衛将軍(衞將軍)とは、名号将軍の一つである。後漢では比公の位にあり
車騎将軍に次ぎ、魏晋では二品官、位亜三司(三公に次ぐ)とされる高位に位置した。その名の示す通り、前漢に宮廷・京師の諸軍や衛士を統括し皇帝を衛護する要となった事に発祥する。また、宣帝以降、
大司馬衛将軍として
輔政の任に当たった例が複数見られる。
漢三国期を通じて叙任者の多くはない
名号だが、帝権の不安定な時期に皇帝の特に信頼する股肱の臣が務め、また、権臣が朝廷を支配する時期にはその一族の有力者が占めることが多い職となった。
目次
歴史
高后八年、
文帝が代より長安に入り天子に即位したその夜、代王国
中尉であった
宋昌を衛将軍に任じ、長安の
南北軍を領した。これが衛将軍の創始となる。
宣帝の許で
張安世が任じられた際には、両宮
衛尉、
城門、
北軍兵を掌握して宮廷と京師を抑え、霍氏余党を排除する最大の功績を挙げた。
前漢末には、大司馬衛将軍として、外戚の王商、丁明、傅晏、
佞幸伝に列する董賢が輔政の任に当たっている。
中興後、輔政に預かる外戚の地位として定着した大将軍・車騎将軍と異なり、衛将軍は絶えて置かれず、記録に残る最初の例が献帝期の
董承となった。この空白期間に、特例等で秩禄や位階の上昇があった大将軍・驃騎将軍・車騎将軍と、格の上で水をあけられたようである。
曹丕が
魏王を継ぐと、魏王国衛将軍には
曹洪が任じられる。
魏代後期、
司馬懿が
曹爽を排除して専権を握ってからは、
司馬師・
司馬昭が任官し、父兄の補佐に当たった。
呉では、前漢の例が復活し、衛将軍が輔政の任に就く例が目立つ。
諸葛恪と共に
孫亮を託された
滕胤は衛将軍領尚書事として諸葛恪の副となり、
孫休期の初めには
孫恩が
御史大夫衛將軍・
中軍督として
丞相孫綝に次ぎ、後に
濮陽興が
太常衛将軍・平軍国事(軍事部門を担当する
平尚書事か)となった。
孫晧期には
滕牧が衛将軍
録尚書事を務めている。
蜀漢末期、
鄧艾の侵攻に応戦し緜竹で戦った従軍者に、
羽林右部督李球、
尚書張遵、尚書郎黄崇といった名が見られる。彼ら
成都の防衛用戦力(及び、或いは
中都官の志願者か)を割いて出動した司令官が、行
都護・衛将軍・平尚書事の
諸葛瞻であったことは、衛将軍の名に相応しい選出だったと言えるのだろう。
位
(前漢)
一人。上卿(或いは上卿に次ぐ)、
金印紫綬。
(晋)
一人。二品官。
職掌
不定。
宋昌は長安の南北軍を領し、張安世は両宮衛尉、城門、北軍兵を支配下に置いた。董承は献帝の東帰に先んじて洛陽の宮室を修理した。これらから、京師や宮殿を衛護し、諸軍を統括することが期待された名号と見られる。
前漢代後期には大司馬を冠し領尚書事となる例が増え、東呉がこの慣習を継いだ。
将軍の本来の任である出征を専らとした例は少なく、東呉の
全琮、蜀漢の
姜維がある程度である。ただし、前漢では
隴西へ出征した三将軍の後詰として周舍が車騎将軍
張武と共に
渭水の北岸に軍して後詰となった例や、魏の
毋丘倹の乱後に司馬師が危篤になった際に司馬昭が衛将軍となって許昌へ派遣された例がある。
属吏(漢)
一人、千石。
一人、千石。
二人、六百石。
二十人。
その部署が明らかなのは以下の三曹六人のみ。
兵曹
兵事を主る。
曹の長。
副。
稟假
稟假を主る。
曹の長。
副。
刺姦掾
罪法を主る。
曹の長。
副。
御属
一人。
令史
二十四人。
属吏(魏)
魏代の府員は明らかではない。晋とおおよそ同じか。
属吏(晋)
長史
一人,秩千石
司馬
一人,秩千石
主簿
功曹史
門下督
録事
兵鎧曹
士曹
賊曹
營軍都督
各一人。
刺姦都督
各一人。
帳下都督
各一人。
領兵(漢)
部
将軍営の下には、幾つかの部がある。
校尉を長とし、軍司馬を副とするが、校尉を置かず軍司馬一人のみの場合もある。
部校尉
一人、比二千石
部を指揮する。
軍司馬
一人、比千石
部校尉の副。
仮司馬
置かれることがある。部校尉の副。
曲
部の下の部隊単位
軍候
一人、比六百石。
曲を指揮する。
軍仮候
軍候の副。
屯
曲の下の部隊単位。
屯長
一人。比二百石
別営の司馬。
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関連項目・人物
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最終更新:2014年12月23日 16:51