「はぁ…」
最近、こうやって溜め息をつくことが多くなった気がする。
違う。紛れもなく多くなった。
そのせいか、この頃はまともに寝ていない。
自分の感情に違和感を感じたのが少し前。違和感の正体に気付いたのが、つい最近。
自覚をしてしまえば、答えはあっけないほどに簡単で、
けれど、それをあっさりと認めてしまえるほど私は器用な人間じゃない。
「どしたの、
あずにゃん。なんか悩み事?」
「いえ、今日はちょっと寝不足で…」
先輩方に気付かれないよう溜め息をついたつもりだったけど、目の前には私をこんな風にした原因がいて、
しかも、顔が近いんですけど…
突然のことで身構える余裕のなかった私は自分が思っている以上に挙動不審なのだろう。
「だったら、私が膝枕をしてあげるよ~」
「け、結構です!」
「もう、あずにゃんったら恥ずかしがり屋さんなんだから」
一瞬でも諦めてくれたと思ったのが間違いだった。
「ひゃうっ!」
膝枕を諦めたかと思えば、今度は急に私に抱きついてきた。
助けを求めようと回りを見ても、皆さんこれをいつもと同じ唯先輩のスキンシップと捉えたようだ。
澪先輩はこちらに向けた視線を再び雑誌へと移し、ムギ先輩はただニコニコと笑っているだけ。
律先輩にいたっては「なんだかんだ行って、今日は素直なんだな、梓」と無責任なことを言っている。
…全然、素直なんかじゃないですよ。
素直になりたい自分と天邪鬼な自分とを天秤にかけてしまえば勝のは後者で、
素直になれない無器用な私はこうやって先輩を怒鳴る振りをして心の均衡を図るしかないのだ。
「ふふ、なんなら私の胸で寝てもいーんだよ」
唯先輩はずるい。
辛うじて平静さを保っていたのに、甘い声でそんな言葉を囁かれたら、おかしくなっちゃうじゃないですか。
振り払おうにも耳の奥で焼き付いてしまったそれは私の中で何度もリフレインする。
あぁ、きっと今夜も眠れない。
容易に想像できる情けない自分の姿に、また溜め息がこぼれた。
どうして、あんな人を好きになってしまったんだろう。
人に変なあだ名はつけるし、特に練習熱心というわけでもない。
そのくせスキンシップと称しては抱きついてくる。おまけに人の反応を見て遊んでいる節すらある。
その姿に入学するまで憧れを抱いていた私の幻想は一瞬のうちに砕かれた。
それこそ、毎日あんなにライブの録音を聞いていた自分が馬鹿みたいに思えるほどに。
「やっぱりムギちゃんの持ってくるケーキは最高だね!」
「唯ちゃんはとっても美味しそうに食べてくれるから、私も嬉しいわ」
上機嫌でケーキを頬張る唯先輩はまるで子供だ。
そんな唯先輩に気を良くしたのか、ムギ先輩は自分のケーキを小さく切り分け、フォークに突き刺すとそれを唯先輩の前に差し出した。
やめて、そんなことしないで…
「よかったら、これもどうぞ」
「ほんとに!ムギちゃん太っ腹だね!」
いくら私が祈っても願いが通じることはなくて、唯先輩は幸せそうな顔でケーキを口にする。
「唯ばっかりずるいぞ!てりゃー!」
「あー!りっちゃんずるーい!」
「何やってんだか…」
すると律先輩が唯先輩のケーキにフォークを突き刺し自分の口へと運ぶ。
すかさず唯先輩が抗議の声を上げ、二人のじゃれ合いが始まった。
澪先輩も仕方がないといった具合いに二人を見つめている。
何ひとつ変わらない部活の光景。
なのに、どうして私はこんなにも苦しいんだろう。
何か鋭利なものが胸を突き刺すような、そんな感触。
ズキズキと鈍い痛みがゆっくりと私の中を廻っていく。
楽しげな先輩方を見て泣きたくなるなんて、ちっともまともじゃない。
母親が子供にしてあげるように、ケーキを食べさせてあげるムギ先輩に嫉妬して
仲の良い姉妹みたいにじゃれ合う律先輩に嫉妬して
そんな二人にからかわれて困っている澪先輩に嫉妬して
今だけじゃない。私は唯先輩と関わる全てのものに嫉妬している。
気を紛らわそうとケーキを口にしても広がるのはチョコレートの苦味だけ。
ムギ先輩が持って来たのだから、これもすごく美味しい…はず。
なぜか今日はそれが喉元を通らず、フォークを持った手が進まない。
「あれ?あずにゃん、食べないの?」
全然フォークが進まない私に唯先輩が目を輝かせて尋ねる。
あれだけ食べたのにまだ食べ足りないらしい。
「ええ、今日はちょっと食欲が湧かなくて…」
「えー!あずにゃん、具合いでも悪いの?」
一転して心配そうな唯先輩。
心なしか顔色が青くなっているように見える。
「大丈夫ですよ。全然、気にしないでください」
「でも梓、調子悪いみたいだし、あまり無理しないほうがいいんじゃないか?」
「そんなこと、ないですけど…」
心配をかけまいと何でもないよう振る舞ってみても、澪先輩が私の嘘を簡単に見抜いてしまう。
それに続くかのように、次々と優しい言葉をかけてくれる先輩方。
「とりあえず今日は帰って休め。これは部長命令だからな!」
「そうだよ。あずにゃんの体が一番大事なんだから」
「元気になったら梓ちゃんの大好きな
たい焼きを持ってくるわね」
「梓、もし悩み事があるなら、いつでも相談に乗るからな?」
律先輩も、ムギ先輩も、澪先輩も、それに唯先輩も私をこんなに心配してくれる。
それなのに私は唯先輩が他の先輩と楽しそうにしているのが嫌で…
優しい先輩方に醜く嫉妬しているなんて、なんて嫌な後輩なんだろう。
最低だ、私…
「あ、あずにゃん、どうしたの?急に具合い悪くなっちゃった?」
急におろおろと慌てる唯先輩。けれど、その姿はどこか歪んでいて…
もしかして、私、泣いているの?
一番それに気付いてしまえば、もう我慢するこてなんて出来なくて、私は堰を切らしたかのようにただ泣きじゃくる。
唯先輩は私の体を優しく抱きしめ、子供をあやすように何度も頭を撫でてくれた。
あれから唯先輩の胸で散々泣いた私は、気が付くとベッドの中で眠っていたようだ。
ここ数日、眠れない日が続いていたため肉体的も精神的も限界だったのかもしれない。
目を開けば真っ先に映る真っ白な天井。そして私の髪に触れる柔らかな掌の感触。
「あ、あずにゃん起きたんだね?」
「…ここは?」
「保健室だよ。泣きやんだら急に倒れちゃうんだもん、心配したよ?」
でも、大したことがなくてよかったと微笑む唯先輩。
辺りを見回しても他の先輩はいない。
「ご迷惑をお掛してすみませんでした」
「全然、気にしなくていいよ。あっ、でも…」
私の頭を撫でながら、唯先輩が優しい口調で言う。
「今日みたいに何か悩み事があるなら相談してほしいな。あ、でも私じゃ頼りない…かな?」
照れ臭いのか、自分の頬を指でかく唯先輩。
思うように言葉が出てこない。代わりに私は首を横に振る。
そうだ。こんなにも簡単なことだったじゃない。
すぐコードは忘れるし、練習よりもティータイムやゴロゴロすることを優先するし、でも、それだけじゃないんだ。
誰よりも真っ直ぐで、優しい、そんな人だったから、私は唯先輩のことを好きになったんだ。
「…あずにゃん?」
「………が……き、です…」
聞こえないといった表情の唯先輩。
先輩の体に抱きつく形で私はもう一度同じ言葉を口にする。
「私、唯先輩のことが、好きです…」
ずっと伝えることはないと思っていたのに、声に出して言ってしまった。
だけど不思議と後悔はなかった。
唯先輩は何も言わない。
私は先輩が耳を傾けてくれると信じて、ゆっくりと自分の素直な気持ちを言葉にしていく。
「嫉妬…していたんです。先輩方に。唯先輩が他の人と楽しそうにしているのが辛くて…」
「……………」
「学校でも、家でも、そんなことばかり考えてしまって…ずっと…眠れなくて…」
そこまで話して言葉が詰まる。
目頭が熱くなる。だけど泣いちゃ駄目。最後まで自分の気持ちを伝えなきゃ…
「好きになってごめんなさい…でも、自分じゃどうしようも出来なくて…」
ギュッと目を瞑って、唯先輩の返事を待った。
やがて、ゆっくりと体を離す先輩に私は身を固くする。
「顔上げてこっち向いて、あずにゃん」
「唯、せんぱ…」
顔を上げると同時に、ちゅっと軽く湿った音と共に柔らかな感触が唇に伝わる。
涙でぼやけた視界の先には真っ直ぐな瞳で私を見つめる唯先輩。
「いっぱい辛い思いをさせてごめんね。私も、あずにゃんのことが好きだよ」
耳元で甘く囁きながら抱きしめられる。
密着した体から伝わる先輩の鼓動。鼻孔をかすめる先輩の匂い。
それだけで私の体温は上がり、熱くなった頭が少しずつ理性を溶かしていく。
唯先輩の手が私の腰へと回り、それに応えるように私も先輩の首に手を回す。
そして、互いの気持ちを確かめるかのように何度も口付けを交した。