャーガルク・シャー国 冨王朝 ロードレス諸邦 円十字軍国家
|
次代 |
後冨王朝
ジャーガルク・シャー国 カノミス王国 ロードレス諸邦 |
・概要
モスン帝国とはシンガ北部の狼亜人系遊牧民及び諸民族を統一したアルタ・ハーンが創設した遊牧国家であり、モスン語ではイェケ・モスン・ウルス(Yeke Mosun Ulus)すなわち「大モスン・ウルス」と称した国家である。
歴代ハーンと『四天四走』に代表される勇将達が双子高原から領土を拡大し、西はゾロタ列島、東は現タンクレート民主共和国領、南はレオネッサ半島の教皇領まで侵攻、双子高原を支配するモスン皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたのアルタ・ハーン子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなし、最盛期には1億人以上の人々を支配した。
・歴史
・建国以前(約1万年前~6515年)
狼亜人系遊牧民族が史書に初めて記されるようになったのは
印王朝の時代からであり、『
印書』の
北狄伝には双子高原のみならず、南の中原にも進出し、諸邦が治める都市国家の支配が及ばない地域で生活し、時に都市国家に侵攻して略奪し、又時に諸邦の有力者と通婚していたとされている。
また、東西韓朝並立戦国時代に
韓王朝が東西に分裂し、諸邦が都城を巡って相争うようになると、諸国は彼らを味方に引き入れ、戦闘を有利に進めようとした。しかし諸邦が都城と街道による点と線による統治から面による領国支配へ政策を転換し始め、領内の異民族を追放ないし同化するようになると、狼亜人系民族はシンガの西北にある双子高原へ追いやられていった。
更に
覇王朝の成立後は、
李槙大将軍率いる覇軍が度々高原へ遠征を行い、同地に長城を建設するとその勢力は劣勢となっていった。しかし
ヘファイスティオンが覇王朝への侵攻を開始し、李槙とその軍がその対応に追われ、さらにその財政負担によって覇王朝が滅亡すると、長城をメンテナンスする者が居なくなったため、狼系遊牧民たちは騎馬による機動力を利用して、度々近隣の都市村落を略奪した。
その様な中で、
チノ氏族の首長である
木訥単于が双子高原を中心に北部の狼系亜人を統一、同時期に中原を統一した
後韓王朝の
王玲は近臣の反対を押し切り、度々中原を略奪するチノ国を討伐しようとしたが、チノ軍の偽装撤退に騙されて進撃を続け、補給線が伸びきったところを包囲されて、止む無く韓軍はチノに降伏、後韓は毎年チノへ貢物を送るようになった。
しかし、度重なる分割相続等が原因で、4000年代よりチノ内部で単于の位を巡って争うようになり、4034年には後韓による分離工作によって
齊凍単于の死後、その子供である
厭鵜単于と先君の弟である
座塔単于が対立し、チノ国は南北に分裂、北チノ国は双子高原の支配者として権勢を誇ったが、
ヴィスヴィオ大噴火と
小オメデス彗星衝突による寒冷化及び食糧難によって更に分裂し消滅した。
一方、南チノは4040年に後韓王朝へ服属し、北方の警備を担当したが、後韓王朝滅亡後は中原の各勢力に傭兵として雇われ、各勢力ごとに部族は分裂していき、更に芯王朝が
寅亜人族カプラン氏族の酋長である
寅診に滅ぼされ、韓人が中原北部の支配権を喪失して以降は
(楼・宍・甚)等の新国家を建設し、更にその末裔である
ヴォルク族は代々
北守節度使を世襲し、
5085年には
ジャーガルク・シャー国を建国した。
・建国(6515年)
旧北チノ国滅亡後、その故地には諸民族・部族連合が割拠し、統一されることは無かったが、その様な中で小部族の首長であるアルタは中原にテン等の毛皮動物やシンガ西部のオタネニンジンを販売し次第に勢力を拡大、更に商売の関係から北部山岳地帯で鉱山開発に携わる金鱗族とも同盟を結び、コークス製鉄が盛んである冨王朝に鉄鉱石を売り込み巨万の利益を獲得、血縁ではなく個人的な主従関係による戦士集団を形成していった。
更に彼は優れた戦略家でもあり、氏族ごとにバラバラであった民を血縁に基づかない千人隊や百人隊へ再編、戦術を動く藪の陣形・湖の陣形等に体系化して、手旗信号や銅鑼の合図で騎馬隊を運用し、また諜報戦と補給線の確立も重視した。
そして7613年には臣従していた白羊骨部族連合に反旗を翻してその軍勢を破り、次の年にはその残党と黒羊骨部族連合を破り双子高原を統一、6515年に遊牧民のクリルタイでカン(王)に推挙された。
・ジャーガルク遠征(6515年~6520年)
一方で同時期のジャーガルク・シャー国はシャーを宗主としつつも各地で土豪が乱立し、その中で大勢力であったオウチ家は度々北冨へ入犯し、略奪や農地の収奪を行っており、中原の王朝を悩ませてきた。
その為、北冨王朝は「夷を以て夷を制す」の理論でモスン国を利用しようと考え南方遠征を条件に支援を開始、モスン側も南部の穀倉地帯を獲得できるため遠征を行い、オウチ領のみならずジャーガルクの大陸領を全て制圧、列島の諸侯やシャーも服属した。
・トゥガ国遠征(6522年~6527年)
ジャーガルク遠征後の6521年にハーンは同時期にトゥガ国を統一したフルウ・ガンポに通交の使者を送ったが、ハーンを成り上がり者と見なしていたガンポは問答無用で使者を殺害し、生き残った使者にハーンとモスン帝国を罵倒する内容を記した書状を持たせ帰国させた。
彼の態度にハーンは激怒5万の兵を率いトゥガ王国へ侵攻し、全ての王族を殺害しトゥガ王国は消滅、しかし多くの寺院はジャーガルクの寺院と交流があり、モスン軍の強さを伝聞で知っており、非暴力を貫きアルタ・ハーンが使者を送る前に服属を誓ったため、寺院は保護され僧侶がトゥガの国政の主導権を握るようになった。
・北冨遠征(6534年~6537年)
一代で2国を併呑し、大帝国を築いたアルタ・ハーンを警戒した北冨王朝は、経済制裁として朝貢・互市の停止処分を行ったが、6534年に激怒したモスン軍が侵攻、首都皇安(現栄都)は陥落し皇帝は捕縛されたものの、皇族が南部に逃れ、臨時政府を樹立(南富)、南富王朝は直ぐにアルタ・ハーンへ謝罪の使節を送り、逆にモスン帝国へ臣従し、歳幣を送ると約束、折しもハーンが危篤であったため、モスン側も遠征継続は不可能と判断し、休戦条約が結ばれた。
・2代皇帝オゴ・ハーンの統治(6539年~6551年}
アルタ・ハーンの没後、生前の勅令により直属軍である「千人隊」の8割は4男のイルが相続したが、一族会議によって次男であるオゴ・ハーンが即位、彼は長男の三男であるパリに2万の兵を率いさせ東方ロードレス遠征を命じ、遠征を名目に4男の兵力を削減した。
また駅伝制(通称ジャムチ)を帝国全土に広め、官僚制に詳しい韓人・狐亜人官吏を重用、遊牧民には家畜100に対して1が、農耕民には10の収穫に対して1が税となる十分の一税制が帝国全土に適用された。
・ロードレス遠征(6542年~6547年)
当時のロードレスには
小諸邦と
円十字軍国家が存在しており、殆どが都市国家レベルの小国であったため、ジャーガルク遠征や北冨遠征で培った
バリスタ・
投石器・
攻城櫓等の
攻城兵器を用いた戦術によって小国は次々と降伏した。
慌てたロードレス諸国は同盟を組み
8万の兵でモスン軍を迎え撃った(
ナホトカ大会戦)が、敵が少数であったため侮り、偽装撤退にまんまと引っかかってしまい、諸侯が功を巡り競って進撃したが、モスン軍が反転すると混乱し潰走、さらに事前にモスン軍の工兵部隊が河川の上流を塞き止めており、ロードレス連合軍がモスン軍を追撃し浅くなった河川を渡河したのを別動隊が狼煙で連絡したのを合図に堤防を破戒し、川を増水させたため、連合軍は退路を断たれ、モスン軍に討たれるか、川で溺れ死ぬかの二択となった。
残った南部の円十字軍国家の女王
シタンは現
カノミス王国北部を支配していた
サンタ・クロース騎士団やイクファターナ諸国に支援を要請、しかし彼ら円十字軍国家と対立していた騎士団や教皇は彼らの苦難を寧ろ歓迎し、「蛮族の侵攻は不信者達に対する天罰であるから、彼らを援助する必要はない」として救援を無視、その為、モスン軍のロードレス侵攻はスムーズに進んだ。
・3代皇帝ドヅジュ・ハーンの統治(6556年~6558年)
オゴ・ハーンが過度の飲酒によって55歳で病没、一族が遠征などによって各地に分散しているからという名目により、集会(クリルタイ)を無視してオゴ・ハーンの次男である、ドヅジュ・ハーンが即位、それに反発した東方イクファターナ遠征中のパリ・ハンはドヅジュ・ハーンの即位を認めつつも反発、東方領土の税が一時滞るようになる。
・4代皇帝クン・ハーンの統治(6561年~6569年)
ドヅジュ・ハーンの死後、その皇后はドツジュの弟カルと結婚し、権力を維持しようとしたが、中央政府の勝手な行動に反発したパリはクリルタイを欠席し、更に王家の中で最も裕福な四男イルの長男であるクンに即位を要請した。
4男家王族の大多数は前皇后とカルに皇位を諦めるよう説得を続けたが、最終的には諦め、同時にクンが自領で即位、彼は即位に前皇后・カルを中心とした即位に反発する勢力を粛清、その後、彼はすぐさま使節を送り東方パリ・ハンとの対立関係を解消した。
また同母弟であるアルにイクファターナ遠征を命令、一方で学問を推奨して、首都テングルに学者を集め、皇族・貴族の子弟を教育し次代の官僚育成に努め、また前南冨王朝への侵攻を積極的に進めたが、その陣中にて病没した。
・イクファターナ遠征(6562年~6569年)
当時イクファターナとモスン帝国領の間にはサンタ・クロース騎士団領が存在し、ジャルの軍が度々威力偵察の遠征を行っていたが、
ローラン率いる勇敢な騎士たちは封土を守るため奮戦、その情報を入手していたアルは自らも威力偵察を行い、現地人が異教徒に強い敵愾心を有している事、騎士たちが重い甲冑を身に着けており、その突撃力は強大である事を知った。
一方、騎士たちは自領へ度々略奪を行う蛮族に憤慨しており、その様な中で1人の百姓が「敵将が近臣のみを連れ国境地帯で狩りを行う」とモスンの兵卒が言っていたと報告、騎士団は全軍と志願した農民兵を連れモスン領へ進撃、すると豪華な服を着たモスン人部隊を発見し、騎士団長ローランは「我と一騎打ちせよ!!」と叫んだが、敵は無視し逃走、騎士にあるまじき行為に激怒した騎士団は憤怒し追撃したが、前方には凍った大河が存在し、モスン兵は直ぐに渡河、続いて騎士・農民軍も渡河しようとしたが、大軍&モスン兵より馬も装備も重装という事もあって氷は軋んだ。
その時モスン軍は遠方から
投石器と
火槍(ロケット兵器)で攻撃、氷は割れ追撃者、特に重い甲冑を装備した騎士たちは殆ど溺死し、僅かに生き残った農民兵たちは恐怖に慄き、村落に帰還後、モスン帝国軍の恐ろしさを過大に村民・都市民へ伝え、殆どの都市村落は戦わずして降伏した。
サンタ・クロース騎士団消滅後、彼らの宗主国である
クラリッサ帝国は反抗的で税を中央に収めない騎士団の消滅を歓迎、一方レオネッサの諸都市国家は北部から伝わる蛮族の侵攻に恐怖したが、教皇はアルの母親が
円十字教徒であるという理由で「反抗的なレオネッサの諸都市国家を征伐し、その領土を教皇に献上するはず」と勝手に思い込み、モスン軍に遠征を勧める使者を送っていた。
そんな事を気にせずアル率いるモスン軍は
レオネッサ半島へ進撃を開始、しかしモスン兵は教皇の予想に反してレオネッサ各地で略奪・破戒・強姦を行い、その被害は教皇領まで及び、予想外の展開に激怒した教皇
マヌケス3世はモスン軍を叱責する使者を送った。
しかし使者は無視され侵攻が続いたため、教皇は傭兵隊長の提言に基づき、「貢物として金塊を渡します。講和の席なので大将と少数の兵のみで来てください。」という書状をモスン軍へ送達、モスン側はまんまと騙され、将軍
スブタと少数の兵が講和会議の会場である都城へ来訪、しかし入場後に門が閉められた。
教皇側は将軍を捕虜として、モスン軍との交渉材料にしようとしたが、スブタは「敵の虜となるよりは」と舌を噛み切り自害、自殺を禁忌としていた円十字教徒の教皇側はこの事態を予測しておらず、混乱状態となった一方、モスン軍の大将ライは敵の卑劣な策謀に激怒し、教皇領への侵攻を開始、
レジーナを攻略し、略奪と破壊の限りを尽くし、教皇を捕らえて両目に溶けた鉛を流し込み、絨毯に包んで圧殺、また
貴族の女性や
枢機卿の処女たちを連行し、モスン将軍・皇族の妾となるか、彼ら専用の売春施設に送られた。
一方で本土の周囲が湿地であり、攻略が難しいことから
ヴェネーツィア遠征は難航し、更にヴェネーチア軍の提督
エンリコは艦隊を率い中央山脈と海の間が一番狭くなる地点に上陸、補給路が絶たれることを恐れたアルは中央山脈以北へ急ぎ撤退、その後再度イクファターナへ遠征しようとするが、直前に皇帝(クン・ハーン)の訃報が伝わったため、新支配地の地固めと自領の独立を優先し、イクファターナ遠征を中止した。
・5代皇帝ライ・ハーンの統治(6570年~6594年)
クン・ハーンの死後その同母弟である
ライと
アリケがハーンの地位を巡り対立、クン・ハーンの前南冨王朝遠征に従っていたライはアリケが集会(クリルタイ)の用意を行っている間に遠征軍の支持を集め、さらに各地の方面軍を味方につけ、アリケのいる首都
テングルへ侵攻、寄せ集めのアリケ軍を破り勝利し、アリケはライの軍門に下った。
即位したライ・ハーンは前南冨遠征を再開し、先に臣従させた
ムスルマーネンに南冨との貿易禁止を命じ、また優勢な南冨水軍に対抗するため、ムスルマーネン人の船乗りを雇い
水軍を整備、さらに
金鱗族の工兵に敵の要塞を水攻めにさせ、救援に来た北冨水軍の
水上機動部隊を自国水軍で殲滅、主力部隊を失った南冨王朝は劣勢となり、
6578年にモスン帝国は前南冨を滅ぼし中原全土を制圧、
6580年には国号を
狼とした。
・狼王朝(6580年~7205年)
内戦終了後、ハーンが直接影響力を及ぼせるのはシンガのみとなり更にライ・ハーンは近しい王族に地方の支配を委ね、前南冨征服後ライ・ハーンは2つの新しい都を建立、塩を基にした
兌換紙幣の発行や
運河建設によって商業を推奨し、また安定した社会の下技術も発達、
染付陶磁器など新しい特産品が登場した。
反抗的な一族は粛清する一方で同母弟が建国した
アル・ハン国や
ジャル・ウルス国と緩やかな連合体制を創出し、商人の安全を確保した。
しかし
6621年に6代皇帝
テルー・ハーンが逝去すると後継者争いが勃発し、即位したチン・ハーンを外戚勢力が暗殺、そこから外戚・貴族・軍閥による政争が勃発、同時に
駅伝・
港湾整備による流通の発達によって帝国全土に緑死病が蔓延し、また
浮屠教の大寺院を建立するため韓族へ重税を課したため、飢饉に伴い政情は不安定化、
6687年には韓族の反乱によって中原の領土を喪失した。
中原喪失後もモスン帝国はシンガ西部を領有(
西狼)し存続したが、皇位の争奪戦は続き、他民族に戦力を頼るようになっていったため、次第に彼らの発言力が増し、皇帝は有力部族の傀儡となっていき、
6889年にはジャーガルク人酋長
エゼ・ベクによって最後のハーンである
チベ・ハーンが殺害され、狼王朝は一時的に消滅した。
しかしエセ・ベクに全土を統括する器量は無く、部下によって暗殺、ジャーガルク旧領は諸部族・豪族が相争う場となったが、チベ・ハーンの弟の曾孫である
ダーン・ハーンが比較的安定しており、アトリオンとの貿易で潤っていたジャーガルクのシャーと結婚し、その財力を元手に
マスケット銃と
火薬を多量に入手、銃装備の
乗馬歩兵と
野戦築城を駆使した戦略と経済力を駆使し、大陸領の5分の3を統一、しかし途中で戦死した。
シャーとの間の子は女児2人のみであったため、妾の子がハーンの位を巡り対立、更に家臣の対立・台頭もあって
トワクー・ベクが可汗として天下統一を成し遂げた時にはハーンの一族はそれに従う小領主ばかりとなっていた。
・アル・ハン国(6569年~6987年)
イクファターナ遠征の途中にハーンの逝去を知ったアル・ハンは占領地(現カノミス王国)で独立を宣言、先ずは連れてきた韓人・狐人・メトラ人官僚達に
戸籍を整備させ、
検地を行い現地に広大な森林地帯と果樹園があるというメリットを生かし、
林業と
ワイン製造を推奨した。
またそれらの物産を中原に輸出できるよう
街道(駅伝)を整備、更に今まで小さな漁村であった
ペールに港湾を整備し、緯度航法に詳しいメトラ商人を呼び寄せ、関所を撤廃し商売の税金は最終目的地で
一括銀納とし、商売をスムーズにした。
この様な税の一本化は農村でも行われ、今まで騎士たちが気まぐれに目の前にあるものを適当に徴税していたものから改善され実質減税となったため、農民の購買意欲も高まり、またこの時期に羅針盤が流入し、ハンが商船の経費を負担し、商売による利益を半々で分け合うという制度も確立されていたため、商業が発達、最盛期にはペールに
ムスルマーネン=カリフ国・ヴェネーツィア共和国・帝国の商人が集まり、
国際都市として賑わったとされている。
しかし一方で中央山付近には
レコンキスタ(国土回復)を目指す騎士団残党が割拠しており、度々村落を襲撃、次第に山岳地帯に城砦を築き
円十字教原理主義に基づく共同体を形成、その中で農民出身の戦士
エル・シドは度々アル・ハン国領へ遠征を繰り返し、少しづつ勢力を広げていった。
彼は時にモスン人貴族やメトラ商人と結び、彼らの制度を真似て税を一本化し、騎士に俸給を払い、領地での略奪を控えさせ、民心を得たが、彼の跡を継いだ
エリコ1世は宗教的情熱に基づきレコンキスタを押しすすめ最後のカンを打ち取り国土を統一、更に「商売は神の教えに反する卑しい行為だから商人を殺せば天国に行ける」という理由から外国人商人を虐殺、旧大陸諸国との商売が途絶えたため、慌てたカノミス商人たちは新しいマーケットを探すため各地へ探検隊を送るようになった。
・ジャル・ウルス国(6550年~7200年代?)
ジャル・ウルス国の支配者であるモスン人は都市住民の統治法を知らなかっため、旧来からの現地勢力を生かし、定期的に貢物を徴収する政策を行い、特別に首都も置かず、天幕(ゲル)で各地を移動し生活を続け、次第に一族が分かれていき、現地勢力と通婚していく中でジャル・ウルス国は自然消滅した。
・行政制度
・組織
皇帝にはケシクと呼ばれる親衛隊・給仕達が仕え、ハーンや地方勢力に仕える彼らが官僚として諸事を司り、軍は中軍・右軍・左軍に大別され更に郡内は先鋒部隊・中軍・輜重部隊ダルガチが占領地の統治を行い、実務は韓人・狐亜人・メトラ人の官吏が司った。
しかし科挙などによる学歴重視の人材登用制度は一度廃止され、ライ・ハーンの没後復活したものの前王朝に比べると合格者は少なく、縁故や血縁による人事が中心となっていき、帝国末期には腐敗した官僚や自立した軍閥の存在が問題となっていった。
・地方行政
中央政府である中書省(書記・財務官僚機構)が実質的に支配するのは完安(現栄都)と順安近郊の直轄地のみであり、各地に中書省の代行機関として行中書省という官庁が置かれ、その行政区画が現在の清河に存在する省となり、またジャーガルク旧領を中心に服属した豪族やモスン王侯貴族の領地やムスルマーネンなどの服属した国家等が存在した。
・軍事制度
モスン帝国の軍隊は万人隊・千人隊・百人隊・十人隊に基づき編成されており、特に千人隊は平時遊牧民の社会単位でもあり、日常から各隊は長のゲルを中心に部下のゲルが集まって円陣を組むという社会形態をつくって遊牧生活を送っており、有事には馬や武具を持参して馳せ参じ、指揮官の命令には絶対服従であった。
一方で先鋒部隊による略奪は禁止されており、彼らが敵を追撃する代わりに中軍が略奪を行い、報酬は輜重部隊であっても平等に分配され、また様々なマニュアル化が進められており、戦術だけではなくレーションの作成法や剣・複合弓の修理方法まで体系化されていた。
・情報戦略
モスン帝国は同時期の軍に比べかなり情報を重視しており、各国の商人に大金を払い、各国の情報を話させ、韓人書記に記録させており、また定期的に敵地へ偵察を行い、時には現地人同士のを利用し、内通者を創ったり、偽の情報を流して敵を混乱させたりしていた。
・経済
モスン帝国は商業を重視し、街道(駅伝)・水路・港湾を整備するのみならず、各地の関税を撤廃し、商品の最終売却地でのみ商品価格の三十分の一の売却税をかけるように税制を改め、更に新しい商売をしようとする商人には積極的に投資を行った。
税制も中原では両税法を引き継ぎ、大体農業収入の十分の一が税となり、高原では家畜100頭の内1頭が税金として納められ、旧ジャーガルク領は成人一人当たり、穀物1石、あるいは土地1畝ごとに畑は3升、灌漑地は5升、というように人数割と田畑の面積割の二種類のうちどちらかを払うようになっていた。
また狼王朝は塩の専売を行っており、塩で兌換できる塩引を発行し、金銀への兌換準備が不足しても紙幣価値の下落は進みにくい構造を創出、塩引は国際通貨である銀と交換される価値を獲得し、しかも一枚の額面額が高いために、商業の高額決済に便利な高額通貨ともなった。
・文化
街道が整備され、夜盗などが殲滅されたため、帝国領内の治安は良くなり、人の行き来が盛んになったため、様々な宗教や文化が交流し、商材としての新商品(ワイン・染付陶器・絹織物)の開発が進み、また領内の秤・貨幣も統一したため帝国の経済的一体化が信仰し、各地の天文学者が観測記録を広大な領内で交換し合ったとされている。
・宗教
モスン人自体は天を信仰する
シャーマニズムを信仰していたが、帝国に反抗しない限り、他人や他民族の信仰に介入する事は無かったため、各地で異端として弾圧された者達がモスン帝国領に集まり、海外の情報を伝えたり、時に侵略の案内人となった。
一方でモスン人の中にも
円十字教・メトラ・
浮屠教に改宗する者も多く、特にライ・ハーンの治世以降、トゥガの浮屠教が流行し、王侯貴族が競って寺院に
寄進を行い、帝国末期の財政難に拍車をかけたとされている。
・モスン帝国が侵攻した国
・滅ぼした国
- 冨王朝
- トゥガ王国
- ロードレス諸邦(抵抗が激しかった国)
- 円十字軍国家
- サンタ・クロース騎士団領
- レオネッサ諸都市国家
・征服し宗主国として支配した国
・継承国家
最後のハーンとシャーの末裔が現ジャーガルクのシャーであり、帝国時代の遺産(教皇の髑髏杯等)を所有している一方、清河政府はモスン帝国を飽くまで中原の歴史の一部と認識しており、野蛮な少数民族が進んだ中原の制度を導入し、世界帝国を築いたと主張している。
最終更新:2020年04月14日 20:37