种拂は、後漢後期の人物。种暠の子で、种劭の父。
 自身も司空まで昇るが、李傕郭汜の乱によって長安で戦死した。


情報

种拂
穎伯
本貫地 河南尹洛陽県
家柄 洛陽种氏
种暠
起家 州従事司隷
官歴 宛県 光禄大夫 司空 策免 太常 戦死
(まつりごと)に能名有り。
死去 初平三年(192年)李傕、郭汜の乱、長安城潰え、遂に戦い而して死す。
死後評
种劭


事跡

 初め、司隸校尉従事となった。
 朝廷に仕えて昇進し、宛県を拜した。時に南陽郡郡吏休沐の折に宛の市里(市街区)に赴いて遊び戯れ、百姓の患う所となった。种拂は出かけた際に彼らに逢うと、必ず下車して公の謁礼をし、それによって彼らの心に()じさせた。このことで敢えて遊び歩く者はなくなった*1
 (まつりごと)に有能だと名声を博し、累遷して光禄大夫となった。
 初平元年(190年)、董卓の秉政の下で荀爽に代わって司空となった。
 明年(191年)、地震によって策免され、また太常となった。
 初平三年(192年)、董卓が誅殺されたが、李傕郭汜が反乱して攻め寄せた。長安城が潰え、百官が多く兵難を避けて逃げた。しかし种拂は剣を揮って敵軍へ出て曰く、
「国の大臣となるも、戈を止め暴を除くこと能わず、凶賊をして兵刃を宮に向かわせるに致った。去っていずこに()かんと欲するか!」
 戦って戦死した。


年表




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関連項目・人物

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最終更新:2016年02月11日 21:27

*1 宛県は南陽郡の郡治(郡府所在地)で、多くの郡吏が居住した。种拂は県令として宛の風紀治安を預かったが、上級政庁の郡の吏を直接監督することはできない。故にこのような手段を取ったのである。