穏やかな陽射しとさらさらと木々を揺らす風が春の到来を告げる、3月の昼下がり。

梓はくしゅんとくしゃみをした。
花粉のせいなのか、それともしばらく掃除をしていなかったこの部屋のせいなのか。
両方かな、と梓は呟き、スイッチを切った掃除機を左手に持ち替えて、右手の人差し指で鼻の頭をこすった。

バリッ、バリッ、とせんべいを噛み砕く音が聞こえ、梓はいつも通りにため息を吐く。
ため息を吐くと幸せが逃げると言うが、梓はそうは思っていなかった。
なぜなら、梓がため息を吐く原因を作る人間はただ一人しかいないからだ。
そして梓がため息を吐いてもその人が飲み込んでくれる。幸せは決して逃げない。
梓はそう信じていた。

「……でなきゃやってられないよね」
「何がー?」
「何でもありませんよ。それより、まだ昼食を取って一時間も経ってませんよ。
 三時のおやつにしては早いんじゃないですか?」
「まあまあ、いいじゃない。明日も休みなんだからさ。
 掃除は明日だってできるよ」
「そんな調子で先延ばしするから、こんなに汚くなっちゃったんです。
 こんなんじゃ人を呼べないですよ」
「いいよ。みんな散らかってても気にしないって」
「私が気にします。さすがに見苦しすぎですよ、この部屋は。
 脱ぎ散らかしてるし、雑誌と座布団の区別がつかなくなってるし……。
 おにぎりせんべいこぼれてるし」

梓は唯の足元に掃除機を運び、食べかすを吸い込んだ。

「最近の掃除機はすごいねー。驚異的な吸引力だ」
「そうですね。というわけで唯先輩。
 さっさとせんべいを飲み込んで押し入れの整理を再開してください。でないと右足の小指をこの掃除機で吸い込みますよ」
あずにゃんこわい……。わかりましたよー」

唯はずずーっとお茶をすすり、よいしょっと言って立ち上がった。

「では行って来るよ」
「いってらっしゃい」

唯は手を振って隣の部屋に消えて行った。

パタンと閉じられた扉を、梓はじっと見つめた。
梓はため息を吐いた。
けれど、その口元には笑みが浮かんでいた。

梓は掃除機のスイッチを入れ、食卓の下に潜り込んだ。

「あずにゃーん」
「唯先輩……。まだ五分しか経ってませんよ」
「見て見て。これ」

唯は水色のカバーをつけた分厚い冊子を顔の前に掲げた。

「アルバム……ですか」
「ねぇ~。見ようよ~」
「掃除終わってからです」
「あずにゃん。そんな急いで掃除しなくてもいいじゃない。
 人生は、ゆっくり歩んだ方が色んなものが見えるんだよ。私はウサギとカメでいうとカメなの。
 さあ、お茶でも飲んでゆっくりしなさい」
「どちらかというと、アリとキリギリスのキリギリスですね、唯先輩は」
「がーん」

唯は右手で頭を押さえ、足をふらつかせた末、木製の椅子に身を預けた。

オーバーなリアクションだ、と思いつつ梓はテレビの裏側の掃除に取りかかった。

けほっ、と咳をした後、梓はずらしていたテレビ台を元の位置に戻した。
次はソファの裏の埃を取り去ってやろう、と二人掛けのソファの方へ足を向けながらも、梓は横目で唯の様子を窺った。

唯は頭を垂れて、テーブルに置いたアルバムをゆっくりとめくっていた。

ソファの後ろに落ちていた五円玉を二枚拾い上げ、梓は再度、唯の方を密かに見やった。

アルバムをめくる速度は増し、唯の目は爛々と輝きを放っていた。

梓はソファを元の位置に戻し、唯に背を向けつつカーペットに掃除機を掛けた。
しかし、掃除機が発するヴィーンという音をしのぐほどの笑い声が室内に響き渡り、梓は首を回した。

「あははははっ! おっかしいー! 見てよあずにゃん」

梓は掃除を続けつつ、唯の横顔から目を逸らさなかった。
7秒に一度、まるでシャッターを切るように、梓はまばたきを繰り返した。

掃除機と笑い声が奏でるハーモニーは、ベースとドラムとキーボードとギターに絡み合うボーカルに似ていた。

「いや、似てないし」
「あーっ!」
「ど、どうしたんです!?」
「私のタイツ!」
「あ……」

ブィーンと不快な音を立てて、掃除機はクッションの下にあったタイツを飲み込んでいた。
直後、掃除機はガガガッ、バキバキッ、と悲鳴をあげた。タイツの横にあった耳かきが無残な姿を晒していた。
梓は左手で額を叩き、右手で掃除機のスイッチを切った。

そしてテーブルに近づき、唯の隣の椅子に腰を下ろした。

梓が座ると椅子はギシッと軋んだ。この椅子は四年前に中古家具店で購入したものだ。

「あずにゃん、太った?」
「椅子が古くなったんです」

梓はそっけなく答えるとアルバムに視線を移した。
左ページの左上の写真には軽音部五人が笑顔で写っていた。

「これ、いつだろう」
「私が入部したての頃ですね」
「なんでわかるの?」
「笑顔がぎこちないです」
梓はそう言うと、唯の顔を見て微笑んだ。唯も梓に笑顔を向け、梓の頭を優しく撫でた。
梓はくすぐったげに片目を閉じたが、拒みはしなかった。

「これは合宿の時のだね」
「ええ。唯先輩は普段行かない所に行くとすぐはしゃぐ人でしたね。今もそうですけど」
「あずにゃんだって楽しそう」
「お恥ずかしながら」

二人は一枚一枚じっくり思い出を振り返った。

「これは……学園祭の?」
唯が指さした写真に写っているのは、夜の学園祭の仄かな灯りの中にいる唯と梓だった。

「あー、これは……」
「確かあずにゃんにこっぴどく叱られて……。ひどい演奏だったのは唯先輩のせいですよ!って」
「……すいません。あんなこと言うつもりはなかったんです。本当は……」
「わかってる」

唯は梓の肩を抱いた。梓は唯の肩に頭を乗せ、しばし目を閉じた。

二人は引き続きアルバムをめくった。五人で写ったものが多い。

ライブハウスでの記念写真。

初日の出をバックに撮った写真。

ケーキを食べている五人。唯の頬にはクリームがついていた。梓は唯の顔を見ていた。

け、い、お、ん、ぶのキーホルダーを手に持った五人。

ギー太を大事そうに抱える唯と、そんな唯を呆れた目で見ている梓の写真。梅雨の時か、と梓は苦笑する。

夏フェスで肩を組む五人。

部室で練習する五人。

ライブを終えて部室で眠る五人。

大晦日に年越しそばを食べている五人。

大学合格を喜ぶ四人と、複雑な表情を浮かべた梓。

卒業式の日の五人。


アルバムをめくる手が止まった。
すうすうという寝息を聞いて、梓は唯がページをめくらなくなった理由を察した。
梓はふっと息を吐き、唯の頭を自分の肩に乗せた。

梓は右ページの右下にある卒業式の日の写真をじっと見つめた。

「卒業は終わりじゃない、か」

これは唯達が梓のために演奏した後に撮った写真だった。
この時はまだ、梓の目の涙は乾いていなかった。
この時はまだ、梓は自分が一人になると思っていた。。
もう傍にいれなくなると思っていた。

「時間が巻き戻ればいい、なんて思ってたな」

梓は前のページに戻ろうとした。

「あず……にゃん」

唯は夢うつつで梓の服の裾をつかんだ。


梓は前のページには戻らなかった。
今の梓に不安などなかった。
卒業は終わりではなかったから。
今ここに、確かに体温と息遣いを感じられるから。

テーブルの上には使い捨てカメラがあった。先日の旅行で唯がデジカメを家に忘れたために現地で買ったものだ。
梓はそれを手に取った。残りは一枚だった。

「唯先輩」

起こしちゃうかな、と思いながらも、梓は最後の一枚を撮影した。

「まだまだ終わりませんよ」

梓はカメラを置き、次のページを開いた。

END


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最終更新:2011年03月11日 19:59