「らんしゃまぁぁぁぁ!!」
恐怖を振り払う様に、そう叫びながらちぇんは駆け出していった。
それに反応してか、らんの下敷きの形になっていた蜘蛛は、
あっさりとらんの束縛を解き、まるで地面に潜るかのように移動を始める。
先程まで、まるで居ないモノであるかのように対応していたというのに、
これはちぇんを新たなる外敵と認めての反応だろうか。
それに対して、ちぇんはらんを一瞥しただけでそちらに駆け寄ろうとはしなかった。
敵の束縛が解けたというのに、ビクビクと痙攣するだけのらんにしてやれる事などなかったのは勿論の事、
それを間近で見てしまう事に対しての恐怖も有った。
だが何よりも、らんとちぇんがゆっくりする為には、
今は眼の前の敵を撃退する事に全神経を傾けなければならない事を理解していたからだ。
「わかるよー」
地面を掻き分けるように移動する蜘蛛を後ろから追う形となったちぇんは、
出来るだけ扱い易く、そして丈夫そうな木の枝を探しそれを口に咥えた。
蜘蛛の力は物凄いモノが有るが、その表皮はゆっくりの皮膚と耐久性は余り変わらない。
と、先程掴まれた時の感触から、ちぇんはそう判断した。
ならば、自分でも渾身の力を込めた攻撃を行えば、致命傷を与えられるかもしれない。
そう考えながら、ちぇんは敵の後を追い続ける。
「……疲れているかもしれない」
ちぇんのその行動を観察しながら、副長は呟いた。
その言葉は、誰に対するものだろうか?
そう私は思ったが、恐らくはちぇんでは無く、その相手である蜘蛛の方に向けた言葉であろう。
地面を潜って移動しているとはいえ、動きの方もかなり鈍く感じる。
そもそもあの蜘蛛は、らんやちぇんが落下する前からかなりのゆっくりを処分していた。
無機質な顔をして感情など窺う事など出来はしないものの、生物である以上疲れは蓄積するものだ。
更に、自然界の生物は「危うい闘い」とも言える、五分五分の闘いを出来るだけ避けたがる。
それは例えその闘いに勝ったとしても酷い傷などを追った際には、遅れて死に至る結果になったり、狩りが出来ずに飢え死にしたりする事もあるからだ。
そんな蜘蛛からしてみれば、らんはかなりの強敵であった。
攻撃を受けたのは一度だけとはいえ、精神的な消耗はかなり激しいものがあった筈だ。
らんとの闘いにより今まで敵ですら無かったゆっくりという生物であったが、思いも寄らぬ力を見せられ、そういった危険な敵という認識が芽生えたのかもしれない。
それが今現在の、「敵から一旦逃げ出す」という行動を起こしているのだろう。
蜘蛛は一目散にちぇんから距離を取ろうとする。
しかし、其処は限られた空間である水槽の中。
すぐさま蜘蛛は端まで辿り着き、すぐさま切り返して距離を取ろうとした時には、ちぇんが跳びかかって来た後で有った。
「ゆっぐぅぅぅ!!」
ちぇんは口に真横の形で咥えた棒を地面が盛り上がった場所へと突き立て、何かを突き破る手応えを感じた。
そのまま体重を乗せて押し込むように突き刺すと、やはりズシリとした感触が感じられる。
――勝てる!!
不意打ちに近いとはいえ、あの怪物に手傷を負わせる事が出来た事に、一種の感動にも似たものを覚えた。
「ゆっぐりじね!!ゆっぐりじねぇ!!」
口に棒を咥えたままちぇんは叫び続け、グイグイと棒を押し込む。
ここで決めねば勝機は無い。
もし殺り損ねれば、敵にはまだあのよく判らない見えない攻撃が有る。
一度見たのでそのまま喰らう事は無いにしても、打開策など考え付くわけも無く、あれを出されれば成す術も無い。
ちぇんはそう考え、元より短期決戦で臨むつもりであった。
するとふと、ちぇんは体が浮き上がるような感覚に陥る。
いつのまにか、敵に吹き飛ばされたのか?
いや、違う。自分の体が引き摺られながら木屑の海を移動している。
蜘蛛がちぇんが咥える棒を刺したまま移動し、あがき苦しんでいるのだ。
暫く、ちぇんはヨットの帆にでも成ったかの様に、木屑を飛散させながら引き摺られていた。
それでもちぇんは、歯を喰いしばって棒を敵の体奥底へと押し込もうとしていた。
臆して離してしまう様な事があっては、折角の勝機が逃げてしまう。
と、何度も頭の中で反芻し、必死に成って蜘蛛の動きに抗うように眼を瞑り力を込める。
だが、そんなちぇんの思いを裏切るような事が起きた。
「ゆ”っっっ!!?」
急に無重力になった感覚を感じ、地面を転がっていた。
ちぇんには一瞬何が起きたのか判らず、眼を開ける。
そこには予想外の情景が広がる。
蜘蛛が移動する負荷と、ちぇんの押さえ込む負荷に棒が耐え切れずにその半ばから折れてしまったのだ。
そして、眼の前には敵である筈のあの大蜘蛛が存在していた。
その上にはちぇんが突き立てた棒の柄が少しだけ覗く。
背中に掛かっていた負荷が取れたのを好機として、すぐさま地面から這い出てちぇんの前に立ちはだかったのである。
「わ、わかんないよぅー」
突然の事態の急変に、ちぇんは眼に涙を溜めて呟く。
そこには先程までの勇敢なゆっくりちぇんの面影は何処にも無かった。
らんの言葉で一種の興奮状態に陥り、最初の攻撃が改心のモノで有ったため、ボルテージが一気に上がりはした。
しかし、その幸運も長くは続かず、敵を仕留め切れなかった事についで、
自身の身が今正に風前の灯火で有る事を理解し、一気に熱が冷めてしまったのである。
「ゆゆ、ゆっくりしよう。ゆっくりしよう……ね?」
何を思ったのか、ちぇんは先程まで殺すつもりであった蜘蛛に対してそう問い掛け始めた。
命乞いのつもりなのか、ゆっくりとしての本能としての言葉なのか。
よく判らないが、それでもちぇんは涙を流しながらも引き攣った笑顔で「ゆっくりしようね。ゆっくりしようね」と、何度も眼の前の相手に語りかけた。
もちろんの事では有るが、そんなものは何の解決の手助けにはなってくれなかった。
眼の前の蜘蛛は、口の鋏角を動かし「シャワシャワ」と威嚇音を出す。
その無機質な八個の眼も、どこか傷に対する怒り醸し出しているように感じられる。
じりじりとちぇんの方に近付き、補足するべくその脚がカサカサと音を奏でる。
「ゆ……ゆ”っぐじ、じよう”よ”ぉぉぉぉぉ!!」
それに耐え切れなくなったちぇんの絶叫に合わせて蜘蛛が飛び掛る。
結局、駄目なゆっくりである自分では最初からどうしようもなかったのだ。
そう頭の中で思った一方、相反するものも去来した。
そこには自分の愛するらんと、それにいつも甘えてばかりの自分の姿。
頼ってばかりで何もしてこなかった自分の駄目な姿である。
――そういえば、らんしゃまのためにじぶんがなにかして「あげれた」ことなんてなかったなぁ。
そう思った。
何かして「あげよう」とした事は確かに存在した。
ここに来る事になった原因でもある盗みの件だ。
それにしても、らんに対しては迷惑にしかならず、何かして「あげれた」事には成らなかった。
本当に駄目なゆっくりだ。と、自分に対して呆れる。
今回の闘いも、何だかんだで途中で諦めてしまったではないか。
何をやらせた所で、何も出来ないゆっくりなんだ。
自分なんかが死んでも、他のゆっくりに迷惑を掛けるゆっくりが消えるだけだ。
と、ちぇんは自分自身でそう納得しようとした。
ふと、「そんなことないよ」という声が聞こえてくる。
らんしゃまのこえだ。
らんは言った。
「らんしゃまは、ちぇんがいるからゆっくりできるんだよ」
――と。
一度は納得し掛けたちぇんではあったが、その言葉に、
自身の声とらんしゃまの声、どちらを信じれば良いのか全く判らなくなった。
又、頭がガンガンと痛くなってしまう。
いつもそうであった、ちぇんが難しい事を考えるといつも頭が割れるように痛くなる。
そして、いつもであれば、ちぇんはそこで考えるのを辞めてしまう。
考えた所で何も判る筈が無いのを、ゆっくりちぇんは理解していた。
結局判っていなくても、何も考えずに「わかるよー♪」と言ってしまう生物なのだから。
だが、今回はもう少しだけ考えてみようと思った、考える事が出来るのはここが最後なのかもしれないのだから。
もうちょっとだけ、考えてみよう。
そして、その結論もまた、物凄く速かった。
――らんしゃまのことばをしんじてみよう!!
「ゆぶぅぅぅぅぅ!!」
飛び掛る蜘蛛に対して、ちぇんはいきなり何かを吹きかける。
先ほど地面を引き摺られた際に、棒を咥える口の横から入り込んできた木屑であった。
それを自身の肺活量を最大限に使って蜘蛛の顔面に吹き掛けたのである。
さしもの、野生の生物である蜘蛛も虚を突かれたのだろう。
一瞬、そのまま捕縛するかに見えた脚の動きが止まる。
「わかるよぉぉぉぉぉぅ!!」
そのまま間を置かず、ちぇんは空中の敵の対して正面から渾身の体当たりをぶちかまし、
それが直撃した蜘蛛は、大きく吹き飛び裏返しになってしまう。
その蜘蛛の起き上がろうと慌てたように忙しなく動かす八本の脚を見ると、
相手が焦りを見せているのを、ちぇんにも初めて感じられた。
ここで、一気に決める。
そう決意を決め、敵との距離を詰めるちぇんの耳に意外な声が響く。
「みょおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん!!」
突然何かが落下してきた思うと、それは裏返った蜘蛛の真上へと落ち、ボスンと大きな音を発する。
ちぇんにしても、ましてや蜘蛛にしても意外なそれは、唯一人上空の棒へと喰らい付いていたゆっくりみょんであった。
「みょん、みょん!!みょん、みょん!!」
呆然とするちぇんを尻目に、下敷きとなった蜘蛛を何度も飛び跳ねて潰そうとする。
ハッとしてちぇんは理解した。
上に居たみょんも、ちぇんを助けるべく様子を窺っていたのだという事を。
そして、自分の真下にそれがやってきた今が最大のチャンスであり、それを実行した事を。
ただひたすらに、蜘蛛に攻撃を仕掛けるみょんに対して、今すぐ飛び付きたくなる程の喜びの衝動を感じた。
「みょん、みょんみょん、みょぉぉぉぉぉん!!」
そんなちぇんに、みょんは飛び跳ねながら向き直り、そう叫んだ。
何を言っているのかさっぱり判らなかったが、その鬼気迫る表情から察するに、このまま二人で潰し切ろうという意思表示だと受け止められた。
ちぇんはそれに呼応して、蜘蛛に飛び掛ると、そのジタバタと動く脚と、たまに舞い散る毒毛に気を付けながら、何度も攻撃を繰り返す。
「へんなけが、めにはいらないよぅにきをつけるんだよー!!」
みょんにそう掛け声をあげながら、跳ね回り、みょんもそれを受けてか「みょんみょん」言いながらも攻撃を続ける。
何度も踏みつけられながら、蜘蛛は木屑の中に埋まっていき、
その忙しなく動いていた筈の脚の動きが鈍くなってきたのを見れば、攻撃が効いているのは見て窺えた。
それでも時折、出糸突起から糸を噴出したり、裏返ったまま脚で敵を捕まえようとしたり、鋏角で噛み付こうとしている辺り、まだ戦意は有る様に思えた。
しかし、この劣勢の中ではそんなものは然したる問題にならず、多少糸がくっ付こうとも、体が傷付こうとも二匹は構わず攻撃を続けた。
自分の大切ならんしゃまを、他のゆっくり達をあんな風にした怒りをちぇんはぶつけた。
そんな単調な攻撃が何十秒か、それとも何分かは判らないが続いた後、
あろう事か、実験当初からは想像も付かない驚愕の光景が広がる。
千切れてそこらに落ちている脚や、痙攣したように動く脚。
ゆっくり達がその上から飛び退いても起き上がろうともしない姿。
何処と無く、その体も潰されたように平べったく見える生物。
この光景は明らかに、あの脆弱なゆっくりが異常とも言える大蜘蛛に勝利した光景だ。
「みょんみゅおんみょんみょん、みゅおぉぉぉぉん!!」
勝利の雄叫びであろうか。
その蜘蛛の様子を見て、ゆっくりみょんは嬉しそうに辺りを跳ね回っていた。
一方のちぇんではあるが、そんなみょんを尻目にすぐさま何処へ駆けて行ったかと思うと、絶望に染まった顔で立ち尽くす。
らんの絶望的な現状を目の当たりにしてしまったのである。
勝利の報を伝える為か、それとも安否を気遣ってか、気丈に笑顔で駆けて行ったちぇんが見た物は陰惨な現実であった。
眼や口や、切れた尻尾など、穴という穴から液体化した中身を噴出し、その張りの有った皮は、中身が減った事と液状化により、
まるで老人の肌のように皺だらけになっていた。
赤黒く充血したその眼も、近寄って来たちぇんを捕らえる事すら無く、ただ何処か虚空を見つめて何を映していない。
呼び掛けるちぇんに対しても、「ちゅぅぇん、ゆっぐり……じで、ね」と、単調に繰り返すだけで、
それはちぇんの言葉に反応している訳でなく、最後の言葉を繰り返し呟いているだけだというのが見て窺えた。
そんな死に行くだけのらんを眼にし、勝利の感慨など一気に吹き飛び、ちぇんは唯立ち尽くすしかなかった。
遅れてやってきたみょんも、どう声を掛けて良いのか判らず、困惑した表情を浮かべるのみである。
「二人とも、今回の試験はクリアだよ」
すると、二匹の頭の上から誰かの声が聞こえてきた。
今までこの様子を窺うだけであった、人間の声である。
そして、今の現状を産み出した相手であった。
「取り合えず、ちぇん君は蜘蛛を撃退。みょん君は凄い事に、棒と蜘蛛ダブルクリアになるのか」
みょんが落下した時には、もう10分経過後であったが、下の様子から副長は止める事も無く傍観していた。
みょんにしても、10分がどうとか、試験をクリアなど頭に無く、ただひたすらに下の様子を伺い、ちぇんを助け出すことだけを考えていたのだ。
「みょんみょん、みょんみょおぉぉぉぉん!!」
そんな人間の言葉に対して、みょんは怒りを露にして水槽の壁に体を打ちつける。
この眼の前の人間が、自分達をこんな目に合わせた元凶だと、みょんの餡子脳でも理解する事が出来たからだ。
その様子のみょんを、少し眺めていた副長は何ら怒っている様子も無く、
「ところで、君達はお腹が空いたりはしていないか?他にも何か望むものはあるかい?」
と、ゆっくりに対して優しい言葉で問い掛けた。
その言葉に反応を示し、食事でも要求しようかと思ったのか、一瞬みょんの動きが止まったが、それを振り払うかのように頭を左右に振ると、
再び水槽に体をぶつけ、怒りを表現して見せた。
だが、もう一匹のゆっくりであるちぇんは様子が違った。
「……てください」
俯き加減に何かを呟いているのである。
「んっ、何だって?すまないが、もう一度お願い出来るかい?」
それを聞き逃した副長は、そんなちぇんに対してもう一度言ってくれるようにとお願いする。
横で見ていた私は、口を尖らせてそんな一人と一匹の様子を見続ける。
するとちぇんは暫く沈黙していたが、思いを決めたかのように顔を上げると、
「だんじゃまを……だんじゃまを、ゆっぐりざぜでぐだざいぃぃぃ!!」
涙と涎を流しながら、必死の形相でそう要求してきた。
苦渋の決断と余程の思いを込めた言葉なのだろう。
その言葉を聴いたみょんも意外そうな顔でちぇんの方を振り向く。
「ゆっくりか……流石にその状態のゆっくりを、ゆっくりさせられる術を私は知らないなぁ」
その要求に対して、副長は困った顔をしてそう返した。
私も流石に、あそこまで瀕死のゆっくりを助けられるとは思えもしなかった。
そして一方で、私達二人はちぇんの様子から「ゆっくり」に対するもう一つの意図を何と無く理解はしていた。
「それでも、だんじゃまをゆっぐりざぜでぐだざい!!」
「ううむぅ、それは何と言うか……「一思いに殺してくれ」と受け取っても良いのだろうかね?」
「ぞうでしゅ、だんじゃまをこでいじょうぐるじまぜない”でぐだざぃぃぃ!!」
自分が何を言っているのか理解して、堰を切ったように嗚咽を上げ始めるちぇん。
それに対して、「何を言っているのか?」と問い掛ける様に、ちぇんの周りを跳ね回るみょん。
そんな二匹を眺め、一度頷くと、副長は瀕死のらんをゴム手袋を装着したその手で掬い上げる。
その際、それに気付いたみょんが何度も体当たりを敢行し、それを止めようとしていたが、そんな事はお構い無しに回収する。
そして、泣きじゃくるちぇんに対して一度、
「本当に良いんだね?」
と問い掛けると、頷いたちぇんを確認し、らんを白い布に乗せて水槽の中から様子が見える近くの机に乗せた。
そのまま、近くの棚から何やらゲンノウという木槌を取り出すと、白い布の上でピクピクと震えるらんの前に立った。
みょんは、これから何が行われるのか理解し、それを止めるべく必死に水槽の強化プラスチックを破ろうとしてみたり、壁を登ろうとしている。
ちぇんは、机の上のらんをずっと眺め、体を震わせるだけであった。
「……ちぇん君、君が次の言葉を言い切ったら私はこれを彼女に振り下ろそう」
そう、副長は真剣な顔付きでちぇんに言葉を投げ掛ける。
それを受けて、ちぇんはビクリと身を震わせて、その場で再び俯いてしまった。
色々と、胸に去来する何かがあるのかもしれない。
それにしても、何て残酷な事をさせるんだ。と、私は思った。
要するに、「死刑執行の合図」を、自らが行えと言っている様なものではないか。
よりにもよって、自分の最も親しく大切な相手に対してだ。
それとも、ちぇんに決別させる事によって、さっき言っていた「悪意を乗り越える進化」というものを期待しているのか。
どちらにしても、何という研究者のエゴイズムであろうか。
私はそんな副長の行動に対して、何故か憎しみにも憐れみにも似た、複雑な感情を持った。
これも私自身が「自身の大切な相手に対してそれを行う事」を想像しての感情であるかもしれない。
――そんな馬鹿な妄想しなければ良い。
と、私は自分に言い聞かせて気分を落ち着かせる。
こんな感情など、疾の昔にかなぐり捨てたものだと思っていたのに、時折ふとした拍子に湧き上がってくる。
困ったものだ。
「どうしたのかね、私としてはこのまま、君が近くで看取ってやる方が良いと思っているのだが?」
私が、その様なくらだない事を思案していた一方。
ちぇんも必死に思いを巡らせていたのだろう。
暫くの沈黙が続いていた。
俯いたちぇんの周りを、「考えを改めろ」と言わんばかりのみょんが、「みょんみょん!!」と大声を出して跳ね回るだけであった。
すると突然、ちぇんが意を決したように、
「だんじゃまぁぁぁ、でんごぐにいっでも、ゆ”っぐり”じでっでねぇぇぇぇ!!」
そんな叫びにも似た声が響いたかと思えば、間を置かずに「ドスンッ!!」という、何かが叩き付けられる音が聞こえた。
約束通り「ゆっくりさせて」やったのだろう。
そう思った私は、そちらを見る事も無く、ちぇんだけを見ていた。
隣に居たみょんは「みょぉぉぉぉぉぉぉん!!?」と、らんの最後を察して驚愕の表情で叫んでいたが、
ちぇんはというと眼を瞑り、涙を流して追悼の意を送っているのかのように見えた。
ゆっくりにもそういった「死者を慈しむ」感情なんてものが有るのか。
と、不躾な事ではあるがそのような感想を持ってしまった。
副長はというと、そのまま何の感慨も見せずにすぐさまその潰れたであろうゆっくりらんを白い布で包み込むと、
スタスタと水槽へと歩いて行き、ゆっくり二匹で無く、あの蜘蛛をその手で回収した。
「ふむ、この傷跡から体液が噴出して、それが致命傷になったか」
何やらそれをまじまじと見詰めて、死因を述べる。
あのちぇんの攻撃で背中に穴を開けたものの棒によって体液の噴出を抑えられていたが、
ゆっくり二匹の猛攻でそれが吹き飛び出され、そのまま一気に連続して加えられる圧力で噴出したのだろう。
それにしても――蜘蛛の死体を見て改めて思う。
本当に、あのゆっくりがあんな化け物にも見える大蜘蛛に勝ったんだなぁと。
自分は心の何処かで、ゆっくりを馬鹿にしていた部分が有ったのかも知れない。
そうでなくとも、ゆっくり対蜘蛛を一方的な虐殺としか捕らえてなかった節が有った。
それを、今は眼の前の現実で裏返されたのだ。
ゆっくりに対して「物凄い生物だ」とまでは思わないが、かなりの部分で認識を改めさせられた結果となった。
その点を考慮すれば、「勝てる可能性は有る」と言って述べていた副長は、自分よりも遥かに真摯にゆっくりに対して向き合っていたのかもしれない。
一度そう考え、私は思い悩むように額を手で押さえた。
何て馬鹿な事を思っているのか、奇人変人に対して、真っ当な感情を持ってしまうとは。
このままその道に引きずり込まれてしまう言い知れぬ不安に、私は副長に対して感心してしまったという事実を、頭の中から消す事にした。
フツフツと頭を巡るそれらに思い悩まされている内に、副長は何処かに行って来た後なのか、入り口から戻ってきた姿が見えた。
色々と沢山の物を盆に乗せて、何かがこんがりと焼けた匂いを漂わせる。
そのままゆっくり達の水槽の前に立ったかと思うと、
「この焼けた物と私が持ってきたこちらの食事、どちらを食べるかね?」
と問い掛けていた。
ちぇんは未だに落ち込んだ表情で無言である。
もう一匹のみょんは怒りの表情を見せてはいたものの、差し出されたお菓子を見せられその表情も若干緩む。
そしてどちらかを選択したかと言えば、みょんが勝手に「焼けた物」では無い方を選び、すぐさま飛びついていた。
「みょーん、みょーん……みょみょみょおおおん♪」
ゆっくりで言うところの「むーしゃ、むーしゃ、しあわせー♪」であろうか。
中を覗いてみるとなるほど、ゆっくりにとっては思いもよらないほどの豪華な食事だ。
それにしても、あのゆっくりみょんは言葉を喋れないのか?
まぁ、そんな事は私には関係無い。
だが、それを食べたていたのはみょんの方で、ちぇんは一向に口を付ける素振りは見せなかった。
みょんは心配そうな顔を見せていたが、ちぇんの分を取っておき、自分の分を食べる事が出来る内に食べておく事にした。
自分が慰めた所でどうしようもないと判断したのだろうか。
「……君がそんな様子では、君を守った彼女も安心してゆっくり出来ないな」
ちぇんのそんな様子に対して、副長はそんな言葉を投げ掛ける。
それを聞いたちぇんはハッとした表情を見せた。
何て無神経な事を言うのか。
と、隣で食べていたみょんが口から食べた物を飛ばしながら抗議する。
相変わらず「みょん、みょん!!」しか言わないが。
そのような状態で有ったが、ちぇんは意を決したように食事に口を付け始める。
みょんは驚いた表情を一瞬見せたが、ちぇんが立ち直ったように見えたので、一緒に笑顔で食事をし始めた。
それを見て、副長は満足した様に微笑むと、私の隣に有る机に腰を下ろし、
「そういえば、例の物は其処に用意して有るよ」
そう言って、床に置いて有る箱を指差す。
そういえば、私はある荷物を取りに来てこんな部屋に居るのであった。
余りに衝撃的な事の連続で忘れかけてはいたが。
私は言われた通り、その小包程度の箱を手に取ると、お礼を言う為に振り返る。
そこにはまたしても驚くべき光景が広がっていた。
副長は何と、そこで食事の用意をしていたのだ。
驚くべきなのは食事の為のお茶を湯飲みに注いでいる事では無い。
もちろん、何の脈絡も無しに食事を始め出すのも十分に驚くべき事では有るが、問題は其処では無い。
副長が食べようとしている物が問題なのだ。
その口にしているもの、それは――先ほどまで其処で動いていたあの蜘蛛だ。
「あの二人が食べないというので私が食べる事となったが。中々どうして、美味しそうではある」
「海老のような味がするらしいよ、私は海老というもの図鑑で見ただけで食べた事は無いからよく判らないが」
私の視線に反応して、そんな奇妙な事を口走る。
その後、「君もどうかね?」と問い掛けてきたので、私はすぐに「遠慮します」と返すと、残念そうな顔をした。
「彼女には可哀想な事をした……ゆっくり達は二つの機会が有るというのに、彼女は一度負けたら終わりなのだから」
「実に不公平な実験だったと言えるかもしれない」
何を言っているのか最初は判らなかったが、考えてみると――ああ、なるほど。
ゆっくりは棒に10分間ぶら下がっているか、下で蜘蛛を倒せばそれで良いが、
蜘蛛は連続して落ちてくるゆっくり対して、一度たりとも負けてはいけない。
ゆっくりのダブルチャンスに対して、一方の蜘蛛は戦闘力で見た優位は有れど、ワンチャンスなのだ。
幾ら強いからといっても、連続して敵が出現し、疲弊して本来の実力を出せずにやられてしまうという事態は、どれだけの無念さが残ろうか。
よくよく思い返せば、蜘蛛にしてみればこの実験はかなり分が悪かったかもしれない。
「まぁ、しかし……」
そのまま副長は言葉を続ける。
「彼女は子孫を残す事は出来た」
そう言って、奥の棚の方へと眼をやる。
私は思わずその視線を追ってしまうが、そこで見てしまった物に対して、視線を追わせた事を後悔した。
其処には透明な容器に入れられた人の頭部の二倍程度の大きさの、大人のゆっくりまりさが居た。
生きてもいる。
それだけなら問題は無いのだが、周りに居る生物が問題だ。
大量の子蜘蛛が、まりさの顔面や髪の間に群生し、もしかしたら帽子の中にはもっと存在しているかもしれない。
あの綺麗であったろう金髪には、白い糸が満遍無く掛かっていた。
そして、その光を失った眼が、じっと正面だけを見据えているのが確認出来る。
悲鳴を上げ尽くし、涙も流し切った、そんな全てに絶望した表情。
そういった感想がピッタリくる、何とも言い難い顔だ。
子蜘蛛が顔面や足元を這い回っていると言うのに、それに慣れ切ったかのように虚ろな表情のまま動かない。
口の端からも涎が垂れている。
そして、その頭から管のような物が体の中に通されているのが眼に入る。
恐らくはそれを通して定期的に栄養を与えられ、死に至る前に餡子を再生させ、
まりさが死なないように、
いや、死ねないようにしているのだろう。
何てモノを見てしまったのか。
ゆっくりまりさ全体が、子蜘蛛の苗床とでも言おうか、餌でもあり巣でもある物体へと化しているのだ。
これはほとんど食事を摂取しない幼虫限定であるが、これなら他の生物を犠牲にしないで食事をし、成長する事が出来る。
新たなる生物の構造。
何と素晴らしい、何と合理的――などとは口が裂けても言わない、少なくとも私は。
こんな物の眼の前で食事を始めようとするとは、この副長は何と言う胆力か。
総じて肝も太そうだから、暇が有れば肝試しにでも誘ってやろうか。
きっと何が出てきても動じないだろう。
いやいや私は何を考えているのか、頭がおかしくなりかけているのか?
色々と後悔している私に、一瞬光が戻ったかに見えたまりさが私に視線を投げ掛ける。
そして、何かを訴え掛けるように口をパクパクと動かし始める。
思わず私はそれを、口の動きだけで判別しようと試みてしまう。
「ゆ」「っ」「く」「り」「さ」「せ」「て」
其処まで言い切ると、ブワッっと、まりさの口の中から子蜘蛛が一気に這い出てくる。
巣であるまりさが動き出したので、それに驚いたのだろうか。
喉の奥から、体内に生息していたと思われる子蜘蛛達がワラワラと押し寄せてくるのを、私は凝視してしまう。
それで呼吸が不可能となったのだろうか、まりさは餡子と子蜘蛛が入り混じった泡を吹いて白目を見開いて痙攣を始める。
その眼からも、小さな隙間を掻き分けるように、子蜘蛛が次々に這い出てくるではないか。
そんな緊急事態に「蜘蛛の子を散らしたように」子蜘蛛がそこかしこを這い回る。
もちろん例えであるが、比喩的表現ではない。
まりさがビクビクと痙攣しながら全身を子蜘蛛で覆われていくのを見て、身体中を蟲が這い回るおぞましさを想像し、そこで眼を逸らす。
流石に、これ以上は見てはいられなかった。
そのまま視線を副長へと戻すと、恐ろしい事に丁度蜘蛛の脚を口へと運ぶ場面である。
美味しそうにそれを噛み締めるのが見て窺えた。
そこでも視線を逸らすと私は、
「どうも、ありがとうございました」
とだけ残すと、出来るだけ冷静にその場を立ち去った。
「先輩君!!新入りの……外来人の彼によろしく言っといてくれ!!」
という言葉を背中に受けたが、そんな事、知った事ではない。
もう二度とこんな場所に来るか。
と思ったが、そんな我侭が適う事は無いだろうと頭の中では理解していた。
後書き
これは誰に対する虐待なのか?
ゆっくりなのか蜘蛛なのか、はたまた先輩という人物に対してか?
by推進委員会の人
最終更新:2008年09月14日 08:42