どれだけ歩いたのだろうか。
距離感を失うほど見渡す限り黒い地平線が続いており、遠くの方でわずかに隆起した丘があるだけで何も無い。
黒いガラス質の砂を踏みしめると、独特なきゅっきゅっという擦過音が耳に引っかかった。
「はぁ、どこまで続くんだろうね」
永遠と続きそうな黒いガラス質の砂漠を見つめて、唯が呟いた。
「さぁ……。どこまでもこんな感じでしょう」
梓も当てのない地平線の先を見つめた。
2人で歩き出してから、すでに1ヶ月以上は過ぎていた。
体内時計も確認すれば正確な時間はわかるが、ずいぶんと前に電源を落として節電に努めていた。
肌から得られる太陽光エネルギーも最近では大気汚染のせいで効率が悪くなり、発電もままならないのだ。
「海を渡れば違うかもしれないけどね」
「そんな、船なんてもうありませんよ……」
突拍子もないことを言う唯を見て、梓は呆れた。
「もしかしたら造船所とかで大きな船が残っているかもしれないじゃん?」
「そうですかね……」
梓は、わずかな希望さえ抱かせてくれない黒い砂漠を恨めしく見つめた。
平和な土地を目指して歩き出したが、この1ヶ月でこの砂漠よりマシな光景を見たことが無かった。
「せめてこの辺りに何があるのかわかればいいんですけど」
衛星からの最新地図のダウンロードも不可能となっており、今では何にも反応しない。
どれくらい前かわからないが、地図の本を眺めていた時の記憶がこのたどたどしい旅を支えていた。
まだ、平穏な暮らしがあった時の記憶……。
正確な日付はわからないが、たしかにあの時、世界は変わってしまった。
いや、終わってしまったと言った方が適切だろうか。
あの時の激しい閃光は、地表を痛々しく溶かしてあらゆるものを呑み込んで、歪んだ黒いガラス質の中に閉じ込めてしまった。
軽くため息をついて、唯は背中の荷物を背負い直すと歩きだした。
梓もそれに続いて足元に転がる金属や奇妙に縮れて固まった何かを踏みならしながら歩きだした。
(それよりも……)
先を歩く唯の背中を見つめて、梓は不思議に思っていた。
───なぜこの人は私についてくるのだろう。
あの時に出会って以来、一緒に行こうと言って旅に同行してくる。
確かに独りで旅に出るのは心細いのだが、正直いっしょにいると面倒なこともある。
唯は何かと梓に近寄ってきて、体を触ったりその腕で抱きしめてきたりするのだ。
それが本当に嫌なものなら梓も反抗すれば済むのだが、そうでもない自分がいた。
唯に触れる度に湧き上がるものは、ずっと前に置いてきた何かによく似ていた。
「……」
何となく知っているこの胸の疼きを、梓は必死に忘れようとしていた。
忌わしい記憶と共に……。
「……あずにゃんてばぁ」
「ふにゃっ!?」
急に後ろから抱きしめられて、梓は奇妙な声を上げて飛びあがってしまった。
「い、いきなり何するんですか!」
「さっきから呼んでいたのに……」
ぷぅーと頬を膨らませると、唯は梓を睨んだ。
「ご、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていまして」
申し訳なさそうにすると、唯はにっこりと笑って梓の頭を撫でた。
「そんなことより。雨が降ってくるよ」
梓は唯が指差す方向に黒い雲を見た。
「本当だ……」
「どうする?」
梓はレインコートを取り出して用意してみるが、黒ずんでいてべとべとだった。
「どこか洞窟とかで凌ぎましょうか」
「じゃあ早く探そう!」
唯と梓は慌てて洞窟か屋根がある廃墟が無いかと探し始めた。
しかし、雲はそれよりも速く広がり粘度の高い黒い雨粒を垂らし始めた。
ねと……、ねと……。
唯は手早く小さな口を開けている洞窟を見つけると、雨に背中を押されて転がり込んだ。
「早く! こっちこっち!」
唯が見つけた洞窟に転がり込むと、梓は体に纏わりついた黒い雨を拭って一息ついた。
「日も落ちてきたし、ここで休もうか」
「そうですね」
梓もこの天気の中を歩くのは得策とは思えなかった。
そうと決まれば2人はせっせと休む準備を始め、数分もしないうちに持っていたクラスレートでたき火をするまでになった。
わずかに濡れた服や荷物をたき火に寄せて乾かしながら、唯は手持ちの荷物の整理を始めた。
「あんまり汚れてないみたいだ」
唯は荷物からギターを取り出して、くるくるとまわして状態を確認すると満足げに撫でた。
「それ……、いいギターですね」
「うん。本当にいいギターだと思う」
梓は何度かそのギターについて聞こうと思っていたのだが、唯の表情を見るとどうにも聞けなかった。
「本当にさ……」
たき火の明かりに照らされて、憂いを満ちた表情でギターを抱えるのだ。
決して弾こうとはせずに、唯はひとしきり軽く抱えるとすぐにケースに戻す。
「さて、エネルギーも無駄にできないしそろそろ寝ようか」
そして、決まってバツの悪そうな顔をして笑うのだ。
「そうですね」
梓も決して深入りせずに、ただ短く答えて寝る準備を始めるのだ。
ひんやりとした朝の空気が、黒い湿気を呼んで体に纏わりついてきた。
梓は体の節々を確認し、薄い雲から射す日光を感じながら荷物をまとめ始めた。
「唯先輩、朝ですよ」
朝になると決まって先に起きるのは梓で、日が昇っても眠り続ける唯を注意するのが日課のようになっていた。
「んあぁ……。もう朝か……」
中心で燃えていたたき火はすっかり砂と同じ色に馴染んで、微かに枝のような燃えカスを残していた。
「さて、行きますか」
懐に忍ばせた光線銃をさりげなく確認すると、唯は荷物を背負って歩き出した。
また途方も無い黒い地平線を見つめて歩いていると、様々な残骸が目に付く様になった。
この辺にも誰かがいた形跡がちらほらと見えたが、どれも酷く打ち砕かれて動くものは無かった。
「ひっ……!」
梓は大きな丘を登りきると、顔をひきつらせた。
唯も続いて陸に上がると、言葉を失った。
丘の先には無残に体を切り裂かれたいくつもの残骸が転がり、ぶちまけられて酸化した体内循環液が気味の悪い緑の蛍光色になっていた。
それがかつて動いていたものとは思えないほどバラバラで、ほとんどが中をえぐり出されていた。
震えて目を伏せる梓を抱いて見渡してみると、大きいものから小さいものまで様々なロボットが絶望に抗ったあとを残して事切れていた。
「……」
このような光景を見るのは何度めだろうか。
自己修復機能がないロボットたちは、このように他のロボットを襲って部品やエネルギーゲインを奪うのだ。
唯は悲しげな瞳を落とすと、怯える梓の手を引いて迂回を始めた。
あの時を乗り越えたロボットたちは、荒廃してしまった黒い砂漠に出た。
この傷ついた体を癒そうと、ロボットたちは治療を始めた。
しかし、ロボットたちを治す機関はほとんど破壊されてしまっていた。
───体を治せなくなっていたのだ。
ネジは砕け、体は錆びつき、関節は動かなくなり、やがて朽ち果てる。
それは刻が進めば進むほど深刻化し、いつしかロボットは”死の恐怖”というものを知ることになった。
ロボットたちは体が壊れる度に躍起になって新しい部品を求めて彷徨った。
ネジ一本から腕、足、エネルギーゲインまで……。
無機質な地表と、絶望と滅びの阿鼻叫喚が入り混じった世界。
ロボットたちは絶望し、世界をこう呼んだ。
───滅びの世界……、と。
「……」
再び降り始めた雨に促されて、唯と梓は再び洞窟で一夜を明かすことになった。
傷心しきった梓を優しく座らせると、唯はたき火の準備を始めた。
「……」
ここに来るまでの間、梓はいっさい口を聞かずにただ震えているだけであった。
青い炎がゆらゆらと立ち上がり、落ち着きを取り戻し始めたが未だに瞳は伏せられたままだった。
唯はそっと隣に座ると、毛布をかけて頭を撫でつけた。
「大丈夫……。大丈夫だからね……」
ゆっくりときれいな黒髪に指を滑らせると、梓は控えめに唯の胸に寄り添った。
「っ……」
あの光景を見る度に、唯は梓と出会ったころを思い出す。
蠢く黒い影の中で、ただ独りカプセルに残っていた少女。
怯えきったあの顔を、今でも忘れられないでいた……。
「いい子、いい子……」
たき火の炎を見つめながら、唯は梓の気が済むまで隣で抱きしめていた。
早く……! 早く行かなきゃ……!
「……梓! 早く逃げるんだ!」
待って! 私のことなんていいから!
「はぁ……! はぁ……!」
「来たぞ!」
やめてよ……! 置いていかないで……!
私のことを守るために、そんなことしないで!
私を独りにしないでえぇ!
「……ずにゃん! ……あずにゃん!」
「はっ!」
梓が気がつくと、目の前で唯の顔が覗きこんでいた。
「はぁっ……! はぁっ……!」
「大丈夫?」
「は、はい……」
そう言う梓だが、唇は震えて歯が嫌と言うほど小刻みに音を漏らしていた。
「あぁ……!」
梓は髪を掻き上げて、自己嫌悪に陥っていた。
(夢……、か)
夢を見てうなされるなんてあの時以来だった。
記憶の整理の作業でエラーでも発生したのだろうか。思い出すことを頑なに拒んで何重にも封印してきたものが、まるで昨日のことのように甦ってきた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫です」
梓はなんとか取り繕うとするが、震える体を抑えることができなかった。
「……」
唯は梓に寄り添うと、簡単には離れないようにお互いの指を絡めていった。
「私がいるから、大丈夫だよ」
そして優しく抱きしめながら、唯が微笑んだ。
「えへへ、何だかあずにゃんとひとつになったみたい」
「ち、茶化さないでくださいよ……」
照れるやら恥ずかしいやらで忙しく頭の中が回転していたが、その柔らかい笑顔で梓は不思議と落ち着いていた。
唯はそのまま毛布を引きよせると、梓の頭を撫でた。
「おやすみ、あずにゃん」
「……おやすみなさい」
梓は軽く俯いて唯の胸に寄り添うとこっそりつぶやいた。
「……」
唯が静かに頭に撫でるのを感じつつ、耳元に体内循環液を送るモーター音が響き、梓は少し興奮しているのがわかった。
(……この感じ、何だろう)
くすぐったいような、体がむずむずとするような、そんな感情が溢れて仕方がなかった。
(こんなこと、まるで……)
半ば呆れながらも、その腕の中で梓は静かに眠りについた。
朝。
未だに雨は止んでおらず、黒い流れが砂漠をうねっていた。
今日は珍しく唯の方が先に起きていた。
「あずにゃん、よく眠れた?」
「……まぁ」
短く呟く梓の声に力が無かった。
「あ、そうだ!」
そこに落ちていた先が鋭くとがった破片を手に取ると、唯はがりがりと何かを削り始めた。
「よし、できた」
得意げに笑う唯の足元には、可愛らしく相合傘に身を寄せる2人の名前が刻まれていた。
「ずっと2人がいっしょにいられるおまじない。私はずっとあずにゃんのそばにいるよ」
「……いい加減にしてください!」
……。
……。
……。
梓の声が洞窟に響いた。
「こんな……、こんなことして何になるんです!?」
「今更こんなことしても、何にもならないんですよ……」
「もう、壊れていくしかないこの体で……! こんな世界で何が残るっていうんですか!?」
「それでも、私はあずにゃんのこと……!」
「やめてくださいっ!」
その先を言わせないような梓の威圧感が、唯に吐き出しかけた思いを引っこませた。
「こんなの……、ただの恋人ごっこじゃないですか!」
「っ……!」
梓の声が雨の音に溶けて、遠く静かになっていった。
「……」
「……」
お互いの静寂が、静かな雨の音が、酷く耳に痛く感じられた。
「ごめん……」
唯は申し訳なさそうに呟くと、洞窟を走って出て行ってしまった。
さあああぁ……。
───雨は、2人の間を分かつようにいつまでも降り続くようだった。
ねと……、ねと……。
「……」
どれくらい経ったのかわからなくなった頃。
気がつくと、雨はすっかり止んでいて薄汚い日差しが黒い砂漠を曝け出していた。
唯の姿はもう見えなかった。
「……当たり前か」
でも、これでよかったんだ。
一緒にいて、別れるのが辛くなるよりは……。
梓は洞窟を出ると、当ても無く歩き出した。
ざっ……。ざっ……。
独りで歩くことがこんなにも気が重いものとは、思ってもみなかった。
歩けば歩くほど頭の中に甦るあの声。自分のことを呼ぶあの声。
───あ~ずにゃん!
───あずにゃ~ん……。
───あずにゃん。
「う……、あぅ……」
自ら選んだことなのに、こんなにも胸が苦しく辛くなる。
……じゃり。
遠くから砂を踏みしめて近寄る音が聞こえてきた。
梓は不覚にも淡い期待を抱いた。
唯が帰って来てくれたと……。
自分で拒絶しておきながら、心の奥底で来てくれるのではと思っていた。
「……っ!?」
だが、それはあまりにも無機質で、絶望の色を纏ったものだった。
ピイイィ……ン。
電子音を響かせて、カメラアイがこちらを見た。
軍用鎮圧オートマトン、”スパイダー”。
かつて世界の警察と言われるほどに普及し、四本足の白い機体は平和の象徴だった。
だが、週末の世界は彼を悪魔に変えて、黒い雨はそれに見合った姿を与えた。
統率者のいない彼らは自分で考え、そして論理的な結論を導き出した。
自分が滅びないためにはどうするべきか。
それは、
───他人を喰らうこと。
「このっ!」
携帯していた光線銃を使ってみるが、大して効いている様子は無かった。
(やっぱりだめか……!)
早々と光線銃をしまい、逃げることに専念することにした。
『戦闘レベル確認。目標、愛玩用ロボットAZU2000タイプに酷似』
『武装、光子力銃。警戒レベル2』
『排除開始』
ローラーダッシュで梓に迫る5機のスパイダーは、瞬く間に距離を詰めて収納していた四本の腕を突き出してきた。
「きゃあ!」
頭、脇、首、体のいたるところをかすめて、梓に次々と攻撃が襲った。
「うあぁっ!?」
何度目かの攻撃を避けた途端、砂が足を滑らせて体勢を崩してしまった。
「うぐっ……!」
もんどりうって転がる梓の体をすかさず捕まえ、スパイダーは値踏みするようにカメラアイを動かした。
『……機体状態、60%』
『エネルギーゲイン確保』
梓の首にかけられた爪に力が込められて、奇妙な音が頭に響き始めた。
「ぁ……! かっ……!」
死ぬ。
死ぬんだ……。
そうだよね。あんな酷い事をしたのだから、その報いが来たんだよね。
唯先輩……。
どさり。
「う、はぁっ……!」
急に視点が変わり、梓は地面に落とされた。
どうやらまだ意識はあるようだ。
梓が酸素を求めてむせると、何が起こったのかわからないままぐいと手を引かれて走らされた。
慌てて見上げると、それは見なれた背中だった。
「ゆ、唯先輩……!」
唯は金属棒を構えて、梓を後ろの方へ庇った。
「きゃあぁ!」
ギイイイィン!
鈍い光沢を放つ三本の爪を金属棒で弾き飛ばし、攻撃の合間をぬって梓を引きよせて走った。
次々と襲いかかるスパイダーの腕を金属棒でなんとか受け流し、関節を狙って攻撃を加えた。
「だめかっ!?」
降りおろした金属棒はスパイダーの関節を捕らえていたが、そんな攻撃をものともせず2人の体を弾き飛ばした。
「うああぁっ!」
「きゃああぁ!」
くるくると金属棒が宙を舞い、唯は叩きつけられた体をさっと起こすと梓を抱いてまた走り出した。
懐から光線銃を取り出してスパイダー目がけて発射するが、やはり大したダメージにはならなかった。
「くそっ!」
足がもつれそうになっても、ひたすらに砂を巻き上げて走った。
走って、走って、走って……。
「うっく!」
丘を滑り降りたところで、梓が転んでしまった。
「あずにゃん!」
慌てて抱き起そうと近寄ると、それよりも速くスパイダー達が群がった。
ぐしゃあぁ!
「うぁあっ!」
唯はスパイダーの足に蹴飛ばされ、砂と共に空高く突き上げられていた。
ずしゃぁ……!
砂が舞い上がる音が、遠くの方で聞こえた。
「唯先輩!」
1体がすばやく遠くに落ちた唯の方へ向かい、攻撃を加えた。
スパイダーの動きと共に唯の短い悲鳴があがり、駆け寄ろうとした梓の目の前に何かが落ちてきた。
「……!?」
それは、唯の左腕だった。
息をのむ暇も無く、スパイダーは唯に攻撃を加えようと足を上げ始めた。
「……うああぁ!」
梓は咄嗟に投げ捨てられていた金属棒を掴み、スパイダーを後ろから殴りつけた。
「この! 放せ! 唯先輩をっ……!」
恐怖。
不安。
興奮。
復讐。
制御できない感情が溢れて、梓を突き動かしていた。
「うぐあぁっ!」
だが、難なく梓の体は金属棒ごと薙ぎ払われ、砂の上を転がるはめになった。
くらくらする体を起こすと、転がっている唯の体にスパイダーが近寄り解体が始まった。
「やめて……!」
「やめて……!」
「やめて!」
「やめてえええぇ!」
ビイイイィ……ン!
梓が息を呑んで見つめていると、スパイダーの1機が閃光に貫かれて崩れ落ちていった。
明らかな動揺が、スパイダー達に広がるのがわかった。
『熱源照合。機種照合……。YUI9000タイプ』
『戦闘レベル更新中……。排除可能』
『高出力ジェネレーターあり。重要機材より、確保優先』
さっとスパイダー達が散開し、口にあたる部分からレーザーを発射した。
しかし、目標を捕らえることができずに砂を赤く溶かしただけだった。
『不確定要素あり。該当データなし』
『戦闘レベル、計測ミスあり』
『排除開始。排除かい……』
ビイイイィ……ン!
スパイダー達の素早い動きにも関わらず、全機体が次々と一撃で撃ち抜かれて機能を停止した。
砂漠をはいずりまわる悪魔の駆動音は、次第に銃声と共に消えて静かになった。
「あ……、うぁ……」
事の次第を見届けていた梓に、向こうからロボットたちを葬った人影が歩いてきた。
梓はその威圧感に怯えてしまって、じゃりじゃりと砂を蹴って後ずさっていた。
訳のわからない言葉が喉から絞り出されて、梓は逃げようとしたが腰が抜けて立ち上がれなかった。
来る。
あの黒いのをやっつけたのが来る。
こっちに来る!
じゃり……。じゃり……。
じゃり……。じゃり……。じゃり……。
のたうつ梓の目に小さな人影が見えて、その腕には唯のちぎれた左腕を持っていた。
そして、その人影は乱れた髪を振り上げてこちらを睨んだ。
「あっ……!」
あまりの恐怖で倒れそうになったが、それはまぎれもなく知っているものだった。
「あず……、にゃん……?」
唯は梓が無事であることを確認すると、強張った笑顔を見せた。
だが、その姿は異様だった。
唯の左腕には鈍く光る銃が伸びており、熱を持ったまましゅうしゅうと白い湯気を出していた。
「……ごめん、ね。遅くなっ……!」
かくりと膝から力が抜けて、唯はそのまま力を失って砂漠に突っ伏した。
「先輩っ! 唯先輩!」
───よかった。ちゃんと守れて……。
梓が必死に呼びかける腕の中で、唯は満足げに意識を遠のかせていった。
「だめ……、だよ?」
憂……? どうしたの……?
ねぇ、返事してよ。どうしてそんなに重いの?
どうして、そんなに……?
「おい、YUI9000を回収しろ」
やめて……。来ないで……!
憂! どうしたの、憂!
「SPIを呼べ。確保するぞ」
憂……! 憂!
「ったく、手間のかかる博士だぜ……」
「……うあああああああああぁ!」
「ひっ!」
左腕を引き抜いて仕込まれていた銃を突きつけると、そこには怯えきった顔で縮こまっている梓がいた。
「はっ……! はっ……!」
「っ……!」
辺りを見回すとそこはうす暗い洞窟のようだった。
銃のエネルギー消費量が大きく、気を失っていたのだ。
激しい動悸と、怒りと憎しみが発散していくようで、唯は徐々に落ち着きを取り戻した。
揺れる銃口を下ろすと、唯は左腕を元の位置に戻して項垂れた。
「ごめん……」
梓は砕けた腰をなんとか奮い起して、唯に近寄った。
「大丈夫ですか……?」
「うん。大丈夫……」
なんとか搾り出した声は震えていて、唯は申し訳なくなってしまった。
しばらくの静寂。
炎が爆ぜる音だけが響いて、嫌な沈黙が続いていた。
梓は軽く深呼吸して心を落ち着けると、ゆっくりと口を開いた。
「……その、何で戻って来てくれたんですか?」
「……この気持ち、本物なのかな」
「えっ……?」
「さっきね、あずにゃんに言われてとっても考えたんだ」
唯は真剣な顔で梓を見つめた。
「こんな私でも、あずにゃんのことが好きだって気持ちはつくり物じゃない」
「今、胸の中に溢れている気持ち。……この気持ちは、ごっこ遊びなんかじゃないよ」
胸の中からとめどなく溢れていく感情が体中を駆け巡り、止められなくなっていた。
「だからこんなに必死になって、どうしようもなくなるんだよ」
「だから、戻ってきた。あずにゃんにもう一度会いたかった……」
……ぎゅっ。
「……あ、あずにゃん」
梓の華奢な体が唯の胸に飛び込んで来た。
「……ごめんなさい、……ごめんなさい」
その言葉を聞いて、唯はようやく震える梓の背中に手をまわすことができた。
「心というものがあったら、この手に抱いて見てみたいな……」
「それはきっと、あったかくて、ふわふわして、とても愛おしいんだろうな……」
唯が優しく梓の頭を撫でると、静かに肩を震わせ始めた。
「あずにゃん……?」
そっと顔を上げさせると、梓の瞳は切なげに揺れていた。
「……悲しいの?」
「違います……。違いますよ……」
「……うそつき」
唯はその悲しそうな瞳を閉じさせると、そのまま梓の唇を奪っていった。
それから梓は、流すことのできない涙の数を埋めるように泣いた。
思いの丈を吐き出せない苦しみと、現実に抗えない悔しさとが入り混じった嗚咽は唯の中に吸い込まれていった。
「んっ……、はぁ……」
「あずにゃん……」
感情、感覚というものが豊富なら感じられたのかもしれない。
愛の昂りが起こす微熱。舌の先の痺れ。甘い吐息……。
だが、それをもう必要としなくなったがために、感じられなくなってしまったのだ。
有機的なものを嫌悪して生物としての人間を忘れ、全てを無機質に帰してしまったがために……。
それ故にあまりにも幼く、脆い愛だった。
どんなに愛を重ねても、何の意味も持たない、ただ自己満足の延長線上の行為でしかなかった。
それでも、2人は幸せだった。
お互いの全てをさらけ出して、求めあい、温もりを忘れた体に愛の鼓動を満たし合った。
激しく、ひたすら激しく……。
それから唯と梓は旅の途中で何度も交わった。
この世に自分がいたことを残すように。
この世から自分が消えてしまうのではないかという不安を埋め合うように……。
「……」
あれからどれくらい経っただろうか。
2人は黒い砂漠を越えて、暮らしの痕跡が残る地域にいた。
そんなある日、梓がかくりと足から力が抜けて倒れこんでしまった。
「あずにゃん!」
咄嗟に唯に抱きとめられたが、いくら力を込めても足腰がおぼつかなかった。
「大丈夫です。大丈夫……」
何とか唯に支えられながら立ち上がると、ぼんやりとした意識だけが妙に恐ろしかった。
「……さぁ、乗って?」
そう言って、唯は梓の前にしゃがんだ。
「で、でも……」
「いいから、いいから」
「……」
梓はおずおずと唯の背中に寄り添うと、首に腕をまわした。
唯は一呼吸置いて、梓をおぶって歩き出した。
「す、すみません……。わたし……」
「喋っちゃだめだよ」
唯は優しく言ってくれたが、梓は申し訳ない気持ちでいっぱいになってうなじに顔を埋めた。
「……」
梓は唯から離れない様にぎゅっと腕に力を込めた。
───もう、限界なのかな。
唯は静かになった背中を、不安に感じながらも前に進んだ。
梓の体は極度にエネルギーを消費しており、活動維持にも障害が起きていた。
下手をすれば、そのまま活動停止に陥りかねなかった。
「あずにゃん……」
「……」
「大丈夫。私が何とかするから……!」
「……もういいんです。私、幸せでした」
「だ、だめだよ……! お願いだから……!」
「もう、何も失いたくないよ……! やだよぉ……!」
必死に体を抱きしめる唯を見て、梓はもう言う言葉が見つからなかった。
「……ごめんなさい」
唯は必死になって、梓を治す施設を探した。
病院、軍事施設、工場……。
だが、どれもただの廃墟と化しており役立つものは無かった。
それどころか、梓を背負っての旅は唯にも負担をかけはじめていた。
唯のパワーを支えていた左腕の銃の高出力ジェネレーターの調子がおかしくなりはじめていたのだ。
───時間が無かった。
「……」
焦る気持ちを抑えつつ、今日も唯は廃墟の中を探索していた。
しかし、このあたりも閃光の余波があったようで建物に黒い影がいくつも残っていた。
「……うわああぁ!」
急に視点が変わり、唯の体は一直線に落下していった。
「いったぁ……」
脆くなっていた床を踏んだらしく、唯は地下数メートルのところまで落ちていた。
見回してみると、そこはかなり広い空間で抜けた床からじんわりと日光が射し込み、地下の全容を少しずつ浮かび上がらせていった。
「……これは」
よく見ると、奥の方に全長4メートルほどの巨大なマシンが横たわっていた。
唯は恐る恐る近づいて見てみた。
中心部は2メートルほど開いており、中にはもう訳程度にクッションらしきものが敷かれていた。
凛とした音が脈動して、端の方にある電子モニターも一定の輝きを放ってこれが動いていることを示していた。
唯はこれが何か知っていた。
「ナノマシンカプセル……」
ナノマシンカプセルとは、超低温とナノマシンによって内部のロボットを安全に機能停止状態にして、長期間にわたって保存することができる。
「あの時に全て壊れたと思っていたのに……」
どうやらこのカプセルは戦時中に開発されていたもので、中のロボットを守るために地下に潜るタイプのようだ。
「……」
唯は、すっと立ち上がると地上に残してきた梓を迎えに行った。
「あずにゃん……、大丈夫?」
「はい。何をするんですか……?」
ゆっくりと地下に戻ると、梓も目の前のナノマシンカプセルに気付いた。
「……」
唯はそっと梓の体をナノマシンカプセルに横たえた。
「……2人で、ずっといっしょにいよう」
「!? だめ、です……! だめですよ……!」
意味を悟った梓が必死に止めようとするが、唯は体を抱きしめて決心した声を出した。
「いいんだよ……。もう決めたことだから」
「そんな……! 私が唯先輩の未来を奪う権利は無いですっ……!」
首を横に振る梓をやさしく止めて、唯はそっと頬に手を添えた。
「あずにゃんだけは失いたくない……! あずにゃんのいない未来なんて、私には耐えられない……」
唯は梓の傍らに横たわると、ナノマシンカプセルの電源を入れた。
「……あずにゃんがいる未来が私の未来。だから、一緒にいよう。
ずっと一緒にいよう」
重い音と共にガラスケースが閉まり、2人の体を覆った。
それと共に金属製の防護カバーも後から続いて外界の景色を遮っていった。
徐々に暗くなるカプセルの中で、梓は唯に抱きついた。
「……唯先輩」
「なに……?」
「……大好きです」
唯は幸福感に包まれて、梓の体を抱きしめた。
「……私もだよ」
───そして、2人視界は愛する人の笑顔で埋め尽くされて消えた。
END
最終更新:2011年08月26日 23:30