「ゆっくりしていってね!!!」
夕暮れ時、里へ帰る道の途中草むらから生首のような、饅頭のような生き物が飛び出してきた。妖怪でも出たのかと思い肝を
冷やしたが、ソレは俺に襲いかかってくることはなく、その場でピョンピョン跳ねて冒頭の台詞を連呼し始めた。俺はその時、
驚きのあまり腰を抜かしてしまって、持っていた荷物を放り出して地面に尻餅をついてしまっていた。俺の眼前を意味もなく
跳ね回る「
ゆっくり」は、俺が投げ出した荷物に気づいて目を輝かせる。それは今日香霖堂で手に入れた外の世界のお菓子で、
「カステラ」と呼ばれるものだった。
「うっめ!めっちゃうっめ!」
カステラを包装していた紙ごとバリバリと貪り食うゆっくり。俺は訳がわからず、尻餅をついたまま呆然とその光景を眺めてい
た。すると、カステラを食い終わり、興奮した様子のゆっくりが、
「もっとたべさせてね!」
と、言いながら再び俺の目の前に跳ねてきたため、今度こそ食われると思った俺は、
「ヒイッ」
と、とっさに顔をそむけて両腕で顔を覆った。その時、顔を守ろうとした右腕がゆっくりの左頬に見事に当たり、
「ゆ”っぐ!?」
と顔面(?)を痛打されたゆっくりはぶっ飛ばされて横にあった太い木の幹にビタン、としこたま叩きつけられた。いつまで
経っても食べられないので、恐る恐る目を開けると、そこにはのびて気を失っているゆっくりの姿があった。
人に力で負ける妖怪など聞いたことがない。どうやらこの生き物は妖精かなにかの類のようだ。(人語を話すし、動物にしては
少々グロテスクに過ぎる。)安心した俺は木の枝でこの得体の知れない生き物をつついて遊び始めた。頬の部分をつつくと、
枝の先端がもちもちの皮にブヨン、と沈み込み、つつく力を抜くとバイン、とはじき返される。漫画めいた弾力性だ。
おまけに、
意識もないくせに突付かれるたびに、「ゆっ!」という奇声を上げる。目はつむっているのに、口元は起きているときと同じく
笑っているような形で開きっぱなしで、口からはよだれが一筋たれている。すべてが滑稽だった。胸の奥底から得体の知れない
感情が沸き起こってくるのを感じ、俺はこの生き物を枝でつつくのがやめられなくなった。どんどんつつく力がエスカレートして
いき、やがて枝の先からブス、という湿った音がしてそこに黒い泥のようなものが付着しているのをしげしげと眺めていると、
この鈍感な生き物はようやく目を覚ましたのだった。
「ゆっくり!ここはどこ!?おにいさんだれ!?」
ピョンピョン跳ねながら言う。頭をぶつけたショックでさっきの記憶はないらしい。意識を取り戻し元気に跳ね回りながら、人
語を喋るこの生物を見て、俺は改めて思った。こいつの姿かたちや仕草、そして物言いは、どうも俺を苛立たせる。胸の奥に暗い
感情がまたも真夏の積乱雲の様にムクムクと広がるのを感じた俺は、これ以上とコレと関わりあうのは止そうと、ゆっくりの問い
かけを無視して立ち上がり、さっさと家に帰るため歩き出した。するとどうだろう、ゆっくりは俺の後をついてくる。足元に
まとわりついてきて、そのもちもちした感触がひどく気色悪い。思わず蹴り飛ばしてしまう。ゴロゴロと転がってまた木にバイン
とぶつかって、止まる。
「けらないでね!」
「なんでついてくるんだよ」
「おなかすいた!おうちかえる!」
さっき俺のカステラを全部食ったばかりじゃないか。
「じゃあさっさと帰れよ」
「おうちわからないよ!はやくおにいさんのおうちにつれてってね!」
どうやら記憶はキレイさっぱりなくなってしまったらしい。しかしそんなことはもちろん俺の知ったことじゃない。こんな
奇饅頭と一つ屋根の下で共同生活なんてお断りだ。俺はかまわず歩き始めた。ゆっくりもその後をあつかましくついてくる。
最初のうちは俺の前を行ったり後を行ったり元気よく跳ね回りながら、「かえったらゆっくりしようね!」とか「はやくごはん
たべようね!」とか勝手なことを話しかけてきた。だがヤツは俺の歩くペースについてくるのが精一杯だったようで、十分もする
と、俺とゆっくりの距離はだんだんと離れ始めた。
「ゼッ、ゼッ、ハァッ…ゆっ!……ゆっくりしていってね!!!」
「勝手にゆっくりしてろよ」
「ゼヒッ……ゼッ、いっしょにゆっくりしようね!」
なぜだかわからないが随分なつかれてしまったようだ。一部の動物の雛には刷り込みという、生まれてから一番最初に見たもの
を親と思い込む性質があるそうだが、ひょっとしたら記憶をなくしてしまったコイツは、目覚めて最初に俺を見て、親か何かだと
思い込んでいるのかもしれない。もうヤツの体力も限界に近いようだが、それでも懸命についてくる。里に着くまでこのまま
歩いて、あと一時間はかかる。確実にそこまではもたないだろう。
「ゆっぐ!」
とうとうヤツは着地に失敗して顔面から地面にスライディングをかまし、ベッタリとのびてそれ以上動けなくなった。ゼヒッ、
ゼヒッ、と荒い呼吸をする度にブヨブヨした体が揺れるのが滑稽だ。俺はチラッとその様子を確認すると、当然助け起こすような
真似はせず、残りの道のりを急いだ。
「おいてかないでね!」
と、泥にまみれた顔面を上げ、どんどん遠ざかる俺の背中に叫ぶゆっくり。しかしその声が全く聞こえていないかのように、
俺がゆっくりを振り返ることはなかった。
「ゆ”っぐりいいいいいいいい!」
親に見捨てられた子供のような悲痛な叫びが夕焼けの中に響き渡る中、俺は胸の中に立ち込めていた暗雲が晴れていくのを
感じていた。