生死について
生物としての死と、精神としての死の2つある。生物の死は肉体の死であり、精神としての死は魔力の喪失や魂の喪失である。前者はオドがある限りは治癒できる。後者は魔力が尽きてしまう前に補うか、魂の解脱の前に戻さなくてはならない。
魔法の概念について
各国の加護によって得られる大気や大地に満ちるマナ(大源)と、生命が生まれ持っている生命力・精神・魂を元とするオド(小源)を魔力と称する。
マナの量と比べればオドの量はほんの微量でしかない。加護を損なうことがマナの扱いを制限することを鑑みれば、仇人となることは魔法の扱いに関して凄まじいディスアドバンテージとなる(=殺人への抑止力としての機能、また世界観への説得力)。
また、当然微量しかなく生命の存在自体に裏打ちして存在しているオドを使った魔法は、文字通りに身を削る行為でありオドの枯渇は生命の喪失と同義である。
しかし、魔法に使う魔力として言うのであれば、火で例えるならばマナは薪、オドは油であり、潤沢に使えて扱いやすいマナと、扱い難く安全のためにはわずかしか使えないものの少量で大きな効果を得られるオドとで性質が分かれている。
加護が強ければ膨大な量のマナを用いて安全に強力な魔法を発動出来る一方、加護が弱くともオドを燃やして同様の強力な魔法を発動することが可能である。無論、濫用すればたちどころに死を招く死者の招き手(デッド・マンズ・ハンド)として忌避されるものではある。
魔法、魔術、魔導、魔道は全て厳密に言うと別のことを指す言葉である。しかし、大抵の場合一言でまとめて魔法と呼ばれていることが多い。
魔法とは、魔力を用いて“世界を改変する”業のことである。
“魔”力を以て世界に“法”則を強いることから魔法と呼ばれる。
例を挙げると「火球を発生させ敵に射出する」と言う現象は、火球を発生させるのも射出するのも普通あり得ないことであり、もしそれを行うならそれなりの規模の装置が必要になる。
なので世界そのものに対して「そこには火球があり、それは敵に向けて飛んで行く」と言う事実を書き加えることでその現象を発生させる。それが魔法の正体である。しかし世界そのものには修正力が働いているため、書き加えられた現象は長時間持続することなく消滅して世界は元の状態に戻る。
魔法はマナを操ることが出来れば(=加護を得ていれば)何となくでも扱う事が出来るものではあるが、この“世界を改変する”と言う事実について認識出来ているかどうかは魔法の精度にも関わる事であり、優秀な魔術師であるほどこの改変の深度を深めることが出来ていると言う事でもある。
また、魔法については個人の思う様に出来ると言う利点があり、「手足の延長」と言う表現すらある程度に自由が利くが、逆に言うと非常に個人の差が出やすいものでもある。
現在“魔法使い”と特別言う場合は「魔術を習得していながらあえて魔法を使う者」と言う限定した呼称となる。
魔術とは、魔法を扱う技術を体系化したものである。
『理を以て魔を得るなり、即ち魔を以て理を統べるべし』と言う言葉は、各地にある魔法学校において必ず標語となっている言葉であり、「この世界の理を知り技術や知見を高めて魔力を扱い、その魔力を用いてより深く世界の理に挑み操るのだ」と言う意味。
前述通り魔法と言うのはとても個人差が出やすいものであり、個人の性格や魔力の性質によっては攻撃魔法しか扱えない者や補助魔法しか扱えない者も容易に発生する。各加護に於いてそう言った差異が発生するのは仕方ないことではあるが、それでは不便も多分に発生するため魔法において世界に書き込む法則を魔法陣や呪文といったものに置き換えることで体系化し、誰でも同等のものを扱えるようにしたものが魔術である。
このことから魔術とは学問でもあり、より効率的に魔法を扱えるようにするための技術でもある。
このため普通に魔法を使うよりも洗練されており、魔力の消費などは軽減され扱いやすく、知識と技量さえあればどのような魔法でも扱う事が出来るのが魔術の利点である。
魔術は物理的に構築できると言うのも利点であり、これによって魔法を封入したスクロールを作ったりや魔術回路として魔法機械の構築に応用したりすることが可能。
「魔法」を扱うに当たっても魔術の習得は同様の利点を持ち、構築を洗練することによって消費魔力の軽減を行えるため、魔法学校に就学せずとも本当に基礎的な部分だけは学ぶことが出来る。
“魔術師”と言う呼称は基本的に魔法学校を卒業した者に与えられる称号のひとつのようなものであり、詐称して何か罰があるわけではないがあまり自称するものではないとされている。
魔導とは魔法のもたらすものをある種神聖視する信仰のようなものである。
宗教として存在するわけではなく、これは“魔”法によって“導”きを得る思想のようなものであり、言うなれば特別深い魔法への傾倒、魔法至上主義のこと。
加護がマナ(≒魔力)をもたらすものである以上、魔法も加護に依るもので、だからこそ魔法やそれによってもたらされたものも大事にしなければならないと言う思想。
これそのものは魔法に関して何か意味があるわけではないのだが、魔導への傾倒は加護への信仰に繋がり、加護への信仰は愛国心に繋がるため、古くから魔導はより強い加護を得るためのものとして重要視する者が必ず一定数存在している。
実際にそう言う効果があるのかは判然としていないが、それでも加護がもたらされた古い古い時代から存在する概念であるためこれから無くなることもないだろうと言われている。
魔導を拝するものはそれの代替となり得る機械の類を厭う傾向があり、魔術を応用した魔法機械に関しても魔法への冒涜として毛嫌いしたり排斥しようとする者もいる。そういった者への対策として機械を利用する区画と魔導を拝する者の居る区画は分けられたり、魔法機械は近年魔導の概念に反するものではないとして“魔導機械”と呼ぶようにする流れなどもあるが、まだ当たりは強い。
“魔導師”と呼ぶ場合、特に「魔術を習得しており魔導に傾倒している者」と言う意味。
魔道とは技法としての魔術を修めるに当たり心身の向上を目指す修練である。
要は剣道や柔道といったものの“道”と同じものであり、それを習熟するにあたって技術だけでなく精神などを磨き上げる様式を指す。
これは魔導の概念に沿ったものでもあり、魔導を拝する者にこれを修めるものが多い。
競技としての側面ももちろんあり、魔法の精度を評価する形式と相対して決闘形式で争うものがある。後者は他の武術と違い非常に危険であるため行われるのは稀。
“魔道士”と呼ぶ場合、その競技プレイヤーであると言う意味。
魔法について
「魔法」は手足の延長と言われるほどに自由が利くとは言うものの、万能と言うわけではない。
魔法とは「“あらゆる理論によって実現不可能だが、あらゆる理論によって実現が可能である“と言う矛盾である」とされるもので、乱暴に言うのであれば「出来ると思えば出来るし、出来ないと思えば出来ない」と言う事である。
魔力は個人の魔力回路(マジック・サーキュレーション)の循環で属性を帯び、触媒を用いなければその属性以外の魔法を扱う事は出来ないが、たとえ得意属性の魔法であったとしても全てを扱えるわけではない。
魔力回路は属性の付与だけではなくその属性の性質の付与も同時に行われており、それによってどのような魔法が得意であるのかが決定付けられる。
例えば火属性でも「暖かい」と言う性質なら回復魔法や補助魔法を得意とするが攻撃魔法は不得手であったり、「熱い」と言う性質ならその逆であるといった具合。
この属性の性質はある種個人が持つ先入観のようなものでもあり、これを改変することは基本的に不可能とされている。
では不得手な魔法が全く使えないのかと言われるとそうではなく、先述の例なら「暖かい」熱であっても収束していけばそのうち発火するような高熱と化すし、「熱い」熱でもその熱源が小さかったり距離を取っていれば暖を取るのに丁度良い温度となるように、あくまでも不得手であるだけで不可能ではない。
これまた乱暴に言うなら「その性質で目的の効果にこじつけられればいい」のである。
こう言った得手不得手は魔力の消耗に直結しているため、そう言った性質の影響を受けない(=魔力をただのエネルギーとして運用する)魔術が用いられるのが一般的であり、丁度使おうと思っていた魔法が得意な性質のものであった、などと言う場合でなければ一般人が「魔法」を扱う事は基本的に無いと言っていいだろう。
とは言え長短が明確であると言うことでもあるため、戦闘職や研究職などの専門職に就くような人物であればあえて「魔法」を活用している場合も多い。
なお、加護によって得られるマナはそのものが加護の性質が付与されているものであるため、魔力回路がどのようなものであっても加護の性質に沿った魔法は問題なく扱える。加護の性質に反している魔法であったとしても、マナを薪、オドを着火剤として用いるような使い方をすれば使う事が出来るが、そうした使い方をするのは仇人に堕ちようとしているということに外ならない。
最終更新:2023年09月22日 13:46