「お疲れさまでーす」

 本日も、部活動にいそしむ時間がやってきた。音楽室の扉を開け、室内を一望すると、まだ唯先輩だけしか来ていないことが分かる。
 私の挨拶にも上の空な先輩が、一体何をしているかと言えぱ、トンちゃんをぼーっと眺めているだけだ。あの愛らしい姿を見つめていれば自然と心は安らぐから、手持ち無沙汰の時に見蕩れてしまうのは致し方ない。
 でも、今の先輩は――笑っていない。なんだか浮かない顔をしていて、決してトンちゃんの癒しを堪能している訳ではなさそう。何か他のことでも考えながら、茫然としているように見えた。

「唯先輩……聞こえてますか?」
「あっ、あずにゃん……」 
「どうかしたんですか? 何だか元気が無いですね」
「な、何でもないよ! 何でもないっ! そ、そう。トンちゃんの新たな可愛さを発見できるかと思って、じっくり観察してたんだ。……あはは」
「……?」

 どうやら、私が入室してから側に寄って声をかけるまでの間、私の気配に全く気付いてなかったみたいだ。声をかけられたことに殊更驚いたみたいで、唯先輩は慌てふためきながら、取り繕うように答えた。でも、唯先輩のそれは明らかに挙動不審だ。こんなにも分かりやすく、疑る余地の有る誤魔化し方は他にないだろう。
 様子がおかしい先輩を案じて、しばらく無言のまま観察していると、この空気に堪えかねたらしく先輩からこう切り出された。

「あずにゃん、ごめん。来て早々悪いんだけど……私、用事を思いだしたから、先に帰るね」
「あ……はい、分かりました。お気をつけて」
「……じゃあね!」

 鞄とギー太を抱えて、唯先輩は教室を出て行ってしまった。その後姿を見送りはしたけど、今日に限っていつもの先輩らしくなかったことが、胸の中でどうにも引っかかる。
 軽音部での日頃の行いを窺う限り、そうそう深く悩むことをしなさそうなのが唯先輩らしさというか、美点だと思う。だからこそ、さっきの浮かない表情を目の当たりにしてしまうと、その落差がどうしても心配になってしまうのだ。

 ――唯先輩……何かあったのかな。

 でも、私には分からない。一人で悶々と考え込んでみても、効果は無さそうだ。思案に明け暮れている間、ほどなくして、律先輩と澪先輩が部室に到着した。

「よーっす、梓」
「あ、お疲れさまです。お待ちしてましたよ」
「あれ、梓ひとりなのか? 唯は何処行った?」
「唯先輩なら……たった今、用事があるからって帰りましたよ」
「用事……? あいつ、さっきまでそんなこと言ってなかったけど」
「え……?」

 先輩方に話を通していないとなると、よっぽどの急用だったのだろうか? いやいや、そんなに急ぎだと言うならば、部室に立ち寄る暇があったのはおかしな話では。ましてや、トンちゃんを愛でていく時間なんて有るはずが……。

「唯先輩、どことなく元気が無さそうでしたけど……何かあったんですか?」
「あぁ……そのこと何だけど」
「朝からちょっと、な……」
「朝から、ですか?」

 律先輩と澪先輩は互いに顔を見合わせ、少し困った顔をしていた。

「唯が……なんていうのかなあ。朝っぱらから凹んでた、とでも言うのかな」
「うん。強がっている割には、隠し切れてなかった」
「どうしたんだよ、って聞いてもさ。『なんでもないよ』の一点張りだったしな」
「……何か悩んでいるのかもしれないな。一人で抱え込む真似をしないと思っていたけど、私たちにも打ち明けられないような悩みが、あるのかも……」

 澪先輩の言葉が頭の中で反芻し――ちくりと胸を刺す痛みを覚えると、急に不安に駆られ始める。
 唯先輩が誰にも打ち明けられずに思い悩んでいることがあるかも知れない……なんて。

 ――その悩みが、唯先輩の笑顔を奪っているのだとしたら。

 私は居ても立ってもいられなくなり、鞄とむったんを抱えて出口へと駆けだした。

「おい、梓っ! いきなりどうしたんだ?」
「……すみませんっ! 私も用事を思い出したんで、今日は先に帰らせてもらいます!」


 部室を抜け出して、学校を出たところまではいいけど、先輩を追いかけるには少し遅かったか。さてさて、これからどうしたものか……。
 途方に暮れてしまった私は、とりあえず帰路へ着くことにした。

<唯先輩、部室ではお見かけした時、あまり顔色が優れていないように見えました。身体の具合は、大丈夫ですか?>

 正門を抜けてからすぐに送ったメールは、三十秒と経たずに返事が来ると思っていたのに、返信が届いたのは五分も経過してからだった。

<あずにゃん、わざわざありがとう。心配かけさせちゃってごめんね。本当に何でもないから、安心して練習に励んでね>

 ーー全く……この人はもう。

 メールだと、何だかんだでのらりくらりと躱され、いつまで経っても煮え切らない態度をとられてしまうに違いない。そんなんじゃダメだ。ケータイのアドレス帳を開き、唯先輩の携帯番号を確認する。そして、ためらうことなく通話ボタンを押した。

 Trrr......Trrr......

 呼び出し音は、一向に鳴り止まない。着信には気付いているけど、理由を付けて取ることが出来なかった、と言い訳をするパターン……だったりするのだろうか。若しくは、何があっても出ないと決めているのか。
 仕方がないので、奥の手を使うことにしよう。通話を諦め再度アドレス帳を開き、先輩に一番近しい人物を選んでから、通話ボタン。

 Trrr......Trrr......

「もしもし? 梓ちゃん?」
「あ、憂?」

 よし、成功。憂だったら電話を拒まれることはないという読みは当たりだ。
 取り急ぎ、用件を伝えることにした。

「急で悪いんだけどさ、今から憂の家に遊びに行っていいかな?」
「えっ? 別に構わないけど……今日の部活は? さっきまで張り切ってなかったっけ?」
「あ、えっと……今日は、特別に休みにしようってことになったんだ」
「へぇ、そうだったんだ。珍しいね~」
「ははは……」

 憂、ごめん。本当は嘘を吐いて抜け出して来て、今こうして電話を掛けている。部活はちゃんとやっている……はずだ。ティータイムが部活動だとは、素直に認めたくない気持ちはまだ拭い切れていないけれど。

「それで――行ってもいいかな?」
「うん。今日もお父さんとお母さんは居ないから、遠慮しないで来てくれていいからね」
「おっけー。支度が出来たらすぐに向かうね」
「うん。でも、何でまた急に、家に来たいってことに? 梓ちゃん、何かあったの?」
「それはこっちのセリフなの。……あ、唯先輩に私が行くこと、言わないで」
「えっ、なんで? お姉ちゃん、喜んでくれると思うんだけど」
「びっくりさせたいから、だよ」
「……うん、わかった。お姉ちゃんにはナイショにしとくね」
「ありがと、憂。それじゃ、また後でね」

 通話を終えて、一息つく。まくし立てる用に喋っちゃって、憂には悪いことしたかな……。後でちゃんと謝らないといけないな。

 ーーじゃあ、ちょっとだけ外出してきますか。


「梓ちゃんいらっしゃーい」
「こんばんは、お邪魔しまーす。……えっと、唯先輩は?」
「お姉ちゃんなら自分の部屋だよ。しばらく集中したいから、ご飯が出来るまで呼ばないで……って言われたんだけど」
「ふーん……なるほど」

 憂はご飯の用意があるからと、そのまま台所へと戻ってしまった。お構いなしに、私は足音を立てないよう細心の注意を払って二階へと上がり、唯先輩の部屋の前に立った。
 とんとん、と二回だけノックをすると、中から返事が聞こえた。

「憂……? 悪いけど、今、手が放せないからまた後で……」
「先輩。今すぐここを開けてください」
「そ、その声は……あずにゃん……!?」

 驚嘆した声をあげた唯先輩は、少しだけ逡巡したらしく、部屋の鍵を開けるまで少し時間がかかった。扉の隙間から顔をのぞかせる唯先輩は、目元が腫れていた。
 自分の部屋に居るというのに――唯先輩は、ものすごく暗い顔をしている。

「唯先輩、こんばんは。突然押し掛けてごめんなさい」
「あずにゃん……何でここに……」
「もう。電話をとってくれないのが悪いんですよ」
「あっ……ごめん。ごめんね」

 立ち話もなんだからと部屋に通してもらい、ベッドに背をもたれる体勢で、唯先輩と並んで腰を下ろした。
 外は薄暗くなっているにも関わらず、部屋の電気は点いていなかった。そんな暗い室内は程よく散らかっていたが、その惨状を見回して分かることは、今の今まで勉強していた訳でも、ギターの練習をしていた訳でもなさそう、と言うことだった。

 ――じゃあ……何のために部屋に籠もっていたの?

 唯先輩はまだ制服のままだ。帰宅してから大分時間も経っているだろうし、着替えぐらいは済ませているものだと思っていたのに、一体何をしていたのだろうか……。

「唯先輩……今日はどうしちゃったんですか? 何か……変、ですよ」
「……そんな風に見えちゃったかな? でも、私はいつもと変わらないよ」
「いつもと様子が違うから、訊ねているんです。何かあったんじゃないんですか?」
「だから……何でもないって、言ってるでしょ?」

 いつもだったら、こんな応酬もおどけた口調でやるだろうに、今回に限ってはあからさまにむきになっている。私だって、食い下がる訳にはいかないんだ。

「……なんでそんなに隠したがるんですか?」
「隠してなんか、ないもん」
「うそ、ですね。全然隠し通せてませんよ」
「そんなことないってば。……ほら。私はいつだって元気……」
「……いい加減にしてください!」

 いつまでも煮えきらない態度を取る先輩に堪えきれなかった私は、思わず大声を出してしまった。

「私は、真面目に心配してるんです。何でもないなら――なんで、泣いてるんですか。ちゃんと訳を聞かせてください。そうしないと、絶対に帰りません」
「あずにゃん…………」

 流石の唯先輩も凹んだらしく、重い口を開く気になってくれたようだ。ふう、と大きく息を吐いてから、か細い声で話を始めてくれた。

「昨日ね……怖い夢を見たの」
「夢、ですか?」
「うん。あずにゃんに……大嫌いって、言われちゃう夢だったの」
「…………」
「私たち四人で先にお茶をしているところに、後からあずにゃんが来てね。歓迎するつもりで……抱きついたら、すごく嫌そうな顔をしてさ。『いつまでこんな事するつもりなんですか』とか、『迷惑だからもう近づかないください』とか言われちゃって」
「…………」
「たかが夢のはずなんだけど……ね。何だか、急に自信が無くなっちゃったんだ。いつもあずにゃんにしてあげてることって、あずにゃん自身が本当に喜んでいるかなんて、私が判断できることじゃないのに。実は、今までしてきたこと……全部、迷惑だったんじゃないかって……。そんなことばっかりしてきた私のこと、実は嫌いなんじゃ……」

 ぺちっ、と気の抜けた音が鳴り響いた。
 私は、唯先輩の両頬を叩いていた。嘘を貫き通そうしたことに対するおしおきと、次は私の言うことを聞いて貰う番であるという、意思表示。

「唯先輩は最低です」
「…………」
「とんだおバカさんにもほどがあります」
「……あずにゃん……」
「何で、夢の内容なんかを鵜呑みにしちゃうんですか。いつから、そんな弱い人になっちゃったんですか。何で……何で、ちゃんと確認してくれないんですか」
「……だって…………」

 大粒の涙をためこんでいた唯先輩も、とうとう堪えきれなくなってしまい、子供みたいにわんわんと泣き始めてしまった。ぼろぼろと溢れ出す涙を指で拭い続けながら、先輩は言葉を続けた。

「あずにゃんのことが好きだから……大好きだから……嫌いだなんて。そんなこと、夢の中でも言われるのが嫌だった……本当に嫌だったから……」
「だーかーら!」

 もう一度ぺちっ、と頬を叩く。先輩の視線をこちらへ向けさせて、その瞳をじっと見つめながら、凛然として言ってみせる。

「私だって、唯先輩が好き……大好きなんですよ。だから、勝手に嫌いにしないでください」

 そして、先輩の頬に添えた手で、ふわふわとした頬を軽く抓んだ。

「……あずにゃん。いたいよ」
「……はい。だから、今のは夢じゃありません」
「そっか……そうだね。良かった」


「……うん。そういう訳だから、よろしく」
「どう、だった……?」
「良いって……言ってくれました。あんまり迷惑はかけないように、とだけ」
「……ありがとね、あずにゃん」

 明日は学校が休みだからと、親からお泊まりの許しが得られた。
 憂にアポを取った時点ではわざわざ泊まりがけで来るつもりはなかったのに、当然のように憂特製の夕食をご馳走になったり、唯先輩と一緒にお風呂に入ったり、憂にパジャマを借りて先輩と一緒に寝ることになったりしていた。それもこれもみーんな、唯先輩にお願いされてしまったのだから、断れるはずがないのだ。やれやれ。

「今日はね、朝からずっと不安だったの」

 唯先輩のベッドにお邪魔して、二人並んで寝る体勢になってからだった。
 私は横になったまま、先輩の方へと顔を向ける。先輩の髪の毛から醸されるシャンプーの香りが、私の鼻腔をくすぐった。

「あずにゃんと顔を合わせることが出来るのかな……とか、本当は私のことどう思っているのかな……とか。部室であずにゃんが来るのを待ってる時も、ずっとそのことで頭が一杯になってて……これから私はどうしたらいいんだろうって、考えてた」
「それで、私から逃げ出した訳ですね」

 今の先輩には辛辣に聞こえるかもしれないけど、私は敢えて棘のある言葉を選ぶことにした。

「……うん。帰ってからも、ずっと、ずーっと思い返しちゃって……そうしたら、学校で我慢してた分が一気に出ちゃったみたいで」
「着替えもせずに、暗い部屋でえんえん泣いていた訳ですか」
「電話に出なくて……出れなくて、本当にごめんなさい」
「いえ。もう、いいんです。やっぱり、先輩はおバカさんでした」
「……えへへ」

 唯先輩は、ばつの悪そうな顔をしながらはにかんだ。ほんの数時間前からは考えられないほど、綻びた顔を浮かべている。
 その顔を見たのは、今日は初めてだ。

 ――そうか。今日一日、この顔が見たいって、ずっと思っていたんだ。

「あっ、そうだ」
「……うん? あずにゃん、どうかしたの?」
「ちょっと……失礼します」

 布団の中を手探りして、私の左手は唯先輩の右手を見つけ出す。そして、簡単には解けないように、指のひとつひとつを絡ませながら固く結んだ。

「唯先輩。朝起きるまで、この手はずっと握ったままです」
「……うん。分かった」
「もしも嫌な夢を見たら、私を起こしてください。何とかしてみせます」
「……頼もしいね、あずにゃんは」
「ふふ、任せてください。それじゃあ、そろそろ寝ましょうか」
「あっ、ちょっと待って……私からも」

 先輩は左手で支えながら上半身を起こして、私の顔を見下ろす。横になったままの私は、唯先輩を見上げている。

「改めて、お礼を言わせてね。今日は、私の為にいろいろ心配をかけさせちゃって、ごめんなさい」
「……先輩の為ならお安い御用です」
「本当にありがとう。あずにゃん、大好きだよ」
「……はい。私も……んっ……んっ!?」

 あまりにも瞬間の出来事だったので、呆気にとられてしまったけど――
 私の唇は、先輩の唇と触れ合ってしまった。

「せ、先輩……これって……」 
「……えへへ。大好きと、ありがとうを籠めた、私からのご褒美
「…………」
「あ、あずにゃん、ひょっとして嫌だった……?」
「そ……そんな訳ありません……嬉しいです……」

 いきなり過ぎてびっくり。
 びっくりしたけど……とっても、とっても、嬉しくて。

 ――すごく、しあわせだ。

「良かった……。それじゃあ、おやすみ」
「……は、はい。お、おやすみなさい」

 明日は丸一日、唯先輩と二人きりでお出かけの約束をしている。
 怒濤の一日が終わろうとしていて、少し名残惜しいけれども――今夜のところは、このまましあわせな気持ちを持ち込みつつ、夢の世界へ誘われることにしよう。

 ――二人で、良い夢が見られますように。

【おしまい!】


  • 最高ぉぉおおお!!! -- (名無しさん) 2010-09-18 14:09:11
  • ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ -- (クリスティア) 2010-12-30 13:23:06
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最終更新:2010年09月09日 13:02