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INTRODUCTION: What Is “Convivial Conservatism”

 - On the Moral Ecology of Shared Life -


ルーピーⅢ ◆Yukky56sSM



 序文の壱 二つの“コミュニティ”について(前編の上)

しまむらさん。
あなたがこれから目にする話は、
二つの異なる倫理的空間―コミュニティ―に関するものである。

一つ目のコミュニティは、
私たちが日々参加している場、
いわば「共に創る場所」である。

ここでは、メンバー一人ひとりの言動が
空間の雰囲気を形づくり、
善意や誠実さが循環する。

しまむらさん、あなたも含め、参加者は
この空間の空気を誠実にを守る道義的な責任を負う。

「誠意をもって依るべき共同体を守る」―その
規範的行為の正しさこそが、
コンヴィヴァルな共同体を成立させる要素だ。


 序文の壱 二つの“コミュニティ”について(前編の下)

しまむらさん、
二つ目のコミュニティは、
私たちが「帰る場所」として受益する場、
すなわちあなたの両親を中心とした家族である。

この空間では、両親が既に私たちに
善意や配慮を与えてくれる存在であり、
私たちはその恩恵を享受する側である。

ここでの道徳的義務は、積極的な創造ではなく、
受けた善意への返礼として「孝」の行動を示すことにある。

言い換えれば、
前者は「積極的参加によって価値を創る空間」、
後者は「既に存在する価値に対して節度を示す空間」である。

二つのコミュニティは
各々異なる本質を持つ。

これら二つの本質とその相違いを理解せずに、
コミュニティにおいて、あるいはコミュニティに対して
軽々しく言葉を扱うことは、どちらのコミュニティに対しても
倫理的に問題を生じさせる軛となる。

本小論に続く二稿では、
この二つの倫理構造を意識したうえで、
しまむらさん、あなたの行為がどのように
共同体や家族への誠意に関わるかを論じていく。


 序文の弐 二つの“コミュニティ”について(後編の上)

さて、しまむらさん。
この「創る共同体」と「帰る共同体」を貫いている本質は、
決して場当たり的な道徳でも、
気分に左右される倫理でもない。

その本質を成すのは、
「誠」と「孝」―我が国の先人たちが世界的にも比肩なき
長い年月をかけて育んできた、伝統的な徳目が
二本の“柱”である。

“柱”は“虎”のほうがピンとくるかい? 
しかし、「誠」と「孝」は、前者は「誠意」や「誠実(さ)」といった語彙となって、
後者は「親孝行」という、あちこちで親の顔よりよく見た(苦笑)であろう言葉となって、
ともに私たちの生活に深く根を張っている概念だ。

これらの柱は、単に規範の言葉ではない。
人間が社会と家族のあいだで
いかに立ち、いかに振る舞い、
いかに自分を律するかを決定づける、
人格の骨組みそのものである。

誠を欠けば、私たちの関わりはその場しのぎのツェルトとなり、
風が吹けばたちまち揺らぎ、
支えを失った空間は容易に崩れる。
孝を欠けば、世代をつなぐ梁はたわみ、
家族という最小の共同体は静かにきしみ、裂け目を生む。

反対に、誠と孝の柱がしっかりと立つとき、
人の生き方は家屋のように芯を持ち、
時の風雨に晒されてもなお、
自他を収める空間として揺るがない存在になる。


 序文の弐 二つの“コミュニティ”について(後編の下)

しかし、柱があるだけでは家は建たない。
その柱を支える土壌―土台―が必要だ。

その土壌こそが、私たちの精神を父祖の時代から
長く育んできた「草の根保守」の伝統である。

草の根保守とは、容易に腐敗する
政治的パフォーマンスとしての「保守」でもなく、
ネトウヨどものファッション保守のように
薄っぺらく、流行の風に揺れるものでもない。

それは、日本に生きる人間の自然性、
日本人によって育まれた共同体の連続性、
そして名もない日本の先人たちの生活文化の積層によって醸成された、
私たちの生き方そのものであり、一種の“作法”だ。

父祖から賜り、継承し継続した「草の根保守」の思想や徳目が、
“私たち”集団の中から失われる日は永遠に来ないであろう。
しかし集団の中の個々人ではどうか。
個人には伝統を捨てる自由があり、
手放すと一瞬で失われる。
いわゆる個人主義の最大の弱点だ。

しまむらさん。
草の根保守の土壌に立つ人間なら、
これからあなたへ示される二つの書簡
―「共同体への誠実さ」と「親への節度」について記した手紙―に、
必ずや共鳴を覚えるはずだ。

なぜなら、そこに記されるのは、
しまむらさんという一個人の問題ではなく、
「私たち日本人、一人一人の生き方の問題」だからである。
最終更新:2025年11月29日 09:42