「2人と2匹の関係」(後編)




「あぁ、やっぱりここか。残念なことに、まりさのやつ生きてやがるよ」
「ゆゆ!?おにーさん!!!」

れいむたちの目の前に立っているのは、れいむの飼い主であるユキオだった。
体操着から私服に着替え、ランドセルを背負っている……ということは、もう下校の時刻なのだ。

「おにーさん!!れいむたちとゆっくりしていってね!!」
「ゆっ?れいむのおにーさんなの?だったらとてもゆっくりできるひとだね!!」

もうユキオがれいむに下した命令など、まったく効力を持っていなかった。
2人でこんなにもゆっくりしているのだから、お兄さんだってゆっくりしてくれるはず。
そうすれば、れいむたちをちゃんとゆっくりさせてくれるに違いない。
『まりさを殺せ』なんて命令は、きっと撤回してくれるだろう。いや、そうに決まってる。
自分の都合のいいように考えて、それを疑おうとしない。

「おにーさん♪ゆっくりしていってね~♪」
「れいむのおにーさん!!まりさはまりさだよ!!ゆっくりしていってね!!!」

れいむに同調するように、まりさも丁寧に自己紹介しながら、暢気にユキオの周囲を跳ね回っている。
しばらくれいむとまりさが自分の周りを駆け回るのを眺めて、ユキオは何か思いついたのか、大きく息を吐きながらランドセルを下ろした。
2匹の様子を見下ろして微笑みながら、すっと一歩動いてれいむの前に立ち止まる。

「ゆっ?ゆっくりするの?ゆっくりしていってね!!」
「なぁれいむ? 俺はまりさを殺せって言ったよな? なのにどうしてまりさがまだ生きてるの?」
「ゆ゛ゆ゛っ!?」

目を見開き歯茎をむき出しにして、気持ち悪い表情のまま硬直するれいむ。
れいむにしてみれば、そんな命令はとっくに無効になっているのだから、突然こうして話題に上ること自体が理解できなかった。
でも、ユキオの表情を見て……彼がこの命令に関して譲歩する気配はないということを、思い知らされた。

「で、でもれいむとまりさはゆっくりしているよ?だからゆっくりさせてねっ!!」
「おい、質問の答えになってないだろう。殺せと言ったのにどうして殺さなかったのか、理由を聞いてるんだよ」
「れいむ!?どういうことなの!?ゆっくりせつめいしてね!!」

焦りの表情を浮かべながら、必死にユキオの足元にすがりつくれいむ。
状況が飲み込めず、背後かられいむに詰め寄るまりさ。

「ま、今からでもいいからさ。殺せよ。さっさと」

低い声で脅すように、理不尽極まりない言葉を浴びせるユキオ。
れいむの頭を鷲づかみにして、ひょいと回転させてまりさと対峙させ、そのまま背中を押して行動を促す。

「ほら、殺せ殺せ。まりさを殺したら、れいむだけはゆっくりさせてやるからな」

じくり。
ユキオの言葉の中で、一つの単語がれいむの心に汚いシミを残した。
忘れかけていた心の葛藤が、再びれいむを苦しめ始める。
まりさは少しずつ後ずさりながら、眼を潤ませつつれいむに呼びかけた。

「れいむっ!!そんなおにーさんのいうことは、きいちゃだめだよ!!みんなでゆっくりしようよっ!!」
「ゆ゛っ……ぐぐぐっ……ゆっぎぎぎぎぃ……!!!」

ユキオの冷たい声と、まりさの応援に似た呼びかけに挟まれて、れいむは下唇を噛む。

れいむは、ゆっくりしたい。まだまだゆっくりしたい。ずっとゆっくりしたい。
これからもっともっとゆっくりして、お嫁さんをもらって、赤ちゃんを作って、みんなでゆっくりしたい。
そのためには、お兄さんの命令どおりにまりさをゆっくり出来なくさせなきゃいけない。

でも……まりさにもゆっくりして欲しい!
まりさとゆっくりしたい! まりさとずっとずっとゆっくりしたい!!

「れいむぅっ!!どうしてまよってるの!?ゆっくりしていってね!!ゆっくりしていってよぅ!!!」
「ゆ…ぎいぎぎぎぃ……まりさぁ……ゆっくりぃぎぃぎぃ……!!!」

心と心が、ぶつかり合う。
どちらもれいむの正直な気持ちで、どちらも正しくて、どちらも間違ってる。
だから、どちらを選んでも正しくて、どちらを選んでも間違ってる。
れいむはどうしたらいいの? れいむはゆっくりしたくて……まりさにもゆっくりして欲しくて……
どうしたらいいの? れいむは……どうしたらゆっくり出来るの?

その迷いを吹き飛ばしたのは、まりさのこの言葉だった。

「れいむぅ!!まりさとずーっと、ずーっとずーっと、ずぅーーっとゆっくりしようね!!!」
「ゆっ…!!」



れいむの心を駆け抜ける、爽やかな風。



いとも簡単に、れいむの迷いは吹き飛んだ。
身を翻して、恐る恐るであるが力強く、れいむは自分の心をユキオに伝える。

「ゆゆっ!!おにーさん!!れいむはまりさとゆっくりするよ!!だからおにいさんも……ゆひっ!!」

しかし、ユキオが無表情で右手を振り上げたのを見て、思わず目を瞑って身を竦めてしまう。
床に落とされた痛みが、顔面を繰り返し蹴られた痛みが、脳裏に蘇ったのだ。

「ゆっ…ゆひぃ!!い、いたいことをしてもむだだよ!!れいむはまりさとゆっくりするってきめたんだよ!!」
「………」

目を瞑ったまま、見当違いの方向を向いてれいむは主張し続ける。
ユキオは表情を緩ませながら……振り上げた右手をゆっくり下ろし、そのままれいむの頬を撫でた。

「そうか、分かったよ」
「ゆっ……ゆっくりりかいしてくれたの?」

頬を撫でられる心地よさも忘れてしまったのか、れいむはぽかんと口を開けてユキオを見上げる。
そこには、森で迷子になっていた自分を見つけてくれた日の……あの日のユキオの、あの日のままの笑顔があった。

「そうだね、お前は優しすぎるから……まりさを殺せるわけがないよな」
「ゆっ?……ゆっくりしていってね!!ゆっくりしていってね!!」

ユキオが何を言おうとしているのか、れいむには計り知れなかった。
胸のうちに沸き起こる不安に拭い去るように、繰り返し繰り返し“ゆっくりしていってね!!”を連呼する。
ユキオは苦笑いしながら、れいむにも分かるように丁寧な言葉でこう言った。

「もういいよ。お前には“まりさを殺せ”なんて言わない。俺が間違ってたよ」

「ゆゆぅ!!ありがとうっ!!ゆっくりしていってね!!おにーさんもゆっくりしていってね!!」
「ゆゆーい!!まりさもゆっくりするよ!!れいむのおにーさん!!ありがとうね!!」
「「ゆっくりしていってねー!!!」」

命令を撤回したユキオの発言を聞いて、れいむの不安が瞬時に吹き飛んだ。
心に圧し掛かっていた重荷を降ろし、何も躊躇わずにユキオの周りを跳ね回って喜びを身体全体で表現する。
まりさもそれに同調して、れいむの後を追うようにユキオの周囲を駆け回る。

だが。

次の瞬間、れいむの笑顔が、凍りついた。





「だから、代わりに俺がまりさを殺すことにする」

「………ゆっ?」

聞き間違いだと思い、れいむは立ち止まって首を傾げる。
だが、視界から物凄いスピードでまりさが消えるのを見て、聞き間違いではないことを理解させられた。

「ぶぎゅお゛ぇ゛っ!?!?!」

手加減の一切ない速さで、脚を振りぬくユキオ。駆け抜ける風がれいむの髪を揺らす。
直後、びたぁんと鈍い音が聞こえて、れいむはそちらを振り向いた。
視界に入るのは、壁に張り付いてもぞもぞと動く、肌色の奇怪な物体。

「ん゛ごっ………ぼっ……どうぢ…で…っ…?」
「まっ……ま、りさ……ひっ…!」

壁に張り付いているのは、まりさだった。
急激な内圧の上昇に耐え切れず、ビクビク痙攣しながらどろどろと餡子を吐き出している。
先ほどまでの幸せに満ちた顔とは比較できないほどの、圧倒的な暴力に蹂躙された獣のような顔。
全身が恐怖に支配されたれいむは、叫ぶことすら出来なかった。

「手とか足とか汚れるのが嫌だから、れいむに殺させようと思ったんだけど……
 れいむが殺さないって言うなら、しょうがない。俺が殺すしかないな」

壁からぼとりと剥がれ落ちたまりさに、ユキオは足早に歩み寄る。
まりさは何とか逃げ延びようと身体を動かそうとするが、先ほどの蹴りの衝撃のためにうまく動けない。

どうして自分がこんな目に遭うのか。自分はただ、れいむとゆっくりしていただけなのに。
まりさは必死に考える。自分に落ち度がないのに、何故ここまで痛い思いをしなければならないのか。

「ゆ゛っ…ゆっぐりやめで……まりざは…な゛に゛もわ゛る゛い゛ごどじでない゛よ゛…!」
「そうだな、それは知ってるよ」

うんうんと頷きながら、起き上がったまりさの顔面につま先をズグッと抉りこむ。
ワンテンポ遅れて、まりさは痛みに悶絶し始めた。眼球を、口を、歯を、未経験の激痛が走る。
入り乱れる思考。理由なき暴行。襲い掛かる理不尽に、恐怖だけが積み重なっていく。

「温室育ちが痛みに弱いって言うのは、本当みたいだな」
「い゛だい゛い゛い゛ぃぃぃぃい゛い゛ぃ!!ごわ゛い゛い゛い゛ぃぃい゛い゛ぃぃ!!」

飼い主に愛情を注がれ、何不自由なく生きてきたまりさにとって、圧倒的な暴力は最も縁遠い存在。
自分が暴行を受ける理由も分からぬまま、ひたすら耐え続けることしかできずにいる。

「お、おにーさん!!まりさにひどいことしないでねっ!!」

勇気を振り絞って、ぷくっと膨らみながらユキオを睨みつけるれいむ。これは威嚇行為である。
ユキオは膨張したれいむを一瞥すると、何事もなかったかのように視線を足元のまりさに戻す。
ゆっくりの威嚇が効果を発揮するのは、せいぜい昆虫が相手のときだけである。

「ハハハ!!……ほら、もっと苦しめよ」
「ゆ゛ぎゅぇっ!?……びひぃっ!?……い゛ぢゃぃっ!?……や゛べづぇ!?!」

ケラケラ笑いながら、ユキオはまりさの顔面を繰り返しつま先で小突く。
まりさが痛みに悶え、痛みに涙し、恐怖を蓄積していくその過程を、心から楽しんでいる。

何度も、何度も。繰り返し、蹴り続ける。
まりさがどんなに助けを求めても、どんなに泣き喚いても、どんなに許しを請っても。
何度も、何度も。繰り返し、無視される。
まりさが発するあらゆる感情のサインは、ユキオの笑顔の前には無意味だから。

そして、脚が疲れたのか……ふと、ユキオの蹴りが止んだ。
やっと喋る間を与えられたまりさは、涙ながらにこの理不尽を問う。

「どうぢで……ごんなごどぢゅるのぉぅ…?」
「おにーざあぁぁぁん!!!も゛う゛やべであげでぇ!!!ま゛り゛ざがじんじゃうよ゛お゛お゛お゛ぅぅ!!!」

とうとうれいむまで泣き出し、まりさの代わりに許しを請い始めた。
目も当てられないぐらい酷い容貌になってしまったまりさに、そっと寄り添おうとする。
だが、れいむとまりさの間にユキオは立ちはだかり、緩慢とした動作で右脚を上げた。

「お前さえいなければ、れいむは認められた。俺は認められた。
 お前さえいなければ、俺は恥をかかずに済んだ……お前のせいだよ。俺がみんなの笑い者になったのは」

……ちょうど、ボロボロで動けない状態のまりさの、真上に。

「ゆひっ…!?」

れいむは、次に何が起こるのかが予見できた。
その脚を振り下ろしたら、何に当たって、何がどうなるのか、明瞭に想像できた。

「っ……ひぃっ……ま゛りざあ゛あ゛ぁぁあ゛あ゛ぁあ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁっ!!」

まりさが死んでしまう。友達が死んでしまう。
初めての友達が、この世からいなくなってしまう。

だが、叫んだ意味もなく、ユキオの脚がゆっくりと落ちていく。
帽子のないまりさの頭を直接踏みつけ、さらに力が加わる。

「む゛ぎいいぃぃ………お゛ぶぶぶっ…!!」

横長の楕円球だったまりさの身体が、真上からの力によって歪まされて……
みちみちと音をたてて、全身の皮が伸びていく。未経験の外力を受け、異常な形に変形させられる。
ペットとしてぬくぬくと育てられたまりさにとって、それは恐怖であり地獄だった。

「お゛む゛っ!!……む゛む゛うう゛ぅう゛う゛ぅお゛お゛お゛ぉ゛ぉ゛っ!!!」
「ゆ゛っぐりじでよお゛お゛お゛お゛ぉぅ!!!れ゛いぶのどぼだぢがぁ!!!ま゛り゛ざがじんじゃう゛う゛ぅ゛ぅぅぅ!!!」

眼から茶色の涙を流し始め、餡子を吐き出すまいと口に力を込めるまりさ。
その努力空しく、いよいよ身体が爆ぜようかという……まさに、その直前のことだった。



屋上のドアが、開け放たれた。
とっさに脚を引っ込めるユキオ。何事かと、ドアに視線を向ける。

「ユキオ君のれいむ、見つかったんだね」

そこに立っていたのは、まりさの飼い主であるヒロブミだった。
ユキオの足元を見て、転がっているボロボロのまりさを見ると、大して驚くこともなく無言で頷く。

「ひ、ヒロブミ……!」

ユキオの背中を、冷たい汗が流れる。
一番見つかってはならない人物に、見つかってしまったからだ。
ヒロブミに見つからぬよう、自分がやったと発覚しないよう、手際よくまりさを殺す予定だったのに。
気づけば感情的になって、思うがままに甚振っていた。それが仇となった。

「お゛……お゛に゛ーざん゛?」

時折びくっと震えながら、身体を起こしてヒロブミを見上げるまりさ。
自身を虐げる圧力がないことに気づくと、全力を振り絞って床を蹴り、ヒロブミの元へと駆け始めた。

「お゛に゛ーざあ゛ぁぁぁ゛ぁ゛ぁん!!!あ゛の゛わる゛い゛ひどがま゛り゛ざをいじめ゛る゛う゛う゛う゛ぅううぅぅ!!!」

どこにそんな力が残っていたのか、まりさは立ったままのヒロブミの胸元に勢いよく飛び込む。
茶色の涙と茶色の涎でどろどろに汚れた顔を、ヒロブミの衣服に擦り付けている。
弾力が失われたその身体からは、ぐちゃぐちゃと不快な音が聞こえてくる。

「も゛う゛や゛だあぁあぁぁっ!!!い゛だい゛の゛や゛だあ゛あ゛ぁぁぁっ!!!」
「そうかそうか、あの人に酷いことをされたんだね?」
「そう゛な゛の゛ぉ!!だがらやっづげでぇっ!!わ゛る゛い゛ひどをや゛っづげでよお゛お゛お゛おぉお゛ぉぉぅっ!!!」

不気味な顔で泣き叫びながら、仕返しを求めるまりさ。
すると、ヒロブミはまりさの汚い頬を撫でながら、ユキオをじっと見据え……彼のほうへ歩みだした。

「ヒロブミ……こっ、これは…」

言葉が続かない。頭が真っ白になっていた。
次に何を言われるんだろうか。何をされるんだろうか。
先生に言いつけられるだろうか。親を学校に呼び出されるだろうか。
そんなことばかりが頭の中をめぐるので、言うべき言葉が見つからない。

だが、幸運なことに最悪の結末は回避される。

ヒロブミの、あまりにも意外な行動によって。





「はい、ユキオ君。続きをどうぞ」
「………え?」

さも当然のようにまりさを手渡され、ユキオは困惑せずにいられなかった。
それはまりさも同じで、一体何が起こったのか、何をされたのか、理解が追いついていない。
腕に抱えていたまりさをユキオに手渡して、ヒロブミは餡子で汚れた手をぱんぱんと払った。

「あの、ヒロブミ?……これは一体どういう?」

何も分からずに、まりさを抱きかかえているユキオ。
驚いているのはまりさも同じだった。
ズタズタになった口内を晒すようにぽかんと口を開け、焦点の定まらない眼は瞬きも忘れている。

「ユキオ君はまりさを殺したいんでしょう? だから、殺していいよ」

真っ白になったユキオの頭の中が、少しずつ色を取り戻していく。
それに対し、まりさはまだ自分の置かれた状況が飲み込めずにいた。

「ヒロブミ……殺していい、って…?」

問いながらも、まりさを掴んで離さないユキオ。
その腕の中で、もぞもぞともがきながらまりさが大声をあげる。

「ゆゆ?お、おにーさん?……このひとはわるいものだよ!?まりさを゛たすけてよ゛ぉ!!もういたいのいやだよ゛お゛お゛お゛ぉお゛ぉ!?!」
「ゆ…ゆゆっ!!そうだよ!!まりさのおにーさん!!まりさをたすけてあげてね!!」

まりさの叫び。れいむの抗議。
2匹の必死な声を、ヒロブミは薄ら笑いを浮かべながらあしらった。
それは実際には、2匹の声に応えたのではなく、ユキオの疑問に答えたに過ぎなかった。



「いいよいいよ。まりさなんてどれも同じだし。また産ませればいいよ」



冷たく放たれる、ヒロブミの言葉。
その瞬間、ぶわぁっと溢れ出すまりさの涙。
れいむ並の知能なら、その真意すら理解できなかったに違いない。
だが、優秀なペットであるが故に、知能が高いが故に、その言葉の毒にまりさは侵されてしまった。

「どう゛ぢでそん゛な゛ごどい゛う゛どお゛ぉお゛お゛おおぉぉおぉ!?!
 ま゛り゛ざはお゛に゛ーざんの゛ま゛り゛ざでじょお゛お゛おぉお゛お゛ぉお゛お゛ぉぉ!?!?!」

時折表情を歪めながら、自分が唯一の存在であると主張するまりさ。
自分は飼い主であるヒロブミの、お気に入りのゆっくりで。
餌は毎日3食満足な量を与えられ、家に帰れば飽きるまで遊んでもらえて。なでなでしてもらえて。
だから自分は特別なんだ。ヒロブミお兄さんにとって、自分は特別で、すごくゆっくりさせてもらえるんだ。そう思っていた。

けれど、その認識がヒロブミの一言で粉砕された。
まりさは所詮まりさであって、ヒロブミの無二の存在ではありえない。
“まりさ”という生き物はたくさんいる。顔も、形も、言動も、何もかも同じ、代替のきく大量生産品でしかない。
ヒロブミにとって、まりさは多くあるまりさ種のうちの、1匹に過ぎないのだ。

「僕んち、他にもたくさんまりさが“ある”からさ。1匹ぐらい壊れちゃってもいいよ」
「どうぢで……おにいざぁぁん……!!」

配慮の欠片もなく、穏やかな口調でユキオに呼びかけるヒロブミ。
ユキオの腕の中で絶望に打ちひしがれるまりさに対し、次々と言葉のナイフを突き刺していく。

「帽子ないし、汚い顔だし、品もないし。そんなまりさに価値はないよ。価値があるとしたら、虐めるぐらいだと思うね」
「あ゛ぁぁ……あ゛がああ゛ぁ゛ぁ゛ぁあ゛ぁ゛っ!!!」

帽子のないまりさ。顔の崩れたまりさ。品性のないまりさ。
そんなまりさは、自分に相応しくない。よって、虐めて虐めて虐めぬかれるべきだ。
ヒロブミはそう言っている。その言葉ひとつひとつに、まりさは絶望へと押し込まれていく。

「明日からは、もっと優秀なまりさと学校に来るよ。
 大事な帽子を失くすノロマも、池を渡るのに昼休み丸々使うクズも、使い道ないから」
「ぞ……ん、な………おにぃ…ざん……」

いつのまにか、ヒロブミによるユキオへの呼びかけは、まりさへの言葉の暴力へと変わっていた。
感情の篭っていない、静かな暴力。その無頓着ささえも、まりさの心を傷つけていく。
ユキオに抱かれたまま、涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにして、まともな言葉を紡ぐことなく震えている。

「……ヘヘッ、そういうことだから、悪く思うなよ。飼い主のお墨付きだ」

大体の事情が読み込めたユキオは、ヒロブミの言葉通りにまりさへの暴行を再開することにする。
浮かぶのは暗い笑み。このとき、既にユキオは自らの心の中に沸く黒い感情を自覚していた。
ユキオの顔を見て、ヒロブミも僅かに微笑む。

「うぎぃっ!……びぅっ!!……ぶぅっ!!」

まりさを蹴るときの、軟らかい感触。蹴るたびに発せられる、絶望の叫び。
それらが心の中に染み渡り、快楽となる。あぁ、これはいけないことなんだ、そう思いながらも快楽から手を引こうとはしない。
ゆっくりできない笑顔のユキオに対し、れいむは声を震わせながら懇願した。

「おねがいだがらぁっ!!!もうまりざにらんぼうじないでぇっ!!!ひどい゛ごどじな゛い゛でえ゛え゛ぇぇえ゛ぇぇぇ!!!」





「え? 何をバカなことを言ってるんだ。まりさに酷いことをしたのは、れいむだろう?」

まりさの頭を踏みつけたまま、ユキオはぽかんとした表情で首を傾げる。
れいむは、彼の言葉の意味がまったく理解できなかった。

「………ゆっ?へ、へんなことをいわなでねっ!!!」

誰が見ても、まりさに酷いことをしているのはお兄さんじゃないか。
その反論をれいむが口にする前に、ユキオはこう続けた。

「れいむが屋上に連れてきたから……れいむが“まりさを殺すために”屋上に連れてきたから、まりさは殺されちゃうんだぞ」

とんだ言いがかりである。
だが、その難癖を跳ね除ける知能がれいむにはなく、その歪んだ事実を拒むだけの心の強さが……まりさから失われつつあった。
目から生気を失ったまりさに対し、ユキオは頭上から再三呼びかける。歪んだ事実を吹き込んでいく。

「れいむはな、お前を殺すために屋上に連れてきたんだぞ」
「う……うぞっ…だ………」

ユキオが踏む力を込めるたびに、まりさの身体がぐにっと歪む。

「屋上に行こうって言い出したのは、れいむだろう? それが証拠だ」
「い゛っ………い゛い゛ぃぃい゛い゛ぃ……!!」

眼が盛り上がり、縁から餡子が漏れ出す。
皮全体が薄く引き延ばされ、中の餡子が透けて見える。

「帽子を失くしたのだって、れいむのせいさ。本当の友達だったら、帽子を失くす前に気づいてくれるだろう?」
「れ゛ぇぇっ……ぢがっ…れ゛い゛ぼう゛う゛う゛ぅぅ゛っ……ごぶぇっ!!!」
「たぶん俺が来なくても、いつかれいむがお前を殺してたぜ」

口内や、皮の薄い部分に亀裂が入り、ぴゅっと餡子が吹き出る。
身体が5分の1に圧縮され、足掻こうとしてもまったく効果はなく、死に瀕しながらもまだ命を諦めていない。
ズタズタになった口で、必死にれいむの名を叫んでいる。

泣く余裕すらないまりさに、れいむは転びそうになりながら縋り付く。
自分の名を呼んでくれた友達を、何としてでも助けるために。

「まりざあぁあぁぁぁっ!!!ゆっぐりじでいっでねっ!!ゆっぐりじでぇ!!!ゆっぐりじでよおおぉおぉぉぅ!!!」
「れぇっ!!!……れいぶうぅうあおぁっ!!!」

6分の1。内圧によって爆発するのも、時間の問題。
それでもユキオは、まりさを内面からも苦しめていく。

「れいむがお前をここに連れてこなければ、お前は死なずに済んだのになぁ」
「い゛ぃっ………れ゛ぇっ…い゛ぃ……む゛ぅっ……」
「まりざぁっ!!れいむだよっ!!れ゛い゛む゛はここに゛いる゛よ゛おお゛お゛お゛ぉおぉぉっ!!!」

そして、7分の1。


「れいむはお前のこと、友達とも何とも思ってなかったんだぜ?」


ついにまりさの身体が爆ぜる、その瞬間。





まりさは、苦しみから解放されながら、最期の言葉を残した。



「れい…むぅ……ゆっくり……しね」



パンッ!



皮は派手に散り、命であり記憶である餡子が周囲に降り注ぐ。
口も、目も、何もかもが砕け散り、傍にいたれいむの顔にも降りかかった。
残ったのは、悲惨さを物語る爆心地。汚らしい茶色のシミが残っている。

そして、れいむの心に残されたのは……決して癒える事のない、深い傷。
まりさの最期の一言。それは、まりさがユキオの声に心を侵されてしまったことの証。
つまり、れいむの声など最初から届いていなかったのだ。

「どうぢで……れいぶはなにも゛……なにぼじでだいのにいいぃいいぃ!!!ばりじゃあ゛あ゛あ゛ぁぁあ゛ぁぁあっ!!!」

自分は悪くない。なのに、弁解すら許されない。
今まで友達だと思ってくれていた自分を、まりさは最後に憎みながら散ってしまったから。
まりさは、あの世でずっとずっとれいむを憎み続けるだろう。
身体の痛みと、心の痛み。そして一番の友達に裏切られた絶望を、憎しみに変えて。

れいむは、最高にして唯一の友達を、最悪の形で失ってしまった。



「あーあ、足が汚れちゃったよ」
「ユキオ君、上手いね。才能あるよ」

短い言葉を交わし、次に2人が視線を向けるのは、れいむ。
れいむと2人が視線を合わせると、れいむは迷うことなくその場から逃げ出した。

「う゛わ゛ぁあ゛ぁぁぁぁっ!!ゆ゛っぐじでぎない゛い゛い゛ぃい゛ぃっ!!!」

涙と涎を撒き散らしながら、ユキオとヒロブミに背を向けて必死に逃げる。
全力で屋上の扉を開き、転がるように階段を駆け下りる。
一刻も早く、ゆっくり出来ない場所から遠く離れたかった。

「お゛に゛ーざんむがじはゆっぐぢさぜでぐれだのにぃ!!!どうぢでえぇぇえぇぇっ!!!」

もう、お兄さんとはゆっくりできない。
昔はゆっくりさせてくれる、優しいお兄さんだった。
ご飯をたくさんくれて、毎日遊んでくれて、ずっとずっとゆっくりさせてくれると思ってた。
なのに、今はゆっくりさせてくれない、悪い人だ。
そしてまりさのお兄さんも、ゆっくりしている人だと思ってたのに……本当は悪い人だった。
悪い人とはゆっくりできない。悪い人はゆっくりしていないから。

だから、おうちに帰ろう。
お兄さんのおうちではなくて、本当のれいむのおうちに。
きっと、今もお母さんや妹達が心配しながら自分を待っているに違いない。
ずっと帰らなかったから、怒られるかもしれない。でも、それでもいい。
怒られてもいいから、お母さんに甘えたい。妹達と遊びたい。みんなとゆっくりしたい!

「ゆっぐ!!ひっぐ!!おがーざぁあぁあぁぁぁん!!!!」

母を想い、叫びながら昇降口を駆け抜ける。
そこから校門までは一直線。今は下校中の生徒もいない。
れいむは全力で駆け抜ける。小石が脚に刺さっても怯まない。

ゆっくり出来る場所を目指して、家族の待つおうちを目指して、走り続ける。
おうちに帰ったら、お母さんにすりすりするんだ。妹達とすりすりするんだ。
みんなでお歌を歌って、みんなでご飯を食べて、みんなで眠って、みんなでかくれんぼして…!
いっぱい、いっぱい、ゆっくりするんだ!!

かつての思い出を、これからの明るい未来を思いながら、れいむは駆け続ける。
そして、校門をくぐった瞬間……





れいむの身体を、普通なら有り得ない衝撃が伝わった。

「おいおい、ゆっくりしすぎだろう。いくらなんでも」

背後から聞こえる悪魔の声。そして、自分の身体が急速に地面から離れていく。
れいむは、後頭部を鷲づかみにされて持ち上げられていた。

「本当に物覚えが悪いなぁ、れいむは。人間から逃げようなんて、出来るわけないだろう?」
「ゆっ!?ゆあぁあっ!!!はなじでぇっ!!!はな゛じでよ゛お゛ぅ!!!」

ゆっくりと人間の身体能力には、天と地ほどの差がある。
真っ直ぐ逃げればあっという間に捕まってしまうのは、考えるまでもないことだ。
知能の低いれいむは、それを考慮できなかった。もっと手段を考えるべきだったのに。

「れ゛い゛む゛はゆ゛っぐりずるぅ!!ゆ゛っぐり゛ずるのぉ!!!ゆっぐり゛ざぜでよ゛お゛お゛ぉおぉ!!!」
「俺の命令を破っておいて、今更ゆっくり出来ると思ってるのか?」

ゆっくりとした未来が遠ざかっていくのを感じる。
それは、見晴らしのいい崖から勢いよく突き落とされたような気分だった。

どうして、自分がこんな目に遭うのか?
どうして、まりさを殺したのか? 友達を殺したのか?
どうして、どうして、道端の石ころを蹴飛ばすみたいに、簡単に殺してしまうのか?

れいむが考えることは、そんなことばかりだった。
考えて、考えて、それでも理解できなかった。

「ユキオ君。れいむはどうするの?」
「こいつは……そうだ、いいこと思いついた」

ヒロブミの問いに、ユキオは耳打ちで答える。
そして、互いの顔を見て頷くと、泣き喚くれいむを抱えたままどこかへと連れ去っていった。



それから。

走りすぎて、泣きすぎて疲れたのか、れいむはいつの間にか眠っていた。

故郷での懐かしい日々を夢に見ながら、眠っていた。

眠ったまま微笑むれいむ。

れいむは夢の中では、確かにゆっくりしていた。

本当のおうちに帰って、お母さんとすりすりして。

みんなでたくさんご飯を食べて、みんなで一緒に眠って……いっぱいいっぱいゆっくりした。

だが、そのゆっくりも終わり。

バシャバシャという水の音に起こされると、いきなり糸を咥えさせられた。

「それを離したらプールに真っ逆さまだ。死にたくなければ、それをしっかり咥えてろ」

それは、夢の終わり。残酷な現実。

ユキオの言葉と共に、れいむの身体を支える力が全てなくなる。

一瞬口に強い力がかかり、顔を歪ませる。

プールサイドに据え付けられた釣竿。

その先端から垂れ下がった糸が、れいむの命綱。

糸から口を離せば、れいむは水の中に沈み、プールの底で溶けて死んでしまう。

れいむは水に弱い。れいむは泳ぐ事が出来ない。

だかられいむは、自分の口だけで全体重を支えなければならない。

ギリギリと、軋む歯の痛みに耐えながら、眼を潤ませる。

真上を向いた状態で、ぶら下がり続ける。

「明日だ」

ユキオは続ける。

「明日の朝、俺達が来るまで生きてたら、お前を森に返してやる。家族のところに連れて行ってやる」

れいむは笑顔になりながら、必死に頷いた。声を出すことは出来なかったから。

パシャ。パシャ。波打つ音と共に、2人の人間の気配がなくなる。

おそらく、れいむをこのまま放置して2人は帰ってしまうつもりだろう。

それからは、れいむは孤独だった。

糸にぶら下がり、赤い空を見上げながら、じっと時間の流れに耐え続ける。

すべては、ゆっくりするため。家族に会って、ゆっくりするため。

一緒にご飯を食べて、すりすりして、一緒に眠って、一緒に起きて……そんな普通の幸せを取り戻したい。

友達のまりさのゆっくりしたお墓を作って、あの世のまりさの誤解を解きたい。

もっと大きくなったら、お嫁さんを見つけて、たくさん子供を作って、新しい家族ともゆっくりしたい。

やりたいことは、たくさんある。数え切れないぐらいある。

だから、明日の朝までは絶対に生き延びる。絶対に、生き延びるんだ。

れいむは顎に力を込めて、決意を新たにした。




「じゃあ、また明日!」
「うん、またね!」

夕暮れの校門前で、手を振って別れるユキオとヒロブミ。

明日には新たなまりさを連れてきて、2人で虐める約束をした。

今度の土曜日には、ゆっくりが生息する森に遊びに行く約束もした。

2人だけの秘密。誰にも知られちゃいけない。これは、そういう遊びだから。

今からとても楽しみで、ユキオはまるで遠足前日の幼稚園児みたいなはしゃぎっぷりだ。

れいむがいないぶん軽くなったランドセルを背負い、ウキウキ気分で家路を急ぐ。

踏切を渡り、国道を渡り、今朝れいむをぶちのめした住宅街の路地を通過し、そして自宅の門をくぐる。


雨が降りだす前に着いてよかった、と安堵しながらユキオは玄関の扉を開けた。


(終)


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最終更新:2022年05月03日 16:20