笮融は、後漢後期の人物。
数百人の衆を率いて同郡人の徐州刺史
陶謙に依った。陶謙によって広陵郡・下邳国・彭城郡の兵糧輸送の監督を任された。しかしやがて輸送を断って
浮屠寺を建立した。
曹操が徐州を攻撃して情勢が不穏になると、広陵郡に逃れて太守の趙昱を殺し、更に江水を渡って
豫章太守の
朱皓を殺して入城した。
興平二年(195)頃、
揚州刺史劉繇を盟主として
下邳相となっていたが、
孫策の攻撃を受けて勢力は崩壊した。
劉繇の攻撃を受けて敗走し山中で民に殺されたという説もあるが、孫策に敗れた後に仲違いしたのか、どちらかの説が誤りなのかは不明。
情報
笮融 |
姓氏 |
笮 |
名 |
融 |
本貫地 |
丹陽郡 |
官歴 |
下邳相 |
死去 |
(劉繇は)更ににまた属県を招き合わせ,融を攻め破る。融は敗走し山に入り、民の殺す所と為る。 |
事跡
年表
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関連項目・人物
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最終更新:2016年04月14日 01:09