安能務

登録日:2020/12/25 Fri 22:00:00
更新日:2023/07/23 Sun 18:39:04
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一般に、正史を含めた中国の史書は、歴史と物語が綯交(ないま)ぜにされてきた。いや、正史すら実は一種の「歴史物語」である。


安能(あのう) (つとむ)とは、中国史を題材にした日本の小説家。
代表作は「封神演義」「始皇帝 中華帝国の開祖」など。



【来歴】

安能氏の人生については、ほとんどわかっていない。
通常、表紙の折り返しなどに著者紹介があるものだが、安能氏の著作では個人的な紹介がほとんど為されていない。
さらに安能氏は「あとがき」を書かないことを信条としていた。
そのため、明確に著者紹介があり、個人的な伝記が記されるのは「権力とはなにか」の裏表紙と、「始皇帝」「韓非子」の折り返し。
あとがきがあるのは、「八股と馬虎」「三国演義」、および文庫版に追加された「韓非子」「始皇帝」しかない。

著作群においては、玉音放送を感慨深く聞いていたこと、戦後は渡航規制が掛けられなかなか外国に行けなかったこと、台湾や中国の知己が多かったこと、「八股と馬虎」執筆時点が一九九四年ということ、などが記述されている。

しかも、もとより伝記資料が少ないうえに、本によって生年が異なっている。
つまり、
  • 始皇帝:1932(昭和7)年、台湾生まれ。
  • 韓非子:1925(大正14)年、台湾生まれ。
  • 権力とは何か:一九二二年、台湾生まれ。
の三パターンの記述があり、生年だけでも前後十年の幅があるのだ。
もっとも、いずれの記述でも「台湾生まれ、香港大学卒」は一致している。また、安能氏は台湾情勢に注意を払っておられたので、日本統治時代の台湾出身であることは間違いないだろう。
没年のみははっきりしており、西暦2000年の四月に逝去。

それ以外の個人情報についてはまったく分からない。墓所も分からないので墓参りもできない。

「安能務」自体もペンネームかもしれない。
「権力とは何か」にて「漢詩をバラバラにして漢字を組み直し、逆の趣旨の漢詩にしてみる遊び」をしているらしい。
この流儀で「安能務」をバラして見ると「力でめる」=この私は才能・能力(能)はたいしたこともない(安い)ができる限り頑張って(務)みる、とも読めるからだ。
もちろん単純に本名かもしれないが*1、そこのところも分からない。

結局、わからないことが多いということだ。



しかし、幸いにも安能氏の著作は、文庫本にして二十三冊と映画パンフレットの寄稿文が一つある。
そして安能氏は、著書を「中立な立場」から書くことを良しとせず、「主観的な立場」から書くしかないと開き直って、露骨なまでに自分の意識を押し出して執筆された。
そのため、安能氏の著書を読むことは、安能氏の人間性にも間接的に触れることにつながる。

韓非子」にて、「想像」という話が乗せられている。
「想像」という言葉は現在では単にイメージすることを指すが、本来は「想象」、動物の象を思い浮かべることであった。
中国にはむかし象がいたが、韓非子のころには絶滅して骨しか残っていない。しかし生きた象を見ることはできなくとも、死んだ象の骨を並べて、生きていたころの姿を「想像」することはできるはずだ、というわけだ。
いま、我々は安能務師に直接お会いすることは叶わないが、その著作を読み、間接的に「教え」を受けることで、なにかしら触れることは可能である。


そうして触れた安能務師の人間性、あるいは著作傾向だが、

激しい憤激を宿しながらも、老練なユーモアで包み隠した人物

といえる。


一連の著作群を貫くのは、司馬史観ならぬ「安能史観」「安能イズム」とでも言うべき独特の思想哲学である。


【主観で書くしかない】

安能イズムの第一は、「客観的・科学的に分析した、実証主義的な歴史研究」の手法に対する、激しい憤慨と批判の意である。

「客観的・科学的・実証主義的な歴史研究」に対しては、それでは人間の世界を理解することは絶対にできない、と燃え上がるような意志で否定する。
もともと人間の意識自体が、そんな「客観的」「科学的」なものではない。「いっさい主観を廃した、客観的で科学的で中立な見解」などと言うものは、人間には存在しない。
歴史文献ひとつとっても、そこに「文章」として記された時点で、書き手の主観が入る。まして中国史において、主観に基づいて文章を書くことは当然のことであった。孔子にしてからが、歴史書「春秋」にて主観に基づいて事実を歪めて書き、司馬遷の「史記」にそれを否定される、といった始末である。

そして、人間はどれほど進化したところで、主観でしか物事を見れないし語れない。どれほど「正しい」と認識したところで、結局は「仮説」でしかない。「真実」を「ありのまま」に受け入れて表現することは、人間には絶対にできないのだ。

歴史資料は平然と嘘や主観がまかり通り、読み手と書き手も主観を超克できないと言うのであれば、「科学的」で「客観的」とは、なんなのか?

 仰々しく引用した資料を明記して「註」を付けても、それをもって「客観的」だ、ということにはなるまい。そして「あるいは、これこれしかじかではなかろうか、と思われる」といった類の表現をすれば、それで独断を避けた謙虚な美徳を発揮したことになるのか?

「八股と馬虎」のあとがきにおける、安能老師の本気の憤慨であり、天を衝く気迫である。
こうした激しい問題意識、燃え上がるような意志や気迫が、安能作品の根底にある。


そういった激しい意志、突きつけるような激情に対して、文体は非常にユーモラスで、諧謔に満ちているのも特徴。炎のような意志をユーモアのオブラートに包んでいると言うべきか。
全体的にからっとしており、ドライでありながらも楽しいところがある。
例えば「春秋戦国志」上巻、鄭の荘公と軍師の祭足が、宋国討伐の相談をする話。
主題は宋国討伐なのに「じゃあ周の王都に行きましょう」と言い出した祭足に、荘公は

「また悪いクセを出しおる。まっすぐ言ってくれないか」

と、安能氏の回りくどい説明を自虐するような言葉を発する。
祭足の意図は「周王を刺激して、宋国討伐の許可を出させ(出さなければ偽造して『出してもらった』ことにして)、大義名分を得る」ことにあり、納得した荘公は祭足にも一緒に来てもらうよう言い出すのだが、

「どうも、あの儀礼ずくめの洛陽は、嫌ですなあ。それに洛陽城下で“稲刈り”をした前科*2もあるし」

とすでに役職勤めをしている人間とは思えない発言をし、

「頼む!」
 と荘公は誰も見てないのを良いことに、荘公は頭を下げる。
「はい、はい。殿下に頭を下げられれば、まさか、いやとも言えますまい」
 ということで、周朝への参勤が決まった。

と「君主が頭を下げて頼み、臣下が苦笑しながら請ける」という、本人たちの親しさを明るく表現している。


上記の祭足もそうだが、しばしば登場人物たちの口を借りて、安能イズムを語らせるのも特徴。
全体的に「権力の構造」「中国人の発想」などを説明している場面が多く、それを会話形式でトントンと進めていく
そしてそういう場面では普通に横文字や日本の諺を使ったりしており(下山したばかりの姜子牙が「おれは浦島太郎のようなもんだ」と愚痴ったり、サボタージュという言葉が飛び出したり)、慣れるとテンポよく進む。

もっとも、そうした諧謔で彩られた文章の、すぐ裏には、例によって燃え上がる激情が確かに赤々と燃えている。
そして時には激情の安能イズムが表に噴き出すことがあり、そこには安能老師の重要な思想が発露されている。



【中国は儒教国家ではない】

「主観で書くしかない」に次ぐ安能イズムの第二点は、「中国は儒教国家ではない」ということ。

一般に中国は儒教国家」といわれている。しかし現実に、儒教の教義を反映させた国家はかつてなく、儒教が民間を支配したことは絶無であった。
確かに中国の国家は、表向き儒教が幅を利かせている。しかしそれはあくまで「表向き」「建て前」であった。
実際に政治を回すときは、皇帝や側近たちは法治体制による官僚システムに立ち返り、実益に添って動く。
孔子以来、儒徒が目の敵にする異民族にさえ、実務派の皇帝・官僚はこだわらない。異民族勢力が強いとなればあっさり兜を脱ぎ、自ら弟や甥と称したり、臣下と名乗ってへりくだりもする。儒教に照らせばありえない光景でも、必要となれば簡単にそうする。
別に、異民族を尊重しているわけでもない。こちらが強くなり相手が弱くなれば、条約を破棄してふたたび対抗する。

南宋の初代皇帝・高宗は、北方から攻め込んだ金国に国土の半分を奪われ、父と兄を捕えられ、自らは南京へと走っていたとき、追跡をかける金国の将軍に、
「金国が我ら宋国を討とうと言うのは、巨人が小人を打つようなもので、まして我ら宋は中原をも失い、困窮の極みにあります。わざわざ滅ぼさなければならないような、大きな存在ではありません。どうか我らを哀れと思し召して、お助けください。お見逃しいただけましたら、我らは天命の帰するところのままに、帝号を削り、財産を金朝の国府に納め、臣下ともども金国に従うことを誓いましょう」
と、実に卑屈な「命乞い」をした。
当時宋国は軍事力が非常に弱く、さらに金国は高宗の父兄、徽宗と欽宗を捕えていた。
虜囚になる直前に退位していた徽宗はともかく、皇帝のまま捕えられた欽宗はやっかいである。もし金国が欽宗を擁して攻め込むとか、あるいは単に欽宗を送り返すだけでも、勝手に「即位」した高宗にとっては致命傷になりかねない。少なくとも臣下にクーデターの口実を与えることになる*3

ゆえに、高宗は命乞いに徹し、目の前の平和に固執した。あえて不平等条約を結び、「夷狄」を相手に属国と名乗り、徹底抗戦を主張する岳飛を処刑した*4
ひとえに自分の王朝を存続させるためである。儒教の大義名分、偉大な中華のプライド、夷狄への蔑視など、このときの高宗は論外と断じていた。
もちろん、高宗はお人好しなわけでも、腰抜けなわけでも、ましてや平和・平等主義者でもない。貴重な時間を稼ぎ、国内が鎮まり、軍事力が発展し、徽宗と欽宗が死に、金国の内政が乱れたのを感じると、今度はこちらから攻勢を掛けて金軍を打ち破り、不平等条約をある程度改正した。
しかもしぶといことに決定打はかけず、ほどほどで引き上げ、金との貿易関係を続けた。金との貿易が思わぬ収益を上げていた*5。なまじ戦争を続けて軍権を握る将軍たちに戦功を上げさせると、彼らが軍閥となり、高宗に取って代わりかねないという問題もある。
大事なのは王朝を存続させることだけだ。カネを遣って平和と王朝が買えるなら安いものである。しかも支出は貿易であるていど取り返せる。
そう考えて高宗は、あえて「南宋」のまま王朝を存続させた。おかげで南宋は――後代の目にどう映ろうとも――150年もの長寿と繁栄を遂げた。

こうした「したたかな」発想はひとり高宗に限らない。
漢代には高祖劉邦が匈奴に敗北してから「弟」を名乗り、属国的に振る舞った。しかし文帝は匈奴の進撃を阻み、武帝は猛攻を掛けて勝利を収めた。
唐朝は国内の内紛(安史の乱)を平定するのに、平気で夷狄の力を借りた*6。いやそもそも、隋唐や宋は夷狄の建てた王朝である。それが問題視されたこともない*7
後代の王朝が「正史」のお墨付きを与えた史書には、夷狄の王朝である遼史・金史・元史が平気でラインナップされた。後世の王朝は、彼ら「夷狄の建てた王朝」を「天意を備えた中華の正統王朝」と見做してきたのだ。
いや現実に生きる中国人には、華夷の別すらなかった。


おしなべて、中国における皇帝や政治家は、実力者であればあるほど「奸雄」であり、「しぶとい権謀家」であり、細かいところにこだわらなかった。
しかも彼らは平気で「仁義の看板」を掛け「泣きの演技」をし「儒教の徳目」で自分の行ないを飾り立てる
曹操は「乱世の奸雄」といわれたが、彼は自らの悪事を偽善で粉飾できず、「悪事をするさ、それが悪いか!」と開き直るしかできなかった、ある意味で正直者なのだ。

中国人は面子を気にする。そして面子を傷つけられると、確かに怒る。しかし、実際に面子のために命や立場を賭けたりはしない。
もちろん、面子を潰されることで立場や関係が揺らぐ・問題が起こる際には躊躇なく攻撃するし*8、自分が絶対的に優位になった後なら当たり前のように仕返しをすることもある*9
しかしそれは「実益を守るために面子を守る」のであり、面子そのものを尊んでいるのではない。面子がもたらす利益を尊んでいるのだ。
国家も同じで、建て前上は儒学の教義を頑迷なまでに主張し、まるで固陋なように見える。しかし実際の行動は驚くほど柔軟で、実益主義的で、なによりしたたかだ。儲けるチャンスがあればすぐに動く。

逆に、国家に対する忠誠は、実はほとんど持っていない。
常日頃から汚職や荒稼ぎの機会を狙っている。というより、中国の官僚(士大夫含む)にとって、官場(政界)とは、錬金術の舞台であった。
いかにカネを稼いで己が裕福になるか、そのための場所が政治の世界だったのである。儒教の理想を追求する場ではなかった。


【中国の民衆は鬼より賢い】

第三点は「中国の民衆はしたたかで、学はなくとも知恵がある」ということ。

もともと中国において、国家と民衆は大きく乖離している。国家がなにをしようと、民衆・人民はまったく気にもせずその日を暮らしている。
いや上記の通り、中国の国家における官僚とは、宰相から下っ端役人にいたるまで、「いかに荒稼ぎするか」を考える連中である。
やることといえば税を奪い、賄賂をむさぼるだけだ。どうせインフラ整備も、汚職の予防も、なにもしない。
国家に期待するところは最初からなにもない。むしろ本質的に脅威であった。
だからこそ、治安維持など必要なことは民衆が独自にやらなければならなかった。だから山賊(自警団)や幇会(民間互助組織)が必要になる。

それに、官僚のあの手この手の汚職に揉まれた民衆は、同様に賢く、タフになった
いかに自分の身を守るかで知略を尽くす。中国の民衆はほとんど文盲で、学はない。しかしそれだけに、生きる知恵をひたすらに磨いた。その「知恵」は、時に「学問」の先を行く

まして戦国乱世ともなれば、官僚システムが崩壊し、効果的な収奪ができなくなるからこっちのものだ。
自警団を強化して豪族化し、取り立てに来た役人を駆逐するほどに強くなることもある
事実三国時代には、三つの王朝の徴税能力は、後漢時代の15%にまで落ちていた。85%の人間は、税も払わず労役も課されず、悠々自適に暮らしていたのだ。知識人のなかでさえ、そうした情勢に感化されて、政界を離れて隠棲するものが増えたのである。

さらに官と民がそれぞれに悪知恵を巡らすこともあった。もとより悪知恵も「生きる知恵」だ。
中華民国が台湾に逃げたとき、大陸で戦っていた兵士も一緒に逃げ込んだ。ところで民国は兵士に「受田票」というものを発行していた。挙げた戦功に応じて発行され、戦争に勝利した暁には土地と引き換えにする券である。
しかし民国の大陸反抗が不可能となり、受田票は哀れ不渡り手形になった。それで政府は金銭で買うことになったが、値切ろうとしたため多いに揉めた。

値切ろうとする政府もしぶといが、元兵士もしたたかだ。
というのも、その受田票があまりに多いのである。もし兵たちの持つ受田票がすべて本物なら、共産党軍は壊滅していたはずなのだ。
兵とはほとんどが臨時徴募の民衆である。彼らは巧みに戦果を偽り、手柄を水増ししていたのだ。


中国人は常にしぶとく、したたかで、一筋縄では行かない。庶民には学はないが、生きる知恵が非常に豊かで、磨かれている。


【中国は道教の世界である】

実は中国史は、古代の四大文明から一度も断絶することなく続いているという特徴がある。
メソポタミア文明とエジプト文明はイスラムに併合され、古代インダス文明も滅んだが、中国文明だけは異民族に支配されながらも、ちゃっかり生き残り、むしろ異民族を中国化させた。
清朝にいたっては辮髪や満州系の服などを強制し、確かに中国人の風習を一部は変えさせることができたが、結局中国人の思想そのものはあまり変わらず、中期には当の満州人すらが「漢族に感化されてきた」と嘆いている。

そうした中国人の底知れぬ同化力と持続力の根源を、安能務師は、国家と民衆の乖離、民衆のしぶとさ、そして「タオ」の哲学を根源に起き、かつ「なんでもあり」ですべてを飲み込む道教に帰している。

「なんでもあり」でありながら「中国人らしさ」だけは失わない辟易するような頑迷さと底知れない柔軟さを同時に秘めた、
「道教の世界」こそが「中国」であると、安能務は規定するのである。


そうした安能氏の発想、「安能イズム」は、現在入手できるすべての書物に随所に見られる。
そうした安能イズムを拾っていくと、また新しい視点で、中国の歴史物語を読んでいけるだろう。


【各作品】

◇封神演義

代表作としてあげられるが、実はこれは安能イズムの入門編に過ぎない。
後年、安能氏は本作を「中華思想シリーズの布石」と説明している。「序論」でさえなく布石である。
「理不尽」な現実世界で、それでもしぶとく生きる中国人の姿に着目しよう。
刊行されたなかでは最初の作品のため、描写はグロテスクで陰惨、のちの作品よりもすっきりしないところがある。

+ 各巻紹介
  • 上巻:殷朝末期
 しかし楊任は大人であった。どうせこの世のことで究極的に良い加減でないものは少ない――と諦める。

理不尽」をテーマにするかのごとく、陰惨で理不尽で卑劣な謀略が展開される巻。
妲己によってもたらされる陰惨な宮廷描写、己が組織のエゴによって謀略を巡らす仙界・天界・仏教界、そして気づかないがゆえにひそかに追いつめられていく殷王朝と金鰲島の截教……
神も仏もありはしない、いかなる立場の人間であろうと、上に立つものは常に強欲で理不尽なものだ、という安能イズムの一丁一番地。
他方で、姫昌や伯邑孝のエピソードを通じて、世間知らずの王侯と、権力から落ちた王侯を鼻にも引っかけない庶民の姿もわずかに挟まれる。

  • 中巻:聞仲の戦い
「易姓革命とは文字通りに皇帝の姓が易わるだけで、世の中が変わるわけではないのです。誰が皇帝になろうと、どうだっていいじゃありませんか。やれ武王だ、それ紂王だと言って殺しあうのは、太師、もうやめましょうよ。そして黄花山で楽しく暮らそうではありませんか」

殷の太師・聞仲が主役となる中巻。
殷に長年仕え、その前は金鰲島で修業した彼は、この国難にあたって能力や人脈の限りを尽くして戦うが、長年「勝つため」の陰謀を積み重ねてきた闡教の実力と悪辣さは彼の想像をはるか超えていた。
「天命」を口実として悪逆の限りを尽くす闡教に対し、仙界で巡らされる陰謀に気づくのが遅れすぎた殷朝・聞仲・截教・通天教主は、泥沼の敗戦にもつれ込む。
他方、聞仲は旅路で味方にした「山賊」たちに、本当の「仁」を持つ民衆の輝きを垣間見ることになる……

  • 下巻:殷周革命の終結
「幼馴染みの誼みで教えよう。新しい天下を作った、とキミは有頂天になっているが、その得意然とした顔は滑稽千万だぞ。新しい天下はたしかに出来たが、それは姫氏一族のもので、我らのものではない」
「武王には百人からの弟がいるんだ。いずれわれらは大諸侯から、地図の上では探すことも出来ない微少な諸侯に格下げされる。そのときにイヤな顔でもしてみろ、間違いなくこの世から消される」

闡教と截教、周と殷の戦いも大詰めを迎える。
周到に策略を重ね、実行する上で一切のためらいを見せず、あの手この手の限りを尽くした闡教は、所定の目標のすべてを果たしてすっきりした顔で凱旋した。
姫一族も、天下を取った喜びに浸っている。その裏で、もはや用済みとなった「元帥」姜子牙や「北伯侯」崇応鸞は、今後の身の振りについて思いを巡らす。
一方、敗北を実感した紂王は、巡る走馬灯のなかで際限なく思いを巡らせた……
すべてに納得し、死を決意した紂王に対して、「女媧の刺客」であった妲己は、駒として以上の愛情と、駒ゆえの女媧への憎しみを募らせる。

白眉なのは終盤の、紂王を通しての「君主の立場」と、姜子牙・崇応鸞を通しての「臣下の立場」相克である。
帝王は絶対な存在であるから帝王である。しかし君主よりも優秀な軍師は、時に君主の判断を頭から否定し、自分が君主であるかのように振る舞う。
君主が暗愚で、軍師に位負けを感じるならそれも良かった。しかし紂王は元来聡明であり、それでいて子供のころから躾られていたため、聞仲には頭が上がらなかった。
「頭が高い」聞仲に対して、「頭が高い」と言えなかっただけ、紂王は憎しみを抱き、その忠誠心は認めつつも、訃報を聞いても涙さえ落とさなかった。
「元帥」姜子牙もまた、自分が「頭が高い」存在であったとわかっている。ゆえに彼は、武王がその「息苦しさ」に気づく前に、走狗としての立場に立ち返り、東方へと去った。自ら道化であることを肯定したのである。
そして「北伯侯」崇応鸞は、聞仲のように粛清対象となることも、姜子牙のように道化となることも拒絶し、ひとり浩然の気を吐いて政界から立ち去る。
そうした政界の流れ、紂王の哀れみや姜子牙の諦観や崇応鸞の怒りに気付かなかった「東伯侯」姜文煥は、もはや語るまでもない末路を迎える。



◇春秋戦国志

ここからは実際の歴史を、安能イズムによって分析していく。
春秋戦国時代と言えば諸子百家だが、安能氏は「諸子」はともかく「百家」の分類はまったく的外れと喝破する。実際、諸子を百家で分類すると、実情にあわないのだ。
そこで安能氏は、法治思想の発展、すなわち権力に対する理解度の発展にのみ着目し、一連の思想発展の系譜を中心に、春秋戦国時代の「権力模様」を描いていく。
なお、その系譜とは、太公望-祭足-管仲-晏嬰-子産-李悝-趙鞅-呉起-商鞅-申不害-慎到-荀況-韓非子-始皇帝である。

また、本作からは「封神演義」のような陰惨な描写はやや少なくなり、持ち前の乾いたユーモアと、激しい熱意がより顕著になっていく。

+ 各巻紹介
  • 上巻:鄭の荘公~斉の桓公の覇権
「天下の諸侯たちは一方で、殿下*10が責任を果たすことを望みながら、他方では、それに伴う権力を振りまわされることを望んではおりません」
「そうか、虫のいいことを、考えているものじゃのう」

周朝が突如滅び、明るく楽しい春秋戦国時代にはいった。
真っ先に飛び出したのは鄭の荘公の軍師、祭足である。
周王をけちょんけちょんに伸した彼は、それまでの封建制を完膚なきまでに叩きつぶし、自由で活力に満ちた「新しい時代」の初っぱなを突っ走った。
次の時代に現れた管仲は、一介の軍師が力量ひとつで国家を主導する体勢と、一国が周王に変わって、諸侯を束ねて主導する「覇者」の体勢を作り上げる。
戦国乱世に適応した、新しい体勢であった。

他方で、晋国と魯国では、内部で公族の殺し合いと、有力貴族への権力移譲が起きる。
それで魯国は弱体化したが、晋国はかえって強大化した。
世界情勢と同じく国内体勢も変わっていくのである。

  • 中巻:覇者の変質
「麒麟は日に千里を馳せるも、なお背に鞭を免れず――という譬えもあります。なまじ覇王になったばかりに、得るところなくして尻を叩かれたのでは間尺にあいません」

管仲死後、覇者・桓公は無惨な末路を遂げ、次いで覇者となった晋の文公は長年の放浪で寿命を使いきり、君主の座について短期間で世を去る。
文公の次代に晋国の執政となったのは趙盾であったが、彼は管仲や文公が「覇者」としての責務を果たして天下の主導権を握ったのとは対極的に、
天下の秩序も覇王の責務もただの浪費と見なし、言わば天下の責務から解放されて、賄賂の収奪など「好きなこと」をして過ごす路線を取った。
それでも晋国は中原で斉国と並ぶ大国であり、異を唱える国もなく、長期の繁栄を可能とした。
「天下のための覇王」は、桓公と文公の二代で実質終わったのだ。代わって、春秋戦国時代は主導する国家のいない「安定期」を迎える。

それに対して、国内の情勢はますます流動化する。
晋国や斉国では実力を備えた臣下が君主を凌駕し、やがて晋は「韓」「魏」「趙」の三国に分裂し、斉は外様の豪族に乗っ取られる。
しかしそれは単なる「下剋上」ではない。君主という「身分」が権力を保障してくれる時代はとうに過ぎ、権力を握った人物が君主になる時代が訪れたのである。

他方、中原の「外地」とされていた、西の秦国と南の楚国でも変動が起きる。
かつては西戎・南蛮と言われて異界扱いされてきた彼らも、秦の穆公・楚の荘王らが国力を大きく広げて文化圏を発展させ、権力を掌握・編成して中原諸侯と張り合ったことで、いつしか彼らも「中華の一部」に仲間入りする。

国際情勢の安定と国内情勢の変動、中華文化圏の拡大にともなって、いよいよ「諸子百家」が増大する。


  • 下巻:法治主義の発展
「新しい秩序を築くことは、過去に立ち返らず、振り返えることすらせずに、現在にも執着せず、いや進んで現状を打開することから始まる。つまり、いま目の前に割拠する諸国を、先ずは統一しなければならない――」

各国が賢人を求めて政治の発展を求めたことと、孔子が儒家という「学閥」「情報ネットワーク」を形成したこと、「稷下の学士」や「食客三千」といった人材を抱え込む風潮が現れたことで、「諸子百家」と総称される思想家たちが踵を接して現れる。
国家も積極的に彼らの思想を実践したため、中国思想史上の全盛期、中華思想の黄金時代が訪れた。

そんななか、西の秦国にて大きな変動が起きる。
賢人のひとり商鞅が秦国にて、法治主義・官僚システム・軍制改革・重刑罰・重農政策といった、国政の一大改革を徹底して行なったことで、秦はとてつもない強大化を遂げる。ついには秦一国で、ほかの六大国が束になっても叶わないほどの超大国へと成長した。

他方、諸子百家を母体とする「遊説の士」や、大臣を送りあうという「置相」の風習は、国家・国籍・国境の形骸化と、「中国は一つの天下である」という意識を芽生えさせることになった。「各国」の枠組みを超えて、「中国全体」の意識が芽生え始めたのである。

法治主義・官僚システムの進展、中華は一つの中華であるという意識の芽生え、そして秦国が一強化したことを、ことごとく意識した二人の英雄が現れた。
秦の若き王・嬴政と、韓の公子・韓非である。歴史にいう始皇帝韓非子であった。
韓非の親友・尉繚子を介して出会った師弟は、至高の時を過ごすが、かつての紂王・聞仲と同じく傑出しすぎた両雄は決して共存できず、韓非子が死ぬ。
始皇帝は、韓非子が「師」であり続け「臣」になってくれなかったことにショックを受けつつも、彼の遺志を継いで見事に天下を統一。
郡県制による中央集権と、万里の長城による国境制定で「中国」を完成させ、韓非子が完成させた法治思想、ひいては韓非子が集約させた「春秋戦国の思想の稔り」をも見事に刈り上げて、周代までとはまったく違う「中華帝国の時代」を創始した。


◇中華帝国志

春秋戦国志の続編。秦漢代から清代までを駆け足で巡り、皇帝を擁する「中華帝国」の治乱興亡のパターンを見渡し、「中華思想」をたどる。
上中下の三巻しかないため、都合上、隋唐と清はさらっと流されるだけになった(隋唐はのちに隋唐演義で掘り下げる)。
代わりに、漢・三国・宋・元・明については深く取り上げており、とくに宋代に関しては安能イズムの面目躍如である。
また安能氏はあとがきを書かない反面、まえがきにて自分の思想を表現するが、本作は総決算予定であったため、まえがきが全部で三章もある。

+ 各巻紹介
  • 上巻:秦末~漢代
 艱難を共にすることで相互の理解を深め、信頼関係を築くのは、俗世間でのことだ。権力は間違いなく「魔物」である。

春秋戦国志下巻の直接の続編は、始皇帝統治時代の張良から始まる。
すでに滅んだ韓の出身であり、しかも少年時代に韓非子に教えを受けていた張良にとって、始皇帝は師父と母国、二重の仇であった。
しかし始皇帝暗殺に失敗した張良は、「黄石公」ととぼける尉繚子――前作で韓非子を始皇帝に紹介し、韓非子の死後に逃げた、あの尉繚子――と再会。
彼から「始皇帝は韓非子の遺志を継いで、天下国家のために働いているのだ。そなたは始皇帝の業績を継がねばならん。秦や韓のためではなく、天下のために、そして韓非子がまとめた、春秋戦国時代の思想を後世に引き継ぐために、そなたは始皇帝の業績を継がねばならん」と諭される。
感銘を受けた張良は、天下国家のため、中国のために奮闘を決意。
楚漢戦争を通して、蕭何とともに秦国の資料、始皇帝の遺産を守り抜き、漢帝国を通じて法治政策を軌道に乗せることに成功する。

以後の中華帝国は、始皇帝の完成させた法治主義国家を「基本」「原型」としつつ、衰退と回帰、そしていかにマイナーチェンジをしたかにかかる。
確かに政治情勢はその都度大きく変化していくが、官僚システムの維持と効率化、および権力のコントロールが国家の盛衰を決める構造は変わらない。

前漢で言えば、前半期(こと文帝・景帝期)はまさに法治の黄金期、官僚システムが理想的に機能し、皇帝さえ法に服した時代である。
しかし後半期は、武帝が制度改革を乱発したことで、かえって職制の混乱・似たような職名の乱立を招き、法治システムがゆらぎ出した時代。
武帝と続く皇帝たちが「制度さえ変えれば問題が解決する」と安直に考え、権力の掌握と管理、官僚システムの効率的な整備と運用、といった地道な作業を後回しにしたことで、前漢は混乱と衰退を開始、じきに王莽に乗っ取られる。
その王莽を倒した光武帝、そして続く後漢の皇帝たちも「制度いじり」を繰り返し、後漢は外戚と宦官、それに名声を獲得した「名士」の時代に移り、三国志へと推移する。

  • 中巻:三国時代~五胡十六国時代~隋唐
なぜか、三国時代は絵に描いたような乱世でありながら、しかも、中国史の「乱世」に特有な「熱気」に欠けていた。

中巻はほぼ三国演義、末尾に南北朝時代と、隋唐をまとめて記述する。
しかし隋唐はともかく、三国、いや「魏晋南北朝時代」は、いわゆる「三国演義」が連想する英雄譚ではなく、国家と君主の権力が際限なく無力化し、時代を担うはずの英雄たちが途方に暮れた、黄昏の時代であったと喝破する。

まず安能氏は、魏・呉・蜀「三国」の戸籍に登録された人口の総数が、前漢全盛期のたった一割程度だったことに着目する。
つまり、仰々しく「三国」といってみたところで、実は大陸の一割二割も支配できていなかった「砂上の楼閣」、いや人民から乖離した「空中楼閣」だったのだ。
さらに、各地の中小豪族がとんでもない強さを発揮している。豪族は、流出した民衆を抱え込み、納税や賦役を課そうとする国家に対して激しく反発し、なにがしかの見返りを求めた。というか、地方豪族とは民衆のなかから自然発生したものだ。民衆が強くなったのである。
さらに異民族も大量に流入し、地方行政システムはますます崩壊する。

それで、君主たちはなんとか豪族たちの支持を取り付けようと四苦八苦する。
諸葛亮姜維の「無謀な」北伐も、「いまに勝って、利権を広げてみせる、だから支持せよ」と豪族を引きつけるための苦肉の策であった。
しかし結局、三国~五胡十六国~南北朝時代のどの国も「空中楼閣」からは脱しえず、皇帝陛下ともあろうものが「生まれ変わりがあるなら、二度と皇帝には生まれたくない!」と絶叫する事態になった。


そんな情勢を打破したのが、隋の文帝と唐の太宗である。
まず文帝が「科挙」を定めて、豪族から人事権を取り返し、官僚システムを再整備。
太宗李世民は唐朝の権力を強化した上で、豪族の出生を調査して等級付けすることで、彼らの社会的権威を削いだ。
かくて唐朝は軌道に乗るが、末期には「牛李の争い」という過剰な党派争いでふたたび政治の統制を失い、皇帝は宦官の傀儡となって、唐朝は没落の一途をたどる。

そして五胡十六国時代の焼き直しに近い五代十国時代を経て、宋代に移る。


  • 下巻:宋~清
 政治制度の効能は、とりわけ中国の場合、その運用の妙にあって、制度そのものに存在するわけではない。

宋代は、皇帝と側近がとにかく聡明だった時代である。
政界を割り軍事力を弱めてでも権臣の出現を予防し、カネと外交で平和を買い、恥も外聞も投げ捨て、抗戦派の元帥も虜囚になった皇帝も切り捨てる。
すべては「帝位と国家の安定」のためである。
必要ならばどんな手も採りながら、それでいて無用な殺戮は手控え、柔軟な策略を巡らせた宋代は、実にしたたかで理性的な時代であった。

続く元はモンゴル人の王朝であり、士大夫こそ失職の危機に直面したが、意外にも庶民は影響を受けず、中華文明も豊かになった時代である。
もともと民衆にとって、国家とは税をむさぼる略奪者に過ぎない。皇帝が漢族かどうかは問題ではなく、そもそも隋唐も宋も異民族王朝である。
むしろ大モンゴル帝国の出現は、商人たちに新しい交易ルートの開拓をもたらした。失職した士大夫も、民間でその素質を発揮し、小説・楽曲・絵画に新たな進展を加えた。

明代は、宋代とは逆な意味で「濃い」皇帝が多かった。
前半の洪武帝と永楽帝はやたら殺戮を行ない、派手な戦争を繰り返す。後半の武宗以降の皇帝は快楽の限りを尽くし、カネを湯水のように遣った。結果、明は果てる。
しかしそうした殺伐な皇帝、もしくは無頼な皇帝に揉まれてか、朝臣・儒者と宦官には気骨ある猛者が増えた。
殺戮されてでも永楽帝の簒奪を不当と断じた士大夫、命に代えても皇太子を守った宦官など、中国人も「近世」らしく、洗練されてきたのである。

代わって中国を支配したのは清である。
康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代は、清代のみならず中国史における黄金期であった。
勤勉で柔軟でなにより開明的な康熙帝、厳格に法治を施行して統治に全身全霊を尽くした雍正帝、そして最大版図を形成して大皇帝として振る舞う一方、出費しながら減税をし、イギリスの使者には柔軟に対応した乾隆帝――と、まさに黄金時代の皇帝たちが、中華帝国華やかなりし時代の最後を飾ったのを、安能氏は運命的にも感じている。

しかし、乾隆帝がイギリスの使者をうまくあしらってから半世紀後、アヘン戦争でついに本格的な「西洋人ショック」を受けて、中華帝国の歴史は大きく動揺する。
それは契丹(隋唐)や突厥(宋)やモンゴル(元)や女真(清)とは、根本的に異質なショックであった。
そのぶんのエピソードを通じて「中華思想」をまとめようと思ったが、残念ながら紙幅の限界に達し、その試みは次巻に続くことになる。


◇八股と馬虎 中華思想の精髄

 「中華思想」は単に、不滅の中国史を築いた中国人の知恵の結晶であるに止まらず、人類の「知恵の宝璧」でもある。科学技術を進歩させた西欧の合理思想や、それに基づく生存の流儀だけが人類の知恵であるわけではない。
 混沌の中に自ら然る秩序を見付け出して、支配権力を単なる「標識」と観じ、不滅を信じて個々の器量で生き抜こうとした中国流の生存流儀と、それを支えた「中華思想」もまた、いずれ劣らぬ「人類の知恵」である。

青幇の大物・杜月笙と、中国民衆の互助組織=幇会をメインに、袁世凱・孫文・蒋介石・毛沢東を代表とする、「近現代でも相変わらずしぶとい中国人」を描く。

ちなみに、八股(パクー)とは「八股文(はっこぶん)」のことで、科挙における形式張った文章のこと。要は建て前
馬虎(マフー)とは「馬(騎兵)だろうが虎だろうが、危害をなすなら同じこと」といい、その性質に着目すれば馬と虎の区別すら放棄するという、中国人らしい大ざっぱな本音のこと。
中国人が掲げるガチガチのイデオロギーと、行動面における柔軟さを暗示している。
そして副題にも用いられている「中華思想」とは、単に異民族を見下す「華夷思想」のことではない。中華という文化圏に住んだ人々が数千年にわたって磨き続けてきた、独特の思想のことである。華夷思想は中華における思想のほんの一部に過ぎない。

本作は一巻完結だが、封神演義、春秋戦国志、中華帝国志、と続く「中華思想シリーズ」の一つの大まとめであり、十巻そろって一つの作品ともいえる。
初めてあとがきを記した作品でもあり、中華帝国志の序文と、本作のあとがきを読めば、安能氏の思想により深く迫れるだろう。



◇隋唐演義

八股と馬虎でひと区切りついた安能氏が、中華帝国志ではわずかしか描けなかった隋唐時代をどっぷり描く。
メインは、義侠組織であり互助組織の「二賢荘」。そこに属する任侠界の英雄たちの活躍を通して、隋唐の政治情勢を、隋の文帝から唐の玄宗の時代まで描く。
なお本作は、全シリーズでも特に道教の描写が生き生きと描かれている。美女や悪女、英雄豪傑たちも特にユニークなのが揃う。

+ 各巻紹介
  • 上巻
 ――一日三餮、夜眠七尺、足矣。問君何事、苦苦竟繁(栄)華乎?
 とは昔から言い古された言葉だ。日に三度の食事をすることが出来て、夜眠るのに七尺の床があれば、それでよいではないか。諸君はなぜに苦苦として栄華を(きわ)めようとするのだ――という意味である。それが道教思想の強い伝統社会の一般的な生活信条であった。
 だから伝統的に人々は――皇帝陛下に飯を食わせてもらっていた士大夫たちのようには、皇帝を尊敬せず、むしろ権を(ふる)って贅を尽す皇帝を、それゆえに身体的にも政治的にも「死に至る道」を歩むバカな男だと思っている。

「隋唐演義」前半の主役は、単雄信と秦叔宝である。単雄信は「幇会」の守護神であり、秦叔宝は尉遅恭とならんで「門神」として祀られる。
いずれも道教分野での民間人気が熱い男たちである。
従って、とくに上巻では、「二賢荘」を経営して民間の英雄たちの「兄貴」として慕われる単雄信と、英雄豪傑の素質をもちつつもいまだ純朴で天然気味な秦叔宝を中心とした、民間の英雄たちの闊達なエピソードがきらびやかに描かれる。

一方、政界では隋の煬帝が、贅の限りを尽くして王朝の運命を縮めていく。
しかしこちらは「封神演義」における妲己のエピソードとは異なり、陰惨さがない。
むしろ、煬帝のハーレム「十六院」に属する美女たちや、煬帝に私淑する王義の、心からの忠誠と歓待は、本来陰険な地獄であるはずの後宮を「楽園」に彩った
だが、その希代の「楽園」に浸ったことで、煬帝は現実という「苦界」を避け、楽園で人生を全うすることを決意した。それは死に至る道であるが、さりとて、現実に立ち返らせて政務に骨身を削らせ苦しんで死なせるよりは、幸せではないだろうかと、楽園を裏から支える皇后・蕭后は考えるのだった……

  • 中巻
「将来、そなたを愛した女は、決してほかの男を愛することができず、見向きもしなくなるほどの、そなたの父上のような、立派な男になりなさい!」

やがて隋朝は誰もが予測した通りに崩壊し、煬帝も群臣たちに殺される。
隋朝崩壊に乗じて各地の群雄も決起し、李密、王世充、竇建徳、そして李淵といった面々が、帝や王を名乗って割拠。
秦叔宝を初めとする豪傑たちもそれぞれに縁故のある群雄に仕えた。
やがて李淵の唐が勢力を増していき、李密らを滅ぼし、ついには天下を取る。

しかしその過程で、かつて単雄信を中心として「二賢荘」の仲間だった豪傑たちは、敵味方に分かれて争うことになった。
政治では敵味方でも、個人では仲間だ、危機となれば助け合う、と誓っていても、うまく行かないこともある。権力に取り付かれて裏切りを起こすものもいれば、権力にうんざりして在野に戻るものもいた。
そして、二賢荘の親分で、皆から敬愛されていた単雄信も、李世民に捕殺される。
秦叔宝ら豪傑たちは懸命に助命を求めたが、単雄信の仲間たちに対する「統率力」を恐れた李世民はその決定を覆すことはなかった。

一方、隋朝を脱出した、亡き煬帝の婦人たちのドラマも同時平行で描かれる。
あるいは煬帝の遺児・趙王を守って異民族のもとまで行き、あるいは良縁を見つけて再嫁し、あるいは貧乏暮らしになって、それぞれの旅路で悲喜交々の人生を送っていく。
本段の台詞は、煬帝の皇后であった蕭后が、煬帝の仇に抱かれて生き残ったという噂を信じた息子を、母として女として妻として叱ったものである。

  • 下巻
 ――官情を称して「宦海」と言う。仕官の浮沈は、猶、海潮の起伏の如し――

天下は唐朝の下に帰し、いちおうの安定期に入る。
しかし、権力は常に魔性があり、政治の世界は常に荒波だ。
以後の時代は、李世民こと太宗、武媚娘こと則天武后、李隆基こと玄宗が中心となる。彼らはいずれも名君の素質があったが、いずれ一癖も二癖もある面々で、華々しい文化隆盛と権力闘争を引き起こした。
その権力の荒波に揉まれながら、群臣たちも生き残りを掛けてしぶとく戦う。
玄宗の腹心で実務処理に長ける姚崇は、同じく玄宗の腹心で文筆家の張説と対立していた。しかし実は、我ら二人が結託すれば周囲から恐れられ、罠に掛けられるのは間違いない、だから周囲の警戒を解くため、個人面では喧嘩を吹っかけ、政策面でのみ協力するにとどめていたのだ。
そうした、名君と賢臣の奮闘の傍らで、則天武后や楊貴妃や梅妃と言った毛色の違うヒロイン、酒と詩をこよなく愛する奇人・李白、羅公遠や張果や葉法善と言った道士たちが物語に彩りを添える

しかし隋の煬帝の夢が破れたように、唐朝の夢もいずれ破れる。
長い平和に飽かせて軍隊が空洞化し、その折に中央の政変を巻き込んで安禄山が反乱を起こしたとき、玄宗は窮地に追いつめられ、脱出のさなかに粛宗に譲位することとなる。
実際には安禄山の乱は、唐の致命傷ではない。玄宗ら首脳部は脱出に成功したし、政変を起こした楊国忠らを粛清する余力もあった。そして名将・郭子儀を中心とした唐軍は反撃に転じ、対する安禄山には皇帝の力量がなかったため、安史の乱はやがて鎮圧される。
ただ、一度退位した玄宗には、皇帝の権力が戻ることは二度となかった。
隋唐演義の物語は、玄宗の死をもって終わりとなる。



◇三国演義

八股と馬虎でひと区切りついた安能氏が、中華帝国志・中巻をベースに膨らませた、三国演義の解説本。六巻。
漢室復興などと心にもない大義名分を掲げ、その実自分の権力欲にだけ忠実な、しぶとい権謀家である劉備を中心に、
君主権力・国家権力の無力化を背景として、どこか虚無的曹操、成功しない北伐をあえて敢行する諸葛亮など、「英雄豪傑が覇道を競う」話ではなく、退廃的でビターな三国志
一方、山賊が民衆の守護者であるなど、中国人の本質に迫る安能イズムは健在。

+ 各巻紹介
  • 一巻
「こんな時に、大哥がまじめな顔をして、宴席で皆さんとつきあってくれるのはありがたいことだ。そうでもしてくれなければ、おれたち兄弟が、この世界に身を置くところはない」

虎牢関の戦いで、張飛呂布単独で倒せる腕があった。しかし張飛は、討てるはずの呂布をあえて殺さず見逃した。
先立って関羽華雄を討ったが、倒したあとは連合の諸侯から無視された。それは、華雄が死んでしまえば関羽は無用になったからだ。
呂布という強敵が生きている限り、張飛や関羽の価値はあり、劉備が群雄のなかで泳げる余地も生じる。
しかしそれは、どうにも「小さい」あり方である。しかもそれは張飛や劉備たちだけの話ではない。曹操が献帝を擁立したのも、大義名分の確保と言えば聞こえはいいが、開き直って自分の権威で王朝を建てる、本格的な覇業が出来ないことの裏返しでもあった。

  • 二巻
「たとえ期待外れだとしても、文王が車を曳いたようなことをすれば、やがて本物の太公望が名乗り出るチャンスを作ったことになる」

曹操は袁紹を倒して一強となり、劉備は劉表のもとで諸葛亮と出会う。
劉備が「三顧の礼」で諸葛亮を迎えたのは、もとより諸葛亮が「天下を取れる」ほどの天才と思ったからではない。「我輩は英雄豪傑を求めること、三顧の礼を尽くすがごとくである。天下の異才よ、我が元に集結せよ」と喧伝するためのハッタリ、いや広報であった。
だから、劉備の狙いは「三顧の礼」そのものにあり、「諸葛亮」ではない。実際、彼はほどなく諸葛亮の「中身」に失望する。諸葛亮は、劉表の死で混乱する荊州を奪え、と進言した。しかし現実に、荊州の支配者は劉表ではなく豪族たちだ。彼らの支持もないまま奪い取っても、曹軍の迎撃はおろか荊州兵の制御すら出来ず、それどころか、これまで培ってきた「仁義」の金看板、劉備唯一の資産すら破棄しかねない。
それでも、三顧の礼は所定の目標を果たす。しかしそれはもう少し先のことだ。

  • 三巻
「のう、亮よ! 大きくなって偉くなったが、性格はちっとも変わっていないようだ。世の中には、知っていても口に出してはいけないことがある。そなたは子供の頃から、勘繰りと詮索が好きで、しかもそれを探り当てては、憚りなく口に出して相手を驚かし自分で得意になる悪い癖があった。子供の頃にそれをやれば、相手はそれを聡明な証しだと褒めてくれるが、同じことを大人になってもやれば、相手は口に出さないまでも、肚の中で怒る。お止めなさい。それで失敗(しくじ)るのではないかと、この兄は心配したから、あえて注意を与えたのだ」

「赤壁の戦い」は実際には曹操と周瑜の戦いである。諸葛亮はいかにも「天才軍師」とでかい顔でやってきたが、要はハッタリを振りまき虚名を掲げただけで、諸葛瑾からは叱責され、魯粛からは内心で「口舌の輩」と見定められる。
しかしハッタリや名声も、それはそれで立派な政治手腕の一つである。それに諸葛亮の弁舌は、軍師としてはともかく、それなりに有効であった。
そんな、魯粛いわく「似合いの君臣」劉備と諸葛亮は、赤壁のどさくさに紛れて荊州を制圧し、さらに培った名声で馬良黄忠魏延などを迎え、勢力を確立。やがて益州にまで食指を伸ばす。

  • 四巻
 楊修自身が、死に至る道を歩んでいたのである。権力者の心の奥をやたらに覗いてはいけない。楊修はその禁を犯してしまったのだ。
 権力は権威の支えなくしては成り立たない。権威の本質はカリスマ(神秘性)である。カリスマの一つの側面は、権力者が何をするか、何ができるかの見定めがつかないことだ。心を読まれたら、カリスマは消えないまでも、威力を殺がれる。だから伝統社会の権力者たちは、曹操ならずとも病的なまでに心を隠した。

劉備は蜀を取り、漢中で曹操を撃退して、いよいよ絶頂期に入る。
逆に曹操は、どうにも漢中では調子が狂った。戦場に赴くのにわざわざ遠回りをして詩人の遺族と面会したり、漢中に到着しても采配がうまく行かなかったり、後方にいたはずの許褚が流れ矢で負傷したり、と苦戦。
果ては楊修に心を読まれ、権威を立て直すために出兵したところを、顔面に矢を受けて倒れた。
しかし悶絶しながらも曹操は、考えを整理する。思えば漢中攻略の戦略意義は、漢中から益州までを制圧して天下統一のきっかけとするところにある。しかし天下統一をあきらめるのなら、漢中は劉備に渡して、緩衝地帯にしたほうがいい。
そういえば曹操はもとから漢中や益州に欲がなかった。かつて張魯を下した際に、司馬懿は蜀攻めを進言したが、曹操は乗らなかった。そして今回「あの趙雲と交換するなら、漢中を渡してもよい」とこぼした。曹操は無意識のうちに、天下統一はやる気がなく、漢中もいらない、と考えていたのだ――と思い至る。
それは、「三国」が実際には人民の一割しか支配下に組み込めず、「鼎立」することでやっと国の体を保てるという、国家権力がひたすら弱くなる「三国時代」の先覚でもあった。有り体にいうと、曹操も魏国も、天下を治めるだけの実力がなかったのである。

  • 五巻
 劉備は、敵対する人々からは「大耳子」すなわち顔だけ福々しげな「間抜け者」と蔑まれた。だがその実は、なかなか、どうしてどうして、劉備こそは間違いなく福気(幸運の星)に恵まれた果報な男で、一種独特な権謀に長けた、しぶとくて芝居上手な、三国時代の傑出した立て役者である。

絶頂期に至った劉備だったが、孫権の裏切りで関羽・張飛を殺され、報復のため出兵するも陸遜に敗れ、死期を悟る。そこで劉備は、諸葛亮に「託孤」――孤児となる劉禅を託すことにした。
しかし劉備は、諸葛亮は信用はできても、関羽と張飛ほどには信頼はできなかった。幸い、諸葛亮に拮抗する権力者は蜀にはいない。だからわざわざ託さなくても、諸葛亮が次代の指導者となることは明らかだった。
だから劉備が為すべきは、諸葛亮にいろいろと「枷」をはめて、劉禅への謀反を起こせない状況を作ることにあった。

そのために劉備は磨き抜いた知恵を発露する。
まず、託孤の場に、当の劉禅を呼ばなかった。後事を託すのならば劉禅を諸葛亮に平伏させ「師父の礼」を取らせるべきだ。しかしそうすると、才能で諸葛亮に劣る劉禅が、最初から「負け犬根性」を抱くかも知れない。君主として「威厳の無い」存在になるかも知れなかった。だから、劉禅を「わざと」呼ばなかった。
しかも諸葛亮の増長を防ぐため、群臣が見ている前で「太子禅が不肖ならば、汝が取って代わるべし」と言い渡した。もちろん、衆人監視の場で諸葛亮が言えるのは「滅相もございません、新帝陛下に命の限り忠節を尽くします」だけしかない。ほかにありえない。
それでいて、諸葛亮の忠誠を買うため、劉禅の代わりに呼び寄せた劉永・劉理には古典的な師父の礼を諸葛亮に捧げさせる。
「劉禅と諸葛亮の君臣関係」を築くため、徹頭徹尾計算され尽くした「託孤」である。そのぶん諸葛亮は「道化」になることを強いられた。公衆の面前でけなされたに等しい諸葛亮が、不満を抱くのは当然である。しかしそれはそれで、諸葛亮は偉大な「先輩」が自分を鮮やかに手玉にとったのを、感心する思いで眺めていたかも知れない。

  • 六巻
五巻から引き続き、諸葛亮・姜維の北伐が中心となる。
彼らの北伐はさして成果があがることもなく、しかも連年起こしたため、国力の浪費という批難もあがった。李厳に至っては公然と妨害している。しかもその妨害は、劉禅も黙認していた。
しかし諸葛亮と姜維の「北伐」は、本気で魏国を打倒するものではなかった。そんなことは最初から不可能であり、漢室復興と天下統一は、もう諦めていたのだ。
だから「北伐」の戦略目標は、蜀漢内部に「戦時体勢」を敷くことで、文武諸官や地方豪族の引き締めを図り、自壊しかねない蜀漢を束ねることにあった。そうでもしなければ、兵士や金穀の徴収もままならなかったからである。いやそれどころか、敵国が攻め込んだり反乱が起きた際に、弛緩しきった地方豪族が敵に内通し、劉禅が叩き出される危険性もあった。
しかし軍師の心君臣知らずで、劉禅も群臣も、一朝有事があればすぐに崩れる「三国鼎立」が永遠に続くものと考えて、無気力な現状維持を続けていた。

そうした認識を、敵の司馬懿も持っていた。いや司馬懿の場合、「戦時体勢」が続けばそれだけ、軍人である司馬懿の権威が高まる。逆に、諸葛亮と本気で決戦して倒した場合、司馬懿は権威ががた落ちする。
四十年前の関羽と張飛は、討ち取れるはずの呂布を殺さずに生かし、それゆえに「呂布に対抗できるのは関張だけ」という状況を作った。司馬懿も同様に「諸葛亮に対抗できるのは司馬懿だけ」という状況を作って、権力を固めていた。
しかしその一方で、彼ら一族は魏国内部で権力闘争を繰り広げ、ついに帝位を簒奪する。そして蜀と呉に攻め込んだ。やはり、文武諸官や地方豪族は次々寝返り、両国は滅ぶ。


しかし「三国時代」は終わったが、「魏晋南北朝時代」はさらに続く。それは「異民族の流入」と言う側面が加わっただけで、三国時代と本質は変わらなかった。
つまり、君主と国家の権力が際限なく弱体化し、文武諸官と地方豪族は自己の利権だけを追求し、民衆は国家権力の束縛から開放されて自由を謳歌したのである
だから、司馬懿を始祖とする晋国は、かつての蜀や呉と同じく「一朝の有事」であっけなく崩壊する。捕えられた懐帝と愍帝は狩りの勢子をやらされ、しかも恥じる色もなかった。君権や皇帝とやらは、魏晋南北朝時代を通じて、「その程度のもの」になっていた。
さらに、懐帝と同じく捕えられた宰相王衍は「わたしは政務を執ったことなどありません。宰相の仕事とは、誰を皇帝にするかを決めて、玉璽を授けることです」と言い切った。皇帝や君権と同じく、宰相も国権も、無力化の極みに至っていたのである。

そういうわけで、魏晋南北朝時代――「三国時代」「五胡十六国時代」「南北朝時代」――は多くの国が現れたが、すべて実際の権力のない非力な空中楼閣ばかりであり、短命であった。
状況が改善されるのは隋唐の時代、強力な意志と聡明な知識を持った隋文帝や唐太宗の出現を待たなければならなかった。それは「隋唐演義」で描かれる。

他方で、この時代は人民にとっては悪い時期ではなかった。竹林の七賢のような隠者、陶潜のような詩人が、それぞれ太平楽を謳歌した時期である。
そして彼らが抱いた老荘思想が、民衆の民間信仰と融合し、さらに仏教の伝来とも作用して、道教の盛期を生み出すに至る。
そしてその道教の組織化と隆盛に伴って、三国志の英雄たちも神として祀られるようになった。わけても関羽と諸葛亮、いや関公と孔明は、その筆頭であった。今に残る三国演義にも、関公と孔明は別格の神秘的な存在して、描かれている。


封神演義以来の講談社文庫は、三国演義を以って終わりとなる。


◇始皇帝 中華帝国の開祖

「要するに立派な大人が、いまだに、すべてのことを一身に引き受ける覚悟もしていなければ、その決意すらしていないのじゃ」
「そういう覚悟と決意さえあれば、最後に頼るのは自分自身で、責任を取るのも自分であるから、誰にも甘えてはいけないことに気付く。やたらに本心をさらけだすべきではないと悟る」

タイトル通り始皇帝の一代記。春秋戦国志と中華帝国志の中間に位置するストーリー
春秋戦国志では天下統一まででストップし、中華帝国志では張良がメインだったために間接的にしか描かれなかった、始皇帝の実際の天下統治が丹念に描かれた傑作。
厳格でありながらも清廉で、人情を持ちながらも皇帝として感情をコントロールし、そのうえで全身全霊を帝国の理想のために燃やし尽くした、中国史上最大の大皇帝の姿を、熱意も新たに荒々しく描き切る。

なお、本作は2019年に新装版で発行されたため、新品で入手が出来る。


◇韓非子

 韓非子の「支配体制論」とは、要するに法令を整備して、統治組織や政治機構を築き、権力者は存在するが、人々は殊更にそれを意識せず、究極的には、無為にして政治を成り立たせる「仕組み」のことだ。
 なんのことはない。老子の教えた「無為にして化す」ことや「為す無くして為さざる無し」を地で行くことである。そして「最高の治世は支配者の存在を知らず、その名をすら知らない」という老子の理想を、そのまま追求することであった。

始皇帝の師、韓非子の著書「韓非子」を解説した書物。
上下二巻ではとうてい納まらない上、安能氏の独特の解説を織り込む都合上、一部は泣く泣く削除してまとめている。
それでも読み応えは十分。中国で一般に「美談」とされがちなエピソードをことごとく撫で斬りにし、いかによく政治を導くか、だけでなく、いかによく生きるか、ということまで踏み込む。
老子の哲学をも深く踏み込んでいるため、真に読みこなせれば人生の指針にもなる珠玉の上下巻である。
ただし、安能務シリーズ全作品を通じてももっとも難解な作品であることは間違いない。少なくとも春秋戦国志は頭にたたき込み、その上で予備知識も必要となる。


◇権力とは何か 中国七大兵書を読む

 汚職で摘発されるのは、戦場で流れ矢を受けたようなもので、まったくの不運である。そして、路を歩いて雷にうたれることがあっても、それゆえに人々が路を歩くのをやめないように、汚職官吏は投獄される「災難」の危険はあっても、決して不正蓄財をやめることはなかった。
 いや、開き直れば、金持ちになるのは誰にとっても、人生の崇高な努力目標である。

兵法書の一部を解説しつつ、中国の思想を読み解く試み。唯一の新書
「韓非子」を読む前にこっちから入ると少しはマシかも知れない。春秋戦国志→権力とは何か→韓非子、という順序がベターか。


◇映画「始皇帝暗殺」パンフレットへの寄稿文

 自慢にならず恥とも思わないから告白するが、それがしは映画について、まったくと言ってよいほど、なにも知らない。だからトンチンカンに笑ったり、チンプンカンプンに溜息を吐く。優れた脚本構成や演出よりも、その破綻を見つけては悦び、主演俳優の格好よい姿や演技よりも、脇役のちょっとした素晴らしい仕草に感動する。

「暗殺には興味ない」「映画に詳しくない」と映画パンフレットに寄稿する安能氏が、いったいなぜに映画パンフレットに寄稿する羽目になったのかさっぱりわからないが、とにかく記載がある。
ストーリーにはやはり難儀を感じたようで、メインヒロインについて「見るんじゃなかった……」といわんばかりの寂しさがある。
一方、荊軻役の俳優の「殺」という発音が特定個人に向ける時と抽象的な一般対象に向ける時とで発生の調子を変えているところや、呂不韋役を自ら演じた監督については高く評価している。



【安能イズム名言集】

  • 「お父上が亡くなられて、お気の毒だった」
    「いえ、武王の運が強かったのです」
    「武成王と飛鳳山の三将が亡くなられたのも惜しい」
    「元帥、ご存じだったのですか?」
    「いや、なにも知らない」
    「残念です」
    <封神演義・下巻>
「封神演義」末尾における、太公望姜子牙と北伯侯崇応鸞の会話。これだけなら「?」だが、実は重要な会話である。

崇応鸞の父・崇黒虎は以前から、武王は戦争が終われば、功臣や同盟者を「用済み」として処分するだろうと見越していた。しかし、君主に立場があることは認めるが、臣下にも立場がある。
だからこそ、北伯侯・崇黒虎は武成王・黄飛虎と飛鳳山の三将で「徒党」を組み、いずれ粛清を狙ってくる武王一族と対抗しようと考えていた。
しかし殷の張奎との戦いで彼らは全滅する。

崇応鸞は父・黒虎の教えをしっかり学んでおり、可能ならば姜子牙や東伯侯・姜文煥と組み、父の計画を継げればと考えていた。
しかし姜文煥は、一介の戦士としてはともかく、権力者の素質に欠けている。
そして姜子牙も、この会話で応鸞の祈りを婉曲に断った

姜子牙は、崇黒虎と武成王、飛鳳山の三将の名前を脈絡もなく挙げる。これはつまり「崇黒虎が武成王や飛鳳山三将と党を組み、武王に対抗しようとした計画」を、子牙が知っていたことを示す
だから応鸞は、亡父の計画を継いでくれるのかという願いを込めて「ご存じだったのですか?」と問う。
しかし姜子牙は「なにも知らない」と返す。つまり、知ってはいるが公言するつもりはなく、協力もしないぞ、と腹芸で答えたのだ。だから応鸞は万感を込めて「残念です」と返す。
そして、計画への未練を残す応鸞に、姜子牙は一言「未練を捨てよ」と教え、ついに応鸞は馬賊となることで政界への「未練を捨て」る生き方を選択する。

応鸞が去ったあと、ひとり自室で嘆息する姜子牙は、訳もわからず道化として始末されるだろう姜文煥たち天下の諸侯、すべてわかった上であえて道化たらんとする自分自身に感慨を抱きつつ、聡明でありかつ道化の道を歩めなかった崇応鸞の「若さ」に、万感のこもった苦笑を浮かべている。


  • 「要するに立派な大人が、いまだに、すべてのことを一身に引き受ける覚悟もしていなければ、その決意すらしていないのじゃ」
    「そういう覚悟と決心さえあれば、最後に頼るのは自分自身で、責任をとるのも自分であるから、誰にも甘えてはならないことに気付く。やたらに本心をさらけだすべきではないと悟る」
    <始皇帝・中華帝国の開祖>
始皇帝が、腹心の蒙毅と二人きりで談笑していたところ、蒙毅は第一皇子・扶蘇から「自分は父上に嫌われているのではないか」と相談を受けたことを話す。
蒙毅は単に、父子のわだかまりを解こうと思っての話題だったが、始皇帝は本心からショックを受け、そして怒った。蒙毅にではなく、扶蘇の不甲斐なさにである。
そこからの始皇帝のセリフは、「君主としての心構え」以上に「大人としての心構え」である。

皇帝は、いや人間というものは、最後は自分自身だけで生きていかなければならない。目の前の選択肢を用意するのは周囲だが、選択肢を最後に決定するのは自分であり、責任を負うのも自分であり、選択肢を誤り困難に直面したときに挑むのも自分である。
決して、誰かが肩代わりしてくれるのではない。自分の人生は自分が背負っているのだ。

これは、他人の力を借りる、部下を使うということではない。
誰の力を借りるか、どの部下に任せるか、それを決めるのも自分だ。部下が失敗し、責任を執らせて処断するにしても、その処断を決めるのも自分である。
人は自分の力だけで生きていくことはできない。しかし、自分の人生を誰かに背負ってもらうこともできない。他人の力で生きていながらも、最後は自分自身で決めて生きているのだ。人間は、人生の責任を、常に、自らが負わねばならない。

なのに扶蘇は、父が愛してくれているかということを蒙毅に訪ねた。
まず、いくら蒙毅でも、軽々しく訊いていいことではない。
それに、父が愛してくれないことが、どうだというのだ。そもそも扶蘇は第一皇子であり、いずれは天下に君臨しなければならない。そして扶蘇が皇帝になるときは、父・始皇帝はこの世にいないのである。
始皇帝がいなくなり、自分だけで帝国(皇帝としての人生)に直面したとき、扶蘇は始皇帝にすがるつもりなのか? もうこの世にいない父に!

子供のうちは、周囲に依存してもいいだろう。しかし大人であるなら、依存してはならない。自分の意志で、周囲の力を使い、生きていかなければならない。最初から周囲の助けを当てにするのは、それは大人ではない。一人前の人間ですらない。
「嫌っているわけではない。いや、心から愛している。だが、それを悟らせては彼のためによくないのだ。そうだろ、毅」

この始皇帝のセリフは、安能老師の人間に対する誇りと意志と意地が凝縮された発言である。同時に、人生の責任を自ら負うことを忘れて、物事から目を逸らす人間への悲憤慷慨でもある。


  • まことに「大なる哉、道」である。その至らざるところなし。<韓非子下巻>にて、タオの解説。
世界に存在する、物質や現象・事象には「理」が存在する。線香が燃えて煙が上がり灰が落ちるとき、線香と灰と煙を区別するのは、それぞれの「理」である。線香には線香の「理」、灰には灰の「理」、煙には煙の「理」がある。それぞれの「理」があるから、線香、灰、煙、といった物質や現象は区別されて存在する。
しかしそうした「理」は、「道」があるから生じうる。線香が灰や煙に変化する瞬間のはたらき(タオ)というのだ。
つまり「理」を備えた万物は、「道」によって生まれるのである。
「道」は、「理」を定めて、万物を生み出すのである。
ゆえにいわく、「道理者也」道は理するものなり、と。

だから、天はタオによって高く、地はタオによって豊かであり、北斗や星々はタオによって夜空を巡り、日月はタオによって輝き、五行や四季はタオによって移り変わる。
タオは尭舜とともに賢く、接輿(奇人)とともに狂い、桀紂とともに滅び、湯武とともに栄える。
近くにもあれば宇宙の果てにもあり、遠くにもあればすぐ側にもある。暗いところにもあれば光芒を発し、明るいと思えば暗黒にもある。
天地はもとより、宇宙のあらゆるものもすべてタオによって生まれている。
あらゆる物質・現象・概念、みなことごとく「発生する原因」がある。その「発生原因」をして「タオ」と呼ぶのだ






  • 中国史にはウソがまかり通っている
安能老師は一筋縄では行かないお方である。
まず安能氏は、中国史における既存の解釈、偏見に対して、激しい憤りを抱きつつ執筆していた。
始皇帝や韓非子に対する、暴君・冷血・無情といったいわれなき「先入観」。史記・秦始皇本紀の本文すら反映しない「始皇帝研究」。「法家」の韓非子が「道家」の老子の教えを理解しているわけがなく、韓非子の老子理解は一篇に過ぎないとする「風潮」。それらへの猛烈な悲憤慷慨が、文章には満ちている。

しかし安能老師は、自分の見解が常に正しくないとも理解していた。
そもそも人間において「正しい理解」などありはしない。「間違いなく絶対に正しい見解」、「科学的で客観的で中立な見解」などというものは、人間界には絶対にないのだ。資料の引用を明記して脚注をつけ、「~~ではなかろうか」などと断定を避けたところで、それは単に責任逃れの言い訳に過ぎないのである。

だから、安能老師はあえて断定的な表現を駆使し、「絶対にこうである」とか「間違いなくこうであった」と記しているが、それは読者の側も「なるほど、おまえはそう思ったのだな」と、一歩引いて理解しなければならないからだ
どんな文章でも、書き手と読み手は別人である。書き手には取るべき態度があり、読み手にも取るべき態度がある。「安能務の書くことは嘘だ」というのも「安能老師の書くことは絶対に正しい」というのも、均しく間違いで、結局は「自分はこう考える」しかないのである

だから、「自分はこう考えている」というのを忘れて、ただ安能氏の書くことだけを読むことも、実は間違っているし危険だ。
安能氏自身、著作のなかでいかにも引用文のような形で、私見を挟んでくるからである。いやそれは、安能氏の私見であるとともに、安能氏から我々への試験でもある。

その一つは「一要七術」である。七術とは「七通りの汚職の手口」であり、一要とは「七術の要となる、汚職する者の心得」だ。
その七術とは――
  • 徒党を組んで情報操作やかばいあいや追い落としを狙う「朋党(ほうとう)比周(ひしゅう)
  • 公費をばらまいて私的な恩義を売り込む「以公(いこう)済私(せいし)
  • 外部の勢力を引き込んで国内情勢を制圧する「倚外(きがい)制内(せいない)
  • 法律を曖昧に解釈して囚人から賄賂を取る「疑法(ぎほう)賕納(きゅうのう)
  • 法を曲げたり盲点を突いたりして予算を抜き取る「貪贓(たんぞう)枉法(おうほう)
  • 問題の処理を引き伸ばして責任を押しつける「拖溜(たりゅう)推諉(すいい)
  • 言を左右にしたり当たり外れのない原則論を述べたりしてどっちに転んでも責任を逃れる「矰繳(そうしゃく)徼倖(ぎょうこう)
の七つ。
そうした「七術」は言わば技術であるが、そうした技を使いこなすのに必要な奥義、「一要」が「揣摩(しま)渲染(せんせん)」である。
揣摩臆測というと当て推量ということになるが、ここでいう「揣摩」とは「相手の内心を正確に読み取ること」。対する「渲染」とはぼかし絵のことで、「自分の内心を包み隠すこと」。
つまり揣摩渲染とは「自分は相手の内心を正確に把握し、しかも相手には自分の心を悟らせず、自分だけが相手を誘導すること」にある。汚職をするには基本技術で、しかも奥義である。いや、ただ生きる上でも大事なことだ。

安能氏はこの「一要七術」を、韓非子が研究してまとめたものとし、「韓非子」「権力とは何か」に記述している。揣摩渲染は蘇秦が開発したとある。

しかしこの「一要七術」、古典「韓非子」には存在しない。
少なくとも岩波文庫の「韓非子」全四巻を冒頭から末尾まで探したが、一要七術・揣摩渲染を見いだせなかった。
「朋党比周」はあったが独立して扱われており、また「権力とは何か」で挙げられた七術の具体例は確かに古典「韓非子」からの引用だが、古典「韓非子」では「七術」というまとめ方はされていない。

安能老師が、勘違いしたのではあるまい。
よく読めば、「韓非子」において一要七術を記した場面では、そこだけ漢文の引用がない注意すれば「古典にはない」とわかる構造になっていたのだ。つまり意図的である。

その「意図」は自ずと知れる。つまり「わしが書いたことを、そなたはちゃんと確かめたのか? 世間に『正しい文献』などなく、人間に『正しい意見』などないと教えただろう。わしが『正しいこと』を書いているわけではないぞ。確かめたのか?」という、安能老師のイジワルな試練が、気付けば気付くレベルで仕込まれていたのだ。

しかし、出典を探すのはこれは言わば「応用問題」であり、単に安能イズムを知り、「韓非子」における大量の「具体例」を読み解く上で、便利な解釈であることは間違いない。
また、教えは実践してこそ意味があるという禅宗の教えを鑑みるなら、安能老師の試練はむしろ受けて立つべきものだろう。








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最終更新:2023年07月23日 18:39

*1 ちなみに日本では安能姓は非常に珍しい。

*2 以前、鄭国と周朝の関係が悪化した際、祭足はいきなり洛陽近郊に兵を率いて現れ「鄭が不作だからちょっと融通利かせてくれ」と麦を勝手に収穫していった。「周朝と言えども権力を失った今、鄭国に口を挟むのはやめろ、さもなくば次は麦の略奪ではすまんぞ」と恐喝したのである。

*3 宋は歴代王朝の中でも特に「正統論」が強かった

*4 よく秦檜が非難されるが、彼があのように動けたのは皇帝である高宗がバックにいたからである

*5 そもそも北宋時代に遼に大量の銀と絹を送っていながら、それによって遼国内で贅沢が流行った結果、茶や陶磁器などを大量に輸入することになり、送った財貨以上の財貨が宋に入ってきた過去がある。これは南宋・金でも同じであった

*6 そのせいで後に対外的にも対内的にも苦慮するのだが

*7 隋も唐も鮮卑化した漢人の豪族だか漢化した鮮卑の豪族だかが出身。ただし唐の太宗こと李世民は当時の貴族(九品官人法からの層)を牽制するために「貞観氏族志」を作らせている

*8 実際、面子が潰されてもそれを回復しようとしなかったせいで人が離れた例は存在する。かの韓信も「股くぐり」の評価に長い間悩まされた。ただ安能氏は、韓信については「股くぐりという『悪名』をわざと広めて自分を売り込んだ」と分析している。

*9 戦国時代の范雎の「睚眦の恨み」など

*10 斉の桓公