良き時も、悪き時も。
富める時も、貧しき時も。
病める時も、健やかなる時も。
共に歩み、他の者に依らず、愛を誓い、
貴女のみに添うことを誓います。
死がふたりを分かつまで――
▼ ▼ ▼
波止場のコンクリートを叩く靴音が、やけに大きく響いて聞こえる。
内藤桃子は、その靴音の主である女性を、信じられない思いで見つめていた。
「久しぶりね、桃子」
「先生……?」
その女性、隼砥教子(はやと・きょうこ)は、桃子が最後に見た時より元気そうに見えた。
モデルみたいな長身とすらりとしたプロポーションのおかげで、
昔から籠目女学校の生徒達には人気があった彼女。
そのくせ性格は無邪気で奔放、ちょっとしたことではしゃいだと思えば、
ちょっとしたことですぐ拗ねて、自分より十も年上とはとても思えない。
ついでに貯蓄下手の浪費家で、私生活はだらしないし、まるで手が掛かる子供のようだ。
それでいて意外と傷つきやすくて繊細かと思えば、時おり年上らしい顔をしたりして。
そして、自分にとっては確かに大切な存在だった、と思う。
彼女は一時期とはいえ、確かに自分、内藤桃子の恋人だったのだから。
でも、彼女はやはり、桃子と付き合っていた頃とは違うように見える。
正直なところ、出会い頭に抱きついてくるんじゃないかとさえ思ったのだ。
いつも桃子のことを振り回して、困らせて。そんなところも嫌いではなかったが。
その子供じみた様子が息を潜めている理由は、言うまでもなく。
「私ね、ずっと桃子に会いたかった。たとえこんな時でも」
「……私は、会いたくありませんでした。出来ればこんな時には」
自分が、自分達が巻き込まれたこのバトルロワイアル。
最後に生き残れるのは唯一人の、狂気じみた殺人ゲーム。
どうしてこんなことになっているのか、桃子の頭の中では未だ整理が付いていない。
自分は少なくともそういう血腥い事柄からは無縁の人生を送っていると思っていたのに。
そして、そんな状況での彼女との再会。
どうしてそれが素直に喜べるというのだろうか。
それなのに、彼女はそれでも嬉しいと言う。いつもの明るさは翳りを見せてはいるが、それでも。
人の気も知らないで。
「それにしても桃子、前に会った時よりちょっと太ったんじゃない?」
「むっ……それを言うなら先生だって、」
少し痩せ過ぎなんじゃないですか、と思わず言いそうになって、咄嗟に口を噤んだ。
彼女、隼砥教子は、あの日突然ベッドで血を吐いた。
それが重い病気だと分かって、教職も辞めなければならなくなって。
遠い病院で療養するために、彼女は桃子のそばから離れていった。
桃子の世界から、いなくなってしまった。
そんな彼女に体のことで冗談を言うなんて、桃子にはできなかった。
そういえば、ドナーは見つかったのだろうか。病気は快方に向かっているのだろうか。
それを訊こうとして、今度は別の理由で言いとどまる。
(なんで私、今になるまで訊かなかったんだろう)
あの日、二人の関係は限りなく自然消滅に近い形で終わりを迎えた。
別れの言葉がなかったわけではない。
それでも後味が良かったかというと、それは別の話で。
そもそも桃子が教子と付き合うに至った過程にも、後ろめたさは少なからずある。
桃子は当時、単なる同級生だと思っていた藩田思信から告白されて。
自分の中の気持ちを、どう整理していいのか分からなくて。
そんな時に教子と付き合い始めたのは、ある意味では思信への当て付けでもあったが、
人とどう接していいか分からなくなっていた当時の桃子にとって、
彼女の存在が心の拠り所として都合がよかったからではなかっただろうか?
そういう罪悪感めいた実体の無い感情に決着をつけられないまま、ここまで来てしまった。
それを精算できる機会が、よりによって今だなんて。
唇をぎゅっと噛み締める。
今こうして二人で話している事自体が、どうしようもない絶望だというのに。
「私ね、あの時からずっと桃子に言いたかったことがあって」
なのに先生は、あえて明るい声を出そうとしているようで。
それが締め付けられるぐらいに歯がゆくて。
そんな世間話がしたいんじゃない。そんな状況じゃないことは分かっているはずなのに。
何か場違いなことを言おうとし始めている彼女を制止スべく桃子は口を開いて、
「私、隼砥教子は、内藤桃子と、ずっと一緒に生きていきたい。
病める時も健やかなる時も、苦しい時も楽しい時も、一緒にいたいって」
そのまま開いた口が塞がらなかった。
こんな時に言うことがそれなのかとか、それはもうプロポーズなんじゃないかとか、
ごちゃごちゃした感情が綯い交ぜになって言語化出来ない。
そんな桃子の様子を見た教子のほうまでもが、何故だかあたふたし始めた。
「あ、あれ、私なにか変なこと言った!? カッコ悪かった!?」
「全部変ですよ全部っ!」
「ええーーっ……」
いっそ清々しいぐらいのしょげっぷりを見せる教子。
一方の桃子はまだ突然の告白の真意を掴めないでいた。
「先生はいつもそうやって……だいたいなんで今、こんな時に」
そうだ。なんでこんな時にそんなことを。
生き残れるのは一人。それは教子自身も理解しているのだろうに。
この状況で永遠の愛を誓ったって何の意味も……。
ずきり、と胸の奥に楔が打ち込まれたような痛みが走る。
恐らくは、二人揃ってこの地を離れることはない。
その事実を改めて自覚して、桃子は底無し沼のような絶望感に襲われた。
恐らくは表情まで悲痛さを増していたのだろう、教子はそんな桃子の顔をまじまじと見、
それからふと、寂しげに微笑んでこう言った。
「だって、今言わないと、もう次はないかもしれないじゃない」
ハッとした。
危機感がないのではない。彼女は、隼砥教子は既に観念してしまっている。
自分がこの殺し合いで最後の一人になれはしないだろうということも、
恐らくは、生きるためにに桃子を殺すことなど出来ないだろうということも。
「……なんでそんな時だけ、大人なんですか」
絞り出した言葉は、桃子自身も驚くぐらい小さかった。
自分は、そういうところで達観できるほど十分には生きていない。
だから桃子には、彼女の語る言葉を、ただ聞いていることしか出来なかった。
「あのね、私、ちゃんと倹約するよ。無駄遣いしないし、新しいマンションも安いところにする。
なんなら車も手放してもいいかなって……最近、あんまり乗れてないし」
もしかしたら有り得たかもしれない、幸せな生活。
「料理も頑張るから。いっつも桃子に任せっきりだといけないし……
あっ、桃子の作るご飯が美味しくないってことじゃないからね!?」
それを語る彼女の横顔は、本当に幸せそうで。
「一緒に朝ご飯食べて、一緒に学校に行って、家に帰ってからも一緒で。
何が起こるわけでもなく、ただ一緒に生きていくのが嬉しいような、そんな生活」
自分もそんな幸せな夢を、一緒に見てしまいたくなる。
「……そんな日々が、本当に来なくてもいい。でも、答えだけは訊いておきたいの。
それさえ聞かせてもらえれば、私、きっと何があっても後悔しない」
真っ直ぐに自分を見据える視線。
しかし桃子は、彼女の言葉に答えることに躊躇した。
こんなに想いをぶつけられて、嬉しくないはずがない。
それでも勢いに乗せられて頷いてしまうのは、あまりにも不誠実な気がした。
ようやく、思信への想いを自覚し始めたというのに。
その想いに蓋をしてしまうのは、自分にも教子にも裏切りだ。
かといって、教子の願いを無碍にしたくない気持ちは同じぐらい強い。
叶うかも分からない想いよりも、今眼の前にいる彼女を大事にすべきではないのか?
「死がふたりを分かつまで、私と共にあることを誓いますか……どうかな、桃子?」
頭の中がぐちゃぐちゃになって考えがまとまらない。
それでも何か、何かを彼女に伝えないといけないと思って、桃子は。
考えるより先に、口を開いて。
「先生、私――――――――」
後にして思えば。
状況を理解していなかったのは桃子の方かもしれない。
夢を見ている限り、時間は永遠。
だけど夢から覚めるときは、一瞬なのだと。
そのことをちゃんと理解していれば、こんなことには。
桃子が口を開いたその時、100m遠方から放たれた一発の5.56×45mmNATO弾が隼砥教子の左側頭部に着弾した。
それは彼女の側頭葉から小脳・間脳・脳幹までを破壊し撹拌しつつ右頭部へと貫通し、
直後に血と肉と脳髄とリンパ液の離乳食めいた混合物を間欠泉のように噴出させた。
教子の体はマリオネットめいてビクリと一回痙攣し、そのまま重力に任せて崩れるように倒れた。
月光を反射して妖しくぬらめく赤黒い血溜まりが、瞬く間に広がっていく。
まるで赤いベルベットの寝具に横たわっているようにすら見える。
そう、その光景は、あまりにも、冒涜的なまでに現実感がなくて。
そのせいで、桃子はその時、悲しみも、絶望も、原始的な恐怖すら感じなかった。
ただ、自分にとって大事なものが欠け落ちた、そのことだけを頭の何処かで理解していた。
▼ ▼ ▼
鳰旦蕗と書いて、にお・あさふき、と読む。
僅かに数十分ばかり時間を遡って、改めて彼女、旦蕗の話をしよう。
「こんな、こんなことって……!」
波止場に積み重ねられたコンテナの上で、旦蕗は両肩を抱いて震えていた。
傍らには一丁の銃。M-16スナイパーカスタム、狙撃仕様に改造された突撃銃だ。
決して狙撃向きの銃でない反面、パーツの取り外しで白兵戦にも対応できる。
ちなみにとある劇画に登場することで有名な銃だが、旦蕗の知るところではない。
ともかくこのバトルロワイアルに於いて狙撃が可能な銃は、その精度を別として、
それだけで充分以上のアドバンテージを確保しうるものである。
ならば彼女は、それを理解した上で、この優位性を的確に運用すべく
拠点として高所を確保した上で狙撃を敢行しようとしているのか。
あいにく、それは全くの的外れだ。
そもそも鳰旦蕗という高校三年生の少女に、そのような発想は相応しくない。
むしろ、彼女の考えは真逆。自分の支給品が狙撃銃であると理解した瞬間、
彼女は「自分もどこかから狙われているかもしれない」という事実を、
確かに実感できる恐怖として思い知った。
このコンテナ群に紛れれば、少なくともぼんやり歩いているよりは安心なはず。
身長170センチの恵まれた体格に似合わない彼女の小心で慎重な部分が、
結果として狙撃に適したポイントを確保させたというだけに過ぎなかった。
「死にたくない……死にたくないよ……」
もはや譫言めいて繰り返される言葉は、しかし切実な願いに違いない。
元より旦蕗は、決して積極的な性格ではないのだ。
限りなく逃避に近い行動に出たとして、それだけで責められるべきではないだろう。
幸いと言うべきか、M-16のオプション装備には暗視スコープもあった。
赤外線を光学的に変換して緑と黒の二色で表示するこの装置は、
意外なほど鮮明に夜の闇を千里眼めいて見通してくれる。
もっとも、この波止場の開けた空間では元々月光を遮るものは少なく、
視界が全く確保できないなどということは有り得ないのだが、
不安な時ほど文明の利器に頼りたがるのは現代人の性である。
旦蕗はコンテナの上で潮風に震えながら、何か物音や気配を感じるたびに
慌てて暗視スコープを覗き、何事も無いことに安堵すると共に、
また新たに込み上げてくる孤独に怯えるということを繰り返していた。
そんなことを続けてどれくらいの時間が経っただろうか。
旦蕗はその緑黒ツートンの視界に、初めて自分以外の人間の姿を捉えた。
「ひっ……! い、嫌……」
脳裏にあの教室での惨劇がフラッシュバックし、旦蕗は反射的に全身を強ばらせた。
しかし、視線の先の人物の足取りには、どこか既視感のようなものがあった。
旦蕗はその理由に思い当たると同時に、危うく叫び声を上げるところだった。
「(内藤ちゃん……!?)」
内藤桃子。
現在三年生の鳰旦蕗の一つ下、二年生の風紀委員で、旦蕗と同じ寮に住んでいた少女。
住んでいた、というのは、少し前に校内で暴力事件を起こして、彼女は転校してしまったからだ。
しかしそれまでの時間、旦蕗はずっと桃子のことを見つめてきた。
彼女のことは何だって知っている。香水の種類も、好みのリップも。
だからこうして離れていても、緑色のスコープを通して見ても、彼女のことはすぐに分かる。
その事実に、旦蕗はこの状況からはおよそ場違いな誇らしさすら感じた。
ああ、自分が秘め続けた恋心が、こうして二人を巡り合わせてくれた。
自分が抱き続けた恋心は、決して無価値なものではなかったのだ、と。
彼女が転校するまで、旦蕗は結局なにひとつ言い出すことは出来なかった。
自分の想いは届くことなく朽ちていくんだと、諦めもした。
それでもこうしてまた会えた。そのことがただ嬉しくて、旦蕗は荷物を抱え立ち上がろうとして、
そのまま全身を凍らせた。
(私は、いったい、どうするつもりだったの……?)
今に至って、ようやく旦蕗は、現実の何たるかを思い出したのである。
今、自分達は、殺し合いを強制されている。
自分、鳰旦蕗と、彼女、内藤桃子は、殺し合わなければならない間柄なのだ。
それなのに「内藤ちゃん、久しぶりー!元気してた?」なんて軽々しく出て行って、
どうして信用してもらえると思えるというのか?
もちろん、旦蕗は桃子のことを、軽々しく人殺しに走るような人間ではないと信じている。
だが、その信頼が一方通行なものではないと、どうして言い切れる?
確かに桃子は旦蕗にとって、数年来の想い人だ。
だが桃子にとっては、彼女は同じ寮で生活している先輩の一人にすぎない。
かつて桃子が同じ学校の教師である隼砥教子と付き合い始めた時も、
藩田思信を巡るトラブルで転校せざるを得なくなった時だって、
旦蕗はついぞ彼女に向かって自分の想いを打ち明けることが出来なかった。
そんな自分を、彼女がどうして受け入れてくれると言うんだろうか。
(嫌……内藤ちゃんに拒絶されるのだけは、絶対に嫌……!)
そう考えてしまうと、もはや旦蕗は身動きが取れなかった。
転校してもう二度と会えないかもしれないという状況に至ってなお、
告白する勇気が持てなかった旦蕗だ。
この場面で自分から姿を晒すなど、出来るわけがない。
今までずっとそうだったように、今の旦蕗に出来るのもまた、手をこまねいていることだけだ。
しかし幸か不幸か、その諦め混じりの傍観は長くは続かなかった。
桃子に近付く人影を確認した瞬間、旦蕗の全身にアラートが駆け巡ったのだから。
この方角と位置関係ではスコープで拡大しても顔は確認できないが、
長身の女性ということは十分に分かった。
あの教室で見たような軍人めいた服装ではなく、どこにでもいるような姿だ。
何か桃子と話しているようだが、こちらには集音器などという物はない以上、
何を話しているかなど旦蕗には分かるはずもない。
ただ、桃子が何か困惑しているような仕草を見せているのが気に掛かる。
何か酷いことを言われているのだろうか。それとも口八丁で丸め込まれている?
あるいは初めから危害を加える目的で、信頼させようとしてるとか……
旦蕗の中をいくつもの嫌な考えが駆け巡る。
一度指向性を与えられた想像はもはや止まらず、それどころか更なる加速を持って
彼女自身のネガティブな部分を刺激していった。
もしも、桃子がこのままあの女に傷つけられるとしたら。
いや、傷つけられるなど生ぬるい。死んでしまう。殺されてしまう。
嫌だ。それだけは絶対に嫌だ。
想いが伝わらなくてもいい。片思いのままでもいい。
それでも、目の前で彼女を失うのだけは、絶対に嫌――!
「守らなきゃ……私が内藤ちゃんを……私が!」
口に出した言葉に、自分自身がドキッとした。
しかし、その意志を行動に移すまでにはそう長い時間は必要ではなかった。
M-16の銃把を固く握り締める。無機質なその硬質さが、今は頼もしくすらある。
当たらなくていい。すぐ近くを撃てば追い払うぐらい簡単なはずだ。
そう、自分になら出来る。いや、今は自分にしか出来ないのだ。
「出来る……ううん、やらなきゃ……!」
コンテナの上に寝そべり、見よう見まねの狙撃体勢を取る。
それから改めてスコープを覗き込んで、すぐ近くを掠めるように狙いをつけた。
銃爪に指を掛けるに至っても、彼女は抵抗感はおろか高揚すら感じていた。
その時の旦蕗を突き動かしていたのはある種崇高な使命感であると同時に、
自分が桃子にとってのヒーローになるんだという子供じみた英雄願望でもあったのだから。
そして、悲劇は起こる。
そもそも彼女の狙撃体勢は昔見たサスペンス映画の物真似に過ぎず、
銃身の微妙なぶれを抑えようとかそういう初歩的な配慮などまるでなかったし、
だいたいにして体勢自体がひどく不恰好で非能率的なものだった。
自分の手が緊張と恐怖とで小刻みに震えていることを自覚していないのもいけなかったし、
引き金を引く時に反射的に目をつぶってしまったのは致命的だった。
最も拙かったのは、銃爪を引くことに対する彼女自身の軽率さに外ならないのだが。
ただ、放たれた銃弾は隼砥教子の頭部を貫通し即死に至らしめた。
それだけが事実であり、偶然か必然かを論じるのは無意味かもしれない。
かくして何の心の備えも無しに突然殺人者になった旦蕗は、
その事実を目の当たりにした瞬間、数瞬ほど思考ごと全身を停止した。
それからゆっくりと現実を認識し、慄然し、狼狽し、怯懦し、恐慌した。
「嘘、違うっ、私、そんなつもりじゃ」
それは誰に対しての言い訳なのか。
桃子か、死者か、それとも自分自身か。
こんなはずじゃなかった。ただ追い払うだけのつもりだった。
そう弁解したところで、人一人を物言わぬタンパク質の塊に貶めた事実は揺るがない。
己の手を血に染める覚悟すらなしに、命を辱めた事実は変わらない。
「あ、ああ、ああぁ……」
鼓動が速い。体内の血が、彼女自身を責め苛むように全身を駆け巡る。
呼吸が荒い。自分自身を落ち着かせなければいけないことは、分かっているのに。
思考が重い。認識しなければならない事実を、精神の全てが拒否したがっているのだ。
ほとんど錯乱寸前の旦蕗を前に、しかし現実はなおも残酷だった。
旦蕗の視線の先で、桃子がよろよろと歩き出した。
歩みを進める先は、血の海に横たわる女性の骸。
それをスコープ越しに確認した瞬間、旦蕗の全身が総毛立った。
なぜなら桃子の心ここにあらずな様子はまるで、目の前で大切な人を失ったような――
「やめて、やめてよ内藤ちゃん。私、貴女を助けたくて……!」
震えで合わない口元から、必死の願いが漏れる。
その一方で、旦蕗の冷静な部分がこう告げる。
自分は本当に、本当に、本当に、取り返しのつかないことをしてしまったのではないか?
もしも桃子に迫っていたのが非情な殺人狂だったとしたら、
旦蕗の勇気ある行いが想い人を襲う残虐なる運命を打ち破ったのだとしたら、
彼女を襲う責め苦は幾分和らぎ、あるいは誇りにすら変わったかもしれない。
しかし歯車は願い通りには噛み合わず、どこまでも空転するばかり。
暗視スコープが映すのは、死体の傍に辿り着くやいなや膝をついてへたり込む桃子の姿。
そこから僅かに視界をずらせば、旦蕗が射殺した人間の顔が見えるはず。
見てはいけないと分かっているのに、引き返せなくなるだけと知っているのに、
鳰旦蕗は、結局、自分を抑えることが出来ず、スコープをそちらへ僅かに動かした。
そして彼女自身も知る女性を、桃子にとってどういう存在かも知っている女性を、
その成れの果てを、自分自身が終わらせた現実を、その視界に収めた。
「――――――――――――――――――――――ッ!!!!」
今度こそ旦蕗の精神は臨界を迎えた。
彼女は自失の様相の桃子からも自分が射殺した桃子のかつての想い人からも目を背け、
コンテナの端から上体を乗り出すと、そのまま全身をよじって嘔吐した。
▼ ▼ ▼
「先生……先生っ……!」
桃子は必死だった。
こんなところに先生を置いて行ったら、また撃たれてしまう。
早く先生を、安全なところに連れて行かないと。
でも動かない。教子の体は、土嚢のように地面にしがみついて動かない。
彼女の細い体が、こんなにも重たいはずはないのに。
「どうして……動いて、動いてよ……!」
力任せに引っ張った両手が、生ぬるい血で滑ってすっぽ抜け、
桃子はその場で尻餅をついた。
その痛みが、いつもの冷静さを失っていた桃子を冷たい現実へと引き戻した。
桃子はよろめきながら立ち上がり、転がるように段ボール箱の山の陰に身を隠した。
無造作に積み上げられたそれの陰なら、襲撃者から撃たれることもないだろう。
だが、教子は置いてきてしまった。連れてこようと思っていたのに。
だって気付いてしまったのだ。気付きたくなかったことに。
もう、桃子の言葉は、彼女に届くことはない。
彼女は、隼砥教子は、最後に託したたったひとつの願いすら叶えられることなく、
今度は永遠に、桃子の元を去っていってしまった。
もう二度と、二度と、二度と帰っては来ない。
「う、うう、あああっ……うあぁぁ――――――――」
そのことを理解して初めて、ようやく、内藤桃子は声を殺して慟哭した。
【隼砥教子@少女セクト 死亡】
【一日目・深夜】
【F-3/波止場・ダンボールの山のそば】
【内藤桃子@少女セクト】
【状態】健康、強い精神的ショック、後悔と喪失感
【装備】なし
【所持品】基本支給品、ランダム支給品1~2
【思考・状況】
1.死にたくない
2.先生を置いて行きたくない
※思信の存在には気付いていません。
※具体的な行動指針はまだ決まっていません。
【F-3/波止場・コンテナ群】
【鳰旦蕗@少女セクト】
【状態】健康、強い精神的ショック、パニック寸前
【装備】M-16スナイパーカスタム(暗視スコープ装備)@現実
【所持品】基本支給品、光学スコープ
【思考・状況】
1.人殺しなんてしたくなかった
2.内藤ちゃんだけは死なせたくない
※雪華の存在には気付いていません。
※支給品はM-16スナイパーカスタム一式のみです。
※隼砥教子の支給品一式は、死体のそばに放置されています。
最終更新:2012年06月04日 21:46