織田信長関連年表

「織田信長関連年表」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

織田信長関連年表 - (2011/07/07 (木) 11:06:52) の編集履歴(バックアップ)




                 赤塚の戦い。信長にとって初の実戦

  • 1556年(弘治二年)八月、稲生の戦い。弟・信勝の軍と衝突する。
              この戦いで信長は先頭に立ち、敵の主将林美作守を自ら討ち取ったとか。


               同年、足利義昭、征夷大将軍の宣下を受ける。

                姉川の戦い
                本願寺、信長を攻撃

                志賀の陣。
               朝倉義景・浅井長政軍は比叡山の峰々に陣を張る。
               →信長は思うように責められず、正親町天皇に和平交渉の折衝を申請。


  • 1571年(元亀二年)比叡山焼き討ち。事前に琵琶湖南の城をいくつか攻略したあと、
                九月十一日、坂本に入り町に火を放つ。日吉大社にも放火。
                そのまま山上に登って殺戮・放火を続けたと
   (ただし、近年の発掘調査では、山上にはあまり焼かれた形跡は見られず、
     焼き討ちは坂本の堂舎、殺戮も八王子山が中心だったらしいとのこと)
    これら放火は十五日まで続いた。

  • 1573年(天正元年) 五月十五日、佐和山を訪れ、大船の建造を命じる。
               七月五日完成。信長の大安宅船
               同年、朝倉氏、浅井氏滅亡

               越前一向一揆殲滅戦
               十一月四日、従三位権大納言
               十一月七日、右近衛大将
               十一月二十八日、長男織田信忠に織田家の家督と岐阜城を譲る


               本願寺を包囲。
               この時、信長方の松浦党ら水軍が毛利氏の村上水軍と戦い、
               毛利方の焙烙火矢(ほうらくひや)などで松浦水軍は大敗、
               村上水軍は一艘の被害もなく本願寺に兵糧を入れて引き上げたと

               六月、「近江安土山下町中掟書」定められる(その第一条に楽市楽座の規定)

  • 1578年(天正六年) 四月、右大臣および右近衛大将の官職を返上

                 「一揆持ちの国」九十二年で消滅

  • 1581年(天正九年) 九月、伊賀攻め。総大将は二年前に独断で伊賀攻めし失敗している次男織田信雄


(参照:『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』谷口克広)