もう何度目になるか分からない殴打を受け、まりさは畑の柵に叩きつけられた。
べちぃ、という軟体がひしゃげる音を立てて、慣性を失ったまりさの体はずるずると力無く柵から滑り落ちる。
顔にあたる部分を下にし、人間で言うとうつ伏せのような状態で痙攣するまりさを、お兄さんは無造作に掴み上げる。
無論、鷲づかみなどという優しい掴み方では無い。
土で汚れたまりさの髪を、ぶちぶちと引き千切る勢いで引き上げた。
「いっ、いぢゃいー!! やめでねえ! なんでごんなごどずるのおーっ!!」
もはや青くない箇所の方が少ない程に腫れ上がった顔面で、目に涙を浮かべてまりさは叫ぶ。
しかしこの光景を見たら誰もが察するだろう。
滅茶苦茶に踏み荒らされた畝(うね)。汚らしく喰い散らかされた畑の作物。
理由なぞ誰が見ても明白である。
「テメエが俺の育てた野菜を勝手に食うからだろうが。馬鹿を通り越して屑か? 屑饅頭か?
人間様の畑を荒らしたらどうなるか、その体に教え込んでやるから感謝しやがれ。
テメエらゆっくりの腐った脳味噌は、言葉で言っても三歩跳ねたら忘れるド低脳だからな」
自分の視線よりやや高くまりさを持ち上げたお兄さんは、下から睨め付けるようにまりさを覗き込んだ。
まりさは恐怖に身を震わせ、滂沱と涙を流し始める。
嫌だ。いたいのは嫌だ。このお兄さんはものすごくゆっくりできないことをまりさにするつもりだ。
どうして? どうして? どうして?
わからない。
おやさいを勝手にたべたから? それがなんでいけない事なの?
吊り下げられたまりさは、畑をあらすゆっくりの十割がのたまう金科玉条を、多分に漏れず吐き出した。
「おやざいざんはがっでにばえでぐるものでじょう!
おやざいざんのばえでぐるばじょををびどりじめずるおにいざんのぼうがいげないんだよ!」
そう、この理論はまりさの中で絶対の正義として君臨していた。
野菜とは勝手に地面から生えてくるもの。ならばそれを誰が食べようと自由なはず。
自分は悪くない。正しい自分が不当に虐げられるのは間違っている。
こういった考えがあるからこそ、まりさは絶対の強者であるお兄さんに論を反した。
「ぐすっ……いぢゃいー……いぢゃいようー……ゆぶぅ……
いげないおにいざんは、ひっく、まりざをばやぐばなじでね! ごのままじゃまりざがゆっぐりでぎないよお!」
まりさは、このお兄さんが己の過ちを認め、解放してくれるものと、そう信じて疑わなかった。
なぜなら、悪いのはお兄さんで、正しいのは自分なのだから。過ちは正されるべきものなのだから。
お兄さんが、口を開いた。
「なるほどな。”おやさいはかってにはえてくる”ってのがお前らのくだらねぇ錦の御旗って訳か。
いいぜ、ならば親切な俺が教えてやるよ屑。
お前らにも分かる言い方でな。
『ここはお兄さんのゆっくりプレイスだよ! かってにはいってくるばかなまりさはゆっくりでていってね!』」
「ゆっ!?」
想像とは全く違うお兄さんの言葉に、まりさは腫れで半分塞がりかけている目を見開いた。
「『まりさがはいってきたらお兄さんはゆっくりできないよ! だからまりさはとっととでていってね!』」
「ゆ、ゆ……」
畳み掛けるように言葉を重ねていくお兄さん。
その言葉を、まりさがゆっくりと理解していく。
分からない、は通用しない。ゆっくりにも通じるように、お兄さんは言葉を選んでいる。
「『お兄さんのゆっくりプレイスにあるおやさいさんは、お兄さんのものだよ! かってにたべるまりさはゆっくりしね!』」
「ゆう゛うううぅぅぅ……!」
そして、理解と同時にまりさの中に湧き上がってくるものは、絶望だった。
真っ暗な、一片の光明すら見えない絶望の深淵に、まりさは叩き落された。
思い知らされてしまったのだ。
「ってなモンか。テメエ如きに拳じゃなくて言葉を使ってやるなんて、なんて優しい人間なんだろうな俺は。
感激しろよ? 俺以外の人間なら、こんな風にテメエらの悪を教え込んでやったりせず、問答無用でぶちのめすだけなんだからな」
「ぢ、ぢがうよっ! まりざはわるぐないっ!! おやざいざんは、がっでに……!」
がらがらと足元が崩れ落ちていくような感覚を覚えつつも、まりさは必死で言い募る。
なぜなら、ソレしか無いからだ。
ソレが間違いだと、過っていたのは自分の方なのだと、認めてしまったのなら。
まりさの救いは、もう、どこにも無いのだから。
「ああ、んじゃソレでいいよ。勝手に生えるって事でも。
だけど此処は俺のゆっくりプレイスだ。ちゃんと柵で囲ってんだから、お前にもそれは理解できるな?
俺のゆっくりプレイスなんだから、そこに何が生えてこようが生えてこなかろうが俺のモンだ。
お前が食べていい道理はどこにも無い」
「ぐ、ぎ、い゛……! で、でもおやざいざんのばじょを、びどりじめずるのはいげない……」
「テメエは苦労して見つけた自分のゆっくりプレイスを、他のヤツが来たらハイどうぞって明け渡すのか?」
「ゆ……ゆ、ぐぅうううぅう゛う゛!!! ま、まりざ、まりざは……」
「俺は、お野菜さんが勝手に、沢山生えてくる場所を見つけて、そこを俺のゆっくりプレイスにしたんだ。
これのどこが悪いことなんだ? え?
テメエだって、自分のゆっくりプレイスで他のゆっくりがごはんをむーしゃ、むーしゃしてたら追い出すだろう?
それとどう違うってんだ? なあ、おい?」
まりさには何一つ抵抗できない。
お兄さんの言葉の正しさを言い崩す事ができない。
つまりそれは、悪いのはまりさだということ。間違っているのはまりさだということ。罰せられるべきはまりさだということの証明。
恐ろしい勢いで崩れていくまりさの正義。
木の葉を吹き散らす暴風のようなお兄さんの言葉の中に、しかしまりさは一筋の隙を見つけた。
お兄さんの言葉に言い返す事ができる。
ただその一心で、まりさは唾を飛ばしながら、正に死に物狂いの形相で叫んだ。
「まりざはっ! まりざはまりざいがいのゆっぐりがぎでもっ!! ぢゃんどいっじょにゆっぐりずるもんんんんんん!!!
おにいざんはやっばりまぢがっでだああああああ!!
まりざ、わるぐながっだよおおおおおおお!!!!!」
「ああ、そう。来たのが『ゆっくり』なら、だろ? 人間が来たらどうするよ」
「
ゆ
ぅ
」
その瞬間、まりさの中の何かが折れた。
「俺だってここに俺以外の人間が来ても文句は言わんし殴りもしねえよ。ただし、ゆっくりが来たなら……
は、もう身をもって知ってるよな。
そしてテメエは誰が何と言おうとゆっくりだ。
さあ、理解したな?
ならばテメエの生まれを呪って俺に殴られろ」
お兄さんの言葉は既にまりさには届いていなかった。
迫り来るお兄さんの拳をぼんやりと見据えるまりさの瞳から、全てを諦観した涙が一筋、流れ落ちる。
いたいのも、くるしいのも、がまんしなくてはならない。
だって、わるいのは、まりさなんだから。
顔面をひしゃげさせながら、再びまりさは畑を囲う柵へと叩きつけられた。
最終更新:2022年05月22日 00:01