春秋戦国時代

登録日:2021/03/10 Wed 23:00:00
更新日:2024/03/18 Mon 11:27:11
所要時間:約 40 分で読めます






春秋戦国時代とは、中国史の一区分。
西周王朝が崩壊して東周に遷都した時期から、始皇帝による統一時期までを指す。
ヨーロッパ史における古典ギリシャ時代に比肩するほど、数多くの思想家が輩出したことでも知られる。中国文化が現在のように固まる、基礎を築いた時代でもあった。



【時間区分】

始まりが西周王朝の崩壊と、終わりが始皇帝の統一ということでは定説が一致している。
しかし一口にそういってもBC.770からBC.221に及ぶ、前後550年もの時代なので、簡単にこういう時代だったとまとめることはできない。
ただし「春秋戦国時代」を「春秋時代」と「戦国時代」に分けることにも、あまり意味はない。前後で世界的な変化はあまりないからだ。
とくに「春秋時代」の終わりとは、「孔子が麒麟の死体を見つけて世に絶望して歴史書の記述をやめた年」となっているが、これを歴史の変わり目とするのは無理だろう。実際、春秋と戦国の境目は学者によってまったく一定していない。
晋国の分裂を境目とする学説も多いが、晋国分裂以前と以後で情勢が劇的に変わったわけでもない。
「周王への権威がまだいくらかでも残っていたのが春秋時代、欠片も残らなくなったのが戦国時代」という区分もないではないが、その明確な区分はつけられないし、ついでに春秋時代の「周王の権威」も、せいぜい「敬意を表する」ぐらいなもので、実際に諸国の情勢を左右するほどではなかった*1

そういうわけで本項目では、ざっくばらんに【前期】【中期】【後期】で分ける。
【前期】とは、いわゆる「春秋の覇者」が中原の諸侯国をリードした時代である。具体的には、斉の桓公から晋の文公までの時代。
【中期】とは、文公が死亡してから秦に商鞅が現れる前の時代まで。この時代は、中原をリードする覇者も秦国もいない時期である。
【後期】とは、秦国で商鞅が法治主義改革を行なって以降の、秦一強の時代。この時代はなにを置いても秦が時代の中核となる。

そして【黎明期】として周の東遷から斉の桓公が登場する前まで、【末期】として始皇帝の統一時期までとすれば、大体の流れは掴める。



【地理区分】

春秋戦国時代は、すべてを数えればたくさんの国があって、多くの地域で同時多発的に事件や改革が起きている。
それらを年代順に読むと、東西南北中央で視点が飛び飛びになってしまい、間違いなく混乱する。

そこで本項目では、年代順ではなく、大国を中心として記述をしたい。
具体的には、東方の斉国、東北の燕国、中部の晋国、南部の楚国、西部の秦国である。
ほかにも国はあるではないか、という意見はもっともだが、この五大国は、春秋戦国時代の最初から最後まで、滅亡することなく、常に重要要素として歴史の中心にあり続けたため、これらを中心に置くと話が分かりやすいのだ。

確かに、斉国は途中で公室(君主の血統)が乗っ取られ、晋国はの三国に分裂した。
しかし、斉国は公室交代前後でまったく存在感が変わっておらず、晋国は三国分裂後もしばしば「三晋」とひとまとめにされており、実質は「晋国内部の権力闘争」が「三晋内部の権力闘争」に変わっただけといえるほどで、その地理的要因や外交圏における要素は、さほど変わりがない。

なにより、そうしたほうが「春秋戦国時代の流れ」を掴む、初期の理解には好都合なのだ。より詳しく理解したい場合は個別に調べ て、個別項目を立て るのがよいだろう。


それと、春秋戦国時代は、その名前が予想させるような「国家の存亡を掛けた熾烈な弱肉強食の時代」ではなかったことも、留意したい。
確かに小国はよく併合されたが、始皇帝の時代まで斉・燕・晋(三晋)・楚の大国が残っていたように、実は大国は末期まで「存亡の危機」に瀕していなかった。
そんなわけで、春秋戦国時代を斉・燕・晋・楚・秦の五大国を中心に見ることは、視点を定めて腰を落ちつけられることに、意味があると考えられる。



【前史】

春秋戦国時代に入る前に、まず理解しておくべきは、この時代が「周代の緒を引いていること」である。

つまり、始皇帝以後の中華帝国は「中国を単一の政府で統一して運営すること」が当たり前となっているが、周代から春秋戦国時代には、そうした発想はなかった。
諸侯国の関係は、周代までの封建制の要素を色濃く残している、ということだ。
リンク先も参照してほしいが、封建制とは簡潔に言うと「各国が盟約を結び、その盟主が諸国のリーダーとなるシステム」である。
周王とはまさにその「盟主」にほかならず、周朝/周国と傘下の諸侯国は極論すれば、内政不干渉を前提とする同盟国の関係にあった。
周国が全中国を直接支配していた、わけではないのだ。諸侯国はそれぞれの土地を管理・運営し、周朝には同盟関係だけを組んでいたにすぎず、領国内部の統治権は諸侯が握っていた。

その周朝が崩壊したことで、春秋戦国時代に移ったわけだが、かつて夏王朝や殷王朝が崩壊したときとは異なり、周王朝にすぐに代われる支配者がいなかった。
それでこの時代が五百年以上続くわけだが、言わば春秋戦国時代は、「盟主のいない封建時代」ともいえる。


【斉国】

東部の大国。主に山東半島を領域とした。
国祖は太公望で、最初から東部における代表者としての地位を与えられていたため、西周時代初期から開拓や富国強兵を行ない続け、春秋戦国時代の黎明期から、すでに押しも押されもせぬ大国となっていた。

【前期】には斉の桓公、いやそれ以上に大軍師の管仲が登場し、春秋五覇の典型・代表となる。
管仲は桓公から「仲父」と呼ばれて絶対的な信任を与えられ、国内の制度体制を改革。
経済体制を改革して国家と領民を富ませて、国家に従う余力を付けさせるとともに、法令(法律と執行命令)を厳正的確にして賞罰(褒賞と刑罰)を公正明確にすることで、領民をして国家の指示に従うようにさせる。
言わば「倉廩を満たして礼節を知らしめ、衣食を足らして栄辱を知らしめる」ことで、「兵を政に寄せる」つまり領民(領民は兵士となる)と国家を一致させる。

特に「倉廩」、つまり穀物を納める倉を、その領地の区分に応じて立てさせ、収穫期には必ず満たすことで、穀物の値上げを図り、生産者である農民を富裕にするとともに、貴族層の消費を切り詰めさせて物価を下げることにも成功する。
他方で、民衆のあいだにも改革のメスを入れる。
「五戸を最小単位の『軌』、十軌を『里』、四里を『連』、十連を『郷』」と定め、それぞれに長官(軌には軌長、郷には郷長)を置いて、民衆の統治システムを明確にした上で徴兵や納税にも基準を設け、かつ軌や郷内部で監視や連帯責任を追わせることで、犯罪を未然に予防し、高度な規律を民衆にもたらせた。

それらによって管仲は、斉国内部の行政システム・軍事システムを効率化し、五年にして富国強兵と規律確立を達成し、ついに斉桓公五年(BC.681)、北杏の地で近隣諸国を呼び集めて「会盟」を挙行し、諸国との盟約を結んで、桓公がその盟主、すなわち「覇者」となった。
その「北杏の会盟」を初めとして、桓公は総計九回の会盟を挙行し、ことごとくで盟主となった。そして中原諸侯国が内紛や無道な侵略を起こせば、盟下の諸侯国を率いて鎮圧し、あるいは侵入した夷狄を撃退して、現代的にいえば集団安全保障のリーダーとなって、春秋戦国時代前期の立て役者となる。

しかし管仲が没すると桓公はたちまち破滅して無惨な末路を迎え、その過程で斉国も混迷を極めた。
それでも基礎的な国力は依然として大きく、内紛が落ち着けば再び中原の大国として返り咲くが、以後は覇者となることはなかった。


さて、この「諸侯国の盟主となって国際的な問題にあたるリーダー」とは、本来は周王の為すべきことであり、王が王たるゆえんのはずだった。
そして桓公は王ではなく侯爵で、諸侯が周王に代わって王者として振舞うのは本来なら謀反と呼ばれるべきである。
だが、現実には桓公が盟主となることに反論はほとんどなく、当の周朝も、さすがに王本人は臨席しなかったが、特使を送って桓公の会盟に「諸侯として」参加していた。
もはや桓公は実質の王者、諸侯同盟の盟主となったわけで、これは同時に周朝がもはや王として機能していないことを示していた。
他方で、桓公も明確な王者とはならず、ついに暫定的な盟主、一代限りの盟主となるにとどまった。
王者そのものでありながらも王者の形式がなく、新しい王朝を築くほどではなかった桓公は、いつしか「覇者」と呼ばれるに至る。

この桓公モデルの「覇者」が、春秋戦国時代前期の象徴といえる。


斉桓公・晋文公といった「中原の覇者」が世を去ったあとの【中期】には、斉国の情勢は貴族的な門閥に握られ、君主の影は薄くなる。
どころか、荘公が臣下の妻と密通したため、激怒したその臣下に殺される、という冴えない事件も引き起こした。

しかし、こんどはその強力になった門閥貴族の配下から有能な人士が台頭して、斉国は再び繁栄を迎える。
荘公に次ぐ景公の時代には、名臣晏嬰を中心として、名将田穣苴(司馬穣苴)、重臣田乞といった面々が現れ、斉国の安定に寄与する。

しかしこの頃、陳からの亡命貴族である田氏の勢力が急激に力を増しており、この田氏の当主が田乞、同じくその傍系であったのが田穣苴であった(なお「司馬」というのは役職の名前である)。
これに対し旧来の門閥貴族たちは当然嫉妬と警戒を強め、名将であった田穣苴は他の貴族の国氏・高氏らからの讒言により解任され、景公が没するとその年若い息子の姜荼を擁立して実権を握る。しかしこれに反発した田乞は、クーデターを起こして国氏・高氏を滅ぼし、後ろ盾を亡くした姜荼を暗殺して弟の悼公を擁立。
さらにその次代・田恒も悼公の息子の簡公をと二代続けて君主を弑殺して挿げ替えという恐怖政治を敷き、同時に他の門閥貴族も粛清。簡公の弟の平公を都合の良い傀儡として擁立し、外交や賞罰などの国の全権を掌握して国の半分以上を自らの領地とし、田氏による斉国簒奪を既成事実化した。
ただ、巧みにも姜氏を完全には滅亡させず、名目だけにしろ残している。田成が簡公を殺して実権を握ったのがBC.481で、田氏が名実ともに君主となるのはBC.386のことである。百年のあいだに「田氏こそが斉の公室」という認識を社会に広めてから、名号を奪ったわけだ。


こうして「田斉」が完成するBC.386から約三十年後には、遠く秦国で商鞅が出現して大改革を行ない、秦一強の時代が訪れる。
これを【後期】とすれば、田斉の時代はまさしく春秋戦国時代後期と重なる。

ところで田氏に乗っ取られたとは言え、斉国の混乱はほとんどなく、国力も依然として富強なままだった。君主と貴族は大勢が削減されたが、この権力の空白を田氏ががっちり握ったため、むしろ巧みに継承させたのだ。
そのおかげもあって、秦一強の時代でも斉国は依然として東方の超大国として影響力を発揮する。

その首都・臨淄には「稷下の学士」と総称される大勢の学者――いわゆる「諸子百家」――が集結し、文学サロンのような盛況を見せた。
そのなかから台頭する人物も現われ、名将として大活躍した孫臏、外交使節として活躍する淳于髠といった英雄も現れる。田氏からも孟嘗君が生まれて活躍した。
そして宣王の代には東北部の大国・燕を一時は併合し、その次の湣王の代には宋をも滅亡させて秦と並ぶ二大巨頭となり、秦を西帝・斉を東帝と称するほどとなる。



だが、この燕の併合の後に、斉への服属を条件として即位を許された燕の昭王は斉を深く恨んでおり、斉の勢力拡張に危機感を感じた諸国との連合軍を結成、これを戦国時代を代表する名将・楽毅に命じて率いさせ、ついに首都の臨淄が陥落、湣王も連合軍の将軍に殺害されてしまう。そしてほぼ全土が燕軍の勢力下に併合され、数年前とは真逆で今度は斉が滅亡寸前という状況に。
しかしこの直後に燕の昭王は没し、後を継いだ燕の恵王は側近の讒言を信じて楽毅を解任。そして斉は王族の傍流の人物であった名将・田単の活躍により、奇跡の逆転劇を演じて燕軍の撃退に成功、再び復興を果たす。



とはいえここまで展開を見ても分かるように、斉の国の朝廷にも天下を統一して云々、と言うような革新的な方針が採用されることはなかった。
同時期の、後期の秦国を代表する名将白起もそうだが、いまだ封建制の名残りと言うべき「諸国による同盟」を常識とした斉国は、言わば戦国七雄による現状維持以外の考えはなかったわけだ。

そんな状況を、韓非子と始皇帝が覆す。春秋戦国時代【末期】の訪れである。
秦国は七雄を次々併合しては完全なる行政区画として組み込み、単一行政システムによる中国全土の管理を開始した。
そして斉の最後の王・田建は、他の五国への支援を行うという事もなく、秦がこれらの国々を併合するのをただただ傍観していた。斉国が滅ぶのは、戦国七雄でも最後となるが、これは単に秦国から最も遠かったという理由だけで、斉国が強い抵抗を見せたから、というわけではない。
斉国はBC.221にあっけなく滅び、天下は秦国に統一される。



【燕国】

当時の大国では東北の端にあった国。国祖は召公奭(しょうこうせき)
中原の東北端にあるということは、北方騎馬民族の侵入に晒されるということで、その国力もほとんど常に北方に向けられ、南方=中原に関与する余力がなかった。
東南に隣接する斉国・西南に接する晋国も、燕国を攻撃すればそのぶん騎馬民族に有利、むしろ燕国を騎馬民族の防壁として利用したほうが便利ということで、珍しく中原の闘争からは一歩引いた立場にあった。

とくに春秋戦国時代【前期】【中期】には、これと言って活躍がない。
せいぜい、異民族の一派・山戎の撃退のために、桓公・管仲コンビの斉国に応援を求めた件ぐらいである。
この時、斉国が中原の覇者であったというのもあるが、斉国は快く燕国に援軍を送っており、「燕国は北方の防壁」という意識があったことがわかる。


しかし中原に関わらないあいだ、ずっと北方開発を続けていたようで、【後期】に入るころには黄河の北辺を南端として、遼東半島全域や朝鮮北部にまで勢力を広げており、いつしか大国となっていた。
BC.323には王号も用いている。


ただ、政治体制はだいぶいい加減だったようで、王号を名乗る以前の国政改革などの逸話はほぼない。
それどころか、王号を用いた二代目の姫噲(き かい)がとんでもない愚君で、尭舜の禅譲伝説にかぶれて宰相の子之に全権を譲り渡すという暴挙に出た*2あげく、大混乱と内紛を招いて、自分は殺害され、さらにこの隙をついた斉国に攻め込まれて、一時は完全に滅亡した。

ただ、二年後には斉国は燕国を復興させている。この時、趙国と斉国に擁立されて王となったのが昭王である。
昭王は、擁立の恩はあるが、それ以上に燕国を滅ぼし、かつ昭王擁立によって燕国を属国としようとする斉国をなんとしても打破せねばならないと覚悟しており、必死の思いで富国強兵に邁進。
名将楽毅を一本釣りできたことも僥倖となって、二十年間以上の歳月の果てに、国力と軍事力を大幅に増強。
折しも斉国内部で孟嘗君が排斥されたのに乗じて、燕国は斉国に進撃し、斉軍を徹底的に打ち破り、七十二の城のうち七十を制圧して、斉国を滅亡寸前に追い込んだ*3

しかし燕国も、斉国を完全に滅ぼして天下統一、という意志はなかった。
それどころか、斉国の首都で天下一の大都市・臨淄を落としたにもかかわらず、残るたった二城を落とすのにやたら時間をかけるうちに、昭王が没してしまい、内紛が起きて楽毅は燕国から亡命、その隙に乗じて斉国も復興する。


【末期】に入り、始皇帝が天下統一に動き出す時期には、燕国は始皇帝暗殺のため刺客を送ったことでよく知られる。
しかしこれ以外にはなんらかの対策はなく、そもそも国力差が懸絶していたため、やがて秦国によりあっけなく滅ぼされた。


全体として燕国の活動は、地理的な要因もあってほとんど斉国との関係のみに終始している。



【晋国】

中国の中・北部にあった国。中原と呼ばれることもあった。
もとは翼城に首都があったが、領内の曲沃城のほうが繁栄し、かつそこに晋公室の分家が分封されていたため、いつしか分家のほうが本家よりも強力になっていた。
そして春秋戦国時代も【黎明期】を過ぎて【前期】に入ると、ついに曲沃の分家が翼の本家を滅ぼして、取って代わる。
この時、斉国では桓公の八年、まさに桓公の覇権の全盛期である。

このように晋国は、春秋戦国時代の黎明期から内紛を繰り返しており、とくに公室での殺し合いがかなり激しいものであった。
旧本家を根絶やしにした武公以後も内紛は止まず、有名な美女驪姫の暗躍によって、武公を祖とする新本家もほとんどが内紛で殺し尽くされた。

そうした内紛から亡命した公子・重耳が、晋の文公である。
彼は十九年も亡命生活を続けており、そのあいだに廻った斉国・楚国・秦国と言ったほかの大国に顔が広く、かつ有能な側近団も抱えていたため、秦国の後援で帰国・即位すると瞬く間に台頭し、斉桓公亡きあとリーダー不在だった中原の、新たなる覇者として会盟を挙行した

ここに、桓公モデルの中原の指導者となる覇者が現れたわけだが、しかし文公は長い亡命生活で寿命を使い切っており、帰国した時点で六十二歳だった。
そのため文公は在位九年で没し、晋国の覇権もわずか九年で跡絶える。そして以後、中原では「諸国を盟約で主導する覇者」は二度と登場しなくなる。
晋国内部でも内紛が再発し、晋国の公室はますます殺されていった。


そういうわけで、覇者の時代が去ってからの【中期】には、晋国公室はすっかり影が薄くなってしまう。

その権力の空白を穴埋めして台頭したのが、晋国内部で分封された、分家領主たちである。
中期には早くも六家系、すなわち「范」「中行」「知」「韓」「魏」「趙」のいわゆる「六卿」が、晋国の国政を掌握していた。
彼らは言わば「晋国内部の封建領主」で、晋国の臣下でもあるが自領内では君主である。その晋国の君主がいなくなれば、彼らが自立するのは自明でさえある。

そして彼ら六卿もまた、六卿同士で殺し合いと併合を行ない、最終的に「」「」「」の三勢力が残留。
彼らはそこで殺し合いをやめ、それぞれの領地を「国家」として再編・巨大化し、国力を増強していった。
そしてこれら六卿の相克と発展について、晋公室・君主はまったく関与していない。むしろ、残った三卿に晋公のほうから「入朝」するほどだった。

【中期】の晋国情勢は、言わば晋国が韓魏趙の三国に分裂する過程であったといえる。
同時期の斉国でも、田氏による簒奪が起きていた。


しかし「韓魏趙の三国が生まれた」と言っても、要はもともと一つの国だった晋国を三分割しただけで、どこかの国が攻め滅ぼしたとかそういうわけではない。
そしてその三国がしばしばまとめて「三晋」と呼ばれたように、韓魏趙の三国を「一つの国」と見て、三国の争いを「三晋の内紛」と見ることも可能だった。
実際、「呉子」なんかは韓魏趙の三国を「三晋」とひとまとめにして、区別なく分析している。

春秋戦国時代【後期】は、三晋それぞれの時代である。
しかし細かく見ればいくらでも差異を見出せるが、全体としては、三晋がそろって秦国に対処するしかなかったという点で、大差はない。


韓国

三晋では南の国。中国全体ではまさに中心地点となった。
北に魏国、西に秦国、南に楚国に挟まれ、領地がもっとも小さく、その上魏に包囲されるような位置にあって、三晋でも戦国七雄でも最弱と言われた。
それでも、申不害が宰相となっていた時期には、例外的に国内がよく治まり、また他国からの侵略・干渉も防ぎ切れたという。
申不害の詳しい事跡は伝わらないが、韓非子は彼の資料を入手して徹底検証したようで、韓非子の説く法治システムの三本柱「法」「術」「勢」のうち、「術」すなわち実際の法律の運用は、申不害の流儀を研究したものとしている。

申不害亡きあとはすぐ元に戻り、韓非子が若かりしころにはすでに秦国の属国となっている(韓非子いわく「もう秦国の郡県(直轄領)と変わるところがない」)。
それでも、始皇帝登場までは戦国七雄として確かに存続していたが、韓非子から「天下統一」を教えられた始皇帝によって真っ先に併合されて「潁川郡」となった。

ちなみに、この国の「韓」とは韓原(現在の陝西省・渭南市の韓城市)という土地に由来し、当然のことながら朝鮮半島南部の「韓」とは無関係。直線距離でも数千キロ離れてるし。


魏国

三晋では中部の国。
韓国を包み込むように広がっており、おかげで西に晋・北に趙・東に斉燕・南に韓楚と接していた。

三晋のなかではもっとも早く発展した国で、実質自立して間もない文侯の代に、賢人を数多く迎え入れてその国力を一気に強大化させた。
その賢者というのが、呉子を筆頭として西門豹・李克・楽羊(楽毅の先祖)と言った面々で、彼らの統治手腕と軍事能力で、魏国は最初に全盛期を迎える

しかし文侯死後に即位した武侯は、呉子と対立して彼を追い出してしまう。
それでも武公もなかなかの君主だったので、しばらく魏国も勢力を残していたが、【後期】を代表する商鞅の改革を経た秦国にはまるで叶わず、防戦一手となる。
「戦国四君」の一角・信陵君も魏国の公子であり、彼の外交政策で一時期は盛り返すが、信陵君が失脚する*4ともとの木阿弥となる。

その後、始皇帝が統一を視野に外政を始めると、韓・趙・燕の後に滅ぼされた。
燕国が先なのは例の暗殺事件によって順番が変わったからであり、始皇帝も最初は三晋を先に滅ぼすつもりだったと見られる。

ただし、一時的にとは言え秦に勝利した信陵君に対して劉邦が敬意を抱いていたことから、魏の王女の娘(薄姫)を側室にしている。
薄姫は大人しい性格であり「そこそこの財産を貰って息子と楽しく暮らせればいい」と言う態度を一貫していたため、劉邦の正妻の呂后にも敵視されず、結果として彼女の一人息子が漢の皇帝(文帝)に即位。
光武帝劉備も文帝の末裔なので、女系とは言え魏の王族の血は五胡十六国時代前まで生き延びている。


趙国

三晋でも最北部の国で、燕国にも近い。
公室/王室の趙家は、晋国内部でもとくに早くから勢力を確立した名門で、春秋戦国時代の【前期】には覇者文公の参謀趙衰を、【中期】には重臣趙盾を排出している。
趙盾没後に一度滅ぼされたが、韓氏の支援を得て復興し、ついに独立に至る。

趙の名君と言えば武霊王で、魏の文侯より150年ほどのちの人物となる。
彼は騎馬民族のすぐれた馬術・騎射術に感銘を受け、彼らの騎馬隊を趙国でも取り入れるべく「胡服騎射」の改革を行なった。
胡服つまり騎馬民族の服装は、もちろん馬術に向くよう最適化されている。逆に漢族の伝統衣服は、あらゆる意味で馬術に向かない。
しかし、かつて機動戦の主力だった戦車(戦闘用の馬車)が廃れたいま、そして秦国が商鞅の改革によってとてつもなく強大化したいま、騎馬隊を創設することは急務だった。

よって武霊王は、反対派を論破しつつ胡服を取り入れて強力な騎馬隊を創設。同時に、漢族の文化が絶対至上ではないと表明することにもなった。
また、騎馬民族を祖とする国家・中山国を併合して、その戦力も併合。
同時に、旧中山国を経由して、北方から斉国や秦国に攻め込む態勢も見せる。
しかしまぎれもない名君だった武霊王も、中途半端な禅譲によって後継争いを引き起こしてしまい、殺害される。

それでも武霊王の改革によって趙国は強大化しており、さらに陸続として現れた廉頗・趙奢・藺相如・平原君といった名将・名臣の活躍もあって、秦国に対抗しうる国家として斉国とともに知られるようになる。
「机上の空論」の語源となった趙括の大敗もあったが、秦国に統一プランがなかったこともあって、依然として強い影響力を持ち続けた。
韓非子も「趙国は合従の盟主となって秦を狙っている」と、強敵と指摘している。

この韓非子の予想があたったか、始皇帝が統一に乗り出した【末期】には、趙国に名将李牧が出現し、一時的に秦軍を撃退している。
しかし「天下統一」という戦略プランを確立した始皇帝と、そうした戦略のない李牧の差は大きく、政略によって李牧は消され、ついに趙国は秦国に滅ぼされる。


【楚国】

南方に位置した大国。淮南から長江流域に掛けて勢力を誇った。
長江文化圏を母体に、黄河文化圏の勢力も取り入れたと見られ、独特な文化があった。
正確な年代は不明だが、西周時代から王号を称したとされ、かなり早いうちから独自の王権/封建制による支配力を誇示していた模様。
周の四代王・昭王が楚国に攻め込んだ際に「行方不明」となっており、これもおそらく返り討ちにしたとみられる。

春秋戦国時代に入ると、初っぱなから国力を振るって、南方の小国を併合あるいは傘下に加えて、勢力を確立。
さらには中原まで視野に入れて活動を開始した。
【前期】に斉の桓公が覇権を確立したのも、躍進著しい楚国に対抗しうる、強力なリーダーが中原諸侯に求められたからでもある。
実際に管仲は楚国討伐を行なっている。もっとも、さしもの管仲も楚国との本格的な遠征は考えていなかったようで、楚国の使者屈完の交渉に応じて、外交的決着を済ませている*5

以後はおおむね、南方での覇権を固める一方、中原にちょくちょく干渉する、というスタンスで推移する。
楚国と中原のあいだにある鄭国が、今日は楚国の側につき、明日は中原の側につく、という二股外交を展開したため、逆に楚国と中原の緩衝地帯になったからでもあった。
宋の襄公を撃破したり、晋の文公に撃退されたりといった事件も起きている。


【中期】には、名君荘王によって全盛期を迎え、中原の大国・晋を破って文公以来の覇権を崩壊させる。荘王はこれによって「春秋五覇」の一人と呼ばれた。
しかし、荘王を含めた楚国が中原諸侯の盟主となった様子はなく、あくまで「南方の覇者」にとどまる。

さて【中期】と言えば中原の覇者がいなくなって、斉国は田斉に・晋国は三晋に変遷していくが、南方でも権力の変遷が起きる。
呉国越国が台頭して、楚国が覇権を失うのだ。


呉国は少し前に、楚国から亡命した屈巫・屈庸という親子から、戦車・用兵の方法を学んで軍事力を大きく飛躍させていた。
そしてその数十年後に、やはり楚国に家族を殺された伍子胥が亡命する。家族の復讐に燃える伍子胥の熱意に導かれ、かつ名将孫武、すなわち「孫子」の指揮も加わって、物の見事に楚の大軍を打ち破り、首都を陥落させる。楚王・昭王は亡命に成功した。

だがその呉国の背後から、これまた新興の越国が、国力と軍事力を急成長させていた。
呉と越はすぐに戦争状態に入り、「臥薪嘗胆」の由来となる克己と鍛練の果てに、越国が呉国を滅ぼして、南方の主導権を握った

しかし、呉国は滅んだが楚国は生きていた。首都を落とされながらも脱出していた楚の昭王が、秦国の支援を得て再起動していたのだ。
その楚国が、越国の覇権確立から百数十年後、越国を滅ぼして南方の覇者に舞い戻る。


この、楚国復活が果たされたのはBC.334あたりで、まさに秦国では商鞅の改革が行なわれて、天下が秦一強の時代となっていた【後期】にあたる。
楚国は返り咲きはしたものの、政治システムは旧来のものを引き摺っており、王族・貴族は数が増えすぎて人材登用が彼らで埋まり、地位と俸禄はあるのに職務のない「冗官」も多いなど、他の国々ではすでに行なわれていた改革すべき旧弊が、そのまま残っていた。

越国を滅ぼす以前に、魏国から亡命してきた呉起が令尹(宰相)に抜擢されて、これら旧弊をいっせいに打破する改革を施行したが、呉起を支えてくれた悼王が、呉起抜擢からわずか七年で逝去。
その葬儀の日に、呉起の改革で既得権を奪われていた楚国の門閥貴族がクーデターを起こし、持ち出した弓矢で呉起を殺害、彼の改革も破棄されてしまった
呉起の死は商鞅の登場よりも半世紀ほど先立つが、商鞅を殺しても商鞅の法は引き継いだ秦国が強大化したのに対し、呉子を殺して呉子の法も破棄した楚国は、大国ではあっても統制の取れない弱い国として、秦国に圧倒される。


始皇帝が統一に乗り出す【末期】には、名将項燕が現れて一度は秦軍を押し返すが、相手の始皇帝は「天下統一」という戦略プランを堅持しており、老将王翦の再抜擢と、彼の要求をすべて呑んでの総力戦に挑んだ始皇帝によって、項燕は破れて楚国は滅んだ。
数十年後、項燕の息子の項梁と孫の項羽が台頭。
秦を滅ぼし、中華を支配するが、短期間で滅んだ。



【秦国】

西の大国。関中盆地を中心に発展した。
西周時代から勢力を広げていたが、周朝から諸侯と任命されたのは春秋戦国時代に入った直後のことで、周が異民族に攻められて東遷した際に、王室復興に尽くしたために伯爵位を与えられた。

中原で斉の桓公や晋の文公が覇権を握っていた【前期】には、西方の経営と開発に力を注いでおり、中原に対してはあまり目立った行動はとっていない。
【前期】の君主としては穆公が第一に挙げられる。
穆公は百里奚や由余を筆頭として、国内外から広く賢者を登用し、かつ彼らに役割を持たせてよく駆使したため、秦国は強大化して、一気に西域の覇者に躍り出た。
また穆公は、亡命時代の晋文公を匿い、最終的に即位させた張本人でもある。
そうした事情もあって穆公は「春秋五覇」の一人に数えられる。もっとも穆公は、楚国の荘王と同じく、中原の諸侯に対して「覇者」として振舞った形跡はない。

ただ、穆公はあまりにも名君でありすぎた。
穆公が没したとき、彼の人徳を慕う大勢の人士が殉死したのだが、その全員が有能かつ忠誠心にあふれた面々だった。
そんな彼らが一斉殉死したため、一時秦国は大混乱に陥るが、幸いにもその頃には秦国に対抗するような大国は西方におらず、秦国は安定する。


【中期】の秦国は、斉国が田氏に、晋国が六卿に乗っ取られ、楚国が呉越に破れるのを後目に、そこそこ安定して存続した。
しかし中原諸国が諸子百家を抜擢して新規人材を駆使したこと、特に魏国で呉起を筆頭としてすさまじい躍進を遂げたことが、魏国に隣接する秦国にも「賢者招集」「体制改革」を意識させることになる。


そして秦国が釣り上げたのが、春秋戦国時代の情勢を一変させる超大物、商鞅だった。

商鞅の改革は、なにを置いても「農民の重視」を第一とする。農民は有事には徴兵されて兵士にもなるから、農民の重視とは「農業と軍事の重視」のことだ。
一人前の人間として扱われたければ、農事と軍事にて功績を挙げるほかはない、ということを徹底し、弁舌や無用な学問・よけいな技芸では昇進どころか食べることもできないほどの厳しい価値観を広める。
しかもこれは農民だけに与えられるものではなく、貴族や役人にまで徹底された。名門の子弟であろうと、与えられたノルマを果たせなければ地位を落とされる。

そのうえで、褒賞と刑罰を厳格かつ明確にする。
挙げた業績に対して、褒賞が確実にもたらされるから、ひとびとはなんとしても手柄を立てようとする。犯した悪事に対して、刑罰が確実にもたらされるから、ひとびとは最初から悪事を避けるようになる。
その法律・刑罰・褒賞の厳格さたるや、王太子やその補佐役の諸公子、つまり直系王族にまで及んだ。大臣や官吏が驚いたのはいうまでもない。

さらに国内の行政システムにしても、効率化やスピード向上を徹底する。これは業務処理の改善のみならず、役人が汚職・賄賂を行なう余地を無くすものである。
連座の法も用いられ、民衆は同胞に対しても「犯罪行為をやめろ!」と厳しく説くようになった。
実は、これら商鞅の改革は、先行する管仲たちの改革と似ているところが多い。

こうした改革によって秦国の人たちは、農地に行けば力を尽くして開墾し、戦場に出れば血眼になって敵に襲いかかった

さらに第二次改革で、大家族を分家させて辺境に移し、開墾できる・するしかない状況に追い込み、土地の開発と戸数の増加を同時に図らせた。
また行政区核を「県」を中核として再編し、また農地の再測量も並行して、国内の行政システムを一新・効率化させた。
同時に国内の度量衡も統一して、国内での情報疎通を簡素にした。

農地が開墾されて生産力が増大し、民衆に規律が生まれて兵が強くなり、行政システムが効率化されて汚職が減れば、国力が増して当たり前だ。

かくして秦国は超大国となる。しかも、同じく「戦国の七雄」と言われた斉燕韓魏趙楚の六カ国とは、桁外れの国力を備えた「一強」の存在となった。
秦を除く「七雄」を「六国」というのも、「秦は他の六国とは別格」というニュアンスが強い。

以後、秦国は六国に兵を出し、そのたびに勝つ。ちなみに秦国では商鞅の改革により「敵兵の首を挙げること」が昇進にかかっていたため、この時期からの秦国の記録には「斬首七千」などの記録が明確になった。もっとも、兵たちが水増しした数値であることは間違いない。


商鞅は、彼を支えてくれた孝公がわずか四十五歳で急逝したことから失脚し、惨殺される。
しかし秦国は、商鞅は殺しても商鞅の改革は引き継いだため、その国力は時間を追うごとにますます強大化した。
以後は「強大な秦国に、六国がどう対処するか」という【後期】に変わる。秦国は常に情勢の中心にあったのであり、その意味で商鞅の改革は、春秋戦国時代の大きな節目となった。
六国サイドでも改めて富国強兵と改革が行なわれたが、秦の商鞅のそれほど徹底はしておらず、また「六国が一致団結して同盟を結んで秦と対処する」という「合従連衡」も、六国同士にこれまでの怨恨や利害闘争があったために「一致団結」することができず、秦の強勢を覆すには至らなかった。

秦の昭襄王は在位年数が55年に及ぶ長命な君主で、【後期】を代表する人物だが、国内では権力闘争こそあれども国力そのものは安定して強く、国外では名将白起と商鞅以来精強なままの軍隊によって、向かうところ敵なしだった。

ただ、これほど強く、かつ六国を圧倒していたにもかかわらず、六国を明確に滅ぼしたことはない。
壊滅状態に追い込んでも、しばらくすれば撤兵して復興させる、と言うふうで、むしろ「隣国は隣国に治めさせるのがよい」「亡国を復興させるのがあるべき姿」と思っていた節が強い。
この時代までには、秦国にも「中華文化圏を単一の行政システムのもと統一する」という発想がなかったのだろう。


その情勢が、韓非子始皇帝によって変わる。【末期】の訪れである。
始皇帝、統一までは秦王政だが、彼は韓非子の教えを受けて「天下は統一すべきであること」「国力・戦力では秦国はとっくに可能で、あと必要なのは君主の気力のみ」と教えられて、いよいよ天下統一を視野に入れて行動を開始
それなりに苦戦はしたが、短期間で六国を併合し、BC.221年に天下を統一。
西周~春秋戦国時代までの封建制ベースの諸国併存体制から、「単一の行政システムによって中国文化圏を管理・運営する」、世にいう郡県制を前提とした秦朝の時代――秦代――が幕を開ける。




【その他の諸国】

以上の三晋)・の大国が春秋戦国時代の顔だが、この五大国/七大国のほかにも印象深い国は多い。

魯国

周公旦の長男を国祖とし、斉国の西南に隣接した。
小国というには大きいが大国というほどでもなく、特に軍事力は弱くて、一時期を除けばほぼ斉国の衛星というか、属国に等しい*6
さらに、【中期】からは三つの有力貴族「三桓」が実権を握り、しかも彼らは晋国の六卿と違って、国力増強よりも三桓同士の内紛に励んだため、魯国はますます衰亡した。

孔子はこの魯国の出身で、周公旦を始祖とする周の礼制を学んだと見られ、彼の研究した「儒学」が、中国人伝統の先祖供養と融合して「儒教」へと発展する。
とは言え、孔子が魯国に仕えていた時期は実は短く、ほとんどは弟子たちと各国を放浪していたので、「魯国が儒教に影響を与えた」というわけではなかったりする。
本人もあまり就職先として魅力的ではなかったようで、斉国に仕官運動を挑んだりしていた。


宋国

斉国や魯国のさらに東南にあり、西の晋国・南の楚国との中間に位置する。
殷王朝の王族微子啓を祖とする国で、殷王朝の祭司を継ぐというちょっと独特な国*7。ほとんどの国が侯爵か伯爵である中、旧王家の末裔ということで最高位の公爵位が与えられていた。

爵位は高いが国力はさほどではなく、魯国よりちょっとマシというていど。
春秋戦国時代は全期間を通じて弱い国だったが、斉の桓公の没後に、時の君主襄公が「覇者」になろうと画策したことがある。
しかし襄公は「宋襄の仁」を発揮して無様に大敗し、襄公本人もその戦いでの負傷から回復できず二年後に死亡。覇者の名誉は夢と消えた。

それ以後はあまり振るわなかったが、生前の襄公が斉の桓公とも晋の文公(亡命時代)とも親しくしていたため、かつ地理的に楚国に対する最前線でもあったために、斉と晋の両国と良好な関係を結んだ。


鄭国

中国のほぼ中央、中原に限定すれば南にあった国。つまり、西は秦国・北は晋国・東は宋国(延いては斉国)・南は楚国に接していた。
とくに、中原の大国・晋と南方の大国・楚のあいだに立地するというのは、のちのち重要な要素となる。

鄭国は、実は春秋五覇の筆頭・斉の桓公以前に、覇権を握ったともいえる国だった。
鄭国自体は西周末期に最後の王・幽王の父の代に弟を分封した国であり、犬戎系の勢力だった秦と共に春秋初期には新興国だったが、立地の良さと王の近親と言う事から卿士筆頭(後世で言う摂政や首相)を務めていた。
西周崩壊時にも唯一幽王の元に来援したのが鄭国初代君主で幽王の叔父桓公だった(とは言え、摂政として甥の暗愚を諫められなかった責任を取る形であり、「若い者を巻き添えに出来ない」と僅かな老兵を伴っての自殺目的の出撃だったが)。
桓公以前を【黎明期】とすれば、その中心にいたのが鄭の荘公で、封建制における王として、諸侯の盟主としての権威を誇示しようとする周王朝に対して、正面からノーを突きつけた
これは言葉や比喩や脅しではなく、現に諸侯連合軍を率いて鄭国討伐に乗り出した周王を、鄭軍を率いて打ち破ったばかりか、王本人に矢を命中させている
「諸侯の盟主となって、秩序を乱す敵を打ち負かす」のが封建制の王であれば、その姿は完全に否定されてしまったわけだ。

この荘公の時代は鄭国の全盛期で、斉国も娘を娶らせようとしていたほど。
しかし荘公没後は統制が取れなくなり、かつ近隣の斉国や晋国が強大化するにつれ、国力が衰える。

しかし南方の楚国と北方の晋国が覇権を競うにつれ、その中間点に位置する鄭国は別の活路を見いだした。
つまり「今日は晋国の盟約に従い、明日は楚国の覇権を受け入れ、楚国がとがめれば謝罪し、晋国がとがめれば詫びて、柔軟に生き残る」という面従腹背というか、二股膏薬的な外交政策をとった。
おかげで一種の「緩衝地帯」となって、意外と程よく生き残ることができた。

もっとも、両大国の意向ですぐ方針が変わるために、国内の政治や制度は乱れきり規範は無きが如しとなり、国内は混迷を極めていた。
この状況を憂えたのが賢人子産で、法律の公開を筆頭とした数々の改革によって鄭国は一時的に規律を築き上げるが、子産が没すると彼の改革はまたも消滅してしまった。
その後は韓国に滅ぼされるが、今度は韓国が地理的用件から窮乏し、秦国の属国同然となってしまう。




【諸子百家】

大国の存在が春秋戦国時代を彩る主役なのは間違いないが、同時に春秋戦国時代を彩るのが諸子百家とも総称される、数多くの人士であることも間違いない。

時代にもよるが、彼ら英雄豪傑たちの特徴は、諸国を渡り歩くため特定国家への帰属意識が薄いことにある。
つまり、登用されて自分の意見が採用されるならどの国にも行くし落ち着くが、その国が自分の意見を採用しないと言うなら故郷であってもあっさり離れる、ということだ。
君主の側も、賢者と見ればどんな身分のものであっても抜擢して国政を授ける、という行動をよく見せた。
もっとも、抜擢してもまた反論があれば取り止める、ということも多かったため、また目新しい意見にすぐ流されるなどの定見の無さも加わって、不遇に終わったり翻弄された人物も多い。代表的なのが呉起だろう。

なお「諸子百家」といまでは当たり前のようにいうが、この用語は後漢時代に作られたもので、春秋戦国時代の実態はあまり反映していない。
とくに「百家」つまり学閥や学問の系譜というものを意識したのは、春秋戦国時代では儒家と墨家のみだった。
そのため、儒家と墨家のメンバーを除けば、「○○家」というものの区別はあまり意味が無かったりする。

ちなみに、「諸国を股に掛けて自分の理論を主張する遊説の人士」のモデルを作ったのは、孔子である。
孔子以前の、例えば管仲は、君主に一気に抜擢された点で諸子の典型っぽいが、「諸国を股に掛ける」というほどの行動力は見せていない。
まあ孔子本人は「なぜ我が意見が受け入れられないのだ」と嘆いていた節もあって、「諸子百家の先駆けですね」と言われても嬉しくはないだろうが……。


ただ、彼ら諸子の幅広い活躍と研究、そしてそれらを奨励した君主たちの応援によって、後世「百家」「百家争鳴」と言われるような無数の学問・研究・哲学が花開いたのは間違いない。
春秋戦国時代に由来することわざが数多くあるのも偶然ではなく、この時代が中国思想史の黄金時代であったからなのだ。
また国際情勢が五大国(七大国)で何となく安定し、それでいて戦乱=思想実践の場が絶えなかったこともあって、単なる「思想が発展した」だけではなく「実践方法も発展した」春秋戦国時代は、国家レベルでも個人レベルでもとても楽しい時代となった。
そのため、管仲や楽毅を代表とする人物たちのエピソードはどれをとっても悲喜交々、おもしろいものばかりである。

かくのごとく、春秋戦国時代が政治面のみならず思想面・文化面においても、極めて重要な時代であったのだ。



【その他の要素】


◇封建制から郡県制へ

春秋戦国時代を「周代から秦代の過渡期」と見た場合、最大の特徴は「郡県制・官僚システムの普及」だろう。
詳しくは封建制も参照してほしいが、周代までは封建領主に中国各地を統治させるという地方行政システムで、これは春秋戦国時代でも引き続き使われている。
また、周王は諸侯に領土を与えて封建するが、封土を与えられた諸侯も、自分の領内に封建領主を作り、領主に封土を統治させていた。
(典型的なのは、晋国内部で封土を持ち、最終的に自立した、韓・魏・趙の面々だろう。彼らは晋公室ありし時から晋の国内領主だったのだ)
秦代はこれがほぼ完全に廃止され(名誉職としては多少残る)、地方行政システムは世襲ではない官僚を派遣して統治させる「郡県制」に切り替わる。

この郡県制だが、これは何も韓非子と始皇帝の独創ではなく、春秋戦国時代の中期から後期にかけて広まっていた。
主に晋(三晋)や秦で広まり、呉子も楚国で実施しようとした。

ただ、これら郡県制はあくまで「各国内にあった封建領主を解体して、国王直属の郡県制にする」というもので、天下全体の封建制を解体するようなものではない。
また、始皇帝以前の各国の郡県制は徹底されたものではなく、封建制との併用だった。

典型的なのが秦の昭襄王の叔父、魏冄(ぎ ぜん)である。
彼は昭襄王の母の弟で、宰相として辣腕を振るったのだが、彼は秦国から離れた「陶」という場所に封土を持っており、秦軍を動かして敵を破っては、占領地を自分の封土に加えていた。
つまり魏冄は、秦国内部の封建領主として、強い力を持っていたわけだ。
しかも魏冄や昭襄王の時代の秦国は商鞅の改革から百年近く経過しており、郡県制の理解や研究がかなり進んでいたにもかかわらず、である。

そういうわけで、確かに春秋戦国時代を通じて郡県制が広まったのは事実ながら、完全に切り替わる趨勢だったわけではないということだ。


◇統一の気配はいつ生まれた?

年代記を見ると、周の統一的権力が崩れて、代わって秦が統一したかに見える。
しかし、周代から春秋戦国の全期間において、各大国は他の大国を、いくら攻めても完全に滅ぼしはせず、復興させるのが常だった。これは封建制の常識が存在していたからだろう。
大国を滅ぼして郡や県に再編して、以後は官僚支配に切り替える、というのは、実は始皇帝だけがやったことであり、これに関しては前例がない。

そのため、もしも始皇帝が歴史に現れて天下を統一することがなければ、
中国史は七大国が共存しあうまま、何千年も現状維持が続き、現在のヨーロッパのように複数の国が併存し続けたのでないか、という論もある。
現に韓非子は「すでに秦国は国力・軍事力ともに天下統一が可能なはずで、しかもこれまでの幾度かの大勝利の勢いを駆れば、天下統一など昭襄王の代でできたはずだ。しかし秦国は君主も群臣も、毎度毎度滅ぼせる隣国を滅ぼさず、撤収しては復興させることを繰り返した。結果、天下統一の機会を逸すること四度に及ぶ」と語っている。

確かに秦国が当時圧倒的に強かったのは疑いなく、事実始皇帝が最初に韓国を滅ぼしてから最後に斉国を滅ぼすまでは、たった11年のことだった。
しかし「単一行政組織による全世界の統一」という、それまでは誰も考えていなかったまったく新しい事業を、敢然と行ったのは、やはり始皇帝自身に類稀なる気力があったからだろう。
もしも彼が統一までの過程で死亡していれば、「中国」は現在あるものとは大きく変わったかもしれない。



ただ、始皇帝が中国全土を統一できたのは、それ以前から「中国は一つの世界」という認識が土台にあったからでもある。
いわゆる「中国文化圏」は、春秋戦国時代に「戦国七雄」と言われた領域、「諸子百家」が自由に闊歩した領域と、基本が一致する*8
特に、言語で言えば各国(五大国圏)で文字の表記や発音や細かい文法が異なるにもかかわらず、つまり「国境と言語」で見れば確実に「外国」だったにもかかわらず、
当時の中国には「天下諸国は一つの世界だ」という認識が広がっていた。それは、諸子百家の面々が、中原から秦や楚まで、国境も言語も無視するかのように移動していたことからも明らかだ。

これは、あたかもヨーロッパにはイギリス・フランス・ドイツ・スペイン・イタリアなど多数の国があり、それぞれ言語も異なりながらも、
キリスト教」「ラテン系言語」を核として(時には、言語は「ギリシャ語系」ながらも「キリスト教」を共有する、ロシアなど東欧を含めて)、
「ヨーロッパは一つの世界」という認識が存在することと類似する。現にその枠組みに沿うかのように、中世では十字軍が組織され、現代ではEUが組織された。

そして始皇帝は、中国は統一したが、その先の異文化圏まで統一しようとしなかった。具体的には、長城で「国境線」を引いた北の匈奴などである*9
始皇帝が歴史に産まれなければ中国は今の姿とは大きく変わったかもしれない。しかし始皇帝の統一事業が無から生まれたわけでもない。
始皇帝の統一事業はあらゆる意味で、春秋戦国時代の総決算であった。



【創作界隈】

司馬遷の『史記』が春秋戦国時代を重点的に描いていたことと、この史記が日本では『新釈漢文大系』にて全巻翻訳されていることもあって、『三国志』に次いで身近な中国史の題材となっている。
なので、それなりの作品が作られている……のだが、三国志関連の作品に比べると、どうにも絶対数が少ない印象を受ける。

小説界隈では、まずは宮城谷昌光がスタンダードとされる。
ただ、キャラクターの個人列伝に近く、全体を俯瞰する要素は薄い。また登場人物の前半生は重点的に描くが、後半生はあっさりダイジェスト化してしまうこともちょくちょく(例えば『管仲』は桓公に仕えるところまででほとんどが終わり、執政となってからは早送り)。

安能務師は『春秋戦国志』で、前後550年の春秋戦国時代を上・中・下の3巻でまとめている。
本作では主に法治思想の発展に着目している。


漫画作品では『キングダム』が有名。これは始皇帝の統一戦争をモデルとしている。
そのほか孫臏を主役とした『ビン~孫子異伝~』、蒼天航路で有名な王欣太の『達人伝〜9万里を風に乗り〜』など、やはり三国志ほどではないが、春秋戦国時代の作品はある。





追記・修正は春夏秋冬を問わずいつでもどうぞ。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 中国
  • 中国史
  • 春秋戦国時代
  • 三晋
  • 諸子百家
  • 始皇帝
  • 韓非子
  • 郡県制
  • 封建制
  • 東周
  • 春秋
  • 史記
  • ことわざ大量発生
  • 故事成語が産まれる時代
  • キングダム

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年03月18日 11:27

*1 その意味では、中世ヨーロッパのローマ教皇とはかなり異なる。

*2 尭舜の項目にある「禹は臣下の伯益に禅譲したが、禹の王子・啓が伯益を殺して世襲した。世間はこれを禹の陰謀だったとした」旨の記述が記してあるのは「史記・燕召公世家」のこの辺りである。

*3 なお、この際「諸国連合を組織したこと」も勝因のように言われるが、諸国連合軍は最初の対戦となった「済西の戦い」で勝利するとすぐ解散しており、その後の「七十城制圧」は燕国単独で行なったことである。

*4 秦国の離間の計が響いたからだが、この当時の秦王は始皇帝ではなく、その父親である。つまり天下統一のプランもない秦国にも、信陵君は敵わなかったということになる。

*5 この際、楚国討伐の根拠として管仲が挙げた「楚の罪状」に、「楚国が請負っている貢納品の未納」と、上述した「四代目周王・昭王が長江で行方不明となった件」を用いている。対して屈完は「未納の罪は認めるが、周王の件は知らない、長江の流れに問われよ」とうまい返しをしている。

*6 唯一、管仲の改革直前には軍事的に優位に立ったこともあったが、管仲台頭後すぐに抜かれた。

*7 同じく殷王朝由来の諸侯国には衛国がある。

*8 現代中国の領域、という意味ではない。あれは清代の領土を前提とする。そして清朝は、ホンタイジが「満州とモンゴルのハンを兼務」し、康熙帝が「チベット仏教(ダライラマ)の保護者・文殊皇帝」となったように、いわば「満州やチベットやモンゴルや中国の同君連合国」であり、決して中国文化圏がチベットや内モンゴルなどを併合したわけではなかった。中華民国(袁世凱)も漢・満州・蒙古・新疆・チベットの「五族」の存在を前提とした「共和」を訴えている。

*9 ただしこのことは始皇帝が異民族を差別したことを意味しない。というのも、始皇帝の陵墓に副葬された兵馬俑には、匈奴系や巴蜀系、西アジア(西域)系などの、異民族兵士の俑も存在するからである。