「唯先輩……」
呟くように声をかけて、少し茶色がかったショートボブの髪を撫でてみる。さらさらというよりふわふわ。指の間をすり抜けていくというより髪の毛に指が沈んでいくような感じ。
もちろん声をかけた程度じゃ起きないし、こうして髪の毛を触っても身動ぎひとつしないで私の膝の上でぐー、すぴーと寝息を立てている。
そもそもどうして私が膝枕をしているのかというと数時間前に遡るのだけどつまりは最近夜遅くまで練習していたらしい唯先輩が眠気の限界だったらしくてギターを壁に立てかけて
そのまま突進するように私に抱きついてきたと思ったらまるで猫みたいに私の膝の上に丸くなりそのまま眠ってしまったという訳だ。
ちなみに、今日は部活がオフの日で、昨日せっかくですし二人で特訓しましょうと誘ってみるとあっさりとオーケイをもらえたからでは朝6時にウチに来てくださいと言うと
それは早すぎだよと文句を言われてしまってしょうがないですねでは私がそちらに行きますと言うとそれならいいよと合鍵を渡してくれたのでそれを使って家に入ったのである。
寝顔が見たかったから朝4時に家に侵入――否、合鍵を使っているのだから何もやましいことはないということで憂に気付かれないように足音に気をつけて唯先輩の部屋に忍び込むと
案の定唯先輩はぐっすりと眠っていたのでゆっくりとその寝顔を堪能していたらいつの間にか私も寝てしまっていてそれをばっちり唯先輩に見られてしまったのだけれど別に悪い気はしない。
しかし憂の姿が見えないなと思って訊いてみると昨日から友達の家に
お泊りだよと答えられてそれならまるで泥棒よろしく足音に気をつけていた私はなんだったんだという
理不尽な怒りが湧いてきたけどそれを外に出してしまうと私が唯先輩の寝顔を見たいがために早起きして家まで来たように思われるので言わなかった。別に
勘違いされたからってどうにかなる訳じゃないのだけれど。
「しかし、まぁ……」
なんとも可愛らしい寝顔をしていらっしゃる。いや、この人が可愛いのはいつものことだけど寝ているときは普段の数倍可愛らしいと思う。
こんな可愛らしい顔を無防備に晒されたら思わず食べてしまいたく……おっと。
寸でのところで自分の欲望を抑える。こんなところでコトに及ぶなんて道義に反するしそういうことはしっかりとした関係を持ってからじゃないと駄目だろう。
それを無視して無理やりしてしまうとそれこそ今まで積み上げた関係を壊してしまうことになりかねないし先輩の心に一生治らない傷を負わせてしまうかもしれない。私のことを嫌いになるぐらいならまだいいけどトラウマを残すのはやっぱりよくない。
しかし、だからといって、
「んぅ……、あずにゃぁん……」
私にも我慢の限界というものがある訳で。
こんなに無邪気で無垢で純真な寝顔で私の名前を呼ばれてときめかない訳も無く、私の心は正直もう我慢の限界である。
我慢の限界である。
しかしだからといってコトに及ぶわけにはいかない。前述したとおり私はそれをやってはいけないものだと考えているし、恐らく誰だってそう考えるだろう。もしそう思わない輩がいたとしたらそいつはただのレイプ犯だ。即刻逮捕して私刑を下してやる。
だったら……うん、キスぐらいならきっと許されるだろう。情事をするというわけじゃなくただの愛情行為だし私が先輩を愛しているのは誰の目にも明白だろう。そんな私がキスをしたところで誰も驚かないしむしろそれが当然だと思うはずだ。
そう思って控えめだけどぷっくりと柔らかそうな唇を見つめてみる。普段は雑な唯先輩もやっぱりそこには気を使っているのか、簡単にだけどリップを塗っているみたいで、ちっともかさついていない。
「……」
なんとなしに顔を近付けてみると、唯先輩独特のふわふわとした匂いが鼻孔をくすぐった。同時に薄く開いた唇から漏れる吐息の甘い匂いも感じて気恥ずかしくなり、心臓が早鐘を打つ。
このままもう少し顔を落とせば簡単に唇を奪えるけど、それは紳士的はないというかなんというか……。
ただ勇気が出ないだけだけど。
そんなことを考えながら数分間。
パチリと唯先輩の瞳が開いた。
「あ……」
「え……?」
二人の距離、およそ数センチ。鼻同士がぶつかりそうな至近距離である。まさに目と鼻の先。
唯先輩は不思議そうな目で私を見つめている。恐らく寝起きで頭が回っていないのだろう。今なら誤魔化せるかもしれない。
「あはは。さっきまでゴキブリがそこにいたので殺そうと思ってたんですよ~。もう逃げちゃいましたけど。決して寝ている人間の唇を奪おうなんて思って――」
「あずにゃ~ん」
「んん!?」
キスされた。
あまりにもあっけなさ過ぎてキスされたという事実を認識するのに時間がかかってしまったけど、間違いなくキスされてしまった。
「あ、あの……」
「えへへ~、
あずにゃんとちゅ~」
聞いちゃいねえ。
「どうしてキスなんか」
「え? だってあずにゃんからしようと思ってたでしょ?」
「違いますよあれはゴキブリを殺そうと」
「嘘だね」
「本当です」
「嘘だよ」
「嘘ですけど」
ほらやっぱりと唯先輩が笑った。なんとなく見透かされたような気になって恥ずかしくなって目を逸らす。
「だけどこれで私とあずにゃんは恋人になったんだね」
「……は!?」
何かトンデモナイ衝撃発言が聞こえたような気がしのだけれど気のせいだろうか。
「あ、あの、唯せんぱ――」
「さ、練習練習~」
……あれぇ?