夏休みも終わりに近づいた
ある日のこと。
卒業旅行の相談をしようと先輩に呼ばれた私を待っていたのは、
護身術の本を持った唯先輩だった。
公園の隅の休憩所で、本を広げてふんすと気合いを入れてみせる唯先輩。
対して私は、気の抜けたような返事をすることしかできなかった。
「……って、今日は卒業旅行の行き先を決めるんじゃなかったんですか?」
「うん、もちろんそれも話し合うけどね、
でもやっぱり、こっちも重要だと思うわけです!」
そう言う唯先輩の表情は、ほんといつになく気合い充分で……
できればギターの練習や受験勉強のときも、
これぐらい気合いの入った顔を見せてほしいと思った。
「もうっ、どうでもいいことばかり一生懸命になるんですから……」
「ぶー……どうでもいいことじゃないよぉ。
こういう練習は、日々の積み重ねが大事なんだから!」
「う……またこんなときばっかり正論を……」
唯先輩の言葉に、私はむぅとうなってしまった。
でも確かに、それは正論だった。
護身術は一朝一夕で身につくものではないし、
地道な練習で体に覚えこませなければ、
いざというとき役には立たないだろう。
普段の練習が大事という点は、楽器のそれと同じだ。
それに、海外が危険なのも確かだし、
唯先輩を心配してこの本を買ってきた憂の気持ちも
わからないわけではなかった。
「……そうですね……それじゃ、澪先輩たちが来るまで、
ちょっと二人で練習してみましょうか」
苦笑を浮かべながら私がそう言うと、
唯先輩の顔には満面の笑みが広がった。
「それじゃ、まずはあずにゃんが悪い人役ね!」
本を休憩所のテーブルの上に置いて、唯先輩が私に背中を向けて立つ。
私はこの前のムギ先輩を思い出して、
その真似をするかのように唯先輩に後ろから抱きついた。
「え、えっと……か、かねよこせ~」
自分のわざとらしい言葉にちょっと赤面しながら、私は腕に力を込めた。
私の方が唯先輩よりも背が低いため、足はちょっと爪先立ちで、
伸し掛かるというよりも、なんか縋り付くみたいな感じになってしまって……
それがまた私の頬を赤くしていた。
そんな私に対して唯先輩は……微動だにせず、立ち尽くしたままだった。
護身術の練習のはずなのに、なにもしようとしない。
ひょっとして台詞待ちなのだろうか……
そう思った私は、恥ずかしさをこらえて口を開いた。
「さ、さぁはやくかねをだすんだ~」
「…………」
「お、おとなしくかねをだせば、い、いのちまではとらね~」
「…………」
「……ゆ、唯先輩?」
続ける台詞に、でも唯先輩はまるで動こうとしなくて……
さすがにおかしいと思った私は、腕を解いて唯先輩の顔を覗いた。
そして見えたのは、
「ふわぁぁぁぁ……」
「ゆ、唯先輩!?」
恍惚とした表情だった。
幸せの絶頂にいるような溶けきった笑み。
驚きのあまり私は声を上げて、思わず唯先輩の体を揺すっていた。
二度三度と体が揺れて、ようやく唯先輩がはっと意識を取り戻す。
「あ、あずにゃん……」
「もうっ、どうしたんですか、唯先輩!」
「え、あ、ごめんね……
あずにゃんから抱きついてきてくれたのが、嬉しくてつい……」
言いながら、赤く染めた頬を両手で押さえる唯先輩。
その表情に、私もまた顔を赤くしてしまい、
「な、なに言ってるんですか! だ、抱きついたって、
ご、護身術の練習じゃないですか!」
「護身術でもなんでも、抱きついてきてくれたのは同じだもん!」
そう言う唯先輩の頬は赤いままで、
つられるように私の頬も熱を保ったままで……
恥ずかしさに、私は大声を上げていた。
「もう! 練習なんですから、真面目にやってください!」
「あ、そだね……ごめんね、あずにゃん」
そう言って頬を叩き、ふんすと気合いを入れなおしてみせる唯先輩。
そしてまた私に背を向けて、
「いいよ、あずにゃん!」
と声を出す。私は一つため息をついて、
「いきますよ、今度はちゃんとしてくださいね、唯先輩」
そう言ってから、えいっと掛け声を出して唯先輩に抱きついた。
そしてすぐに台詞を続ける。
「さぁかねをだせぇ!」
「ふわぁぁぁぁ……」
「……って、唯先輩!」
恍惚の声を出してまた動こうとしない唯先輩に、
私は抱きついたまま怒った声を出した。
「練習なんですから、ちゃんとしてくださいって言ったじゃないですか!」
「でもでも……あずにゃんから抱きついてきてくれるのが嬉しくてぇ……」
「だ、だから、これは護身術の練習なんですから!
ほら、早く振りほどいてください!」
「えぇ~……ヤダ! そんなもったいないことできません!」
「唯先輩!」
駄々をこねる唯先輩に、大声を出す私。
でも何度抱きついても、唯先輩が私を振りほどこうとすることはなくて……
結局この日、まともな護身術の練習は一度もできなかった……。
「でもあずにゃん、私に抱きつくのはうまくなったよね!」
「へ……」
「抱きつく練習の成果だね、あずにゃん!」
「ゆ、唯先輩!!」
END
おまけ
「この暑いなかなにやってんだ、あの二人は……」
「い、一応護身術の練習、じゃないか……?」
「う~……唯ちゃんと梓ちゃんばっかりスキンシップしてずるい!
澪ちゃん! りっちゃん! 私たちも!!」
「「……へ? ……って危なっ!!」」
最終更新:2011年05月30日 12:42