神仏習合の発生と展開
- 神仏習合の思想は中国にもあり、『高僧伝』『続高僧伝』に見られる
中国の神と仏の神仏習合論が日本に伝来した経緯が現在では検討されている。
- 近世まで日本には神仏習合の習慣があったが、例外もあり、
宮廷では
大嘗祭の斎日や公祭の儀式において原則的に僧尼の参内を禁止し、
内裏の仏事を中止するなど神仏隔離の方針がとられるケースもあった。
気比神が立ち、神の身の苦しを訴え仏教寺院の建立を願った逸話が載る。
これにより、武智麻呂は気比神のために神宮寺を建てたという。
(神仏習合、神宮寺の最初期の史料として著名な事例) →
気比神
- 『類聚三代格』に、引用された記事として鹿島神宮寺のものがある。
天平勝宝年中(749~
757年)、修行僧の
満願が常陸国鹿島郡を訪れ、
鹿島神宮の元宮司鹿嶋連大棟、郡大領中臣連千徳とともに
神宮寺を建立、神のために大般若経600巻の書写と仏画像を製作し、
神がそれに感応した、という。
神仏分離
1662年(寛文二年)寺社奉行により本願(社僧)が追放された後、
境内やその周辺から仏教施設を完全に撤廃している。
参考文献
『日本神道史』岡田壮司
最終更新:2012年02月25日 15:57