延暦寺年表

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延暦寺年表 - (2011/10/01 (土) 11:37:15) の編集履歴(バックアップ)



                940年二月二十四日、尊意は七十五歳で入滅。
                その翌日に将門死亡の報が都へ届いたことから、
                尊意が命と引き換えに調伏を成し遂げたと噂が立つ。

                この祈りの後、忠平の子藤原師輔の娘安子が皇子憲平親王を出産し、
                良源が師輔の信頼を得る契機となる。

  • 970年(天禄元年) 七月、良源、「二十六箇条起請」と呼ばれる延暦寺内の寺院法を制定。

  • 974年(天延ニ年) 祇園社を末寺化(『日本紀略』)

               慈覚大師門徒が、関白藤原頼忠邸に集結。補任の取り消しを訴える。
               延暦寺における強訴の初例。

                 智証大師門徒の天台座主補任に反対した慈覚大師門徒が
                 天皇の勅使を追い返し、宣命を破り捨てる。

  • 993年(正暦四年) 七月、観音院住僧成算、比叡山麓の赤山禅院に集団を派遣、襲撃。
                 同年八月、この件で叡山慈覚大師門徒が成算、
                 およびその師勝算余慶の高弟)と決裂。
                 『扶桑略記』によれば千手院、蓮華院、仏眼院等の寺院や房社を焼き払う。
                 これにより智証大師門徒の山上拠点がほぼ壊滅状態となり、
                 千人規模での下山を余儀なくされ、以降園城寺に入る事に。
                 (山門派と寺門派の分裂)

                  寺の領域内に馬に乗ったまま入ろうとしたため、起こった延暦寺僧らから
                  飛礫による襲撃を受ける。
                  翌月、道長が病に伏すと、その原因を「山王の祟り」とする噂が発生。
                  また病気平癒の祈祷の依頼を受けた権僧正慶円
                  「このたびの事は山王の祟りだとの夢想があった」ため修法を辞退している。

                 東寺末寺である多度神宮寺の乗っ取りを平正衡(まさひら、平清盛の曾祖父)と
                 共に企てたという。

  • 1104年(長治元年)十一月、東寺が延暦寺大法師仁誉(仁与)を提訴。
                 東寺末寺である多度神宮寺の所領、尾張国大成庄の押領の疑い。
                 また翌年には荘園住人の殺害事件も起こっている由。






(参考:『僧兵 祈りと暴力の力』衣川仁)