王儁は、後漢後期の人物。
曹操が
布衣であった時、特に王儁を愛し、王儁もまた曹操は治世の具を有すと称した。
辟召や
徴召に応じず、危険を避けて
武陵郡に居したが、百余家もが後に続いた。曹操の奉迎によって
献帝]が[[許県に都して、また
尚書に為すと徴召してもまたもや就かなかった。
そのまま武陵で死去した。曹操はこれを聞いて哀傷し、
荊州を制圧した際に自ら喪を迎えて
江陵郡に改葬した。
情報
王儁 |
姓氏 |
王 |
名 |
儁 |
字 |
子文 |
本貫地 |
汝南郡 |
評 |
外静かにして内明るい。 |
死去 |
寿を以って武陵に終わる。 |
享年 |
六十四 |
追贈 |
(曹操が)自ら江水に臨み喪を迎え、江陵に改葬し、先賢と為して表すなり。 |
事跡
幼くして
范滂や
許章の識るところとなり、
南陽郡の
岑晊と親善した。
外見は静かにして、内に(道理に)明るい為人だった。
曹操もまた、
布衣であった頃、特に王儁を親愛し、王儁もまた曹操は「治世の
具を有す」と称した。
袁紹と
袁術が母を失って
汝南郡に帰り葬ったとき、三万人が葬儀に参列し、王儁と曹操も会した。曹操は密かに王儁に語って曰く、
「天下はまさに乱れんとしている。乱を為す魁者(首魁)は必ずやこの二人だ。天下を済い、百姓の為に命を請わんと欲するならば、先にこの二子を誅さねば、乱は今に作るだろう」
王儁は応えて曰く、
「卿の言の如くならば、天下を済うのは卿を舍ててまた誰であろうか?」
二人は相対して笑いあった。
州郡や
三府の命(
辟召)に応じず、
公車が
徴しても到らず、地を避けて
武陵郡に居したが、王儁に帰する者は百余家あった。
建安の初め(196-)、曹操の奉迎によって
献帝]が[[許県に都すと、また
尚書に任じると
徴召があったがそれでも就かなかった。
当時、
袁紹の強盛を見た
劉表がひそかにこれを通じた。王儁は劉表に謂い、
「曹公は天下の雄です。必ずや能く霸道を興し、桓(
斉桓公)、文(
晋文公)の功を継ぐ者です。今、近きを
釈して遠きに就かれる。
如し一朝の急が有って、遥か漠北の救いを望んでもまた難しくはないでしょうか」
しかし劉表は従わなかった。そのまま年六十四で武陵で死去し、曹操はこれを聞いて哀傷した。
曹操は荊州を平定するに及んで自ら
江水に臨み喪を迎え、
江陵郡に改葬して先賢として表した。
年表
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最終更新:2016年03月29日 22:15