韓非子

登録日:2023/05/23 Tue 23:00:00
更新日:2024/01/10 Wed 00:37:48
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韓非子とは、春秋戦国時代に登場した人物、およびその著書。
秦の始皇帝の師匠として知られる。
BC280~BC233。

姓が韓で、名が非。「子」は敬称である。
もともとは「韓子」と表記されており、『史記』でも「韓非」か「韓子」表記だけだったのだが、唐代の文豪にして大儒者韓愈が「韓子」と敬称されるようになると、先達であるはずの韓非のほうが「韓非子」と区別されるようになった。
しかし儒者は韓非子を「冷酷非情な非君子」とひどく嫌っていたので、敬称を使いたくなかったという本音も見え隠れしないこともない。



【人物】

出身は春秋戦国時代末期の韓国*1
その姓からわかる通り、韓王家の出身であった。
ただ、どうも王族でも末端の位置づけだったようだ。また吃音症であったとされ、末期韓の混沌を憂いてさまざまな提言をしたが、朝廷には採用されなかったという。

しかしその欝屈をバネにしてか、韓非子は大量の論文を書き連ねた。
若いころは荀子の門下で学問を学んだ時期があり(そのころの学友に李斯がいた)、さらに帰国後は老子・申不害・商鞅・慎到などの書物も研究して、切れ味鋭い独自の学説を磨いていった。

そうした韓非子の知見を見抜いたのは、韓の朝廷ではなく、隣国のであった。
時の秦王は、嬴政(えいせい)。後年の始皇帝である。
始皇帝は、韓非子が著した論文「孤憤」「五蠧」の二編を入手し、その見識に感激。「この人物と出会えたなら、死んでも悔いはない!」と叫んだ。
また同時期に始皇帝は、尉繚子(うつりょうし)*2を迎え入れている。ちょうど尉繚子が来たときと、始皇帝が韓非子の論文を読んだ時期が一致しているので、尉繚子経由で韓非子の実績は伝わったと見られる。
始皇帝は韓非子の見識が深いことを知ると、軍を起こして韓国に攻め込み、講和の使者に韓非子を指名するという、強引だがある意味後腐れのない方法で、韓非子を秦に迎えた。

もっとも、韓国朝廷から完全に無視されていたわけではないらしく、「老子韓非列伝」では秦軍の侵略にあわてた韓王が使者に抜擢したといい、「韓世家」では韓王安の五年には韓王安から諮問を受けたという記録もある。

いずれにせよ、始皇帝の前に招かれた韓非子は、まずは韓国からの講和の使者として勤めを果たした。
しかしその講和交渉の中でも、秦国と六国の分析、および秦が天下を統一するにはどうすべきかを批判口調で論述
特に、秦は昭襄王の代には六国を破り天下を取る機会が最低でも4回はあったとしながら、いずれも果たされなかったのは、国力の問題ではなく群臣たち、延いては秦王にその気力がなかったからだ、と堂々と言い放った。

逆に韓については、完全に秦の属国、むしろ郡県の一部に等しいとまで言って「あえて滅ぼすまでもありません」と、命乞いなのか痛烈な批判なのか分からない言葉で存続を願っている。
外交官としての最低限の義理は果たした、ということだろうか。


とにかく、始皇帝は韓非子を大いに気に入り、彼を秦都・咸陽にとどめて、丸1年彼から教えを受けた。

しかし、韓非子のことを気に入らない朝臣が秦国にはいた。
かつて同門だった李斯や、姚賈という大臣である。2人は始皇帝に「彼はしょせん韓の王族であり、秦国のために働くはずはなく、帰国させてはなりません、殺すべきです」と讒言。
始皇帝は一度は韓非子を監禁したが、やがて思い直して釈放を命令した*3
が、その時には韓非子は、李斯から届けられた毒薬を服用して自殺していた
時に秦・始皇十四年である。


しかし始皇帝は、韓非子は死んだが、韓非子が残した数々の文献は回収した。
それがやがて十万字の書物『韓非子』として世に伝わる。

韓非子自身は、政治家としては大成しなかった。
韓王の諮問に答え、秦への外交使節となり、始皇帝の諮問に答え、一年以内に没した、というのが政治家・韓非としての全活躍である。
しかし、韓非子の思想を残したこの書物『韓非子』によって、そしてその思想を実践して高度な帝国を作り上げた始皇帝によって、韓非子の名は歴史に残ることになった。


【書物『韓非子』】

書物としての『韓非子』の成立は例によって明確ではない。
しかし、少なくとも『史記』が完成したBC90年頃には現在の形式が完成し、そのまま現代まで引き継がれていることは間違いない。
というのも、現行の韓非子は全二十巻・五十五篇構成で105494字*4、とされるが、『史記・老子韓非列伝』において「韓非子の著作は十万字余り」、『漢書・芸文志』では「韓非子は五十五篇」と記してあるからだ。
これが『孫子』や『呉子』ではそうは行かない。時代によって増えたり減ったりを繰り返している。例えば現在の『孫子』は十三篇構成、『呉子』はわずか六篇だが、『漢書・芸文志』では「孫子は八十二篇、呉子は四十八篇」とあり、かなり分量が多かった時期がある。
『慎子』は『漢書・芸文志』では「四十二篇」とあるが宋代の『崇文総目』では「三十七篇」となり、現在はわずか五篇しか残っていない。『申子』二篇は完全に散逸している。

また『史記』では『韓非子』の一部記述をまるまる書き写している場面があり、これも現行本とほぼ一致する。

司馬遷は前漢代中期の人間で、それが『韓非子』を一つのテキストとして入手していたということは、書物『韓非子』は前漢初期、おそらく秦代には現在のような形で完成していた、と見るべきだろう。

文体としては、ほかの諸子百家の書物(例えば「荘子」など)と比べても平易で読みやすい文章なのが特徴。
古代中国から春秋戦国時代の予備知識こそ必要になるが、例えば「荘子」のような晦渋で難解な言い回しはそんなにない。
また、説話集であるが故に、古代から春秋戦国時代までの事件・社会情勢・非正統的な異説を知る良質な資料集でもある。


◇文章の種類

書物『韓非子』の内容に目を向けると、大きく分けて2種類の文章から成り立っている。

一つは「事件の記録」。韓非子が収集したのであろう、古代から現代(韓非子が生きていた時代まで)に起きたいろいろな事件の記録。
「十過」や「説林」などがこれにあたる。

一つは「韓非子自身の論文」。韓非子が独自に構築した、法や道に関する思想を書き連ねた独特な論文。
「主道」「有度」や「六反」、若き日の始皇帝に提出したことで有名な「孤憤」「五蠧」もそうである。

この「事件の記録」と「韓非子の論文」の中間の形式として、「事件を記録し、それら事件に対して韓非子の注釈・解説・論文を添える」というものがある。
「儲説」「難」や「解老」「難勢」などがこの様式。
しかし「解老」「難勢」などは、老子や慎子の論を土台としながらも、韓非子の論が(注釈というレベルを超えて)多くを占めるため、「韓非子自身の論文」といっていいだろう。


◇事件の記録

「事件の記録」に関しては、春秋や史記にも記されるような「正統的」な記録だけではなく、儒教的正統性に真っ向から反するような記述もある。
例えば尭舜は禅譲したのではなく、舜がクーデターで尭を駆逐したのだ」と記録したものもある(ちなみに『史記』では、五帝本紀にではなく燕世家に記録)。
また、単に歴史や権力情勢を記したものだけではなく、庶民の感情や情景を写し出したものもあって、春秋戦国時代の社会情勢を知る上で興味深い記述も多い。
例えばこんな話がある。

「ある夫婦が神に豊作の祈りを捧げた。しかし妻は「災いが起きませんように、百束の布が手に入りますように」と祈っている。夫が「なんだ、小さい願いだな。もっと大きく願ったらどうだ」とからかった。
すると妻は急に無表情になって言った。「あまり裕福だと、あなたは妾を買うでしょう」夫は絶句した。

全体からすると分量は少ないのだが、そういった庶民の風景を書き写しているところもあって、非常に興味深い。


◇韓非子の論文

一方で「韓非子の論文」の部分は非常に切れ味が鋭く、歴史上で美談と伝わる話でも、韓非子にとっては「愚か者どもの愚行の集まり」でしかなくなってしまう。

例えば、管仲である。

管仲は死の寸前、主君の桓公にお気に入りの側近「三貴」を近づけるな、と遺言した。
桓公は管仲死後、一時は三貴を遠ざけたが、やがて*5三貴を呼び戻し、最終的に国政を預けたが、やがて桓公が病に倒れると即座に三貴が反乱を起こし、桓公は病室を外から封鎖され、そのまま餓死
しかもその後の息子たちの反乱によって二カ月以上も放置され、死体は腐乱してうじが湧き、そのうじが部屋からあふれて、やっと休戦した息子たちによって埋葬された。「春秋五覇の筆頭」としては最悪の末路だった。

しかし韓非子は、三貴を用いた桓公よりも、桓公に対して「三貴を用いるな」としか言わなかった管仲を批判した
つまり管仲は桓公に、臣下の正しい抜擢の仕方と、権力の限定と分散化(権力の全権委任をするべきではないこと)を教えるべきであった。
そもそも、一国に悪事をたくらみ野心を燃やす臣下など、無数にいる。たかが三貴の3人を除いたところで、野心ある第二第三の三貴が現れるのは必定であった。つまり「三貴を除け」というのは意味のない対処療法に過ぎない。
また、臣下一人に*6全権を委任することも深刻な危険があった。
全権を握った臣下(韓非子はこれを「重臣」「擅主(せんしゅ)の臣」と定義している)は他の大臣・役人を完全に統括して、政治と権力の全てを差配し、対する君主は実際にどういう政治が起きているのかも分からなくなる。
そうなっては、病室に閉じ込められて餓死すると言うのも、起きて不思議はない。

つまり桓公は、三貴のみならず管仲を抜擢したときからずっと間違ってきた
そして管仲も、彼自身が典型的な重臣でありブーメランになることを嫌がったためであろうが、桓公の過ちを指摘せず、三貴を去らせるという、対処両方だけを教えた。
管仲の遺言は間違っている。

これは「難一」の記述である。
一般には、管仲の遺言を聞かなかった桓公の過ちとされがちな「桓公の病室殺人事件」を、管仲の遺言から徹底的に批判検証したもので、この毒舌と言えるほどの鋭い論調は韓非子の面目躍如と言った趣がある。


◇文章の集合、論調の成長

ところで、書物『韓非子』の一つの特徴は、全体としてはあまり趣旨一貫はしておらず、多数の文章の集合体であることだろう。
ありていに言うと、韓非子が一つの意志のもと一気に書き上げたのではなく、韓非子がその生涯で書き連ねていた無数の論文をかきあつめて一冊に綴じたものが、司馬遷も参照した書物『韓非子』なのであろう。

それは、上述した桓公・管仲のことについてもそうである。
管仲の遺言自体が間違いだ、というのは「難一」に記述したもので、「十過」では定説通り「管仲の遺言がせっかく正しかったのに、その諫めを聞かなかった桓公が悪い」とまとめられていた。

また「難一」では管仲への全権委任を批判していたが、「外儲説・左下」では桓公が全権委任をしなかった(正しい判断をした)との記述もある。それによると、

桓公は最初、管仲に全権を委任しようとしていた。しかし大夫の東郭牙が反対した。
「管仲が天下を図る知略を持ち、大事を図る胆力を持ち、さらにいま主君から全権まで与えられて国政に臨むとあれば、主公こそ危ういではありませんか」と。
桓公はなるほどとうなずき、内政は隰朋(しっぽう)*7に治めさせ、管仲には外交を任せた

「十過」では「管仲の遺言を聞き入れなかった桓公を批判」し、「難一」では「桓公は全権委任という愚行を侵し、管仲はそれを諫めなかったと批判」し、「外儲説・左下」では「桓公は全権委任を思い止まったと肯定」し、と場所によって桓公・管仲への論調が異なる。
これは、書物『韓非子』に複数人が関与した、というものではなく、韓非子の思想が何年もの研究で変遷していること、その変化を書物『韓非子』がダイレクトに残していることを示す。

韓非子といっても人間である。最初から完成品の韓非子として生まれるわけはない。
それにパソコンなどない時代に、漢字だけで十万字以上の論文を、短期間に一気に書き上げるなど不可能である。
論文を一つ書くごとに思考を磨き、思想を深化させ、何年も何十年もかけた果てに、始皇帝をして「この人に会えるのならば死んでも悔いはない」と驚嘆させる韓非子に至ったわけである。

もし、韓非子の思想を踏まえる誰か後任が書き加えたのなら、「十過」のような通説通りの記述を書き加えはしないだろう。


また、書物『韓非子』をよく読むと、一つの章でもあまりまとまりがなく、話が飛んでいることも少なくない。
例えば「外儲説 左下」の桓公は権力を分散した、という記述の次は

晋の文公が亡命中、食料番がはぐれた。しかし彼はどれだけ飢えても、手元の文公用非常食は食べなかった。後でそれを知った文公は彼を城の長官に抜擢した。
しかし別の部下は「非常食と城は魅力の桁が違う。部下の善意を当てにするのではなく、たとえ部下が悪心を抱いても背きようのない体制を作るべきだ」と諫めた。

陽虎*8は野心家で、各国で悪事を働き追われていた。しかし趙の簡主は陽虎を迎え入れて宰相とした。反対する側近に簡主は「奴は盗もうとし、私は守ろうとする。それでいい」と答えた。果たして陽虎は悪事をせず、その能力を駆使して簡主の王業をよく補佐した。

と続く。
ここまでは「君主の臣下の使い方」ということになるが、その次は少し趣が違い、

魯の哀公が孔子に「むかし()と言うのが一本足だったと言うが、本当かな」と訪ねた。
孔子は「彼は性格が悪くて誰からも嫌われましたが、ついに危害を加えられなかったのは、信義だけがあったからです。一本足という意味ではなく、‘‘一にして足りた’’という意味です」と答えた。
また異説として、「彼はたいてい無能でしたが、音楽の才能だけはありました。その一芸だけで尭から音楽担当に抜擢されたのです」と答えた。

とある。

名君は臣下が背かないことを期待するのではなく、背きようのない体制を作って臣下を使うのだ、という論調でまとめられながら、最後の夔の話だけは、信義でも一芸でも、あまり「臣下の統御論」とは関係が薄い。
また、「夔は一にして足る」とは故事成語としても知られるが、ここでは「信義」「音楽の一芸」の2つを併記している。
韓非子はいくつかの情報を得たとき、それらを「こちらが正しい」とするよりも両方併記することが多い。おそらく論文と言うようなものではなく、資料を収集する過程で作ったメモだったのだろう。
これもまた、『韓非子』が韓非子の生前記述した無数の論文やメモ書きを、正直あまり整理せずにまとめたことの傍証と言えるだろう。

「初見秦」「存韓」「難言」は韓非子が韓からの講和使者としてやってきたときの記録のようになっているため、やはり秦が韓非子関連の資料をまとめたものが原形であろうか。


【韓非子の思想系譜】

書物『韓非子』は十万字に及び、また上述したようにさまざまな論調が入り混じっていて、決して首尾一貫したものではない。
しかし、それゆえに韓非子の生の息遣いや、毒舌とまで言えるほどの激しい論調を読み取ることが可能である。

さて韓非子は、その記述によると、老子商鞅慎到申不害の四者の思想を特に継承している。
(もちろん直接の師匠であった荀子、先行する管仲(特に書物『管子』)などの思想も影響しているが、韓非子が直接名を挙げるのはこの四者)
商鞅からは「法」を、申不害からは「術」を、慎到からは「勢」を、老子からは「タオ」の思想を、発展継承させて、法律・刑罰・賞与・治国を導き出す。

◇申不害の「術」

申不害とは、韓国の宰相である。彼は、君主が官僚・役人を管理・運用する方法を研究した。それを「術」という。

まずは越権行為の禁止である。たとえ、良かれと思ってしたことであろうとも、もともと与えられた責務を超えたことは、してはならない。
任務一つにつき役人は一人*9、を徹底し、任務以外の業務を負わせないこと。これを申不害は徹底した。
なぜなら、役人が権限を超える部署に口を挟めるようになれば、役人同士での馴れ合いや結託、癒着が横行し、責任の所在も不明瞭となって、やがて私党も結成される。
また、役人が権限を超えて複数業務を兼任することがなければ、与えられた目の前の任務に集中し、より手早く事業を達成できるし、技能も成長させられる。

また、職務に着く前にはあらかじめ「こういう事業を行ない、こういう結果を得られる」というプランを進言するが、その進言を超えた振る舞いは禁止である。
臣下は君主の言動に合わせて自分の行動を取り、迎合する。君主は自分の感情を露骨にすることを避けて、ただし臣下の言動を記録し、言論と実績を付き合わせて符合させること(符合せず矛盾が生ずれば問題とすること)を重視する。

この「一人一官」「形名参同」を中心とした、官吏のコントロールが申不害の「術」であり、韓非子はこれを肯定する。

◇商鞅の「法」

商鞅は、秦国に仕えてからは徹底した法治思想を敷き、秦国に強固な規律を設け、春秋戦国時代後期における秦一強の時代を造り出した立役者である。

商鞅の法は、役人や民衆に賞与や刑罰を下す基準である。
賞与は為した善事に基づいて正確に下され、刑罰も侵した悪事に基づいて必ず処断し、また告発体制を築くことで仲間打ちの結託を禁じた。
それによって民衆は、仕事や労働に対して手を抜かず、兵役に出れば勇敢に戦い、秦国は富国強兵を成し遂げた。

そして商鞅の法治の最終目標は「刑を以て刑を去る」ことであった。
犯した悪事にはかならず刑罰が下され、為した善事にはかならず賞与が下される、ということになれば、庶民や官吏は自ずから悪事を避け、善事を行なう。
つまり社会に規律が生じる。
そうなれば、いずれ刑罰を下すことも必要ではなくなる。誰も悪事を犯さなくなれば、無闇に刑罰を下すこともなくなる。
刑は確かに存在するが、人々が法を破らないので、使う必要がなくなる。それが法治思想のもっとも目指すところである。


しかし、韓非子は「申不害の術、商鞅の法は、まだ未完成である」とした。
まず申不害のいた韓国は、かつて晋国だった時代の法律や、先君以前の旧法が残っており、またもちろん申不害の改革した新法も施行されていて、法体系が統一されていなかった。
だから官吏たちは、利益が旧法にあればそっちを持ち出し、新法が利益となればそれにしたがって、いくらでも「術」を潜り抜けられる余地があった。

商鞅の改革した秦国では、確かに庶民の規律は整い、富国強兵も見事達成された。しかし、官吏の動向を把握しコントロールすることは不徹底であった。
そのため、重臣たちが己の利権のために国家権力を使うようになった。
具体的には、穣侯()(ぜん)や応侯范雎(はんしょ)は、秦軍を動かして自分の封建領地を拡大したのである。


また申不害の「術」自体も、確かに一人一官はよいが、別の役人が犯した悪事を告発することも防ぐ弊害があった。
君主が臣下を監督するとき、自分の耳目だけを使うのではない、国中の人間の耳や目を使って物事を見抜くのである。しかし申不害の「術」は、この流れも禁じてしまう。

商鞅の「法」も、完成ではない。商鞅は「敵の首を切ったものを登用する」と、戦争参加を基準としていた。しかし、敵の首を切ったものを医者や大工にしても、病は治らず家も建つまい。商鞅の法も改善の余地がある。


◇慎到の「勢」

慎到は、斉国の「稷下の学士」の一員。時代的には商鞅や申不害、あるいは孟子*10と同時代である。
慎到は「(りゅう)()(いん)()」の言葉で知られる。龍は雲に乗って空を飛び、(とう)()*11は霧のなかで霊験を表わす。しかし雲が去り霧が晴れれば、龍はミミズ、騰蛇は虫けらの正体を現す。
たとえ君主や大臣といっても、その権勢(雲や霧)を失ってしまえば、ただの人間に過ぎない、というわけだ。

国家にはそれ自体「」がある。その権勢を行使する限り、王侯や大臣は大きなことができる。
桀王や紂王は、王としてその権勢を振るったからこそ暴君として名を残したが、彼が庶民だったらあんな大悪事はできず、すぐ官憲に捕まって終わっただろう。
尭も君主だったから聖君と言われたが、あれで庶民だったら三人も治められるかどうかだ。

個人の才能は、民衆を統率するものではない。しかし権勢は、賢者も屈伏させる。
これが慎到のいう「勢」の重要性である。

ただ、これに対して一般的な反論はある。「同じく権勢を得ても、尭舜は善事を為し、桀紂は悪事を為す。個人の資質も関係しているではないか」「権勢を馬車にたとえると、その御者が王良*12であれば千里を駆けるが、そこらの奴隷を御者にしてもまっすぐ進めるかさえ怪しい。尭舜は政治における王良だろう」と。


韓非子はそれらを紹介した上で、特に「勢」の重要性を説く。

確かに、尭舜が勢を得れば国が治まり、桀紂が勢を得れば国が乱れる。それは否定しない。
しかし、尭舜のような聖君も、桀紂のような極悪暴君も、実際には千年に一度現れるかどうかの珍しい存在だ。
ほとんどの君主というものは、尭舜ほど聡明ではないが、桀紂ほど暴虐でもない、中庸な「凡人」である。
韓非子が「法を用いて統治せよ」と言うのは、凡庸な君主でも、あらかじめ定められた基準によって統治していけば、安定して国家を治められるからである。

確かに桀紂が法治体制を掌握すれば、国は乱れる。しかしそれは、千年に一度乱れることだ。
法治体制を維持していれば、千年のうちほとんどを安定して統治できる。しかし法治体制を維持せず君主の素質だけに頼っては、よく治まるのは尭舜が現れる千年に一度しかない。
君主の賢愚に頼れば、千年に一度しか治まらない。法治に頼れば、千年に一度しか乱れない。どちらが良いかは一目瞭然である。

また慎到への反論者は「同じ馬車でも、王良が御すれば千里を駆け、奴隷が御すれば運転できない。尭舜は政治の王良である」といったが、別に王良など用いずとも千里を駆けることは造作もない
ほどほどの御者としっかりした馬車を二十組用意し、五十里ごとの間隔で配置する。そして目標地点に向けて全速疾走させ、いわば駅伝方式でリレーすれば、わざわざ王良など用意せずとも「千里を走る」ぐらいのことはできる。
法治体制を敷くことは、凡庸な君主・凡庸な朝臣・平凡な官吏をかきあつめて総動員して、尭舜と同じような安定を築くことにある。


いやもっと言えば、尭舜のような存在は、法治において有害無益でさえある。本質的に「矛盾」してしまうのだ*13
というのも、賢者がその賢能で国を治める際に肝心なのは、その賢能を阻害されず最大限に活かすことである。凡庸な人間が「それはなりません」と賢者の行動をいちいち阻害しては、結局はその凡人が君主をやっていることになる。
しかし法治体制における法律は、何人であっても制御しなければならない。君主も大臣も法に定められた基準に従わねばならないのが法治であった。
つまり法治体制下では賢者は凡人と同列に扱われて賢能を発揮できず逆に賢者の能力を活かそうと思えば法律の制約を解除しなければならない。
「何物にも制御されるべきでない賢者」「何者をも制御下におくべき法律」は、文字通りに「矛盾」するのである。

そして韓非子は、千年に一度しか現れない賢者の出現を期待するのではなく、凡庸な人間たちが集まって造り出す「勢」を制御することを考えていた。


ちなみに、韓非子の思想を実践した始皇帝は、まさに当代一流の政治手腕と、韓非子の直弟子ゆえの思想でもって、空前の天下国家・秦を経営した。
しかし始皇帝は、決して法律を超えて行動する賢者型君主ではなかった
俗に「坑儒」として知られる、背任・横領・逃亡罪を犯した方士が処断された事件で、始皇帝は確かに怒ったが、その怒りゆえに処断したのではなく、御史つまり官吏監察部門に調査を命じ、それから有罪と弾劾された者を処刑をしている。
始皇帝自身、自らの賢能を誇るところはあったろうが、自らも法を抱いて行動していたのだった


◇老子の「タオ」

韓非子は「解老」「喩老」を筆頭として、いくつかの場面で老子の「タオ」の思想を引用している。
老子の思想を学ぶ学者(後年「道家」といわれた面々)は春秋戦国時代にもいるが、韓非子はこのタオの理論をもっとも鋭く解明した人物でもあった。
例えば、道教の思想で有名な「虚静恬淡」「虚無の心」というものについて、韓非子が言った「人は虚無であろうと必死になるが、その時点で虚無ではない。虚無や自由と言うのは、虚無であろう自由であろうという思いにすら縛られないものだ」とは、禅宗の思想にも通じるところだろう。
あと多分どこぞのアンチェインにもぶっ刺さる

そんな韓非子がタオの思想でもっとも重視したのが「道理」であった。現在では故事とも認識されない「道理」だが、これは韓非子由来である。

(タオ)」とは、万物が成立する要因である。
」とは、万物の持つ属性である。
例えば「理」は、四角いとか丸いとか、短いとか長いとか、粗いとか細かいとか、硬いとか脆いとかで、物質の状態である。
しかし物質と言うものは常に変化している。線香は「細い」「長い」「硬い」「緑色」といった「理」を持つが、火を付けると灰となり「短い」「脆い」「灰色」という「理」に変わってしまう。
色一つとっても緑色から灰色に変わる。それは「」が「」を変化させているからだ。いや、「」が「」を変化させることによって、万物の変化をもたらすのである。
だから韓非子はいう。「道は理するものなり」と。
この「道」の働きは、じかに目に見えるものではない。目に見て耳に聞こえるのは「理」である。ただ、理の変化を見ることによって、その奥底で働く道の働きを想像することは可能である。
いま中国人は生きたを見ることはできないが、死んだ象の骨を並べて象という生き物の姿を「想象」することができる。
理の変化から、想像によって道の働きを知る。「道理」を「想像」によって知るのだ。

どんなものにも必然がある。必然の道理があるから、結果に行き着く。
虎には爪が、野牛には角があり、人間を容易に殺傷する。しかしその縄張りや活動時期を避ければ、その災いは避けられる。
冷たい雨が降っているのに防寒対策もせず出歩けば、風雨の害を食らう。軽々しく禁制を破って法に触れれば、刑罰の害を受けて当然だ。欲望のまま飲み食いすれば、病気になるのも必然である。

ではなぜ、韓非子はこの「必然の道理」を重視するのか。

それは、どんな事柄でも道理に基づいて現れる、ということは、求める理想があるのなら、それを成し遂げるために必要な道理を踏み行なえば、必ず達成できるからであった。
王者や貴族になるのも、あるいは宰相将軍になるのも、その道理に基づいて行動すれば必ず得られる。
しかしたとえ王者や諸侯であろうと、あるいは大商人の資産があろうと、滅びる道理に合致すれば必ず滅びる。
栄枯盛衰も必然によっているのだ。

だから、君主が国を守り地位を維持したいと思うなら、亡国の条件を避けて存続の条件を揃えれば良いし、庶民を刑罰に処したくないのならば、庶民をして悪事を禁じて刑罰を避けるようにさせればよい。
悪事をすれば必ず刑罰が科され、善事をすれば必ず賞与が下される。そうなれば人は、賞与を求めて善事を行ない、刑罰を避けて悪事を避ける。人々が悪事を避ければ、刑罰を科すこともなくなる。
商鞅が目指した「刑を以て刑を去る」の境地は、老子の思想によって為しえるのである。

韓非子が法治思想にタオの理論を組み込んだのは、その「必然の道理」が「勢」を「法」と「術」で制御するための基準となるからであった。


【その他の思想】

書物『韓非子』は十万字の大作であるため、そこに記された韓非子の思想も非常に分量が多い。
以下は、韓非子の独特な思想と言えるものをいくつか列挙する。

◇不仁不忠にして覇王となる

君主と臣下のあるべき姿。
君主と臣下の関係は、親子や友人ではない。臣下は能力を売り込み、君主は俸禄で買い上げる、市場取引(ビジネスライク)の関係にある。
だから、法律と禁則が明確化され、賞与と刑罰が公正厳格であるなら、臣下は富貴になりたいという欲があるから、その欲を満たすために全力を尽くして職務に励み、戦場では死地にも挑む。
富国強兵とはそのようにして為される。君主は仁愛ではなく賞罰を用い、臣下は忠心ではなく利益への欲望で仕官する。これを君は不仁、臣は不忠にしてすなわち覇王なり、という。

しかし現代(韓非子の当時)の学者たちは、すぐに仁愛を説き、君主と臣下が親子のように睦みあうべきだと説く。
これは大間違いである。現実にも、男児が生まれれば喜ぶが女児はそうでもない。親子の愛情でさえ美徳ばかりではない。というか、仲の悪い親子関係など世の中にいくらでもある。
なのに、親子でも珍しい情愛を、君臣関係に持たせよ、さすれば世は治まる、というのは妄想もはなはだしいのである。


◇上下は一日に百戦する

「黄帝の言葉」としているが、韓非子の君臣関係観を端的に表わした言葉。
上とは君主、下とは臣下のことで、君主と臣下は毎日百回も駆け引きをしている、ということ。
そもそも君主と臣下は、利益が違う。
君主の利益は、制度が機能して群臣が国家の命令に従うことにある。
臣下の利益は、私党を作り上げて国家から利益を引き出すことにある。
つまり君主は公を守らせようとし、臣下は私を満たそうとする。

しかし、君主は一人しかおらず臣下は数多くいるのだから、この戦いは最初から君主が不利で、臣下が強いと言うことになる。だから、君主は臣下の統御に細心の注意と、決断する気力が必要になるのである。


◇公私は対義語である

君主と臣下は仮想敵のように韓非子は言うが、そもそも「公」と「私」が対義語なのである。
もともと「私」とは「丸く囲うこと」から「○」を書き、やがて「ム」になった。穀物を意味するノギヘンは後から付いたものである。
そして「公」は、「ム」に背くの上半分「北」が付き、それがやがて略されて「ハ」となり、現在の漢字となった。
つまり最初に漢字として考案された時点から、公私は相背くものであり、「公私混同」などできる道理ではなかった。公利を求める君主と、私欲を求める臣下の立場が矛盾することはここにも現れる。


◇癩病患者が王を哀れむ

原文では「厲憐王」。癩病つまりハンセン病と言えば、日本でも近年まで差別対象となっていたほどの病だが、そんな罹患者でさえ「王様とはなんと哀れな病人であろうか」と憐憫の情をもよおす、というもの。
韓非子自身「不敬な言葉」としながらも「よくよく考える必要があろう」としている。

「上下は一日に百戦する」「公私は相背く」といったように、君主と群臣は利益が異なる。
そして人は利益があるとなれば勇敢になり、大胆な振る舞いにも及ぶ。
つまり「君主が死ぬことで得られる利益」「別の王子を立てることで得られる利益」が大きければ、君が臣に殺されることは不思議でもなんでもない。
いや、君主の死を望むのは臣下だけではなく、家族もそうである。
男と言うのは五十になっても性欲が衰えないが、女と言うものは三十にもなると容色が衰える。そして「寵愛する美女の子が抱かれる」というから、妻としては夫の性欲があることは脅威となる。
そうなると、妻が夫の酒に毒を盛る、ということになる。夫が死んで自分の子供が君主となれば、息子が母親を取り替えることはできないから、自分の地位は安泰なのだ

君主というものは、実弟に首を絞められ*14、臣下に矢を打ち込まれ*15、部屋に閉じ込められて餓死し*16、首筋を抜かれて梁に吊るされ*17、はたまた妻や息子に毒を盛られる危険のある職業である。「君主のうち寿命で死ねるのは半分以下」とは桃左春秋という書物の言葉だ。
癩病患者は全身の重い皮膚病に苦しむが、筋を抜かれるなどという死に方はするまい。彼らが王を哀れむのも、当然である。


◇刑と罪とは違う

刑罰は、罪人に対して科すものだが、庶民に対して示すものである。
すでに逮捕された罪人を処罰しても、その罪人が犯した悪事が消え去るわけではない。殺人犯を処刑しても被害者が生き返るわけではない。
ではなぜあえて処刑するのかというと、その処刑を天下の人々に対して示し、「殺人罪はこのように重いぞ。このような目に遭いたくなければ、殺人などをするな」と示すためにある。
賞を下すのも、当人を豊かにすると言うだけではなく、それを世に示して「善行に対する賞与はこのように厚いぞ。これがほしければもっと励め」と示すためにある。
つまり、罰も賞もただ当人に科すのではなく、民衆に示して督励するためにある
罪は個人が背負うもの、刑は社会に示すもの、とも言えるだろう。

世の学者は「刑罰が重いと民を傷つける、刑を軽くしても悪事を禁じられる」というが、これは間違っている。悪事をしても大した罰が下らないとなれば、誰だって法外の利益を求めて悪事を働くだろう。やがて盗賊となって処刑が相当の悪事を働き、その段になって処刑することになれば、それこそ「民を傷つける」ことになろう。
民をして「悪事をしたくない」と思わせることが肝心なのだ。


◇法律と刑罰・賞与を判断する基準は妥当か不当か

斉国の晏嬰が、景公に「いま市場で売れているものはなにか」と諮問されて「義足です。足を切られる刑罰が多すぎるのです」と答えた。景公は「なるほど、余が暴虐と言うことか」と反省し、進行中の刑を減刑した。
しかしこれは間違いである。犯した罪業と社会的影響に照らして、その刑罰が妥当であるなら、受刑者がどれだけ多く出てもやめてはならない。
逆に、ある法律による受刑者が一人も出ないとしても、その法律が妥当でないなら、やはりその法律は廃止せねばならない。
それこそ軍隊では逃亡兵は常に出る。しかし、逃亡兵が多いから減刑してやろうなどと言い出せば、軍隊で戦う兵士はいなくなる。
法律や刑罰、賞与と言うものは、それが妥当であるか不当であるかだけを判断基準とするもので、単に「数が多い」ということで判断してはならないのだ。
雑草を刈らずにいれば麦が損なわれ、盗賊に恵めば良民を損なう。刑罰を緩めて寛大な政治をすることは、善人を害して世を乱す行ないである。


◇賢君は善人も悪人も愛する

まだ周の文王が殷の諸侯だったころ、その秘蔵の宝を紂王が欲しがった。
文王は、最初紂王の使者として送られた賢人・膠鬲(こうかく)には宝物を渡さず、二度目に来た佞臣・費仲には喜んで渡した。
文王は、紂王が賢人ではなく佞臣を寵愛することを願って、あえて費仲に宝物を渡したのである。
そしてもちろん、文王が太公望を抜擢したのは、彼の賢能を尊んだからだ。
名君と言うものは、太公望のような賢人も、費仲のような小人も、どちらも愛するものである。
ちなみにこのエピソードは「六韜」由来と誤解されがちらしい


◇人は欲望があって行動する

韓非子の人間観は大体ここに帰結する。
確かに、なにも言われずとも自らの判断で自分の限界を見極め、欲望を節制する人間はいるだろう。例えば「足るを知る」といった老子がそうである。
しかし、尭舜が政界に千年に一人もいるかどうか、といったように、老子もまた千年に一人現れるかどうか、でしかない。
ほとんどの人間は、老子のような聖人ではない。我欲が強く、求める利益のために動くものである。
だから、蛇や毛虫を見れば人は嫌悪感で震えるが、蛇によく似た鰻や、毛虫の一種である蚕は、素手でつかむのも平気である。
そこに利益があるとなれば勇者になるし、損をするだけだとなれば尻込みするのが人情である。
ただ、韓非子はそうした人間性を、否定していない。そうした習性・人間性をうまく誘導して、社会が成り立つほうに導いていくと言うのが、韓非子の法治思想、もっと言うと賞罰思想であった。賞与でなだめすかし、刑罰で脅しつけて、社会を維持していこう、というものである。
最初から誠実な人間を探しても、国内で十人も見つかるまい。しかし役職は何百もある。誠実な人間だけを集めても世の中は立ち行かない。圧倒的多数派の「小人」を活用するしかないのである。


◇働くものは尊い

韓非子は、勤労するものを社会で尊ぶべきであり、まじめに働かず口先だけで尊敬を得ようとする連中を排撃するべきだと強調した。
逆説的に、口舌の輩がそれだけ当時、幅を利かせていたと言うことである。

死を恐れて戦いから逃れるのは「逃亡者」である。世間はこれを「命を大事にする」と賞賛する。
手前勝手な正義を立てて世の決まりを守らないのは「脱法者」である。世間はこれを「文学の士」という。
仕事もせず遊び呆けるのは「無駄飯ぐらい」である。世間はこれを「有能の士」という。
でたらめな知識をひけらかすのは「詐術士」である。世間はこれを「弁舌の士」という。
私情で剣を抜いて暴れるのは「暴漢」である。世間はこれを「勇者」という。
他人の悪事を隠そうとするのは「共犯者」である。世間はこれを「名誉を守る」という。
このような類の人間が尊ばれるようでは、誰だって私欲を優先しようとするだろう。君主や大臣さえが彼らを「名誉ある人たち」と賞賛するからしようがない。

危険な場所でも誠実に尽くすのは「節義の士」である。世間はこれを「智恵なし」と軽蔑する。
上からの命令に黙って従うのは「遵法者」である。世間はこれを「固陋」と軽蔑する。
農耕に励んで仕事に精を出すのは「生産者」である。世間はこれを「能無し」と軽蔑する。
善良純朴で純粋なのは「まじめ」である。世間はこれを「愚物」と軽蔑する。
国家の命令を重んじ職務を尊重するのは「忠実」である。世間はこれを「臆病」と軽蔑する。
賊を取り押さえ悪事を告発するのは「明察の人」である。世間はこれを「悪口をいう諂い」と軽蔑する。
これらは国家を現実に支える大事な良民である。しかし、それら「素朴さ」を「魯鈍」と見なして軽蔑するようでは、誰がまじめに働くものか。

だいたいにして、農夫が土地を耕すのは大変な重労働で、兵士が戦場で戦うのは命の危険がある。誰だってそんなことはしたくないのが人情だ。
しかし国内の人々の腹を満たし命を守るのは、そうした農業と兵役に付く農民たち、そしてまじめに働く良民たちである。これこそもっとも尊ばれる人たちである。

ところが、儒者は古典や学説を弄んではサロンに入り浸り、遊説家は合従連衡などで外国の威勢を借りて私欲をなし、勇者とやらは節義という名の私情で暴れては名誉を誇り、側近衆は賄賂を取れるだけ取っては法の抜け道を融通し、商人・工人は見た目は派手だか使えもしない道具を売り込む*18
今の時代、どこの家にも「管子」「商君書」があるが、国はますます貧しい。誰も納税をしないからだ。
どこの国にも「孫子」「呉子」があるが、兵はますます弱い。誰も兵役に就こうとしないからだ。

正業に励み、いざとなれば兵役にも借り出される農夫・良民こそが尊ばれるべきであるが、現在の社会はそうなっていない、ということを「五蠧」「六反」などで執拗なまでに説いている。
なお、江戸時代の日本で「士農工商」と、武士の次に農夫が尊ばれ、工人の地位がそれに継ぎ、商人がもっとも卑しめられたのは、こういうところにも関係しているのだろう。


◇内政に尽力せよ、合従連衡はするな

秦一強の時代、合従連衡は誰もが口にしたが、それは国を衰亡させるのが関の山である。
まず「合従」とは諸国が連合して秦に対抗することで、「連衡」とは諸国が秦と同盟して非同盟国を攻撃することである。
しかし、秦国と同盟する「連衡」をしても、いざ非同盟国が攻め込んでも秦国が本当に助けてくれるかは分からない。玉璽や地図を差し出して「これほど従順なんだからなんとか助けてください」というしかないが、そうなると国家の統治体制が危うくなる*19
しかし、諸国と同盟して秦に対抗する「合従」でも、はたして弱小同盟国が集まって強力な秦に勝てるかは怪しい。そもそも合従した同盟国だって、それぞれの国同士で国境問題や利害関係がある。仲間割れを起こす公算は高く、そうなったら勝ち目はない。しかし仲間割れが起きなくても、攻められた小国をいつまでも助けられるかは不明である。
それどころか、「援軍が欲しい? なら国境沿いの土地を寄こせ、先払いだ」などと言われたらどうするか。しかも、そこまでして援軍を出してもらっても、必ずしもその援軍が戦ってくれるかは分からない。戦場外れで傍観し、戦争が終わって秦軍が引き上げてから「我々が到着したから秦軍は恐れて撤退したのだ、ありがたく思え」と恩に着せながら国境の土地を接収するのが落ちである*20

また臣下にとっては、「自分には某国の援軍を引き出す力がある。同盟国との関係を維持できるのはこの私だけだ!」と言って、外国の権勢を借りて国内で大きな権力を示すことができる。
君主は君主で、臣下の雄弁だけを聞き入れて、実際にどういう業績を上げたかを確認しないという通弊があったから、この手の臣下の言葉にだまされていつまでも信任する。そして失敗すれば、財産を持ったまま引退できた。
合従連衡とは、どっちを選んでも他国に運命を預けることになり、しかも国内に権臣をのさばらせることになる。国土が削れて私家が富むのみだ。

そんなことより、国内をよく治めて城を堅守し、臣下をよく統率して乱れがないようにするべきだ。
いくら大国でも、国内にはいろいろと問題を抱えているものであるし、野心家はいくらでもいる。軍隊という、金も労力も吸い取られる事業を、長く続けることは難しい。
だから、小国でも国内をよく治めて国難にもびくともしない体勢を作っていれば、もし強大な秦軍に攻められても籠城して守り抜くことができるし、秦軍も「苦戦している間に他の国に攻められる」ことは分かっているので、堅いと分かれば撤兵するしかない。
もっと言えば、国内で富国強兵に勤めることは、国防以外にも多くの利点がある。「袖長くして善く舞い、銭多くして善く買う」というように、国力が大きければ国ができることも多くなる
秦国では十の事業を同時に起こしてもほとんどは成功させられるが、燕国では一つの事業さえ成功がおぼつかない。
秦には賢者しかおらず燕には愚者しかいない、というわけではなく、秦はよく治まっていて富強で、燕は乱れて衰弱しているからである。
外国に助けを求めるよりも、国内を富強にすることこそが肝要である。


◇徳治は不可能

儒者を筆頭として、徳を磨けば人は付いてくる、という論は多い。しかしそれは間違いだ。
魯の哀公と言えば、君主としては下位に属する人物で、重臣たちを制御できず最後はたたき出された。
孔子は当時第一の聖者であった。しかし天下を巡っても、その「徳」に従ったのはたった七十人である。そして晩年は哀公に仕えたが、その献策は用いられなかった。
「徳」によって治まるならば、哀公が孔子に仕えるはずであった。しかし現実は、孔子が哀公に仕えた。孔子に仕えた人数は哀公に仕える人数よりはるかに少ない。
孔子は哀公の「勢」によって仕えたのである。徳によって世を治めることができないのはこの通りである。
そもそも、君主に「孔子のようになれ」といい、民衆に「孔子の門弟のようになれ」というのは、土台無理な話である。


◇過去に帰るな、今を治めろ

儒者を筆頭として、学者というものは「今はよくない、昔はよかった」と言って、過去の伝説を引用してその時代に戻ろうとする。
韓非子はそうした懐古主義を全否定する。

そもそも、人間社会は常に変化を遂げるものである。社会情勢が変われば、通用する方法も変わってくる
男が妻を娶って、五人の子供が産まれてもおかしくはない。その子がそれぞれ子供を産めば、祖父が死なないうちに孫は二十五人になる。人口というのは、そして社会というものは、それぐらい変動するのだ。

まだ人々が洞窟や木の下で寝起きしていた時代は、家を作る技術者は王者となった。有巣氏である。
まだ人々が生の肉を食べていた時代は、火をおこして調理する技術者は王者となった。燧人氏である。
まだ黄河の流れに翻弄されていた時代は、治水技術を知るものは王者となった。禹である。
しかし夏王朝の時代に「俺は家を作れるぞ」と威張っても、あるいは周王朝の時代に「俺は治水ができるぞ」といっても、(職人や監督にはなれるだろうが)王にはなれない。それはもう珍しい技術ではなくなったからだ。

かつて尭や舜は、王位をそれぞれ舜や禹に禅譲した。
しかしそれは、古代の王者が徳厚く尊かった、からではない。彼らの生活は非常に過酷で、生活は苦しかった。だから禅譲と言っても奴隷並みの苦労から逃れたかっただけである。
現代の役人は県令であっても地位にしがみつく。しかしそれは、彼らが卑しいからではない。たとえ低い官位であっても、そこから莫大な財産を築いて、うまくいけば子孫にも残せるからである。
つまり古代の王者と現代の役人は、住んでいる社会と持っている価値観が違うのだ。現代を生きる役人たちに「尭舜のように清廉な人物となれ」と言ってもダメなのだ。

湯王と伊尹は、夏王朝のやり方を変えたから殷を王朝にできた。
文王・武王や周公旦太公望は、殷王朝のやり方を踏襲しなかったから周王朝を開くことができた。
現代には現代に合わせたあり方がある。新時代には新時代にふさわしい王者がいる。古代の伝説は参考資料にはなり得ても、それを再現すればいいというものではない。
(韓非子が、商鞅や申不害の思想を受け継ぎながらも「まだ完璧ではない」と問題点を指摘したのもその一環といえるだろう)

ちなみに待ちぼうけで有名な「守株」の話はここに由来。


◇アホな話

『韓非子』は君主が権力をコントロールし、いかにして臣下の悪事を防ぎ、民衆を正しい方向に誘導して、統治するかを説いた、まじめな書物である。
そういうわけで人間不信になりそうな陰惨なエピソードも数多く収録されている……
……のだが、一方でクスリと笑ってしまうようなヘンな話も結構収録されている。
おそらく韓非子は、役に立つかどうかを問わず、耳に入れた話を片っ端からメモ書きしていったのだろう。
そのいくつかを紹介してみる。

  • 「まったく一緒です」
(ぼく)子という役人が、袴がボロボロになっているのに気づいた。妻に渡して「新しいのを一つ作ってくれ」と頼む。
妻が「どういうふうにしましょうか」と聞いたので「前のと同じのにしてくれ」と答えた。
仕事が終わって帰宅すると、妻がにこにこしながら新しいズボンを渡した。ボロボロになっている
「何だこれは!?」「古い袴とまったく同じです」

  • 「売れよ」
豚肉売りの商人が、市場で肉を売ろうとしたが、客が着かないまま夕方になった。
あきらめて店を畳み帰り支度を始めたころに、ふと通りすがった男が「その豚肉、いくらだい」と尋ねた。
商人が怒鳴る。「見てわからないか、帰り支度をしてるんだよ!」
その豚肉を売れば荷物も減るし銭が入ると言うのに、彼はここになにをしに来たのか忘れたのである。

  • 「なんで帰った」
ある男が靴を仕立ててもらおうと思い、前日のうちに家で足の型を作った。
しかし翌日、仕立て屋に着くと、せっかく作った足形を家に忘れていたことに気づいた。
すると男は家に帰ってしまった。友人があきれた。「何で帰ったんだ」男は答える。「足形のほうが足より信用できるからだよ」

  • 人物鑑定士・陽虎
陽虎が斉国を追われて趙国に亡命した。趙の君主・簡主が引見して、「君はよく人材を推挙すると聞いたが」と尋ねた。
陽虎は苦笑していった。「魯国にいたころ三人を推薦し、彼らはみな昇進しましたが、私が罪を得ると三人とも私を逮捕するため全力で襲いかかりました。よく推薦したとは、とてもとても」
簡主は「なるほど、(たちばな)を植えるべきなのに、棘だらけの枳殻(からたち)を植えてしまったと言うわけか」と苦笑した。
しかし、陽虎も簡主も間違いである。たとえ推挙してくれた恩人であろうとも、法を破った以上は心を鬼にしてでも正義を貫くため逮捕しようとする、この優れた三人を推挙した陽虎は、確かに人を見る目があったのである。


【歴史への影響】

こうした、鋭い論理を持ちながらも雑多な印象でまとめられた『韓非子』であるが、こうした理論は韓非子を死なせてしまった一人、始皇帝の実際の統治にも活かされている。
『史記・秦始皇本紀』には始皇帝の統治体制が丹念に描かれている(個別項目を参照)が、
厳格公正な規律と高度な官僚システム、君主の役割の明確化、役人の仕事ぶりの監督の重要性、信賞必罰に基づく労役成功時の免税特権、学問を学びたいものは管理に法令を学ばせるという法治教育の普及など、やはり韓非子からの影響が非常に大きい。

例えば、債務から逃亡したもの、働かない入り婿、商人、不正役人、犯罪者ばかりが労役を科され、農夫・良民が動員されず、正業を督励したのは韓非子の思想である。
また始皇帝は「坑儒」で知られる不正法士を処刑した際、皇帝権による一存ではなく御史台(官吏監察府)による弾劾という手続きを経ていた。これも、始皇帝が韓非子の思想を受け継いでいたことを意味する。

すでに始皇帝が韓非子の思想を継承したこと、官吏を介して学ばせる基準が存在したこと、『韓非子』が書物として決して洗練されているわけではないこと、を考えると、書物『韓非子』がまとめられたのは始皇帝の在世中かも知れない。


また韓非子の思想は、老子・荀子・商鞅・慎到・申不害の影響を受けている。
司馬遷はこれについて「韓非子の学説は、黄老学に基づく」といった。黄老とは黄帝と老子のことで、いわゆる道家・道教思想のことだが、司馬遷は史記の編集にあたって韓非子を参考にしたところも多かったと思われ、そこに老子の影響を(単に「解老」「喩老」があったと言うだけではなく)見いだしたのは、さすがの慧眼と言えるだろう。


しかしその後、儒教が主流となっていくと「儒教を弾圧した始皇帝」の師匠である韓非子は「冷酷無情な殺人帝国」を作った共犯者のような扱いを受けた。
このネガキャンはかなり根強く、彼の師匠であった荀子も含めて「悪の一味」のように扱われてしまった。

とは言え、官吏統御思想という現実の帝王学そのものの『韓非子』は、政界における「虎の巻」としても知られていた。
例えば諸葛亮も、劉禅を教育するテキストにこの『韓非子』を使ったという。残念ながら劉禅は、斉の桓公のような「よくも悪くも臣下に一任し、手綱を握らない暗君」になってしまったが……。



【創作での韓非子】

中国史関連の創作と言えば、ほとんどは「三国志」関連、次が「戦争」、ごくわずかに「春秋戦国時代」で、始皇帝関連のものは少ない。あっても始皇帝批判のものがほとんどである。
そのため、始皇帝の師匠であり「冷酷無情な帝国を作った」韓非子が、小説や創作で触れられることは極めて希である。
幸いにも、新釈漢文大系や岩波文庫などで幾度も全訳されており、入手は容易。


安能務氏の『春秋戦国志』『始皇帝』では重要人物として登場。『韓非子』はタイトル通り、古典『韓非子』を安能流に解説したものである。
同時期に始皇帝に仕えた尉繚子とは友人関係にある。韓国では張良を弟子としており、秦国では始皇帝の長子・扶蘇とも親しくなった。
遊説を馬鹿らしいと嫌い、ひたすら自分の学問を磨いた変わり者。
吃音と言うわけではないが、考えてからしゃべるので口が重く、強調するときには「逆に、逆に面白そうだ」と繰り返す癖があり、周囲からは吃音のように思われる。

始皇帝は韓非子と出会って以来、必死になって彼の思想を学んだが、唯一「王も法に服する」という点で納得しえない。しかしそれは韓非子もわかっていた。
なぜなら、韓非子自身が「矛盾」で説明したように、傑出した賢人君主は、法治体制と矛盾してしまうからだ。何ものにも縛られない王と、何者をも縛ろうとする法とは、相容れない*21
その矛盾を解消する暇もなく、始皇帝は韓非子を禁足する。ただ始皇帝は、韓非子に害を加えるつもりはなく「臣下として仕えてくれ」とある程度の妥協を打診した。禁足したのも、尉繚子に本心を打ち明けてじっくり説得してもらうつもりであった。
しかし韓非子は、始皇帝に仕官するつもりはなかった。一度臣下になってしまえば、始皇帝に対して師父として睨みを利かせ、修正することはできない。それは理想家・韓非子としては、絶望である。
そう見切りを着けた彼は、折しもやってきた李斯が毒酒を持ってきたことを見抜くと「同門の好」でそれを飲み干し、さっさと世を去った。

始皇帝が韓非子に気位で負けるか、あるいは韓非子が節を曲げられれば、二人は共存できたかも知れない。しかし始皇帝と韓非子はどちらも、一流の大人物であった。それが、片方が世を去る事態を招いたのである。
始皇帝は哀しみ、ショックも受けたが、あまりにも偉大な相手とずっと顔を合わせておれば精神的に圧迫感を感じる結果になっただろうと、あきらめをつけた。

しかし続編『中華帝国史』では、韓非子の死から十数年を経た尉繚子が「黄石公」として再登場した際、韓非子の遺した弟子である張良の前に現れると「あれは贅沢だった」と述懐した。
なるほど、韓非子は己の理想を貫き通して人生を全うした。それは理想主義者としての完璧な人生と言える。
しかし、自分の理想を完璧に作り上げるつもりがないなら仕えてやらない、というのは傲慢であった。あえて臣下となる「屈辱」を我慢してでも、自分の理想を概ねという形ででも完成させることを優先するべきだった。そして、それを当時韓非子に教え諭すことができなかった自分が嘆かわしい、と続ける。
そして最終的に、張良には「理想の青写真を胸に秘め、そのために邁進しながらも、決して目立つことなく、相手に頭を下げられるように心せよ」と教えた。
数十年後、張良は劉邦の軍師となるが、蕭何や韓信、あるいはほかの諸将に対して目立つような態度を避け、劉邦にも絶妙な距離感を保ちつつ、封建制への回帰は避けるよう心がけ、最終的に「完全とは言いがたいが、概ね満足できる、韓非子・始皇帝流の中央集権国家」の完成を迎えて、満足して世を去った。


【余談】

  • 故事成語
韓非子出典の故事成語というのも多い。
上述した「道理」「想像」「矛盾」などの他には「逆鱗」「守株」などが有名か。


  • 孔子の扱いが悪い?
韓非子は全体的に儒教に対して批判的である。「儒者は文学によって法を乱し、侠客は剣を振るって禁を破る」などは典型的である。
一方で孔子を知者として肯定的に引用する場合も結構ある。「孔子の論は大間違いだ」と批判する場面もたくさんあるが。
まあ、上述したとおり管仲を肯定的に書く場合も否定的に書く場合もあるので、孔子がことさら批判の的にされているわけではない。




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最終更新:2024年01月10日 00:37

*1 中国大陸中央部の国。当然ながら、朝鮮半島南部の「韓国」とは無関係。

*2 孫子や呉子と並ぶ当時の兵法家。ただし「初代」尉繚子は始皇帝より100年ほど前の人物であり、こちらの尉繚子は「二代目」である。

*3 李斯は楚国出身であり、王族ではなかったが「外国人なら忠勤しない」というのはブーメランである。始皇帝もそれは分かっていたはずで、すぐ解放したことからしても本気で疑っていたわけではないだろう。

*4 貝塚茂樹『韓非』より。

*5 管仲推薦の後任者が急逝したこともあって

*6 三貴は3人だが、この場合も3人が拮抗するのでなく癒着していたから一つと変わりない。

*7 上述した、管仲が死後を託そうとしたのはこの人物。

*8 孔子と同世代の人物。顔も孔子と似ていた。

*9 部下をつけるな、という意味ではなく、責任者という意味。

*10 余談だが、『韓非子』において孟子の名前が出るのはたった一カ所、それも「儒家には八つの流派がある」と各派の名前を列挙される場面でのみ。

*11 蛇の精霊。足はないが龍に近い。

*12 天才的な名御者。趙の襄子に仕えた。

*13 韓非子で「矛盾」が語られるのは二カ所あり、ひとつは「尭と舜がどちらも賢明であることの矛盾」。もう一つはここの「賢人と法律は矛盾する」。

*14 楚の霊王は、兄の病気見舞いに駆けつけそのまま絞め殺して即位した。

*15 斉の荘公は将軍の妻を寝取ったため、帰宅した将軍によって射殺された。

*16 斉の桓公や楚の春申君、燕の主父など。

*17 斉の湣王は援軍に来た楚の将軍に捕らえられ、首の筋を抜いて霊廟の梁に掛けられて一日中苦しんでから死んだ。

*18 例えば「太陽に照らすと猿が彫ってあるのが見える箸」など。普通の箸と同じである。

*19 これは韓国の公子として強大な秦国の属国同然となっていた韓非子には肌で感じられる内容であっただろう。

*20 かつて秦国が韓国を攻めた際、韓国から援軍を求められた楚国は「分かった、増援を送ろう」といってわざと楚の大軍が勢揃いした姿を韓国からの使者に見せつけた。使者は大喜びで帰国し、韓国は楚の援軍到着を期待して籠城した。結局、楚国からの援軍は来ず、韓国は秦軍に領土を奪われた。韓非子が生まれる40年ほど前のことである。

*21 同じテーマで「封神演義」では紂王が聞仲を疎み、「三国演義」では諸葛亮が劉備の遺言に自分への隔意を感じる(諸葛亮は臣下の立場に従って折り合いをつけた)。