<あなたにお熱、プレゼントはCold?>


目覚まし時計のアラームに似た、しかしそれよりもはるかに音量の小さな電子音が鳴った。
それを聞いた私は、少しはだけたパジャマの胸元から右手を差し込み、
脇の下に挟んでいた、電子音の主――体温計を取り出す。
その中央部のあたりにある液晶の小窓に表示された数字を見て、私は落胆の溜息をついた。

「下がってきてはいるけど…まだ、熱あるなぁ…」

37℃台半ばという、現在の私の体温を示すその数字は、
一時は38℃台の後半にまで達したことを思えばずいぶんおとなしくなってはいるけれど、
それでも尚、未だ私の身体が通常の状態に回復してはいないということを、無情にも告げていた。

しばらく前から、少し風邪気味なことは自覚してはいたけど、
本格的に体調がおかしくなったのは3日前のこと。
その日の朝、目が覚めたときから妙に身体が重く、頭がぼーっとするのを感じていた。
それを気のせいだと自分に言い聞かせて学校に行ったけれど、その後も具合は悪くなる一方で、
お昼前には座っていることすら辛くなり、さすがに誤魔化しきれなくなった。
その後は、憂と純に肩を借りて引きずられるように保健室へ連れて行ってもらい、
そこで38℃を超える熱があることが発覚したため問答無用で早退を命じられ、
さわ子先生の車に乗せられ、病院経由で家まで送ってもらった――というのが、その日の流れだ。

要するに、私は見事に風邪をこじらせてしまったのであり。
結局、丸2日間も高熱に浮かされながら寝込む羽目になり、
今日、今になってようやく、少し回復の兆しが見えてきたというところなのだった。

「はぁ…」

ベッドに仰向けに倒れ込み、天井を見上げながら、再び溜息をつく。
ちらりと目をやった窓から見える空は、混じりっけのない鮮やかな青色だったけれど、
私の心にはそれとは対照的に重苦しい鉛色の雲が広がっていて、今にも雨が降り出しそうだった。

11月ももうすぐ終わるというこの時期、受験勉強もいよいよ正念場に突入しつつあった。
どうしても行きたい大学がある私はますます気合が入り、
夜も遅くまで勉強する日々を続けていたのだけど、少し気合を入れすぎたのかもしれない。
おまけに、最近は勉強に加えて「あること」も始めていたので、余計に夜更かし気味だった。
そんなわけで、ここ最近急激に寒くなってきたところに睡眠不足が重なったせいか、
あっさりと病原体にやられてしまったようだ。
体調管理だって受験生にとっては大切なのに、何をやっているのだろう。
自分の不甲斐なさに落ち込んでしまうし、溜息のひとつやふたつもつきたくなる。

とはいえ、今はまだ受験は始まっていない。
一部の推薦入試は始まっているけれど、センター試験まではまだ1ヵ月以上あるし、
私の志望校の一般入試となれば更にその後だ。
時間的にも心理的にも、まだ多少は余裕がある。

だから、風邪を引いたのが、例えば1週間後とかなら。
そこまで離れていなくても、極端な話、明日とかなら。
さらに言えば、昨日の内に完治していれば。
私は、ここまで落ち込むことはなかっただろう。
本当は、1週間後は期末テストが近いからあまり喜ばしくはないのだけど、
それでも今日のような、こんな気持ちにはならなかったに違いない。

そう、つまり、問題なのは。
今日という、この日に。
11月の終わりの、この日に。
――11月27日という、この日に。
風邪をひいて、熱を出して、寝込んでいるということなのだ。


11月27日。
今年はたまたま土曜日と重なっているから休日になっているけど、
祝日というわけでもなければ、
クリスマスやバレンタインのようなイベントがあるわけでもない、ただの11月下旬の1日。
世間から見れば何ら特別な意味を持たないこの日は、だけど、私にとっては特別な日だった。

一人の女性の顔が、脳裏に浮かぶ。
朗らかに、柔らかに笑うその女性は、今年の春に卒業した、軽音部の先輩。
甘いものや、かわいいものが大好きで。
だらしなくて、頼りなくて。
でも本当は頑張り屋で、いざというときには頼もしくて。
――いつだって私のことを、誰よりもよく見てくれて、抱きしめてくれた人。
その人こそが、この日が私にとって特別な日になった理由だった。

その人――唯先輩の、誕生日だから。
――私にとって特別な人が、この世に生を受けた日だから。
11月27日は、私にとって特別な日なのだ。


唯先輩は、私にとって特別な人。
それは、私が唯先輩に対して抱いている感情が、特別なものだということで。
その感情はまた、特殊なものでもあった。
私も、唯先輩も、女同士。
本来、同性に対して抱くべきではない想いを、私はいつしか、唯先輩に対して抱いていた。
そのことに気付いたのは唯先輩が卒業してからで、それは遅すぎたとも言えるけれど、
考えようによっては、むしろちょうどいいタイミングだったようにも思えた。
もし、唯先輩が日常的にそばにいた頃に自分の気持ちに気付いていたら、
私はそれを抑えきることができたかどうか、分からない。
高校生と大学生という距離は、私にいい意味での冷却期間を与えてくれた。

――そして、私が導き出した結論は。
その想いは胸に秘めたままにしておこう、ということだった。

唯先輩はいつも私に抱きついてきて、キスしようとしたりもしてきたけど、
それはあくまであの人流のスキンシップの一環であって、特別な意味はなかったのだと思う。
そこを勘違いして踏み込んでしまえば、私たちの関係は崩壊してしまうかもしれない。
いくらあの人が変わっているといっても、
女の子同士のそういう関係がおかしいことくらいは、分かっているだろう。
ただの後輩としか思っていなかった同性にそんな気持ちをぶつけられて、あの人は喜ぶだろうか。
そんな僅かな可能性に賭けるよりは、たとえ今以上に近い関係にはなれなくても、
少しでも長くそばにいられるやり方を選ぶべきだ。
届くことのない想いに、胸を締め付けられることになっても。
いつかあの人に恋人ができて、私のそばからいなくなってしまっても。

その時は、私ひとりが泣けば済むのだから――。

そう思ったから、想いを打ち明けることはしないと、そう決めた。

けれど、だからこそ。
唯先輩の誕生日は、ちゃんと祝いたかった。
またひとつ大人になることへの祝福の言葉を、
生まれてきてくれたことへの感謝の気持ちを、直接会って伝えたかった。
今までにくれたたくさんのものに、少しでもお返しがしたかった。
そして――決して打ち明けることのできない想いを、
せめてそのうちのほんの僅か、10分の1でも、100分の1でも。
祝う気持ちの裏に忍ばせて、届けたかった。

――でも、もう。

今日は、昼ごろから唯先輩の家で誕生会をやることになっていた。
受験生である私や憂の移動する手間が省けるように先輩方が配慮してくれた結果で、
それはつまり、私にも誕生会に参加してほしいと唯先輩が思ってくれていた、ということだった。
そんなせっかくの気遣いも、風邪のせいで――私のせいで、意味は半減してしまった。
誕生会が始まるまであと3時間もなく、そんな短時間で熱が下がるはずがない。

それに、もし、奇跡的に熱が下がったとしても――。

机の上にある、小さなカゴに目を遣る。
中にあるのは、毛糸玉と、針と――編みかけのマフラー。
最近始めた「あること」というのは、このマフラーを編むことであり。
編んだそれをどうするつもりだったのかといえば、もちろん、唯先輩にあげるつもりだった。

16日前、私の誕生日に、唯先輩は手編みのマフラーをくれた。
大学生になってからというもの、他のバンドと対バンしてみたり、免許を取りに行ったり、
バイトをしてみたりと、先輩方は色々新しいことにチャレンジしているらしく、
唯先輩にとってはマフラーを編むことがそのひとつだったのかもしれない。
私のために唯先輩が自ら編んでくれたそのマフラーは、
ところどころに慣れない編み物に苦戦した形跡が見受けられたけど、
まるで唯先輩自身の温もりまでもが編み込まれているかのように、私を暖かく包んでくれた。

だから、私も。
人一倍寒がりで、そのくせ、いつも私に温もりを分けてくれた唯先輩のために、
少しでもその温もりを返すことができたら。
そう思って、お返しのマフラーを編むことにした。
編み物の経験なんてなかったけど、本やネットで調べて、頑張って覚えて。
勉強の合間を縫って、コツコツと編んできた。
私の想いの全てを、編み込むように。

そしてそれは、今日までに完成するはずだった。
こんなことにさえ、ならなければ。

唯先輩にプレゼントするマフラーを編むために夜更かしして、
そのせいで体調を崩して誕生会にも行けず、マフラーも完成させられなかった、なんて。
あまりにも本末転倒だ。
無様すぎて、滑稽すぎて、自嘲の笑いすら出てこない。

――これは、罰なのだろうか。
受験生という立場にありながら、他のことに気を取られすぎたことへの。
体調管理をおろそかにしたことへの。

――愛してはいけない人を、愛してしまったことへの。

そう、きっとこれは、罰なんだ。
禁断の想いを抱き、誕生日を祝う言葉の裏にそれを忍ばせようとした私は、罪人なんだ。
だから――今日というこの日に、あの人をただ純粋に祝ってあげることすらも、許されない。

「――っ…」

心に広がる雲から、ついに雨粒が落ち始める。
悲嘆と悔恨が涙になって溢れ、私の視界を急速に歪ませる。
このまま、大声をあげて泣きでもすれば、少しはこの気持ちも晴れるだろうか。
分からなかったけれど、仮にそうならなかったとしても、
そうする以外の選択肢を私が選ぶことはできなさそうだった。
そうだ、もういっそこのまま、泣きたいだけ泣いてしまおうか――。


けれど、全てを諦めたような気持ちでそう思って、
まさに嗚咽が口から漏れだしそうになったその瞬間。
家の玄関が解錠され、扉が開く音がして、それは喉の奥に呑みこまれることになった。

両親は仕事で、来週の半ばまで帰ってこない。
そして唯一家にいる私は、熱を出してベッドの中。
そんな状況で、誰かが玄関の鍵を開けて、家の中に入ってくる。
そこだけ切りとれば、不審者の侵入かと背筋を凍らせてもおかしくはない。
けれど、私には来訪者の見当がついていた。
それは誰かといえば、唯先輩の妹であり、私の親友であるところの憂だ。
両親が不在という状況下で病床に臥せることになった私の看病を、憂は自ら買って出てくれた。
その申し出に素直に甘えることにした私は、
もし自分が寝込んでいても家に入れるようにと、彼女に合鍵を渡しておいたのだ。
今朝もわざわざ私の様子を見に来てくれたのだろう。

廊下を歩く足音が、だんだん近づいてくる。
私は濡れた目尻を拭うと、上半身を起こし、使い捨てのマスクをつけた。
それは憂に風邪をうつさないように、という配慮で昨日までもしていたことだけど、
今日に限ってはそれ以上に、きっと失意に沈んでいて、どうしようもなく酷いに違いない、
今の私の顔を少しでも隠したいという気持ちの方が、強かったのかもしれない。
やがて足音は私の部屋の前で止まり、代わりにドアをノックする音が響く。
咳のしすぎでガラガラになった声で返事をすると、ゆっくりとドアが開いた。

そして現れた人物は、私の予想通り――ではなかった。


「おはよう、あずにゃん

柔らかな声と共にひょっこりと顔を見せたのは、憂ではなく。
彼女の姉、私の特別な人――唯先輩、その人だった。

「ゆ、唯先輩!?どうして…っ!」

驚きのあまり、思わず大きな声を上げる。
痛めつけられた喉に負担がかかり、咳き込んでしまう。

「あわわ、大丈夫!?」

唯先輩が心配そうな顔でベッドのすぐそばまで駆け寄ってきて、私の背中をさすってくれた。

「すっ、すみません、大丈夫です…。唯先輩、どうしてここに…?」
「あずにゃんがひどい風邪を引いたって、憂から聞いてね。
 心配だったから、朝イチでこっちまで来て、お見舞いに来たんだよ」

憂にこれを借りてね、と、合鍵を私に見せながら、唯先輩はにっこりと微笑む。

「そうだったんですか…すみません、心配かけてしまって」
「あはは。いいんだよ、そんなの。でもその様子だと、まだ具合良くなさそうだね」
「…そうですね。まだ咳やくしゃみも出ますし、熱も…」

そう言いかけたところで、私は言葉を止めた。
止めざるを得なくなってしまった。
唯先輩が、突然私の身体を抱きしめてきて。
その上さらに、自分の額を私の額にくっつけてきたから。

「ちょっ、な、なんですかいきなり!?」
「何って、あずにゃんのお熱チェックだよ~」
「やっ、やめてください!熱ならさっき測りましたし、
 ずっとお風呂に入れてなくて、汗臭くて汚いですから!」
「全然大丈夫。臭くなんてないよー?でも気になるんだったら、私が身体拭いてあげるよ♪」
「けけ、結構です!恥ずかしいこと言わないでください!
 そ、それに…そんなに近付いたら、風邪だって、うつっちゃいますよ?」
「別にいいよ、そんなの」
「私が良くないんです!」

必死にもがいて離れようとするけど、病人の力では、唯先輩を押し返せない。

顔が、近い。
近いなんてものじゃない。
額は既にピッタリと触れ合っているし、
それ以外の場所も――ちょっとした弾みで、距離がゼロになってしまいそう。
マスクをしていなければ、唯先輩の吐息が直に私の顔にかかって。
鼻づまりのせいで嗅覚がおかしくなってさえいなければ、
その甘い香りに一発でノックアウトされて、理性を失っていたかもしれない。
今だって、そうなる寸前なのだ。
ガラガラ声のまま喚き散らして、どうにか気を逸らしている。
心臓が高鳴って、風邪によるものとは別の熱が、身体の中から湧きあがってくるのを感じる。
けれど、そういった熱を同時に感じていても、
唯先輩の体温はそれらとはまた別のものとして感じることができて、それが少し不思議だった。
この人の平熱が高いのか、それとも私が大好きな人の体温に敏感なのか――。

いくつもの熱に浮かされながら、一番大好きな熱を探し出し、感じようとして、
いつの間にか私は抵抗をやめ、じっと唯先輩に抱きしめられていた。
ただ一点、唯先輩は何かを感じ取ろうとするように瞼を閉じていて、
そのせいで大きくて澄み切ったその瞳と見つめ合うことができないのは、少し物足りないかも――。
そんなことを思っていたところで唯先輩がおもむろに瞼を開き、
その瞬間、確かに2人の視線が至近距離で繋がりあう。
まさか心を見透かされたのかと思ってドキッとしたけれど、
残念ながらそうではなかったようで、唯先輩はすぐに額を、そして私の身体を離してしまう。
そしてベッドの横に膝立ちになったまま、「うーん」と顎に手を当て、
何かを考えるような素振りを見せてから、ビシッと右手の人差し指を立てて言った。

「37.5℃ってところかな?」

体温計で測ったのとコンマ1~2℃しか違わない数値。
ほとんどピッタリと言っていいものだった。

「…正解です。なんで分かるんですか?」
「うーん、絶対『温』感?」
「上手いことを…どうせ当てずっぽうでしょう?」
「えー、違うよー。まあ絶対『温』感は冗談だけど、あずにゃんの体温なら分かるよ!」
「またそんな適当なことを…」
「適当なんかじゃないよ。だって――」

唯先輩は得意げな顔になる。

「あずにゃんの体温を、世界で一番よく知ってるのは私だって――本気で、そう思ってるから」

それは、いつもだったら冗談だと呆れ、
照れ隠しも交えつつ軽く受け流してしまいそうなことだったけど。
風邪で弱りきっていた今の私には、何だかとても、素直に嬉しくて。
さっきまで心を覆っていた雨雲はすっかり薄くなり、
重苦しく沈んでいた気持ちが、ずいぶん軽くなっていることに気付いた。
この数日間の苦痛をあっという間に、唯先輩は取り払ってしまった。
唯先輩が来てくれた、ただそれだけでこんなにも元気になれる。
それくらい、私は唯先輩のことが好きなんだと、改めて自覚した。

けれど、完全に元気を取り戻すことはできなかった。

「でも――この体調じゃ、ウチに来るのは無理そうだね」

唯先輩が少し残念そうにつぶやいた、その言葉がすべてだった。
お見舞いに来てくれたから、こうして唯先輩と顔を合わせることはできたけど。
誕生会にも行けず、プレゼントも渡すことができないという状況には、変わりがなく。
だから、私の心は、晴れることはなかった。

「すみません、唯先輩。せっかく呼んでいただいたのに…」
「ううん、いいんだよ。私の誕生日なんかより、あずにゃんの身体の方がずっと大切なんだから。
 今日はゆっくり休んで、しっかり風邪を治して?」

朗らかに笑ってそう言いながら、唯先輩は私の頭を撫でてくれるけど。

「でも…私にとっては大切だったんです」
「ふぇ?」
「唯先輩は、今まで私に色んなものを、たくさんくれました。
 私の誕生日だって、手編みのマフラーをくれて。
 だから――唯先輩のお誕生日には、少しでもお返しがしたいって思ってたんです。
 そう思ったから、まずは私もマフラーを編んであげようと思って…。
 でも、もうちょっとで完成だったのに…風邪で寝込んじゃって、出来上がらなくて…」
「そうだったんだ…」
「結局、私は唯先輩に何もあげられない。
 新しい何かをあげることも、もらったものにお返しすることもできないんです…。
 それどころか、今日だってお見舞いに来てもらっちゃって…。
 唯先輩のお誕生日なのに、ちゃんとお祝いできなくて、私の方がもらってばっかりで…。
 そんな自分が情けなくて、悔しくて…っ!」

一度は薄くなった雲が再び心を覆い、ぽつぽつと雨を降らせ始める。
小刻みに震え始める私の身体を、唯先輩はまた抱きしめてくれた。

本当に、情けない。
他に何もできないなら、せめて祝福の言葉の一言でも伝えればいいのに、
出来なかったことを悔やむばかりでそれさえもできず、ただ涙を流すだけだなんて。

「あずにゃん、大丈夫だよ。
 あずにゃんがそんな風に思ってくれてたってだけでも、私はすごく嬉しいよ。
 だから、泣かないで?」
「でも…でもっ…!」

唯先輩はそう言ってくれるけど、私は素直にそれを受け入れることができずにいた。
それも結局は私のワガママで、唯先輩に甘えているということなのに。

「うーん…それじゃあ、ひとつプレゼントをリクエストしていいかな?」

少し困ったような顔を見せた唯先輩は、すぐにまた笑顔になって、そんなことを言った。
私はどうにか涙を止めて、聞き返す。

「リクエスト…ですか?」
「うん!お金も何もかからない、すぐに用意できるものだよ」

そう言うと唯先輩は真剣な目をして、そのリクエストを告げた。

「あずにゃんの――とびっきりの笑顔が見たいな」

それは、予想外の内容だった。

「さっきからあずにゃん、ずっとマスクしててお顔が見えないし、全然笑わないんだもん。
 さあ、そのマスクを外して可愛い笑顔を見せておくれー♪」
「そ、そんなこと言われても…」

マスクを外すのには抵抗があった。
唯先輩に風邪がうつってしまうかもしれないし、
かみすぎて真っ赤になっているに違いない鼻を晒すのもはばかられた。

――それに。
確かに、お金はかからないけど。
今の私にとっては、無理難題に等しいリクエストでもあった。
この状況で笑顔になれ、だなんて。
それも、とびっきりの。

「無理かぁ…うーん…」

唯先輩はまた思案顔になる。
せっかく唯先輩がチャンスをくれたのに、それすらもフイにしてしまった。
私がますます自己嫌悪を深めている横で、唯先輩は何かを思いついたらしく、パシンと手を打った。

「よし!それじゃあ、まずは!」
「まずは…何ですか?」
「まずは、私の大切なあずにゃんから笑顔を奪った、にっくき風邪をどうにかしちゃおう!」

突拍子もないことを言いだした。
風邪なんて、どうにかすると言ったところで、どうなるものでもないのに。

「どうにかするって、どうするんですか?」
「あずにゃん、聞いたことない?」
「何をですか?」
「風邪ってね――」

唯先輩はクスリと笑うと、瞳に少し真剣な色を灯して、顔を近づけてくる。
そして、言葉の続きを口にした。

「――誰かにうつすと、治るらしいよ?」

ガックリと力が抜けた。

「それ、言い古された迷信じゃないですか…」

もしかしたら何か秘策があるのかと、少しだけ期待したのに。
まさか、今時小学生でも信じないような迷信を引っ張り出してくるとは。
呆れの色を含んだ視線を唯先輩に送る。

「そうかも知れないけど、『病は気から』って言うじゃん?
 ってことは逆に、迷信でも信じれば治るかもしれないよ!」
「詭弁ですよ、それ…。っていうか、そもそも誰にうつせって言うんですか」
「私に」
「…はい?」
「だから、私にうつせばいいよ、あずにゃん!」

私の聞き間違いだろうと思って問い直してみたけど、どうやらそうではなかったらしい。
「自分に風邪をうつせ」なんてことを言う人が、
それもあっさりと言う人がいるとは思ってなかったけど、こんな所にいたようだ。
フンス、と鼻息を荒くして、何故か期待に満ちた表情で私を見つめている唯先輩に、反論する。

「なっ、何を言ってるんですか!?
 唯先輩に風邪をうつすなんて、それもよりにもよってお誕生日に!
 そんなことできるわけないじゃないですか!」
「私は全然気にしないよ!」
「私が気にするんです!ただでさえ申し訳ないと思ってるのに、この上風邪なんてうつしたら…!」
「だから、大丈夫だよ」

唯先輩は私の両手を取ると、自分の両手で包み込んでくれながら、優しい声で言う。

「さっき、あずにゃんは、私に何もあげられないって言ってたけど。
 全然、そんなことはないんだよ?
 あずにゃんだっていろんなものを、数え切れないくらいいっぱい、私にくれたんだよ。
 私にギターを教えてくれたし、一緒に演芸大会にも出てくれた。
 先輩なのに頼りなくてダメダメな私を、見放さないでついてきてくれた。
 何より――そばにいて、いっぱい幸せな気持ちにさせてくれた」
「唯先輩…」
「だからね。そんなあずにゃんが、苦しんでるなら。
 それをどうにかしてあげたい、引き受けてあげたいって思うんだ。
 だから――私は、あずにゃんの風邪が欲しい。
 今までもらったもののお返しに、
 あずにゃんの風邪を私に引き受けさせて、あずにゃんを助けさせて欲しい。
 そうさせてもらえるなら、それで、もしあずにゃんが笑ってくれるなら。
 それはもう、私にとって、それ以上ないくらいのプレゼントなんだよ」

唯先輩はそう言って、私の身体を三たび、そっと抱き締めて。
おねがい、と、耳元で小さく囁いた。

「唯先輩、本気で言ってるんですか…?」
「本気だよ。あずにゃんに笑って欲しいから、そのためだったら何でもやるよ」
「なんで、そこまで…」


「好きだから」

私の目を見据えて、ハッキリとそう言った唯先輩の声には、
微かに張り詰めるような緊張感があって。

「あずにゃんのことが、好きだから。誰よりも、大好きだから」

その声色には、微塵の冗談も含まれているようには、思えなかった。

「それって――」

唯先輩、その「好き」は、どういう意味なんですか?
私と同じ、「好き」ですか?

唐突に告げられた言葉に、脈が速くなり、頭が混乱していく。
そして、あまりにも混乱したから。
そんなのは、迷信だって分かっていたのに。

「――分かりました。私の風邪、唯先輩にあげます」

気がつけば、そんな言葉を唯先輩に告げていた。

「――ありがと、あずにゃん」
「でも、唯先輩」
「ん?」
「風邪って、どうやってあげればいいんですか?」

風邪をうつして欲しい、と、唯先輩に言われた時にはもう、その方法は思い浮かんでいた。
でも、それは、簡単にやっていいことじゃないから。
唯先輩が別の方法を望むなら、私はそれに応えなければならない。
けれど。

「――あずにゃんのやりたい方法で、いいよ」

唯先輩が言ってくれた言葉は、GOサインだった。
いよいよ、心拍数が跳ね上がっていくのを感じる。
そのビートに背中を押されるように、今すぐにでもその方法を実行に移したかったけど。
その前に、私にはやるべきことがあった。

「じゃあ――私の思うようにやらせてもらいます。けど――」
「うん」
「風邪をあげる前に、唯先輩に言っておきたい事が――言わなきゃいけないことがあります。
 というか、風邪なんかじゃなくて、それこそが――
 私が本当に、唯先輩に届けたかったものなんです。聞いてくれますか…?」
「…うん、聞かせて?」

それは、心の奥底に封印しようとしていた想いの解放。
決して打ち明けることはないと思っていた気持ちを、今、唯先輩に伝えること。

マスクを外して、深呼吸を1回。
目と目を合わせて、ガラガラの鼻声で、伝えよう。

唯先輩が言ってくれた、「好き」を、信じて。


「――大好きです、唯先輩。愛してます」


「――ありがとう。私も、あずにゃんのこと、愛してるよ」

気持ちが、繋がった。

「とっても嬉しいよ、あずにゃん!」

満面の笑みを見せる唯先輩。
太陽のように眩しいその笑顔に、
届くはずがないと思っていた想いが届いたことを、ようやく実感して。
心の雲はついに消え去って、澄み渡る空に光が差して。
そしてすぐに、雨が降り出す。
喜びと安堵感が降らせる、天気雨が。

「唯先輩…私もっ…私も嬉しいです…!」

唯先輩の身体に縋りつくように抱きついて、その胸に顔を埋める。
唯先輩は、私の背中に手を回して、包み込んでくれた。

「えへへ、思いがけないプレゼントをもらっちゃった♪
 あずにゃんの『大好き』って気持ち…まさかもらえるなんて思ってなかったよ」
「私も…まさかあげられるなんて――受け取ってもらえるなんて、思ってませんでした。
 女の子同士だし、どう思われるか不安で…伝えないでおくつもりだったんです。
 唯先輩がさっき、大好きって言ってくれたから…伝える気になったんです」
「うん。あれ、言うときすっごくドキドキしたよ。
 どういう意味で受け取られて、あずにゃんがどう反応するか、すっごく怖かった。
 でも、あずにゃんに笑ってほしくて必死だったから、ちょっと賭けてみたんだけど…。
 大当たりだったみたい♪」
「唯先輩って、つくづく幸運な人ですね」

唯先輩は、幸運の星の下に生まれたのかもしれない。
19年前の今日、11月27日に。
だから、私のことも、こんなに幸せにしてくれるのだろう。

「今日の幸運を運んでくれたのはあずにゃんだけどね――ところで」

唯先輩が話題を切り替えようとしたその時にはもう涙は止まっていたから、
私は唯先輩の胸にうずめていた顔を上げる。

「なんですか?」
「リクエストの笑顔と風邪、そろそろもらってもいいかな?」
「あ、そうですね…って、笑顔はともかく風邪も欲しいんですか!?」
「えーっと、うん…まあ、何というか…風邪そのものというより…」

少し恥ずかしそうに頬を赤らめて、もじもじと落ち着かなさそうにする唯先輩。

「その…あずにゃんの風邪のうつし方の方に興味があるっていうかね、うん」

唯先輩の態度と、その一言で、全てを悟る。
どうやら、この人は最初からそれを狙っていたようだ。
まったく、妙なところで悪賢いというか、意外とスケベというか。
もっとも、風邪をうつしてほしい、と言われた時に私が真っ先に思いついた方法もそれなのだから、
私も人のことは言えないのかもしれないけど。

「…知りたいですか?」
「…うん。とっても」
「…じゃあ、さっそくやってみせましょう」
「ほ、ホント!?」

あまりにも嬉しそうなリアクションをする唯先輩がおかしくて、思わずクスリと笑ってしまう。
そんな私を見て、唯先輩は喜びの声を上げる。

「あっ!あずにゃん、やっと笑った!」

私の小さな笑みの、何倍もの笑顔で嬉しそうにはしゃぐ唯先輩。
つられて私の頬も、ずっと強張っていたのが嘘のようにするすると緩んでいく。
ああもう、唯先輩へのプレゼントのはずなのに、
これじゃ結局唯先輩自身が準備したようなものじゃないか。

だから、こうなったら渡し方を工夫するしかない。

ベッドに座ってくれるように、唯先輩に伝える。
そして、言われたとおりにした唯先輩がこっちを向いたタイミングを見計らって、
その柔らかな両頬に私の両手を添える。
手に熱が伝わってくるのは、唯先輩が風邪を引いているからではないだろうし、
私の身体が燃えるように熱いのも、風邪の熱のせいじゃなさそう。
私の突然の行動に、唯先輩は少し驚いた様子。
そこで私はすかさず、ひとつめのプレゼントを渡す。
リクエストされた「とびっきりの笑顔」に、言葉を添えて。

「唯先輩、お誕生日おめでとうございます――愛してます!」

そして、間髪入れずにふたつめのプレゼント。
唯先輩が何か言おうとして開けた、その口を塞ぐように。

私は、唯先輩に風邪をうつした。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

あの日から2日後、月曜日の朝。
私は久々の通学路を歩いていた。
驚くべきことに、あの日の夜までに私の体調は劇的な回復を見せ、
昨日の朝には熱もすっかり下がり、症状もほぼ消えうせた。
おかげで、今朝はこうして学校に向かうことができているのだ。

『風邪ってね――誰かにうつすと、治るらしいよ?』

唯先輩の声が頭の中に響く。

「――まさか、ね」

あの日、「風邪をうつす」ために唯先輩としたことを思い出して、
頬を僅かに熱くしながら、私は学校へと急いだ。

「あっ、梓じゃん!おはよ!風邪はもう治ったの?」
「おはよう、梓ちゃん。身体の具合は大丈夫?」

昇降口で、憂と純に遭遇した。
2人とも、私を見つけるや否や、嬉しそうに笑って駆け寄ってきた。

「おはよう。もう昨日の朝にはほとんど治ってたよ。心配かけてごめんね。
 それから憂、看病に来てくれてありがとう」
「ううん、気にしないで。梓ちゃんが治ってくれてよかったよー」
「まったく、こんな時期に風邪引くなんて、受験生としての自覚が足りない証拠だぞ!」
「うう、正論だけど純に言われるとなんか腹立つなぁ…」
「なんだとぅ!?」

いつもの他愛のないやり取りが、妙に懐かしく、嬉しく感じる。
親友っていいものだな、と、ありきたりな感情が湧く。
私と唯先輩の関係が変わったことは、まだ内緒だけど。
この2人になら、いつか打ち明けられる気がした。

「そういえば憂、唯先輩の誕生会はどうだった?」
「うん、お姉ちゃんも嬉しそうだったし、楽しかったよ!ただ…」
「ただ?」
「お姉ちゃん、一昨日の夜に向こうに帰ってから、風邪引いちゃったらしいの」

眉尻を下げた心配そうな顔で憂がそう言った瞬間、私は思わず噴き出しそうになった。

「昨日から熱も出てきたらしいんだよね。ちょっと心配だなぁ…」

まさか、そんな。

唯先輩――私の風邪、本当に全部持ってっちゃったんですか!?

「あー…お、一昨日の朝、私のところにお見舞いに来てくれたから。
 その時にうつしちゃったかな?わ、悪いことしちゃったなぁ…」
「そんな、別に梓ちゃんのせいじゃないよ。気にしないで」

ごめん、憂。
どう考えても私のせいだ。
と言っても、唯先輩自身のリクエストに応えた結果なんだけど…。

「でも、梓ちゃんいつもマスクしてたのにね。実際、私にはうつってないし」
「き、きっとたまたま、空気中にウイルスとかが漂ってたんだよ!うん!」

と、そこで純が目を光らせた。

「…ほほう、なるほど」

何かに思い当ったらしい。
…思い当たってしまったらしい。

「ねえ、梓?」
「な、何?」
「『風邪は誰かにうつすと治る』って、聞いたことない?」
「うぇっ!?あ、あるけど、それが何?ただの迷信でしょ?」
「確かに迷信かもしれないけど、『病は気から』って言うくらいだからねぇ。
 迷信だって信じれば現実になるかもよ?」
「ゆ、唯先輩と同じことを言わないでよ!」
「ほうほう、唯先輩も同じことを言ってたとな」
「ぇあっ!?」

墓穴を掘ったようだ。
新たな証言を得た純は、ニヤニヤしながらますます強く切り込んでくる。

「一昨日まで熱を出して寝込んでいながら昨日の朝にはすっかり回復した梓と、
 一昨日の夜から具合が悪くなって昨日から熱を出した唯先輩。
 あまりにもタイミングがピッタリ過ぎるんじゃない?」
「言われてみれば確かに…」
「う、憂まで同調しないで!」
「そう言えばあの日、梓ちゃんのお見舞いから帰ってきたお姉ちゃんが、
 やけに嬉しそうだったんだよね。
 梓ちゃんから何かプレゼントでももらったのかと思ったんだけど、話してくれなかったなぁ」
「おおっと、ますます興味深い情報!
 果たして2人はどのようにして風邪をうつし、うつされたのか…。
 これは詳しく事情を聞かねばなりませんなぁ、憂さん」
「そうですなぁ、純さん」
「ちょっと、2人とも!」
「で、実際のところどうなの?知りたいな、梓ちゃん♪」
「マスク外して何やってたのかなぁ~?」
「知らない、もうっ!」

憂と純からの執拗な追及をかわしつつ教室へ向かう道すがら、私は考えていた。
今日家に帰ったら、あのマフラーを完成させよう、と。
そして明日には、そのマフラーを持って唯先輩のお見舞いに行こう、と。
本来のプレゼントのはずだった、そのマフラーの温もりで、
風邪という予定外のプレゼントを少しでも早く追い出せるように。
今頃、高熱に唸っているかもしれない唯先輩には、ちょっと申し訳ないけど。
また逢う口実ができたことに頬が緩んでしまいそうなのを抑えつつ、私は教室のドアを開けた。

END



  • この唯には梓でなくとも惚れる -- (名無しさん) 2012-01-07 04:32:59
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最終更新:2011年12月27日 01:53