蕭建は、後漢後期の人物。後漢末の割拠の時代に
琅邪相となる。徐州刺史となった
呂布に帰順したが、
臧覇の攻撃によって
治所としていた
莒県を失った。
情報
事跡
霊帝期、
趙咨が
東海相だったころ、郡吏として
朱祇と共に
事えた。
趙咨が病を得て
議郎として洛陽に召され、危篤となると、遺言を受けて
喪を郷里の
東郡燕県に送った。趙咨の子の
趙胤(燕県趙氏))はその薄葬を忍びず、
改殯することを願ったが、朱祇と蕭建は顧命(遺言)をもって諭し、喪葬は履行された。趙咨は明達であると称えられた。
後に
琅邪相となった。
建安二年(197年)、
徐州刺史呂布が徐州西部の
下邳国におり、
騎都尉の
臧覇が琅邪国の本来の治所である
開陽県に駐留していた。
蕭建は
莒県を
治所としており、自ら守って県城を保ち、呂布とは通じていなかった。呂布は蕭建に書を送って曰く、
「天下が挙兵したのは、もとは董卓を誅することを以ってのみだった。
布は董卓を殺し、関東に来たり詣って、兵を求めて
大駕を西に迎え、
洛京を光復しようと欲したのに、諸将は自ら還って相攻め、国を念じ肯うものは莫かった。布は
五原人であり、徐州を去ること五千余里、天の西北の角に在る。今、来たって天の東南の地を共に争うにあらず。莒県は下邳と相去ること遠からず、宜しく共に通じ当たるべきである。君が自らの如くすれば、遂には郡々は以って帝を
作し、県々は自ら王とするだろう。昔、
楽毅が
斉を攻め、呼吸して斉の七十余城を下し、ただ莒と
即墨の二城だけが下らなかった。然る所以は中に田単があった故である。布は楽毅に非ずと雖も、君もまた田単に非ず。布の書を取り智者と詳らかに共にこれを議するべし」
蕭建は書を得て、即ち主簿を遣わし
牋を齎し上礼をとって、良馬五匹を貢いだ。
蕭建は尋くして臧霸に襲われて破れる所となった。臧霸は蕭建の資実(物資)を得た。呂布はこれを聞き、自ら歩騎を将いて莒に向かった。
高順が諫めて曰く、
「将軍は
躬ら董卓を殺し、
夷狄を威震させました。端座し顧盼すれば、遠近は自然と畏服します。宜しく軽んじて自ら出軍すべきではありません。
如し或いは
捷たざれば、名を損なうこと小さくないことでしょう」
呂布は従わなかった。
臧覇は呂布の鈔暴を畏れ、果たして城に登って拒守した。呂布は城を抜くことができず、引いて下邳に還った。臧覇は後にまた呂布と和睦した。
蕭建の消息は不詳。
年表
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最終更新:2016年04月04日 01:53