物心が付いたときからまりさはずっと箱の中に居た。
本当に、箱の外の記憶は無かった。
広さはそれほどではないがそれなり歩き回れる程度の大きさはあった。
普通のゆっくりの巣に比べれば天井は大分高めだろうが広さだけとればそこまで大差は無い。
箱の中には何も無く、ただ定期的に餌が与えられるだけ。

まりさが思うに、生まれてからずっと箱の中に居たような気がする。
一度か二度だけ箱を引っ越したような覚えもある、しかし定かではなかった。

ひょっとしたら産まれてすぐに箱にでも入れられて
ペットショップでバラ売りでもされていたのかもしれないが
まりさにはそんなことはわかるはずもなかった。
わかるのはまりさが一人ぼっちだということだけである。

そしてまりさは一度も「ゆっくり」と言った覚えさえなかった。
生まれた時くらいは言ったのかもしれない。
だが記憶のある間では一度たりとも「ゆっくり」と言った経験はなかった。
そもそも何か喋ること自体が無かった。
言葉が喋れないわけではない。
ゆっくりは喋る力だけは生まれつき持っている。
だが話す相手が居ないのでは喋っても仕方が無いのだ。
箱の中はまりさの出す音以外物音一つしない。
ただただ静かなだけである。
それも気が狂いそうなほどにだ。

まりさはまだ若いゆっくりだが孤独に心を蝕まれて若々しい覇気とも無縁で暗くさび付いていた。


確かに箱の中にはゆっくりが生きるために必要なものは全て与えられていた。
しかし唯一つ、そこにはゆっくりだけがなかった。


ある時、いつもの時間に餌が与えられずに数時間まりさは放置された。
しかしまりさは別になんとも思わなかった。
そもそも時間の感覚が殆ど無く、ただ空腹を訴える体を不思議に感じていた。

そのままぼーっと空を眺めながらこのままこの感覚に飲み込まれて消えてしまいたいとまりさが思った時


ぶぅん、という不思議な音が耳をくすぐった。

「!?」
まりさは驚いたが、声は出なかった。
余りに長い間聞いたことの無い自分以外の出した音に、喋ることさえ忘れていた。
音のする方を振り向くと緑色をした細身の何かが居た。
逆三角形の頭の二つの角にギョロリとした大きな目が付いていてそれでまりさのことをじっと見つめていた。
胴体からはさらに細い棒が延びていて、一番上から伸びた太めの二つの棒は折れ曲がり
鋭く、何個も何個も棘が並んでいた。
ゆっくりしていない形だと直感的にまりさは思った。
動きもそうだ、二本の棒を擦り合せてくりくりと盛んに首を動かしながらも、目だけは絶対にこちらから視線をそらさない。
そのゆっくりしてなさが恐ろしかった。

「ゆ、ゆっく…ゆっくりして、いっ」
まりさは恐る恐る、その珍客に向かって挨拶をしようとした。
この言葉にどんな意味があるのか
使うべき機会も使ったことも無いまりさにはわかるわけも無い。
だがそれでもゆっくりの本能がそういえと言っていた。
まりさは頬が引き攣りながらも愛想笑いを浮かべようとした。
まりさの口許がぴくりと痙攣した瞬間、緑色のソレは動いた。

「ゆひいいいいいいいいいいいいい!?」
まりさは産まれてから一番大きな悲鳴を上げた。
緑色のソレは背中の薄い板を広げたかと思うと一瞬でまりさの頭の上に乗っかり、肩から伸びた棒をまりさに添え力を入れた。
棒から伸びる鋭い棘が突き刺さり、触れた部分をズタズタにしていく。
初めて感じる痛みにまりさは狂乱し、体を揺すって振り払おうとしたが
強い力で押さえつけられその棒がしっかり皮に食い込んでまるで外れない。

だが皮に噛み付かれて切り裂かれる音を聞きながら、それが恐ろしくて仕方ないのに
どこかどうでもいいと感じる自分もいるのをまりさは感じた。
このまま食べられて死んでしまうんだというのを受け入れているまりさがまりさの中に居た。
このまま消えてしまおう、とまりさは思った。

こんな時、他のゆっくりならこういうんだろう。
「もっとゆっくりしたかったよ」

だがまりさはこう呟いた。
「ゆっくりしてみたかったよ…」
心の底から漏れた呟きだった。
まりさは目を瞑り力を抜いて緑色の何かに身を委ねようとした。


「がんばれ!!」
その時、頭にくっついた虫よりもさらに上の方から声がした。
まりさははっと目を見開いて天井を見上げる。
さっきのような音ではなく、確かに意味を持った声だった。
「ゆ…!?ゆ…!?」
まりさは必死に声の主を探した。
箱の天井の向うに、見たことの無い何かが居るのをまりさは確かに見つけた。
「がんばれ!いくのよ!」
言葉の意味はなんとなくわかった。
それは確か相手を応援するための言葉だった。
呆然とそれを見つめているまりさに
それまで忘れていた饅頭皮を棘の並ぶ棒で切り裂かれる痛みが現実感を伴って蘇った。
「ゆ、ゆがああああああああああ!!!!!!!!」
まりさは体を無我夢中で動かして箱の中を暴れまわった。
このまま死んでしまいたくなかった。
声の主と話をしたかった。
まりさは産まれて初めて必死になった。
体を打ち付けすぎて逆に傷口から餡子が漏れるほど激しく箱の中を転がった。


気付いた時、緑のソレはバラバラになって潰れていた。
体の一部は体液を垂れ流してまりさにべったりとへばり付いたままだった。

「あ…あ…!ゆ、ゆっくりしていってね!ゆっくりしていってね!」
はっと我に返ってまりさは慌てて天井を見上げてゆっくりしていってね!と繰り返した。
まりさが初めて心の底からゆっくりしていってね!といえたのがその時だった。
しかしまりさが箱の上を見てもどこにもさっきの人影は見当たらなかった。
まりさはがっくりと肩を落として愕然と壁にもたれかかってぜぇぜぇと息を吐いた。
全身が疲れきっていたが瞳だけは未だに興奮冷めやらずに見開かれていた。


それから、まりさはずっと待っていても餌がいつもの様に与えられないので
空腹で空腹で、耐えかねて遂に恐る恐るバラバラに潰れた緑のソレに舌を這わせてみた。
ぺろり、と舐めるとそれまでの餌とはまるで違う、えぐみや苦味の強い感覚が舌を刺激した。
「はっ…ふっ…」
まりさはそれに怯えながらも、耐え難い渇きを感じついに緑のソレの残骸を口に放り込んだ。

「むーしゃ、むーしゃ、しあわせ~~♪♪♪」

うまかった。
胸のの奥深くからしあわせという言葉が湧き出して口からこぼれた。
無我夢中でバリバリグチャグチャと音を立てながらひとかけらも残さずに緑のソレを食べつくした。

まりさは興奮覚めやらぬまま、ぼーっと天井を見つめた。
ひょっとしたらあの時の人影がまた現れるかもしれないからだ。
まりさは自分と世界が確かに変わっていく感覚に、夜も眠れなかった。


次の日、また餌の時間には箱の中に珍客が現れた。
昨日と同じ、緑色のソレである。
まりさが警戒を怠らないように、ちらりと上を見ると確かに昨日の人影が見えた。
箱はすりガラスのようにざらざらした素材で出来ていて向うを完全に見ることは出来ないが
確かに誰かが箱の壁の向うに存在した。
まりさは今相対する緑のソレ以上にその存在に対して興奮した。
「ゆ、ゆっくりしてい」

「ぼーっとしてないで行った行った!」
まりさの言葉をさえぎってその人影から発せられた声に一瞬考えこんだ後はっとしてまりさは目の前を見た。

緑色のソレが羽を広げ、視界一杯にその逆三角形の顔を突きつけていた。
「ゆぎゃっ!?」
鋭い棒がまりさのおでこの両側を捕らえ、逆三角形の頭から生える牙が蠢きながら眉間に齧りついた。
「ゆぎぎぎぎぎ…!」
皮を切り裂かれる痛みにまりさはうめき声をあげたが、その実内心冷静だった。
そう慌てることは無い。
昨日と同じように壁に叩きつければ勝てるのだ。
まりさは痛みを堪えて、壁に向かって突進した。


「危ない!」

上方から悲鳴にも似た甲高い声が飛び出す。
ドンっ、と壁に頭をぶつけてふらふらとしながらもまりさは上に居る人影に笑みを返して安心させようとした。
その時、ブスリと何かがまりさの背中に突き刺さった。
「ゆびゃっ!?」
予想だにしない痛みにまりさは驚き、後ろを振りかえった。
しかし後ろに居るはずの何かはまりさに何かを突き刺しまりさを捕らえたままで後ろについて動いた。
「ゆぐっ、ぐうううう!」

まりさは今度こそと思って背中から壁に突っ込んだ。
ドシン、と音がすると同時に今とさっき、何が起こったのかを悟る。
頭上でぶうんと音がすると同時にまりさの目の前に緑色のソレは降り立った。
目を丸くするまりさに対して振り返り、鋭いその棒を振り下ろして頬を並んだ棘が裂いた。
「ゆぎっ…!」
餡子こそ出ないものの、斬られて数瞬してからゆっくり、かつ鋭くやってくる痛みにまりさは顔を歪めた。
まりさが驚きでじっとして居ると次々と鋭い棒が振り下ろされる。
再びあの棒で捕らえられるのを恐れまりさは後ろへと飛び跳ねるが緑のソレはそれ以上のスピードでまりさに襲い掛かる。
まりさのやわらかい饅頭皮はその棒が掠るだけで容易に、惨たらしくその表面を切り裂かれていった。

「恐ろしいまでの切れ味の鎌ね!」

ああ、この鋭い棒は鎌というのか…
そんなことを思いながらまりさは彼女の声を聞いて昨日、初めてゆっくりしていってね!と言った時のことを思い出した。
思えば、あの時の自分のゆっくりしていってね!、はちゃんと彼女に届いたのだろうか。
声を発した時には、既に彼女の姿は無かった。
きっと届いていない。
ならあの「ゆっくりしていってね!」は独り言のようなものだ。
それで本当にゆっくりしたと言えるのだろうか。
きっと違う、とまりさは思った。
「ま゛だま゛り゛さ゛は゛ゆ゛っく゛り゛し゛て゛な゛い゛のおおおおおおおおおおおおおお!!!」
腹の底から、本当に心を込めた雄たけびが箱の中に響き渡った。

ずっと一人でゆっくりせずに居た自分が、彼女と言葉を通わせて初めてゆっくりすることの片鱗を見たのだ。
あと少しでゆっくりできるに違いないという確信がまりさの中にあった。
彼女と一緒ならきっとゆっくりできる。
彼女に自分のゆっくりを聞いて欲しい。
まりさもゆっくりしてみたい。
だからここで死ぬのは絶対に嫌だった。
ここで死んでしまったらゆっくりには届かず孤独なまま死ぬのだ。

そして傷だらけの体でまりさは飛び上がった。
実際にはそれほど大きなジャンプでもなかったがまりさにとっては空を飛ぶかのように大きな意味を持ったジャンプだった。
緑色のソレは羽を広げ飛翔し、それまでと同じように回避しようとする。

が、飛び上がった瞬間まりさの足にぶつかり、そのまま踏み潰された。

べちゃりという深いな感覚を足に感じまりさははっとしてあたりを見回す。
緑のソレはどこにもおらず、確かにこの下で潰れていることがわかった。
安全を確認し慌ててまりさは天井を見上げて彼女に向かって叫んだ。
「おねえさん!ゆっくりしていってね!!」
彼女は既に背を向けて立ち去ろうとしていたが、今度こそ確かに彼女に伝わったはずとまりさは思った。
鎌で惨たらしく切り裂かれズタボロになった顔で、まりさは最高の笑顔を浮かべた。

その日、まりさは顔が痛くて仕方ないにも関わらずに最高にゆっくりした気持ちで眠りについた。

朝起きて、まず上を見上げた。
あの人影は無かった。
しかし餌の時間に必ず姿を現すことを信じてまりさはわくわくしながら待っていた。
餌との戦いは命がけだが二戦連続で物にして相手を喰らったことがまりさに自信をつけていた。
傷もまだ治りきらず、動けば痛みが走るが負ける気はしなかった。

そして、衝撃で傷口から餡子が噴出してしまうほど何度もジャンプして緑のソレを踏み潰すことに成功した。
途中、餡子が噴出す痛みにくじけそうになったが例の人影から「その調子!」との声援を受けてなんとか自分の戦法を信じて頑張ることが出来た。
彼女の声援が無ければきっとまりさはくじけて自分を信じられなくなり負けてしまっていただろう。
まりさはこれまでの感謝の思いを込めて彼女に「ゆっくりしていってね!」と言った。

それから一週間ほど経った。
まりさは毎日ゆっくり眠って体を休め、朝起きるとすぐに天井を見上げて彼女の姿を探すのが日課になっていた。
初めてゆっくりしていってね!と言ったときから、彼女の存在はまりさにとって生きる支えとなった。
彼女と接して初めてゆっくりするということを学んだまりさにはもはや彼女無しの生活は考えられないようになったのだ。
彼女という存在があって、初めてまりさはそれまで重く圧し掛かっていた孤独というゆっくりしていない事象から開放された。
まりさのゆっくりは彼女による、彼女のためのゆっくりとなった。

まりさは彼女のことが好きで好きで仕方が無かった。

だから、毎日のように行われる戦いも、彼女の声援を受けられるのならば恐ろしくない
むしろ楽しみなくらいだった。
彼女が戦いの際、声援を送ってくれるなら必ずそれに応えようとまりさは奮闘した。
彼女ともっと親しくなり、ゆっくりしたい。
彼女と心を通わせ、ゆっくりしたい。
そのために、生きて生きて彼女にゆっくりしていってね!と呼びかけ続けること。
それがまりさの今の生きる目標だった。

戦い、彼女の声援に応え勝利を手に彼女に「ゆっくりしていってね!」と
声をかける時に、まりさに最高のゆっくりを感じていた。
これこそ生きる、ゆっくりするということだとまりさは思った。

今日も、まりさの箱に珍客が放り込まれた。
それを見てまりさは緊迫して相手を凝視した。
それまでの緑の相手とは違い今度は黒く、短く、そして太かった。
その黒さにまりさは目を奪われた。
自分が身にまとっている大切な帽子と同じ色なのに
何故か禍々しさと恐怖を感じ、その存在感に威圧されてごくりと唾を飲んだ。
その顔つきの恐ろしさのためかもしれない。
まるで地獄の住人のような険しい表情を黒いソレはしていた。

相手の出方を伺い睨み合うこと数瞬。

黒いソレの恐ろしい表情を浮かべる顔から伸びる細い糸が
ふわりと揺れたかと思うとキリッキリッ、と鋭い音がまりさの耳を劈いた。
びくりと体を震わせ一瞬視界から黒いソレが消えたかと思うとさっきと同じ鳴き声と
そして何かを齧る音だけが箱の中に響き渡った。

「ゆ…ゆ…!?」
まりさは辺りを見回すが、箱の中はまるで何事も無かったかのように黒いソレが来る前となんら変わらない姿をしていた。
違うのはただあの黒い奴が発する鳴き声と何かを齧る音がまりさの耳に聞こえ続けている点のみである。
「ど、どおぢでなにもいないのにおとがきこえるのおおおおおおお!?」
箱中を見渡したが確かにさっきのは居ない。
しかし音だけは止まない。
齧る音が聞こえてもまりさに痛みは無かったがその止まない音の恐怖がまりさの心を蝕んだ。
「ゆうううう!ゆうううううううう!?」
恐怖にかられたまりさは箱の中を転がりまわった。
ごろごろと意味も無く箱の中を廻っている内に黒い黒いまりさのぽてんと帽子が落ちた。
流石にまりさも慌てて帽子を拾いなおそうとして、見つけた。

黒いソレはまりさの帽子をギチギチと顎を動かして齧っていた。
既に、小指が一本通る程度の小さな穴が開いていた。
「ま、ま゛り゛さ゛のだいじなぼう゛しにな゛に゛お゛ずる゛のおおおおおおおお!?」
まりさはこんな小手先で自分を騙していたことと大事な帽子に穴を開けられたことに激昂し
それまでの恐怖も忘れて飛び上がって黒いソレを踏み潰そうとした。

その時、まりさは見た
黒いソレが自分より遥かに高く飛び上がる瞬間を。

「ゆぅ!?」

その跳躍の余りの高さにまりさは驚き、彼女の人影を探す以外の理由で初めて天を仰いだ。
黒いソレは帽子の上に突っ込んでしりもちをついているまりさの鼻先にどん、と飛び降りると
ギチギチと顎を開いて鼻の頭に齧りついた。
「ゆぎぃ!!ゆぎゅぁああああああ!!」
慌ててまりさは転がって黒いソレを潰そうとするがそれよりも早く跳躍してまりさの間合いの外へと逃げ出した。
再びまりさが向き合うや否や、黒いソレの太く節くれだった足が爆ぜてて跳躍しまりさに飛び乗る。
そうしてまた同じようにまりさが振り払おうとすると傷を負うより早く黒いソレは飛び跳ねてまりさの手からするりと逃れた。
「も゛う゛や゛べでえ゛えええええ!だずげでぐだざいいいいいい!!」
完全なヒットアンドアウェイの前にまりさは何も出来ずに体中を齧られていく恐怖と痛みでぼろぼろと涙を流して命乞いをした。

「いいわよ!じっくりいきなさい!」

その時、天井の方からあの声がした。
それはまりさにとって天啓だった。
その声を聞くだけで、恐怖はすっと引いて行き、まりさは落ち着きを取り戻した。
痛みに歯を食いしばりながら
今、自分は相手の策に完全にはまっていることを認めて
その突破口を探すために冷静に辺りを見回す。
とにかく突破口を見つけるまではじっくりといくしかないのだ。


「………ゆ!」

じっと黒いソレの攻撃に耐えながら、まりさははたとひらめき
帽子に向かって転がり走った。
黒いソレもまりさを追って跳躍する。
「ゆううううううううううん!!」
その瞬間をまりさは待っていた。
帽子を口に咥え、へこみの方を空高く跳ぶ相手に向かって突きつけた。
黒いソレはすっぽりと帽子の中にはまった。
「ゆっぎゅりゃあああああああ!」
確かな感触を感じてまりさはさっと帽子を地面に置いて黒いソレを捕らえた。
黒いソレが跳躍して、帽子にぶつかりぼとりと地面に跳ね返される音が中から聞こえてきた。
「そこでずっとゆっくりしていってね!」
まりさは力いっぱい優越感と憎しみを込めてそう言うと帽子に飛び乗った。
中に閉じ込められていた相手がぐちゃり、と潰れるのを帽子越しに感じて
まりさは箱の向うの彼女を見て感謝の限りを込めていった
「ありがとうおねえさん!ゆっくりしていってね!!」
彼女はそう言い放つまりさを見つめて、背を向けてまたどこかへと去っていった。



それから一月ほどが経った。
その間まりさは毎日戦い、苦境に陥っても彼女の助言を頼りに勝ち続けた。
彼女の言葉を信じて戦うまりさは迷いが無く、実力を遥かに上回る力を発揮し続けた。
体の傷も増えて、その姿はまるで歴戦の勇士のようだった。

そしてまりさの彼女への想いも高まっていき、それはもはや信仰に近いものがあった。
あれからも彼女とまりさがまともに言葉を交わすことは無いが
それでも戦いの間の彼女の声援と、去っていく彼女にかける「ゆっくりしていってね!」
を通してまりさは彼女と自分の心は通じ合っていると信じられた。
まりさはそのことが確かだと感じるだけでとてもゆっくりした。

まりさは彼女の存在があるおかげでこの生活が始まる以前の
ただ箱の中にある餌を食べていただけのまるで生ける屍のような生活とはまるで違う
確かな彼女とのゆっくりを感じながら今を生きていた。



そんな幸せな日が変わることなく続いていったある日。
まりさの箱に緑色の例の相手が現れた。
「ゆふん」
まりさはそれを見て鼻で笑った。
ソレは最初に戦い、それからもう何度も打ち倒してきた相手と同じ種類のものだった。
多少、今までより体が大きいがなんら問題ない。
まりさは一刻も早くこの敵を打ち倒し彼女に「ゆっくりしていってね!」と言いたかった。


最初はまず睨み合い、緑のソレのギョロリとした目玉はもはやまりさに恐怖を感じさせるものではなくなっていた。
まりさはじりじりと必殺の跳び踏み潰しの間合いに緑のソレを入れようとにじり寄る。
緑のソレは野生の勘で危険を感じたのかそうはいくまいと後ずさるが、やがて箱の隅に追い詰められた。
「ゆっくり…しねぇ!」
まりさは緑のソレを完全に追い詰めると必勝を期して跳び踏み潰しを繰り出した。
勝利を確信してニヤリと笑った時、ブウンと激しい羽音が聞こえ、まりさの足元を涼やかな風が通り過ぎた。
「ゆ!?ゆっく…!」
ジャンプした隙に足元を通って後ろに廻られたまりさは慌てて後ろを振り向こうとした。
そと同じか否や、緑のソレがまりさの帽子に突っ込んだ。

「!?ゆっくらしてい」

緑のソレの体当たりで落ちた帽子がまりさの顔面に引っかかって視界をさえぎり、目の前が真っ暗になった。
必死に光を探して、帽子の中に差し込む小さな光に目をやっている最中まりさはギョロリと光るあの目と目が合った。
もはやまりさに恐怖を感じさせないはずの目は暗闇で薄く光り、それに見つめられてまりさは悲鳴を上げた。
度重なる戦いでまりさの帽子はところどころ穴だらけになり
緑のソレはその穴から体を入れて暗闇で唯一動いているのが見えたまりさの左目に喰らい付いた。

「ゆっびゃあああああああああああああああ!?!?!?」
まぶたは鎌に引っ掛けられて用を成さなくなり直接目玉にキバを立てられて穴が開いたまりさの目玉から中を満たしていた餡汁がどろりと垂れた。
「ゆひいい!ゆっぴいいいいいいいいい!!」
まりさは頭をぶんぶんと横に振り帽子を振り払った。
緑のソレも深追いをせずに鎌をはずして距離を取った。
「ま゛ぢざの゛お゛べべ…お゛べべがああ!!!」
まりさは左目からぬるりと流れ出る餡汁が頬を伝う悪寒に身をよじった。
目玉の中の体液と涙が交じり合って地面にこぼれた。
それを踏んだ感触でまりさはさらに混乱を酷くした。
それまでまりさの目に見えていた世界の半分に暗闇が満ちる。
勝利によりこれまで培ってきた自信は瞬く間に失われ、心の奥底からまりさは恐怖に支配された。
「ゆひっ…ゆひっ…」
まりさは狭くなった視界から緑のソレを逃すまいと必死に残った右目を動かすが
羽を持って飛びかうソレはまりさの視界から消えては現れ消えては現れた。

「ゆ…ゆっ…!」
まりさはすがるように天を仰いだ。
そこには彼女が固唾を呑んで見守っていた。
「ゆふぅー…ゆふぅー…」
彼女と緑のソレを交互に見ながらまりさは呼吸を落ち着けていった。
助言も、声援もなかった。
だがまりさにはわかった、彼女の期待が。
物言わぬその姿から確かに強い強い彼女の想いを感じ取ったのだ。
まりさはゆっくりと相手を見つめ、精神を集中した。
膠着状態の中じっと緑のソレと見詰め合った。
また恐怖は感じなくなっていた。


十秒か、一分か、五分か
二匹にとってとても長くて短い時間が流れ、ついに膠着が解かれた。
先に動いたのは緑のソレだった。
まりさはその飛ぶ勢い、方向を見て勝利を確信した。
「ゆっ!」
それを着地地点をそこから予測してそれ以上の高さでまりさは緑のソレの着地地点と思しき場所にとんだ。
箱の中のこの狭さでは一度跳んでしまえば殆ど方向転換する余地は無い。
落ちる速度を考えればもう一度ジャンプするより早くまりさの体が緑のソレを押しつぶすのは必定。
相手の後の先を突くまりさの完璧な勝利への作戦がそこにあった。
「ゆっくりつぶれてね!」


勝利を確信して飛んだ先にあったのは漆黒の三角形。
「ゆ!?」
さっき落としたまりさの帽子がその先にあった。

緑のソレはその頂点に足をつけると間髪居れずに方向転換して別の場所へと滑空していった。
足場さえあれば方向転換は容易である。
体の軽い緑のソレにとって帽子のとんがりは足場にするのに充分な強度を持っていた。
その時点で踏み潰すには若干まりさは高く跳びすぎていた。
まりさは再び自分の宝物である帽子に裏切られて泣きそうに顔を歪めながら呻いた。
「そ、そんな」
そして緑のソレを超える高さで限界まで飛び上がったまりさが着地した先にあったもの、それは
「ゆびゅぇええええええ!?」

着地の衝撃に耐え切れず傷つけられ抑えるものの無くなった眼窩から噴出す餡子と目玉だった。

「ゆぎいいいいいいいい!!!」
痛みと勝利の確信を打ち砕かれたことで狂いそうになりながらまりさは目を押さえようとした。
しかしまぶたはもはや用を成さないほどボロボロで余計に痛み、狂ったように身をよじるだけである。
「ゆっ?!どこにいったの!?」
痛みに狂いながらもはっとまりさは緑のソレが完全に視界から消えたことに気がついた。
「ゆっ!?ゆっ!?ゆっ!?ゆっ!?」
必死に相手を視界に捕捉しようとまりは辺りを見回した。
特に失った左の視界を補うよう右目を必死に左へ、左へと向けながら。
だから、右から襲い掛かる緑の鎌にギリギリまで気がつくことは無かった。

「……ぁ」

ぎょろりとした瞳、逆三角形の緑の頭
それがまりさがこの世で見た最後のものになった。
「や゛びゅぉお゛おお゛お゛お゛お゛おお゛お゛おおおお゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あああ゛ああ゛あ!?」
痛みと悪寒と恐怖と暗闇に襲われてまりさは喉がはちきれそうになるほど悲鳴をあげた。
「や、べえ!ゆっぐ!ゆっぐぢぢでぇ!」
まりさの命乞いなど意にも介さずに、緑のソレは黙々とまりさの命を奪う作業を継続した。
まりさがいくら抵抗しようとも視界を完全に奪われたまりさに勝ち目はなかった。
次々と食い千切られ中の餡子を垂れ流す皮、引きちぎられ咀嚼される髪、頭を突っ込まれて中身を舐められていく眼窩
まりさを狂い死にそうになるくらい痛めつけるには充分すぎる蹂躙行為であった。

「ぁ…ぁ…ァ…ゅ…ゅっく…ぃ…」

そんな痛みと恐怖に苛まれた暗闇の中で、死を恐怖しながらもどこかまりさは晴れやかであった。
最初に緑のソレに殺されかけた時とはまったく別の感情がまりさの中に芽生えていた。
「ぉね…ぇさ…」
まりさは暗闇の中で彼女のことを想っていた。
自分をゆっくりさせてくれた彼女のことを。
彼女と出会えて、ゆっくりできたことを考えれば思っていたよりもずっと悔いは無かった。
彼女の期待に応えられなかったことだけが残念だったが、それでも自分は全力を尽くした。
そのことにまりさは悔いは無かった。
まりさをゆっくりさせてくれた彼女の期待を受けて戦えた一生にまりさは満足していた。


「やった…やった…!やったぁ!やったよ!あはは!やった!」


『ゆ…?や…った…?』
その時、暗闇の中のまりさに確かに彼女の声が聞こえてきた。
まりさはその言葉の意味を理解するのに長い時間を要した。
彼女が発する言葉はきっとまりさが負けたことによる悲しみか、失望か、怒りか
そのいずれかの言葉を発するものだと信じきっていたからだ。
だから何故彼女がやった、と歓声をあげるのかまりさにはわからなかった。

「遂にやったよ!勝った!一対一でゆっくりに蟷螂が勝ったんだ!」
喜び勇むその声を聞くまりさにそっと彼女と思しき手が触れた。
そして彼女は蟷螂と呼ばれた緑のソレをそっとまりさから引き離した。
『ゆ・・・?あ、ありがとうおねえさん!ゆっくりしていってね!』
まりさはそれまでの彼女の言葉はひとまず忘れて助けてもらえたことを喋る余力が無いので心の中で感謝した。



「この美しさの欠片も無い憎たらしい饅頭頭に私の可愛い蟲達が負けてなんど苦渋を舐めたことかわからない」

『!?
 どおぢでぞんなごどいうのおおおおおお!?ま゛り゛ざはがわいいよおおおおお!
 ぞれにま゛り゛ざはお゛ね゛えざんのだめ゛にがんばっだん゛だよ゛お゛おおおお!?』

まりさは暗闇の中で突然自分を罵倒する彼女の言葉を、信じられないと悲鳴を上げた。

「でもそんな苦労も遂に報われるのよ
あなたの子孫がどんどん増えて、この幻想郷を覆えばゆっくりより強い蟷螂が幻想郷の蟷螂になる!
そんな蟲たちがもっと増えればゆっくりに怯えて暮らす必要も
この幻想郷で、生態系の中で下に付くことも無い!
私の可愛い蟲達こそがゆっくりの捕食者となるのよ!」
しかし彼女の言葉はただひたすらにまりさを倒した蟷螂に対して向けられた。

『なにを…なにをいってるの…!?』

まりさには彼女が何故そんな恐ろしいことを言っているのかわからなかった。
彼女はまりさの勝利を願ってあの恐ろしい者達と戦わせ、応援していたはずなのだ。
なのに何故相手の勝利を喜び、笑い声を上げているのかわからなかった。


「ここでゆっくりを相手にした淘汰と
生き残った蟲同士での交配を繰り返して
私の可愛い蟲達はどんどん強くなってきてる
この調子で行けばそのうち他の蟲達の中にもゆっくりより強い蟲が現れてくる!
そしてその子達が繁殖すれば
ぽっと出の新参の癖に幻想郷の中で私達より大きな顔してる
あのゆっくり達より強くなれる!」


「そりゃあ世の中弱肉強食なんだから、私達蟲が弱いならゆっくりに食べられても仕方ない
だったらゆっくりより強くなってやる!
そう思って、みんなとここまで頑張ってきたのが遂に報われる!」
彼女が力強く放った言葉がまりさの耳に木霊する。

「ずっとこの日が来ると信じてたよ、私の可愛いあなた達
妖怪の私が手を出したら意味が無いから、一生懸命応援してたけどその甲斐があったわ!」
繰り返される蟲達への賛辞。

『あ…あ…』
ここまで話されればもうまりさにも理解できた。
彼女の気持ちは、一片たりともまりさになど向いていなかったのだ。
事情はよくわからない、だが少なくともまりさは彼女達がゆっくりに勝つための訓練道具でしかなかった。

戦いの最中で、彼女から降り注いでいると確かに感じたあの強い視線、声、想いは
全てまりさの相手の蟲達に注がれていた。

ならば、まりさの感じたゆっくりとはなんだったのか。
まりさは孤独に苛まれ続けてゆっくりできずに生きてきて
彼女と心を通わせることで初めてゆっくりできたと思った。
ならば本当は彼女と心が通じていなかったのなら
まりさの想いがすべて独りよがりで、未だに孤独の中にいたのならば
ゆっくりしたと思ってきたものは全て嘘のゆっくりだったのだ。

少なくともまりさはそう確信した。

例えそれまで感じたゆっくりが本当だったとしても
今ではそのゆっくりは嘘偽りとしかまりさにしか映らない。
まりさはゆっくりするということを誰からも学べなかったのだから。

彼女を中心に形作られていたまりさのアイデンティティは今この時崩壊した。

「今日は祝賀会ね、みんなを集めてあのゆっくりをたべるわよ!」

『や、やめてね…いや…いや…』
まりさの願いも空しく、何十、何百という羽音がまりさの耳に飛び込んだ。

『やべでええええええええ!』
ギチギチという音で蟲達が顎を蠢かせて獲物を見て舌なめずりをしているのがわかった。
『いやいやいやいやいやいやいやいやいやあああああああああああああああ!
 ま゛り゛さ゛は゛まだいちどもゆ゛っぐぢぢでな゛いの゛お゛お゛おおお!!
 ゆ゛っぐりぢないでぢぬ゛の゛なん゛て゛い゛や゛ああああああああああああああ!!!
 や゛べぅ゛う゛ぁ゛あ゛あ゛あ!!ごないで!ごないでむ゛じざんだぢ!!ごないでえええ!!
 お゛ね゛えざん!お゛ね゛えざんだずげで!いっじょにゆっぎりぢでええええええ!
 ゆ゛っぐりぃ!ゆ゛っぐりぃ!!どぼぢでま゛り゛ざはゆ゛っぐりでぎないのおおおお!?
 ほ゛ん゛と゛のゆ゛っぐりっでな゛んだの!?ゆ゛っぐり!ゆ゛っぐりじでいっでね!
 ゆ゛っぐりじでいっでね!?ゆ゛っぐりっでな゛に゛!?ゆ゛っぐりっでどん゛な゛ごどなの?!
 だれ゛でぼい゛いがらま゛り゛ざにゆっぐり゛を゛おぢえでよ!ゆ゛っぐり゛!ゆ゛っぐり゛ぃ!
 ゆ゛っく゛り゛ち゛た゛い゛!ゆ゛っく゛り゛ち゛た゛い゛ゆ゛っぐりぃ!ゆ゛っぐり゛ぃぃい゛!?』

まりさの心に瞬く間に後悔の念があふれ出した。
あと少しで触れられると思った、触れられたと信じたゆっくりを全て否定され
ゆっくりを求めるまりさの想いはぐちゃぐちゃになって暴走し、生きてゆっくりしたいという強い渇望となった。

だがもはや喋ることのできないまりさの想いが誰かに届くことは無い。
無常にもまりさの体に蟲達が一斉に群がった。



『ま゛り゛さ゛も゛ゆ゛っ く゛り゛し゛て゛み゛た゛か゛っ た゛よ゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛』


――――――……・・・

ある時から、ゆっくりの間でこんな噂が広まった。
『魔法の森の奥深くに
 おいしい花が美しく咲き乱れ
 太陽は燦燦と降り注ぎ
 小川はその光を照り返してやさしくせせらぐ
 緑に溢れ夜もやさしい空気が安らかな眠りに誘う
 そこには争う者はおらず誰であろうともゆっくりできる
 そんなゆっくりプレイスがあるという
 その場所の名は
 何度夜が来てもずっとゆっくりしていられる
 という意味を込めて
 永夜緩居(えいやゆるい)
 と呼ばれていた』

この物語は永夜緩居を目指したゆっくりと蟲達の物語である。


永夜緩居― 第四話[ゆっくり]

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最終更新:2022年05月03日 09:47